蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

波の記憶

2020年05月06日 | 季節の便り・花篇

 松の古木の足元、庭石の前にタツナミソウ(立浪草)が一面に立った。白波の中に、いつの間にか消えてしまった生き残りの紫の波が1本立つ。一昨年、町内の土手で咲いていた野生の紫を鉢に植えた。今年、二つの鉢に群れ咲いた。秋になったらこの紫の種子を白波の間に散らせば、来年はきっと楽しい海が波立つだろう。
 波、浪、涛……、それぞれの文字に、異なる響きがある。そして、それぞれに因む記憶がある。

 75年前の11月だった。引き揚げ船、歴戦の生き残りの駆逐艦「雪風」の上部甲板の主砲の下で、荒れ狂う玄界灘の波濤に苛まれていた……記憶に残る最初の、そして最悪の濤である。青空を流れる雲を見ながら、激しい船酔いに苦しんでいた。この原体験が、いまだに船に対する抵抗を消せないでいる。
 尤も、その後船に酔ったのは、知多半島沖の篠島で舟釣りした時だけだから、本当は船には強いのだろう。カリブ海クルーズでマイアミからバハマに渡った時も、今話題の「ダイアモンド・プリンセス号」での1週間のアラスカ・クルーズで、就航以来最大の嵐に見舞われて船員さえ船酔いした時も、能登・隠岐のクルーズで4日間波浪に揺られた時も、カミさんは酔っても、私は平気だった。

 大学生の時、親友と二人で博多港から平戸まで船に乗った。「太古丸」という小さな船は揺れに揺れ、乗客の殆どが洗面器を抱えて船室で、へたっていた。親友とともに、甲板で浪を見ながら揺られているとき、初めてトビウオが波をかすめて飛ぶ姿を見た。
 平戸に泊まり、九十九島を巡り、佐世保から長崎に出た。以前、私たちがクラシックを聴きに通っていた喫茶店があった。そこに勤めていたが、今は帰郷して長崎に住む女性が迎えてくれた。彼女は、後に親友と結婚することになる。カミさんと、初めて雇われ仲人を務めたが、その二人も既に彼岸に渡ってしまった。

 仕事で沖縄を担当していた頃、石垣島の取引先の招待で西表島に渡った。波浪注意報が出ていた悪天候で、水平線が見えなくなるほどの深いうねりの中を1時間、頭の中が真っ白になるほどの大揺れだった。120人乗りの高速船は殆ど新婚さんだったが、船酔いで帰りの船まで待合室で寝込んでしまったカップルが何組もいた。

 12年前、カリフォルニア沖2時間のサンタ・カタリナ島の島陰に30人乗りのダイビングボートを泊め、18人の多国籍の高校生に交じって、3日間のスキューバダイビングの特訓を受けた。船室の蚕棚のベッドの枕元が丁度喫水線に当たり、水温16度の冬のカリフォルニア海での厳しい訓練に疲れ果てて眠る耳元で、夜通し夢うつつにチャプチャプと鳴る波の子守唄を聴いていた。
 訓練を終えて帰る船は、横波を避けてジグザグに奔る。澪を横切って、たくさんのイルカの群れが、車輪を転がすようにジャンプを繰り返しながら、夕日の中を北上していった。

 その1週間後、私はメキシコ・バハカリフォルニア半島の最南端の海の底にいた。太平洋とコルテス海が交わる岬の先端は、ランズエンド(地の果て)という。
 ネプチューンフィンガー(海神の指)という鋭く天を指す岩の先の、シー・ライオン(カリフォルニア・アシカ)のコロニーの底に潜ると、20メートル上の海面の波の余波で、揺り籠のように身体が揺れる。目の前でアシカが身をくねらせて遊び、時折好奇心に誘われてフェースマスクを覗きにやってくる。
 仰向けになって見上げた海面は、岩に砕ける波が眩いほどの光の渦を幾つも湧き立たせていた。そこに向かって、レギュレーターから呼気の泡が立ち昇っていく。
 振り返って見た目の前に、ギンガメアジの大群が海を埋め尽くしており、思わず声を上げてマウスピースを外しそうになった。想像を絶する魚影に囲まれ包まれ吸い込まれて、ダイビングの至福に酔った。

 海は、少し荒れ始めると三角波が立ち、やがて白く砕ける。これを、漁師言葉で「兎が跳ぶ」という。庭石のそばで、何匹もの兎が跳んでいた。

 花言葉は、「私の命を捧げます」とある。
                             (2020年5月:写真:タツイナミソウ)

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