おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ピアノレッスン

2020-02-01 13:56:33 | 映画
「は」で始まる映画は結構思いつきました。
続いて「ひ」に入ります。


「ピアノレッスン」 1993年 オーストラリア

監督 ジェーン・カンピオン
出演 ホリー・ハンター
   ハーヴェイ・カイテル
   サム・ニール
   アンナ・パキン
   ケリー・ウォーカー
   ジュヌヴィエーヴ・レモン
   タンジア・ベイカー

ストーリー
19世紀の半ば、スコットランドからニュージーランドへ、エイダは入植者のスチュワートに嫁ぐために、娘フローラと一台のピアノとともに旅立った。
エイダは6歳の時から口がきけず、ピアノが彼女の言葉だった。
だが、迎えにきたスチュアートはピアノは重すぎると浜辺に置き去りにする。
スチュワートの友人で原住民のマオリ族に同化しているベインズは、彼に提案して自分の土地とピアノを交換してしまう。
ベインズはエイダに、ピアノをレッスンしてくれれば返すと言う。
レッスンは一回ごとに黒鍵を一つずつ。
初めはベインズを嫌ったエイダだったが、レッスンを重ねるごとに気持ちが傾いていった。
2人の秘密のレッスンを知ったスチュワートは、エイダにベインズと会うことを禁じる。
彼女はピアノのキイにメッセージを書き、フローラにベインズへ届けるように託す。

寸評
エイダは聾唖者なのでホリー・ハンターが言葉を発することはなく、彼女の言葉はすべて手話で表現される。
言葉のない世界とピアノが発する美しい音色の世界が見事なまでに調和を見せる。
スチュワートは悪い人間ではないがエイダに受け入れられない。
受け入れられない理由はたったひとつで、かれがエイダのピアノを海辺に置き去りにし、さらに土地と交換してベインズに譲ってしまったからだ。
スチュワートは入植者なので、彼にとっては土地を増やしていくことが生きることであり、ピアノなどは眼中にない男なのだが、エイダにとってはピアノがすべてだったことで溝が出来てしまう。
スチュワートには、やがてエイダが優しく接する自分を認めてくれるだろうとの思いがあるが、最初に掛け違ったボタンのためにどこまで行っても溝は埋まらない。

スチュワートは「犠牲に耐えるのが家族」だと言うが、その一方で、決して「犠牲」にはできないものがあることが理解できなかった。
皆が欲しいものを好き好きに手に入れることはできない。
家族を維持するために手放さなければならないものはある。
たとえば自由。
しかし、その一方で自分が自分であるために要なもの、犠牲にはできないものもある。
それは自分の存在を示すものであり、エイダにとってはピアノがそうだったのだ。
スチュワートはエイダに犠牲を強いたが、自分は犠牲を払うことが出来なかったといえる。
家庭はお互いの犠牲の上に成り立っているのかもしれない。

フローラは当初、新しい父親を認めないような発言をしていたが、最後には母を密告するようになっていたのだからある程度なついていたのだろう。
母親の情事現場をのぞき見してしまったショックにもよるのだろうが、そのことを通じてスチュワートを全くの悪人としては描いていない。
ひたすら時が来るのを待ち続けるスチュワートは哀れにさえ見えてくるのだが、価値観の違いは埋めることが出来ないし、自分の想像が及ばぬものへの無理解は如何ともしがたい。

一方、ベインズはエイダのピアノを聴き、その音色と曲に魅了される。
ピアノとエイダを同化させ、ピアノを大切にするベインズはスチュワートと対極にいる。
彼は最後までピアノを守ろうとする。
それはエイダを守ることでもあったからだ。
エイダは愛を貫くため、家族を守るためピアノを捨てるという犠牲を払う。
"犠牲"を介在したこのあたりの対比的な描き方は作品を奥深いものにしていたように思う。
フローラを演じたアンナ・パキンはしゃべれない母に代わって通訳をする子供を見事に演じていたが、同時に子供は怖いとも感じさせた。
名演である。