猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

手と手。

2009年05月27日 22時46分14秒 | ルーツ

 

私の人生には、いつも川。
父と遊んだ楽しい時間も、
継母と諍い、バイト疲れの重たい体と心で、
逃げるように犬の散歩に出たときも。
家を出て、さまよったときも.....いつも川。
そして、今も。
昨日はここで、タヌキを見ました。

 

先日のことだった。

この時期になると、すでに扇風機の手放せないゴンザが、
私の目の前にあったそれを移動させようと、ひょいと手を伸ばした。

.....と。

取っ手の高さがちょうど、顔の位置にあったのだが、
ゴンザの手が迫った瞬間、
私は、びくっとして首をすくめ、目をつぶった自分に気づく。

 

虫や動物をあまり恐がらないのは、
そこに楽しい記憶がいっぱいあるから。
その宝物が、いつも私を支えてくれたから。

 

それはちょうど、子供の頃、
父にぶたれたときと同じような反応で.....

その恐怖が、今も消えていないことに、
私は自分で驚く。

これほどゴンザに大切にされ、
彼が手をあげることなど決してないと.....

ましてや、談笑していた真っ最中に、そんなことがあるはずなどないと、
わかっていながら。

 

私が小さな頃、母は今と、ある意味別人で、
植物を育て、漬けものを漬け、余ったご飯を乾燥させては、
揚げて、砂糖をまぶしたあられを作ってくれ......
妹の服を縫い、父とプロレスごっこに興じていた。
怒声も笑い声も、矛盾も変化も、激しかった家。

 

あれからはるかな時間が流れ、
晩年の父自身は、
私にあれほど手をあげていたことすら、
覚えていなかったのに。

私は忘れていなかった。

記憶というより、体が、忘れきれていなかったのだ。

これは何か、現在ゴンザに心を許しきっていることに、
関係があるのだろうか。

それとも、「父がそれを忘れてしまっていたこと」を知ったあのときに、
私の心に何かが起こったのか?

 

片翼の折れたバリケンのいる川沿いは、小さなころ、父と、
年中登った小山への道につながっている。
肥後の守ひとつで、いろいろ作ってくれて、
危険なものや、植物や、動物について教えてくれた。
鳥の獲り方や、絞めかた、食べる方法も。

 

.....日々どこかで耳にする、ため息や、大きな音、声、舌打ちが、
そのたび私の心臓をきゅっと止めそうになるのはずっと同じでも。

加えて、なぜ私は、ゴンザの手を恐れたのだろう。

あの、迫る影を。

 

.....私は間違えることを恐れる。

子供の頃、
漢字の書き取りをしていて、書き順を間違えば、
大きな手が容赦なく頭に飛んできて、
食事をしていて、米粒一粒でも食べこぼそうものなら、
途端に「ちっ!」っと舌打ちが聞こえ、
大きな手の影が、頭の上に見えた。

着替えや歯磨きが手間取ったといっては、外にひきずり出され。

出て行った母と内緒で会ってばれたときは、
延々と叩かれ続け、
近所の人が、
「erimaちゃんが酷くぶたれてかわいそうだから、もう会わないであげて」と、
母に懇願してくれたほどでも。

それを忘れてしまったまま死んだ父が、私は許せないのか?

『泣けば「まだ泣くか!」と、泣きやむまで叩かれ、
  呼吸が出来ないほど苦しかったのに.....』
と。

 

私の中では声がする。
「父は忘れてしまいたかったから、忘れたのではないのか」
「八つ当たりや、感情任せの日々を後悔するあまりに」と。
そして、同時にもうひとつの声がする。
「もしかして彼は、忘れていなかったのではないか」
「後悔のあまりに、あんなことになったのでは?」
「彼を追いやったのは私なのではないか」と。

 

16歳で何もかも捨て、体ひとつでさまよった頃より。

母のもとで、世の中の、あらゆるひずみを見た頃より。

私は確実に臆病に、弱虫になった。

.....それは、今が幸せだから、なのだろうか。

それとも、ただの甘えなのか。

コメント (8)
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