イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

AKYAKA(アクヤカ)

2011-11-29 16:36:59 | 

するすると時は過ぎていきますが、ブログはゆっくり更新です。先のバイラム休暇で出かけたAKYAKA、宿泊先は決めずに、いいなと思うホテルの電話番号だけを控えて行きました。バイラムでも混んでいるのはボドルムだけだったそうで、当日でもすぐに予約ができました。

このホテル、新しいのですが伝統的なMUGLA(ムーラ)の建築様式を取り入れた建物でとても落ち着きます。MUGLAの家々はベランダや天井、軒に意匠が凝らしてあってとても美しいのです。そしてこのホテルの朝食は前にあるお魚レストランで頂くようになっていました。前日の夜に到着した時は、暗くてわからなかったのですが、朝食を食べに行くとレストランの脇には葦に覆われた川が流れています。朝の太陽を受けて川面がきらきらとしています。アヒルや鴨が餌を探して泳いでいます。よく水の中に目を凝らすとずいぶんと大きな魚も泳いでいます。

トルコで言う「KOY KAHVALTI(村の朝食)」スタイル、もちろんパンは焼きたて、チャイはチャイダンルック(二段式のチャイやかん)ごとサービスしてくれます。

アヒルたちは、がーがー騒ぎながら寄ってくるので、試しにパンを投げてみるとすごい勢いで食べました。最後には残ったきゅうりもトマトも丸呑み!アヒルたちのおかげで残飯がほとんどでないシステム?が出来ていました。旅先の朝食なのに気がついたら2時間近く過ぎていました。この景色、そしてせせらぎと鳥達の鳴き声、いくらいても飽きない天国の様な場所でした。

AKYAKAは、数年前のバイラムツアーで立ち寄ったことがあるのですが、今回改めてのんびりとムーラ様式の家やパザル、川沿いで釣りをする人を眺めながらお散歩してみました。

小さな港の方に歩いていくと「川のぼりボートツアーはいかがですかー」と呼び込みの声が聞こえます。釣船の様な小さなボートでホテルの前を流れている川を上って行くツアーの様です。

所要時間40分で一人4TL(約168円)、私たちしかいないの?と思っているとすぐに20人位集まって出発。船頭?さんの若者が川沿いに見える家や街のことなどを素朴に説明してくれました。自然の水族館と地元の人たちが呼んでいる場所にはうなぎなどの魚がたくさん見えました。TVドラマや多くのCMが実はこのAKYAKAで撮影されているのだとか。

車から降りて、コートも着ずに船に思いつきで乗ってしまったので寒いかなと心配していましたが、日差しがあるのでとても暖かでした。上の写真のホテルは「12歳未満の子供お断り」のホテル。AKYAKA、にぎやかな観光地ではありませんが週末を静かに過ごすには理想的な場所かもしれません。

 

 

 

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ALINDA ve ALABANDA

2011-11-19 12:29:27 | 

すっかりなまけ癖がついてしまい、復活するのにはエネルギーを要します。11月6日から9日はクルバンバイラム(犠牲祭)の祝日でした。親戚も少ないし、クルバンを切るわけでもない我が家、初日はお墓参りをしてアンネ(義母)の家で一緒に朝ごはんを食べたらもうおしまい。市が指定したクルバン市場を見たりぶらぶらとお散歩したり、夜にはお友達一家がバイラムの挨拶に来てくれました。二日目からは2泊3日でAYDIN(アイドゥン)経由MUGLA(ムーラ)のAKYAKA(アクヤカ)というところまで行ってきました。

イズミルから南へ向かったAYDINは、大きなメンデレス川が流れる肥沃な農業地帯。この季節は一面の綿畑が見られます。そしてAYDINと言ったらイチジク、日本でみられるトルコ産のイチジクはAYDIN生まれかもしれません。ギリシャ・ローマの時代にはカリア地域の一部であり多くの古代遺跡が点在しています。イズミルから日帰りで行くには少し遠いので、こんな機会に立ち寄ることに。地図で印をつけたALINDA(アリンダ)とALABANDA(アラバンダ)の遺跡を目指しました。

ALINDAはKARPUZLU(カルプズル)と言う地域にあり、山の東斜面にへばりついている遺跡です。村の家の間を上るとALINDAのAGORA(市場)跡に出ます。山の上には劇場跡がわずかに見られるそうですが、私はパス。野生派の夫はもちろん制覇せずにはいられないのですが、どうしてあんな高いところに劇場を作ったんだろう、と言っていました。

