おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

山猫

2020-05-29 10:15:23 | 映画
「山猫」 1963年 イタリア / フランス


監督 ルキノ・ヴィスコンティ
出演 バート・ランカスター
   アラン・ドロン
   クラウディア・カルディナーレ
   パオロ・ストッパ
   リナ・モレリ
   ロモロ・ヴァッリ

ストーリー
1860年春、イタリア全土はブルボン王朝から、国王ビクトル・エマニュエルの統治下に入った。
シシリー島の名門を誇っていたサリナ公爵(バート・ランカスター)にとって、政治的変動は大きなショックだった。
そんなある日、サリナ家は田舎の別荘に出掛けた。
一行の中、公爵の甥タンクレーディ(アラン・ドロン)はブルボン王朝側と戦った革命派で早くも公爵の娘コンチェッタ(ルッチラ・モルラッキ)の心をとらえていた。
一家が田舎に着くと新興ブルジョアの一人である村長のセダーラ(パオロ・ストッパ)が歓迎会を開いた。
コンチェッタはタンクレーディと結婚したいとまで考えていたが、村長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)の出現が、タンクレーディをひきつけ、彼が求婚までしたと聞いて絶望した。
タンクレーディが連隊に復帰すると間もなく公爵に手紙を送り、アンジェリカとの挙式の手配をしてくれと頼んだ。
公爵夫人(リナ・モレリ)は彼を貴族を裏切るものだとののしった。
タンクレーディとアンジェリカは毎日のように会い、愛情は燃え上った。
アンジェリカも平民の娘と思えぬ程の気品を初めての舞踏会で漂わせた。
その席で公爵は急に自分の老いと孤独を感じた。
アンジェリカの求めに応じて踊ったものの、何となくその場にそぐわない気さえする。
時代は代り、歴史の大きな歯車は少数の人間の意思とは全く無関係に回転していくものなのかもしれない。
公爵はやがてくる自分の死を考えていた。


寸評
ヴィスコンティの執念、エネルギー、意地を感じる作品だ。
兎に角、一つ一つの場面が長い、言い換えれば必要以上の丁寧さがある。
1860年、ガリバルディは赤シャツ隊を創設して、シチリアやイタリア南部へ遠征に向かい、ブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服に成功し、1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言されたというのは史実。
映画ではタンクレーディも参加した赤シャツ隊の進撃が描かれているが、この場面の描かれ方はタンクレーディの獅子奮迅の活躍を描くようなものではなく、戦闘を遠望しているような描き方で主人公の一人であるタンクレーディの登場時間もわずかなものである。
タンクレーディの活躍を描いていないにもかかわらず、この革命軍の進撃場面はかなりの長さで描かれている。
革命分子の射殺や、助命を懇願する女性たち、圧政を引いてきたブルジョアジーの処刑、王朝側と革命側の古典的な銃撃戦などが、内乱の点描のような形で描かれ続ける。
僕はこの場面を見ていて、「山猫」は近代史におけるスペクタクル作品なのかと思ったぐらいだ。

丁寧ともいえる描き方はサリナ公爵がタンクレーディが結婚しようとしているアンジェリカのセダーラ一家がどのような家庭であるかを、狩猟のお供をするチッチョに尋ねるシーンでも発揮されている。
チッチョは父親のセダーラが狡猾な野心家である事、その夫人は美人だが教養など全くないことを演劇的に長々と述べ続け、そのことを述べさせるのに、これだけの長さが必要なのかと思えるくらい長いシーンに感じた。

同じ観点から言えば圧倒されるのが最後に描かれる別の貴族の屋敷で行われた舞踏会の場面だ。
シーンと呼ぶにはあまりにも長く、観客は舞踏会の様子を1時間近く見せられることになる。
しかし催されている貴族の館は豪勢、調度品も衣装も本物を感じさせる。
登場人物も非常に多い。
テーブルに並んだ料理は豪華だが手作りの味わいがある。
ひたすら食べて、その後は踊る者、酒を飲む者、おしゃべりする者と分かれて、どれだけあるかわからない部屋の中や庭にたむろする。
家柄を重んじるあまり従妹同士の結婚が増え、生まれた子供たちは節度がなく騒ぎ立てるだけという様子が事細かに描かれていく。
公爵が貴族の時代がたそがれていく時の移り変わりに身をゆだねようと決意し、誰もいない部屋で鏡に向かって涙する場面は、自身もまた北イタリアの貴族出身であるビスコンティ自身の姿かもしれない。
そして老人の死の場面を描いた絵の前で語る言葉は、老人観客には身に迫るものである。
サリナ公爵とアンジェリカの音楽に乗った流麗な身のこなしのダンスが終わると、だんだんと踊る者、飲む者、談笑する者に分かれてグループが小さくなっていく様をカメラが追い続ける。
それはまるでこの貴族屋敷で行われている舞踏会が、終わりの無い享楽だと訴えるようでもあった。
空がしらじらとしてくる頃、公爵は馬車を断って徒歩で屋敷を去るが、まだ明りが灯った家の戸口から朝早い庶民の暮らしが覗いている。
終わりが無いと思われた享楽のパーティは終わり、やがて獅子(王)と山猫(貴族)の時代も終わり、サリナ公爵の人生も終わろうとしていることを暗示する納得のいくラストだ。