おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

フィギュアなあなた

2020-02-22 10:09:24 | 映画
「フィギュアなあなた」 2013年 日本


監督 石井隆
出演 柄本佑 佐々木心音 竹中直人
   風間ルミ 桜木梨奈 伊藤洋三郎
   間宮夕貴 壇蜜

ストーリー
フィギュア愛好家・内山健太郎(柄本佑)は真面目に暮らしていたが、突如会社からリストラされた上に恋人に逃げられ、どん底に突き落とされる。
新宿でヤケ酒をあおった勢いで奇妙な二人組の“巨乳男”、ヨッちゃんに因縁をつけてしまい、ヨッちゃんに追い回されて歌舞伎町の廃墟ビルの一室に転がり込むと、そこには打ち捨てられたマネキンが山のように積み重なっていた。
赤い灯りが点り異様な光景にたじろぐ内山だが、マネキンの中にセーラー服を着た美少女フィギュア(佐々木心音)があるのを見つける。
恐る恐る手を伸ばすと、そのフィギュアは心臓の鼓動はないもののまるで生きているかのようにぬくもりもやわらかさもあり、内山は安らぎを感じる。
そんな至福のときも束の間、追ってきたヨッちゃんが廃墟ビルに潜んでいたハグレヤクザ三人組と衝突し射殺され、内山も狙われる。
あわやというとき、フィギュアが動き出して内山を助けるかのように三人組に襲いかかり、ついには奪った銃で彼らを射殺する。
地獄のような一夜が明け、目を覚ました内山の隣りには、例の美少女フィギュアが横たわっていた。
昨夜の地獄のような出来事の痕跡はないが、戦っているときに美少女フィギュアが負った怪我を内山が手当てした跡が残っていた。
昨夜の地獄絵図は夢だったのか現実だったのか釈然としないながらも、フィギュアを自宅へ運び込む内山。
フィギュアに心音(ここね)と名前をつけ、フィギュアとの奇妙な生活を始める。
しかし、あの地獄はまだ終わっていなかった……。


寸評
クレジット・タイトルによると流れている音楽はアメリカ民謡の「オーラ・リー」に監督の石井隆が作詞したものとなっていたが、僕にとってはそれはエリヴィス・プレスリーが唄う「ラブ・ミー・テンダー(やさしく愛して)」だった。
確かに原曲はアメリカ民謡なのだろうが、それでも挿入メロディは「ラブ・ミ・テンダー」であってこそ意味があったのだと思う。

マネキンがあそこまでヌードを披露する必要があったのだろうか?
下着をつけないで空を舞うシーンなんて、何のためにそうしたのだろうかと思ってしまう。下着をつけていた方がファンタジックだったような気がするのだが…。その他のシーンでも必要以上に下半身を写していたなあ。
でも監督の意図はそこにあったんだろうな。でも分かんない。

この手の作品になるとファンタジックな物語というより、それが現実の世界なのか妄想の世界なのかということがテーマの一つになっている事が多い。
この作品だって最後の最後には妄想の世界に誘って行く。
健太郎は心音のアドバイスで賭けマージャンに行き、数多くの打ち手が憧れる役満の筆頭である九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)を上がって大勝ちする。
しかし、麻雀の世界では究極の役満ともいえる九蓮宝燈を成立させることで全ての運を使い果たしてしまい、九蓮宝燈を上がった者は死ぬという迷信がある。
健太郎もそのような場面に出くわし、見捨てられたマネキンも元に戻って「幸せだったよ」ともらす。

どこまでが現実で、どこからが妄想だったのか?
僕はマネキンを拾ってくるまでが現実で、そこからは妄想の世界に入り込んでいて、そして実社会で心音を発見したところで現実に戻っていると思った。
心音はマネキンなのだから健太郎に従順で、会社の人たちと違って健太郎に優しく接する。
そんな心音と瓜二つの人間と出会ったことで健太郎は初めて満たされ、現実世界に引き戻されたのだと思う。

健太郎は会社では、けなされるばかりで恋人と思われる女性にも見放される。
言いたい本音も発せられないでいる。
正にラブ・ミー・テンダー状態なのだ。
そんな健太郎を慰めてくれるのはマネキンの心音だけだ。
幻想の中でしかものを言わないが、けっして責めることはなく励まし続ける。
そんな存在を得て健太郎は自信を取り戻して行きそうなのだが、なかなか現実は厳しくてそうはならない。
僕にはそんな悲劇ドラマと映ったのだが、それはうがった見方なのだろうか?
健太郎が悲劇の主人公にならなかったのは、グラビアアイドルの佐々木心音が体当たりのヌードを披露して、そちらの印象を強くしていたからだ。
しかし、これだけ大胆に食傷気味になるくらい見せられると、いやらしさや欲情感は全く生じない。
やはり見せないことでのエロチックさの方が、よりエロチックなのだと再認識。