紀元前14世紀まで歴史をさかのぼることができるそうですが、記録に残っている史実としては紀元前340年ごろカリアの内部争いによりADAと言う女王がALINDAへ流されてしまいます。その頃アレキサンダー大王がこの地にも遠征し、ALINDAを包囲するのですがどうしても征服することができません。その時女王ADAは城内へアレキサンダー大王を招き入れます。そしてある協定が結ばれ、この地は女王ADAが管理することが認められたのだそうです。

ALINDAから30kmあまりのALABANDA、ここも畑の中に遺跡が点在していました。HAMAM(ハマム)、アポロン神殿、議会跡など・・・実際どこが?と言うものが多く、遺跡の90%は土の中に埋もれているのだそうです。ALABANDAは芸術面で秀でた特徴を持った場所であったそうで、ある時期金貨を造ることが認められた唯一の都市だったそうです。そしてその金貨にはペガサスが描かれていたそうです。ALABANDAの名前はALA(馬)とBANDA(勝利)に由来するそうで、この地の人々はたいそうお金持ちで豊かな生活を送っていたそうです。

余談ですが、閃マンガン鉱という石の英名はALABANDITE(アラバンダイト)、これはこのALBANDAの地で初めて発見されたことに由来するそうです。

ALABANDAを後にして通過するCINE(チネ)の街道沿いにはキョフテ屋さんが並んでいてその一軒へ。トルコは地名のついたキョフテが色々あって各地の名物になっています。ここのキョフテもとっても美味しかった。CINEを過ぎるとこんな光景が広がります。有名なカッパドキアの奇岩はきのこ岩と呼ばれますが、ここの奇岩は「カエル岩」と名づけたくなりませんか?

 

 

チネキョフテ

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ESKI DOGAN BEY KOYU(旧ドアンベイ村)

2011-09-29 00:40:21 | 
 
日本からの友達と一緒にMETROPOLISの後に向かった先はAYDIN(アイドゥン)県、ミレトス、プリエネなどの遺跡のすぐ近く、ESKI DOGAN BEY KOYU(旧ドアンベイ村)です。この村の歴史は紀元前7世紀までさかのぼることができるそうです。
 
 
 
1924年まではギリシャ人が住む村で、ギリシャ語でδωματια(DOMATIA=ドマティア)と呼ばれていたそうです。かつて森の中に一軒一軒の家が離れて建っていました。それぞれの家には大きな中庭があり、独立した部屋の様に建てられていました。この部屋のことをギリシャ語でDOMATIAと言ったことからここが村となった時に、村の名前をDOMATIAとしたのだそうです。
 
 
 
ギリシャ人が村を離れて行く時に、悲しみのあまり家を壊して行ったり、その後の定住が進まなかったり、道が狭い、風が強いなどの悪条件が重なったこと、近年になって火事があるなどして、村は1985年に完全に空っぽにされ、この村のすぐ下の道路沿いにYENI DOGANBEY KOYU(新ドアンベイ村)が作られました。
 
    
 
その後、かつて病院、学校、交番として使われていた建物が、新たにDILEK半島国立公園のビジターセンターとして修復されたことにより、国内外からこの村のすばらしさを知る人々が再びこの村を守り生かそうと、うち捨てられていた村の家や土地を買い、伝統を壊さぬ形で家の修復を始めたのだそうです。
 
 
 
村に入るには干上がった川にかかった橋を渡ります。冬にはこの川にも水が流れ、村の中から始まるハイキングコースにはギリシャ人達が生活用水としてつかっていた湧き水や小さな滝が見られるそうです。今この村がどんな状態になっているのか大した知識もなく訪れました。修復がされているとは聞いていたので美しい家々を見た時、当然人が住んでいると思ったのですが、村の中には人っ子一人いません。猫が三匹、聞こえるのは風の音、そして一軒の家から芝生に水を撒くスプリンクラーの音のみ。でも花はきれいに咲き、家の窓にはカーテンがかかり、テーブルの上には花が置かれ、誰かが住んでいる気配はあります。でも誰もいないのです。
 
 
 
ほとんどの家は鎧戸が閉められています。修復された家もあれば朽ちかけた家もあります。村の真ん中にあるモスクのミナレ(尖塔)はくずれかけています。横にある建物はまるで礼拝堂のような形、窓からのぞくとドイツ語らしき文字も見えます。
 
 
 
途中でトルコ人でもないし、英語圏の人でもない外国人のおじさんが観光客を案内していました。それから窓は閉まっているけれど一軒だけ人の気配がありました。それだけ・・・。どのくらいの時がたったのか、私達は村の静けさと美しさにぼうっとしていました。不思議の国に迷い込んだ様な気分です。精霊や妖精たちがあの村にはいたような気がします。
 
