蟋蟀庵恒例の、夏の宴は更に続いた。薄明の中に鳴く声に目覚め、黄昏れで鳴く声に夕餉を摂る……「カナカナカナ♪」と鳴くヒグラシの少し哀しげな声は、蝉の中では一番心に染みる。
もう、クマゼミも「ワーシワシワシ♪」と姦しく鳴き立て、アブラゼミも「ジリジリジリ♪」と暑熱を掻き立てている。「チイチイチイ♪」と鳴くニイニイゼミは、まだ確かめていない。あと1か月もすれば、慌て者のツツクボウシが、「オーシツクツク!」と、秋の前髪を引っ張り始めることだろう。
3日前から、庭の八朔の枝先で、蝉の羽化が始まった。昨年より9日遅い始まりだったが、昨夜までで既に9匹が誕生した。多い年は、ひと夏で100匹を超えた年もあったのだが、さて今年はどこまで数を伸ばすのだろう?
時には10匹近くが一斉に羽化したり、一つの枝先に3匹が重なるように下がることもある。同時進行形で、いろいろなステップを見せてくれた夜もあった。
我が家の羽化は、クマゼミが殆どである。八朔の根っこの樹液は、クマゼミが好むのだろうか?早い時期はヒグラシ、そして低い草陰でたまにニイニイゼミの土まみれの空蝉を見付けることがある。
昨夜、8輪の月下美人の饗宴に酔う傍らで、時々部屋を離れて庭に出て、八朔の樹の下に立った。1匹のクマゼミが羽化しようとしていた。毎年のことながら、カメラを構えて刻々と姿を変える誕生劇を撮り続ける。目線より少し低い葉蔭でドラマが続いていた。脚立を持ち出し、海中電灯で確かめながらドラマを追う。
使い慣れた一眼レフの調子が悪く、なかなかシャッターが落ちない。カミさんの小型カメラとスマホのカメラまで抱えて、月下美人とクマゼミの間を出たり入ったり……のけ反って殻を抜け出し、徐々に翅を伸ばし、翅脈を綺麗なグリーンに染めるまでを見守っているうちに、日が変わっていた。
夜明けには、柔らかい翅もしっかりと固くなり、褐色にグリーンを走らせた精悍なクマゼミが、伴侶を求めて大空に飛び立っていく。
蝉は歌っているのではない。すべてが、種を維持するための命の営みなのだ。鳴けない雌は、オスの鳴き声を求めて、より種族維持に相応しい雄にすり寄って交尾する。虫たちには喜怒哀楽はないし、恋もない。だから、その純粋なひたむきさに惹かれる。
発情期を失った人類は年中発情し、生殖の営みを快楽に変えてしまった。そして大繁殖を可能にして、文明を発展させた。しかし、その陰で失っていったものも多い。戦争と疫病という調整機能も弱くなった。いまや人類は、地球環境にとって最悪の害獣になってしまった。今回の新型コロナウイルスは、自然界からの警告であり、あるいは怒りの鉄槌なのかもしれない。
その一方で、草食男子の蔓延や独身謳歌の風潮は、種としての生殖機能の弱体化であり、日本民族という種の滅亡への兆しでもある。
「我も老いたり、カメラも老いたり!」
カミさんは、「アベの10万で買い替えたら?」と言ってくれるが、我が家のアベの20万は、ずいぶんいろいろと使って、多分もう足が出ている。騙し騙し、年老いたカメラと付き合って、これから当分八朔の下に立ち続けることだろう。立つのは慣れているし、何度立ち会っても、この命誕生のドラマは心をときめかせてくれる。
ひとつ不思議なことがある。こうして長い間八朔の下に佇み続けても、藪蚊に刺されることがないのだ。何故だうろ?
コロナ感染は、首都圏や関西を中心に拡大し続けている。そんな中で「Go Toトラベル」というキャンペーンが始まろうとしている。コロナ撲滅と経済の両立、そんなことが果たして可能なのだろうか?アメリカ、ブラジル、インドなど拡大加速の中で、観光業者にはありがたい政策だろうが、周辺の一般家庭では不安材料でしかない。東京発着は対象外という姑息な手段で、「Go Toトラベル」が「Go Toトラブル」に陥るのではないか?
……そんな不安な世情をよそに、自然界は間違いなく季節を刻んでいく。それを見つめ続けることは、大きな癒しでもあるのだ。
蟋蟀庵の夏の宴は、今始まったばかりである。
(2020年7月:写真:クマゼミの羽化)