今年こそはやめようと思う。これといったネタがないのに、無理やりネタをでっち上げ、更新だけを目的にブログ記事を書くことは、もうやめにしようと思う。神よ、変えるべきことを変える勇気を、私にお与えください。
むろん書くべきこと、書きたいことがあれば、これまで通りそれをブログに書き、UPする。その方針は変えずに通したい。神よ、変えることができないことを静かに受け入れる力を、私にお与えください。
変えるべきことと、変えることができないことを区別する賢さを、お与えください。
「神よ、変えるべきことを変える勇気を、私にお与えください。変えることができないことを静かに受け入れる力を、私にお与えください。変えるべきことと、変えることができないことを区別する賢さを、私にお与えください。」
これは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの言葉だそうである。昔「ゴマメのばーば」さんのブログで紹介されているのを読んだことがある。きのうの朝日新聞に、黒柳徹子がこの言葉に触れている記事が載っているのを見て、思い出した。
それはそうと、きょうこうしてブログ記事を書く気になったのは、「書きたい」という内発的な動機からである。きのう恩師から頂いた年賀状に、こう書かれていた。
「ヘーゲルはプラトンをシェクスピアで解釈した。」
なんともユニークなヘーゲル解釈である。恩師はジョークの得意な方であるが、ヘーゲル研究の第一人者として長年、日本の哲学界をリードしてきた方であるだけに、この言葉は私の心にずしりと響いた。
この言葉が私の心を揺さぶったのは、これが哲学の空間に「シェクスピア」という文学の要素を取り込んでいるからである。
哲学の空間に文学の要素を取り込むことが、なぜ私には刺激的だったのか。それは、私が文学の世界から哲学の世界に足を踏み入れたエトランジェだからである。先日のブログで書いたように、フランスの文学者アルベール・カミュは次のように書いている。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」
(『シーシュポスの神話』)
20歳の私は、この言葉を読んで「哲学科に転学して、哲学を勉強したい」と思ったのだった。
ただ、いざ哲学科に転学して授業を受けたものの、その授業は軒並みつまらなかった。私はしだいに授業に出る気がしなくなり、落ちこぼれて、完全に道を踏み外した。
当時、小説家の五木寛之にも憧れていた私は、本気で小説家になろうとした。新人賞に応募する虚しい努力を続けたが、これがさっぱり目が出ず、私は仕方がないので「でもしか先生」をめざすことにした。地元の大学の大学院にもぐりこみ、ここからは心を入れ替えてアカデミックなヘーゲル研究に邁進した。文学への嗜好は完全に封印した。
そんな私が73歳のジジイになり、恩師からの年賀状を見て、「シェクスピア」云々の言葉に心をゆすぶられたのは、どう言ったらいいのだろう。昔付き合っていたオンナを久々に見かけて、グラグラとよろめいた、とでも言おうか。
文学作品を哲学の言葉で解釈するのは、ありきたり過ぎてつまらないが、哲学作品を文学の言葉で解釈するのは充分魅力的だ。
恩師に倣って、ふと考えた。こんなのはどうだろう。
「ドゥルーズはスピノザをカミュで解釈した。」
着想は魅惑的だけど、具体化するのは難しいだろうな〜・・・。
むろん書くべきこと、書きたいことがあれば、これまで通りそれをブログに書き、UPする。その方針は変えずに通したい。神よ、変えることができないことを静かに受け入れる力を、私にお与えください。
変えるべきことと、変えることができないことを区別する賢さを、お与えください。
「神よ、変えるべきことを変える勇気を、私にお与えください。変えることができないことを静かに受け入れる力を、私にお与えください。変えるべきことと、変えることができないことを区別する賢さを、私にお与えください。」
これは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの言葉だそうである。昔「ゴマメのばーば」さんのブログで紹介されているのを読んだことがある。きのうの朝日新聞に、黒柳徹子がこの言葉に触れている記事が載っているのを見て、思い出した。
それはそうと、きょうこうしてブログ記事を書く気になったのは、「書きたい」という内発的な動機からである。きのう恩師から頂いた年賀状に、こう書かれていた。
「ヘーゲルはプラトンをシェクスピアで解釈した。」
なんともユニークなヘーゲル解釈である。恩師はジョークの得意な方であるが、ヘーゲル研究の第一人者として長年、日本の哲学界をリードしてきた方であるだけに、この言葉は私の心にずしりと響いた。
この言葉が私の心を揺さぶったのは、これが哲学の空間に「シェクスピア」という文学の要素を取り込んでいるからである。
哲学の空間に文学の要素を取り込むことが、なぜ私には刺激的だったのか。それは、私が文学の世界から哲学の世界に足を踏み入れたエトランジェだからである。先日のブログで書いたように、フランスの文学者アルベール・カミュは次のように書いている。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」
(『シーシュポスの神話』)
20歳の私は、この言葉を読んで「哲学科に転学して、哲学を勉強したい」と思ったのだった。
ただ、いざ哲学科に転学して授業を受けたものの、その授業は軒並みつまらなかった。私はしだいに授業に出る気がしなくなり、落ちこぼれて、完全に道を踏み外した。
当時、小説家の五木寛之にも憧れていた私は、本気で小説家になろうとした。新人賞に応募する虚しい努力を続けたが、これがさっぱり目が出ず、私は仕方がないので「でもしか先生」をめざすことにした。地元の大学の大学院にもぐりこみ、ここからは心を入れ替えてアカデミックなヘーゲル研究に邁進した。文学への嗜好は完全に封印した。
そんな私が73歳のジジイになり、恩師からの年賀状を見て、「シェクスピア」云々の言葉に心をゆすぶられたのは、どう言ったらいいのだろう。昔付き合っていたオンナを久々に見かけて、グラグラとよろめいた、とでも言おうか。
文学作品を哲学の言葉で解釈するのは、ありきたり過ぎてつまらないが、哲学作品を文学の言葉で解釈するのは充分魅力的だ。
恩師に倣って、ふと考えた。こんなのはどうだろう。
「ドゥルーズはスピノザをカミュで解釈した。」
着想は魅惑的だけど、具体化するのは難しいだろうな〜・・・。