ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

デイサの日々をのりこえる

2024-01-27 12:18:22 | 日記
私が週に2回、通所するデイサでは、毎回、血圧や体温などのバイタル・チェックが行われる。このところ私の身体は高血圧の値を示すことが多く、(脳出血の既往症を持つ)私は気が気でない。食生活を見直したらどうか、などと助言されるが、当の私としては、このデイサが高血圧の原因になっているのではないかと疑っている。


このデイサで過ごす時間は、私にはどちらかといえば心地よく感じられるが、これが案外、無意識のレベルで私にプレッシャーをかけ、ストレスの原因になっているかもしれないのである。


きのうのブログで、私は次のように書いた。


「このデイサへの通所は(國分氏の言葉でいえば)『うまく自分に合う組み合わせ』ではないのかもしれない。私は『うまく自分に合う』別のデイサを探すべきではないだろうか。」


こう自問した私は、


「『うまく自分に合う組み合わせ』は、デイサがどうこうといった外的環境にではなく、『気』や『心持ち』といった内的環境にあるのかもしれない」


と思うに至った。


だが、これはホントなのかどうか。


そこできょうは、この問題をも少し掘り下げて考えてみたいと思うのである。


このデイサがーーこのデイサで過ごす時間がーー私にストレスを与えているのだとすれば、その原因は(この施設の照明の具合や、温度管理の仕方などではなく)この施設の中にいる〈人〉にあるに違いない。


かつてスピノザは次のように書いた。


「愛とは、外部の原因の観念を伴った喜びである。」
「憎しみとは、外部の原因の観念を伴った悲しみである。」


ここで言う「外部の原因」こそ、外部の〈人〉、つまり〈他人〉のことなのである。

我々はある他人に愛情を懐いたり、憎しみを懐いたりする。それに伴って、(この〈他人〉と交わるとき)喜びを感じたり、悲しみを感じたりする。
「蓼食う虫も好き好き」という言葉があるように、我々がだれを好きになり、だれを嫌いになるかは自分でもどうにもならない。自分ではどうにもならないから、それは我々のストレスの原因になったりするのだろう。


さらに言えば、我々が好きだった人も、あしたにはうんざりするほど嫌いになることがある。「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉もある位である。


スピノザは知らなかったに違いないが、「蛙化現象」と呼ばれる心理の機微もある。以前、本ブログで取りあげたように、「蛙化現象」とは、

「片想いのうちは大好きで夢中になっていたのに、その相手から興味を持たれたり、振り向かれたりすると途端に気持ちが冷めたり嫌いになってしまう心理的現象」

のことである。


簡単にいえば、「逃げれば追いかけたくなり、追われれば逃げたくなる」ということである。


ーーいや〜、やっぱり書いてみるものだ。書いてみて、はっきり解ったことがある。きのうのブログで、「私は『うまく自分に合う』別のデイサを探すべきではないだろうか」と自問し、これに対して「『うまく自分に合う組み合わせ』は、デイサがどうこうといった外的環境にではなく、『気』や『心持ち』といった内的環境にあるのかもしれない」と書いたとき、私は次のように考えていたに違いないのである。


好きや嫌いといった(ストレスを生む)感情は、特定の〈人〉への執着から生まれる。ならば、ストレスから脱却するには、この「特定の〈人〉への執着」を断ち切ればよい。


問題は、この「〈人〉への執着」を断ち切るにはどうすればよいかだが、これはある意味、簡単なことであり、ある意味、難しくもある。


ラ・ロシュフコーが述べたように、「〈人〉への執着」も、そこからくる情熱も、言ってみれば病気のようなもの。一種の病気であれば、のんびり構えて、ただ快癒を待つだけでよい。何もせず、ただ待てばよいのだ。


待つことが苦手なせっかちは、


時々気を転じ日々に情をあらたむ


という(芭蕉の)言葉に従えばよい。
そのときそのときに絶えず心を新たにし、日々まっさらな気持ちで心の窓を思い切り開け放てばよい。
心のわだかまりも霧のように晴れることだろう。

コメント
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