ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

〈正義〉の戦士の余生はいかに

2024-01-28 14:50:56 | 日記
末期がんで重篤な状態に陥り、入院中の老人が、「自分は桐島聡だ」と名乗り出たという。
桐島聡」といえば、50年ほど前、世間を震撼させた連続企業爆破事件の一つに関与し、「韓国産業経済研究所」なる企業に手製爆弾を仕掛け爆破させたとして、指名手配になっていた逃走犯の名前である。


病院から警察に通報があり、警視庁公安部が男と接触。男が桐島容疑者本人かどうかをDNA型鑑定などによって調べるという。


桐島容疑者は50年ほど前の当時、過激派集団「東アジア反日武装戦線」のメンバーだった。彼はこのセクトのメンバーとして(上官に命じられて敵と戦う兵士のように)、何の疑いも持たず、セクトが主張する〈正義〉を実行したのだろう。標的の爆破に成功したとき、彼は無事任務を遂行した達成感にとらわれたに違いない。


末期がんで入院した病院のベッドで、彼が「自分は桐島聡だ」と名乗ったのは、「最期は本名で迎えたい」との思いからだったようだが、これは、長年の逃亡生活が自分に充分納得できるものであり、「自分は本分を全うしたのだ」との達成感があったからこそ懐いた心境なのだろう。


〈正義〉の実行という任務を遂行してから、名前を変え、土木関連会社に勤務しながら平凡な一市民として過ごし、末期がんで死を迎えつつあるこの老人の報を聞いて、私は、「哀れなやつだ」とも「馬鹿なやつだ」とも思わなかった。むしろ、50年前にフィリピンから胸を張って日本に帰還した、あの小野田寛郎さんと共通するものを感じ、清々しい気持ちになる。


小野田さんは、第二次世界大戦が終結したのを知らずに29年もの間、フィリピン・ルバング島の森の中で耐乏生活を送り、挫けそうになる自分を奮い立たせながらゲリラ戦継続の毎日を生きて、1974年、無事、日本に帰還した。


桐島聡なる老人の報に接したとき、私が感じたのは、この小野田さんと同じ、〈正義〉に殉じた人の余生の清々しさだった。末期がんで老い先短い老人、という言葉から受ける印象とは程遠いものがある。


ただ、疑問が残るとしたら、この男が長い逃亡生活の間、セクトが主張し、自分が殉じた〈正義〉の、その内実の意義を少しも疑わなかったことである。
〈正義〉の戦いや爆弾テロには、必ず犠牲者が出る。自分が奉じた〈正義〉は絶対だ、との信念が多少でも揺らぎ、テロの犠牲者を悼む気持ちが少しでも湧けば、彼はもっと早く自首すべきだったのかもしれない。
「若気の至り」だといって済むものではない。

コメント
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