蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

啓蟄のドライブ

2020年03月05日 | 季節の便り・旅篇

 冬籠りしていた虫たちが這い出る時が来た。コロナ籠りのご隠居も、そろそろ這い出さずばなるまい。

 カミさんが「蟹、カニ!」と耳についた蚊のように言い続けていた。「30年、あの蟹を食べてない!」
蟹と言っても、我が家にとっての蟹はただの蟹ではない。北海道で食べた毛ガニやタラバガニも、島根で寒さに震えながら食べた松葉ガニも、わざわざ取り寄せて食べた花咲ガニも、上海で観光客価格でぼったくられた上海ガニも、カリフォルニアのサンペドロ ~ポーツ・オコールで、カモメに睨まれながら食べた名も知らぬ蟹も、マイアミで食べたスト-ン・クラブも……それぞれに懐かしい思い出を背負っている。
 しかし、カミさんが言う蟹は違う……。

 うらうらと日差しが降り、車窓一面に七寸ほどに伸びた麦が緑の絨毯を拡げていた。目に映る景色は紛れもなく春だった。しかし、一歩外に出ると、戻り寒波の冷たい北風が吹いて身体を縮こまらせる。筑紫野ICから九州道に乗り、鳥栖JCで長崎道に右折する。ひたすら西に走り、武雄北方ICで一般道に降りた。ナビの示すままに、武雄、嬉野、鹿島を経ておよそ100キロ、2時間のドライブの後に辿り着いたのは佐賀県藤津郡太良町……「竹崎カニ」というブランドの蟹どころである。

 太良町のホームページに、こう書いてある『竹崎カニは、太良町を代表する特産物です。カニの種類は全国的には「ワタリガニ」として知られているものですが、太良町の竹崎地区近海で獲れるものは特に「竹崎カニ」とよばれて珍重されています。有明海の干満の差でできる広大な干潟、その干潟に棲むプランクトンや小動物は、1日1回は潮の引いた干潟の上で日光を浴びます。食べ物をおいしくする遠赤外線を多く吸収したそれら小動物は竹崎カニの格好の餌であり、それを食べる竹崎カニはそれゆえに、格段に美味であるといわれています。』

 30年ぶりに、なじみのY荘を予約、ひた走ってきた。夏場は雄、冬場は雌が美味いという。この啓蟄の時期はもちろん雌。サイズによって一匹4000円から8000円ほどの幅がある。
 コロナ旋風を吹き飛ばそうと、思い切った。大きなカニを選んで会席を付けて一人9000円!かつて、長崎支店長のころ、諫早に住んだ。太良町は、そこから45分の距離にある。あの頃は、5000円でこのサイズの蟹が食えた……過ぎ去った歳月を思う。
 いいじゃないか、30年分と思えば、1年当たり300円は安い!(呵々!)

 若女将が、自ら給仕してくれた。「コロナ騒ぎでキャンセルが多くて」という。平日のこの日、客は私たちだけだった。
 カニの甲羅に日本酒を注いで飲む「甲羅酒」も美味い。しかし、今日は車、思い出をお互いに振る舞いながら、なりふり構わずひたすら貪り食った。有明海の滋養で育った竹崎カニは、味が深く濃い。
 蟹は、決して会話が弾まない。かつて口うるさい取引先の接待に、この宿を選んだことがある。蟹を毟り啜り食べることに集中すると、話をするいとまがないのだ。作戦は成功した。

 顔中で蟹を食べ、飽食に酔った。帰途、「道の駅太良」で買い物をし、満腹が誘う眠気晴らしに矢沢永吉を顎で聴きながら、うららかな日差しの下を走り帰った。
 今夜は、着ていったもの全てと、その中身をシッカリ洗わないと、カニの匂いは3度替えてくれたお絞りでも、石鹸で手洗いしても消えない。それが、味の濃さでもある。

 念願を果たしたカミさんに言う。「次は、30年後だね!」

 今日は啓蟄である。
                             (2020年3月:写真:竹崎カニ)