蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

花、急ぐ

2016年04月13日 | 季節の便り・花篇

 竹林の奥から、弾むようにウグイスの声が転がってきた。「ホ~~、ホケキョ♪」とすっかり歌い慣れた見事な囀りに、時折「ホホホホ、ケキョ、ケキョ、ケキョ♪」と戯れるのは、何かを訴えているのだろうか。散り敷いた落ち葉や枯れ枝が、踏みしめる脚を柔らかく押し返してくる。人気ない林道は、今朝も独り占めの空間だった。

 花の命は短い。束の間の花時を逃すと、1年間悔いを残すことになる。
 雨が近いという予報を聞いて、朝食もそこそこに後片付けもせずに、カメラを担いで家を出た。雲間から漏れる日差しは儚く、朝風の冷たさに急いでウインドブレーカーの襟を立てる。新入生らしい女子大生が、きょろきょろしながら学園への道を急いでいた。
 「特別展・始皇帝と大兵馬俑」開催中の九州国立博物館のエントランスを抜け、いつもの散策路にはいる。木道の傍らの湿原は一面スギナに覆われ、冬場イノシシに掘り返されていたのり面も、柔らかな春の草に覆われていた。春になると、イノシシはいったい何処に餌場を求めるのだろう。楽しみにしていたセリはイノシシに荒らされて、すっかり姿を消してしまっていた。
 100余段の急な階段を登り詰め、車道から「野うさぎの広場」への林道に折れる。此処が、静寂の散策路への入り口である。

 孟宗竹の裏に立てかけていた枯れ枝の「マイ杖」を取り、落ち葉を踏んで緩やかなアップダウンの山道を辿ると、やがて「ハルリンドウの小径」と名付けた辺りに辿り着く。スミレがひっそりと咲き散る道端に、今年もハルリンドウが落ち葉の陰から花穂を立てて咲いていた。いつもは足の踏み場に困るほど林道の上にまで咲き誇るのに、乱高下する気温にためらっているのか、数本が半ば蕾を従えながら咲くだけだった。
 カメラに収めて、杖を片手に急坂の落ち葉に足を取られながら「野うさぎの広場」に登りあがった。
 此処は、空が開けた陽だまりの空間である。柔らかな日差しを浴びながら、身の丈5センチ足らずのハルリンドウが、あちこちに散らばっていた。枯葉に覆われた中で、青紫の小さな筒状の花冠が鮮やかに輝いている。小さな花だから、気付かずに通り過ぎる人も多い。しかし、蹲り腹這いになって目を凝らすと、花弁の中には目を瞠るように美しい紋様が描かれているのが分かる。
 人の営みが自然を破壊し、多くの生き物達を絶滅に追いやっている今、自然との適正な距離をおく謙虚さが大切だが、時に思い切って身を寄せると、限りなく優しい姿を見せてくれるのも大自然である。
 花時は短い。ここ1週間の日差しを人知れず謳歌して、やがてこの広場は草に覆われていく。いつもの指定席の倒木に腰かけ、風に乗ってくるシジュウカラやウグイスの声に癒されていた。

 先駆けの雨が奔った。カメラをウインドブレーカーの中に抱え込み、林道を戻った。膝に前科ある身に、慌てることは禁物である。なに、濡れても風が吹いても、ヘアーが乱れることはないGIカットの白髪頭である。タオルでひと拭いすれば済む。
 湿地の傍らで、もつれ飛ぶ2頭のスジグロシロチョウを見た。遠くからでは翅脈の黒い筋が判別しにくいから、モンシロチョウと見紛うことが多いが、仄暗い林縁の湿った環境は、モンシロチョウでなくスジグロシロチョウの世界である。
 我が家から片道20分で届く「野うさぎの広場」である。都会人には味わえない恵まれた大自然に包まれて、「蟋蟀庵ご隠居」の有閑の日々がある。
 往復5700歩……一昨日の山野草探訪は、273キロ走って、男池で歩いた歩数は僅か2800歩でしかない。しかし、今も太ももからふくらはぎに残る心地よい気怠さは、花に満たされ、新緑に癒され、露天風呂の濁り湯に抱かれた、かけがえのない充実感である。

 庭のツワブキの葉陰に、アマドコロが小さな鐘を並べた。タツナミソウも白い涛を立て始めて、わが家の庭も春たけなわである。
                 (2016年4月:写真:ハルリンドウ)

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