蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

アジサイ考

2020年06月29日 | つれづれに


 雨の匂いが日ごと濃くなり、6月が逝こうとしていた。高温多湿の日々は、まだまだこれからと思うと、高齢の身には長い長い3ヶ月の道のりは厳しい。
 雨に似合う紫陽花について、西日本新聞に面白い記事を見付けた。北九州市の永明寺住職・松崎智海さんの「坊さんのマムい話」というコラムの「しがみついて生きる花」、目から鱗の知識を得た。

 ……人は意志、思想、感情など形がないものを伝えるために、古来よりさまざまな言い回しや表現を作り出してきました。中には美しさを感じるものも。それが花の終わりの表現です……
 桜は「散る」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」、梅は「こぼれる」、菊は「舞う」……なるほどと思いながら読み続けた。そして、紫陽花の終わり方は「しがみつく」と表現するそうだ。
 ……落ちることなく、枯れたままこに居座ろうとする様子からでしょう……
 確かに、花時を終えた紫陽花は見すぼらしく痛ましい。 今では、紫陽花寺など「名所」があちこちにある紫陽花だが、数十年前までは嫌われる花だったという。花びらのがくが4枚で、「しまい(終わり)」ということと、わずかに毒性があるということでも嫌われたそうだ。土壌の酸性度によって色が変わるため、心変わりに通じるとされ、花言葉も「移り気」「浮気」「変節」と厳しい。しかし花の人気が高まった最近では「和気藹々」「家族」「団欒」など、名誉を回復している。
 ……お釈迦様は「執着が苦しみを生む」と言いました。変わることが当然のこの世界で、変わらないことに執着する「我執」が苦しみを招く、と。しかし、執着の中でしか生きられないのも私です。それでも花を咲かせ、美しく生きたいと願う。だから、私はアジサイに親近感を抱くのです……

 紫陽花の見方が、少し変わったような気がする。我が家の庭の紫陽花も花時を終えて、雨に濡れて見すぼらしく、いつまでも散ることなくしがみついている。ガラ携にしがみ付いていた、わが身の執着に似たり!
 とは言いながら、相変わらず敏感なキータッチに振り回され、「ガラ携が恋しい!」とぼやく毎日である。焦るまい、そのうちに軽々と操作する日も来るだろう。未練がましく、残り少ない我が人生にも、また花が咲くこともあるだろう。
 紫陽花に続いて、オオバギボウシが今盛りである。月下美人も10個ほどの小さな蕾を着け、マンリョウもたくさんの小さな実を着けて冬に備えている。フウセンカヅラも蔓が延びて花を着け始めた。オキナワスズメウリが後を追うように蔓を延ばしつつある。今年の夕顔は、少し成長が遅い。外れ苗だったかもしれない。

 Y農園の奥様が、1ヶ月振りに新鮮な野菜を届けてくれた。房生りのトマト、キューリ、ピーマン、大葉など、採れたての色の鮮やかなこと!!玄関先でのマスク越しの会話が暫く続いた。こんな会話が、コロナ時代の「新しい生き方」だとしたら、ちょっと侘しい。

 また雨が来た。コロナ籠り、雨籠りの蟋蟀庵の夕暮れである。雨の中を、石穴の杜からヒグラシの初鳴きが届いた。去年より5日遅い便りだった。
                     (2020年6月:写真:採れたてのトマトの輝き)


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