蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

5ミリの造形美(久住花紀行:1)

2012年04月25日 | 季節の便り・花篇

 中学生の頃、同級生の兄に連れられて初めて山に登った。福岡と佐賀の県境に東西に連なる峰々の主峰背振山(1055メートル)、以来山歩きが一番の楽しみになり、九州の山々をひたすら登りまわることになる。
 高さだけなら富士山も経験した。高校2年の夏、「先生、ゴメン!」と了解を取り付け、1学期の終了式をサボって友人と富士登山に出掛けた。富士宮登山口から取り付いたが、当時はバスも2合目止まりだった。それをわざわざ1合目でバスを降り、深い霧を巻く無人の樹海に金剛杖を突いて登り始めた。不思議な隠花植物の真っ白なギンリョウソウに出会ったのもその樹海の中だった。翌早朝の山頂からのご来光よりも、ギンリョウソウの印象の方が今は強い。……翌日、富士登山の見えない裏側に臍を噛むとは予想だにしなかった。
 1合目ごとに茶店があり、甘酒など疲れた喉を誘惑する声が掛かる。ついつい誘われて飲む、食べる。8合目の小屋に泊まり、翌朝登頂して気付いたら、貧しい高校生のお小遣いは、帰りの汽車賃を残して底をついていた。不覚にも追い越すバスに負け惜しみの手を振りながら、米軍の演習基地の中を抜ける道を、とぼとぼと御殿場駅まで7時間かけて歩く羽目になった。中学校で毎年1日に60キロを歩き通す経験を3度積んでるから、歩くことに不安はなかったが、時折カービン銃を抱えた黒人兵が藪の中から現れたり、出会った土地の人に御殿場駅まで道のりを訊いたら「すぐですよ」と言われたのに、それから2時間以上歩く結果になったり、登山本番以外の思い出をたくさん残してくれた富士登山だった。

 高校卒業時点で生徒会の役職4つと卒業アルバム編集委員長の肩書きを抱えていて、当然のように大学受験追い込みの余裕はなかった。担当教師(始業のベルが鳴り終わらないうちに教壇に現れるから「消防自動車」とあだ名を持つ謹厳且つ修猷館高校随一厳しい数学教師)から、「君みたいな者がいないと生徒会が駄目になる。私の授業はいつでもサボっていいから」とお墨付きをもらい、卒業式で答辞を読み、学業優秀以外で貴重な館長賞のメダルを受けるという面映い経験を経て、堂々と(?)浪人生活にはいった。当然受験はしたが、いくら4.2倍の比較的低い競争率でも、フロックで合格するほど大学受験は甘くはない。
 浪人の一年は全てのアソビを断って、ひたすら受験勉強に励んだ。多分、一生で一番勉強した一年だった。そんな自分に唯一許していたのが、月に一度の単独山歩きだった。(近郊の800~1000メートルの山だから、山登りと言うには憚る。)決めた日には、例えどんな悪天候であろうとザックを担ぎキャラバン・シューズを履いた。土砂降りの雨の中、顔を伝い流れる奔流のような豪雨に溺れそうになりながらでも、登り、縦走し、峠を下った。
 唯一断念したのは、忘れもしない冬、福岡には珍しく激しい吹雪の一日になり、さすがに親の引止めに従った。そしてこの日、予定していた背振山~金山への縦走コースで大学生のパーティーが遭難し、死者を出した。人生に幾度かある生死を分ける転機のひとつだったのかもしれない。こうして4月、めでたく九州大学法学部の学生になった。

 その頃、風邪気味でも一日山を歩いて汗を流して帰って来ると、不思議に風邪が吹き飛んでいた。その頃を思い出したわけではないが、久々の高原の山野草探訪に、定宿の久住高原コッテージを予約して走り出す前日、ひどい身体の不調で座っているのもシンドイ有様となった。熱っぽく関節痛と気だるさに苛まれながら、前後雨予報の合間の貴重な二日間の晴れ間を押して強行することにした。
 この時期、高原は春たけなわ。5ミリほどの小さな姿で、驚くほどに繊細な造形美を見せる花達に会う……それだけに支えられて、助手席に家内を乗せて大分自動車道に走り込んだ。どんよりと日差しを遮って黄砂降る、いささか気掛かりな旅立ちだった。
           (2012年4月:写真:木漏れ日に立つスミレ)

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