 
 
下界と言うか現実の世界に戻り、最後は夕日を眺めながらお魚を食べようと言うこの日の私のプラン。ESKI DOGANBEY村から10分ほど海に向かって走るとDIL湖という湖があります。ここはちょうど北海道のサロマ湖のような場所、海と湖を仕切る砂嘴(さし)があります。道の行き止まりにぽつんとお魚レストランがありました。こんな最果て?でもお客さんは結構いるものです。普通お魚レストランには猫達がおこぼれを狙ってウロウロしているものですが、ここはアヒルや鴨がテーブルを巡回してえさをねだっていました。
 
 
 
 
 
 
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METROPOLIS(メトロポリス)

2011-09-24 11:29:24 | 

日本からのお客様2011年第二弾!長年のトルコ語お友達が恒例のトルコ旅行の途中にイズミルまで足を伸ばしてくれました。しかもまたまた大量の救援物資とともに・・・。私よりもはるかにトルコ通、歴史通ですからイズミルでもそろそろ行くところが尽きて来たかと悩んでいたのですが、インターネットをさまよっているうちに(?)素敵な場所を見つけました。本当に探せばいくらでも出てくる穴場だらけのトルコです。

イズミル県TORBALI(トルバル)市、イズミル中心から45kmほど、最近は高層アパートの建設が進みつつありますが工場と畑もまだまだ多く見られます。OZBEK(オズベキ)村とYENIKOY(イェニキョイ)村の間、一面に広がるにんにく畑の向こうの山の斜面にMETROPOLISはありました。METROPOLISは古代イオニアの都市の中で重要な位置を占めました。名前の由来は女神「METER ALLESIA」に由来するそうです。この女神を祀っていたとされる場所が別の場所にあるそうですが、そこから発掘されたものからここが信仰の中心地であっただけではなく占いや予言の中心としても栄えていたことがわかるのだそうです。

豊穣な土地にあった為ワインの生産が盛んでスミルナ(現在のイズミル)とエフェソスを繋ぐ道の途中に位置することもあって当時の商業の要衝でもあったようで、HEGESIASという名の銀行家が生きていたことまでわかっているそうです。ここに住んでいたお金持ち達はMETROPOLISをすばらしい都市にする為にあらゆる投資をしたのだそうです。

訪問者もなく管理しているおじさんが一人。入場料もなし。ここにモザイクがあることをあらかじめ読んでいたので、おじさんに聞いてみるとにやっと笑って「見せてあげましょう」と鍵をとりに行きました。手には鍵と水を入れたペットボトル。入り口近くにある建物へ。おじさんモザイクの上に水をかけていきます。すると色あせたモザイクがたちまちいきいきと蘇ってきました。これらはローマ時代のものでDIONYSOS(ディオニソス)とその后ADIADNE(アリアドネ)など神話の登場人物や劇で使う仮面などが見られました。管理しているおじさんによると、このモザイクのレプリカを作ろうと長年試している人たちがいるそうですが、どうしてもこれと同じ美しいものはできないのだそうです。

劇場はアナトリア地方で石でできた劇場としては最も古いものの一つ、紀元前2世紀のものだとと考えられているそうです。4000人収容で舞台の床は白と青の大理石で覆われていました。

その他にローマ時代に来ればやっぱりお風呂。紀元後2世紀に造られたとされるお風呂は、床下を温めるシステムがよくわかります。ここではお風呂だけではなくスポーツ施設もあったそうです。

下の写真は、METROPOLISの議会場跡です。400人収容で円形の座席の間にはライオンの脚が施された階段が3箇所あり外に出たい人たちは、会議の邪魔をすることなくこの階段をつかって上へ出ることができたそうです。

遺跡の周りは城壁で囲まれていますが、もともとヘレニスティック期に作られたものでビザンツ時代に補強されたようです。今でも発掘は続いており、畑の真ん中の発掘場所からまだまだたくさん色々出ているようです。

TORBALIにはまだ考古学博物館がありませんが、この遺跡から出たものが散逸しないで見ることができるようになるといいのですが。

 

 

前回のクイズ?の正解は「ピスタチオ」でした!cakeさん、mikiさんさすが!!!

まめさん、写真をどうもありがとう! 

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LABRANDA ve IASOS

2011-09-14 10:32:38 | 

イズミルからムーラ県ミラスへ向かう道路を左に折れて山道を上ること14km、松に覆われた山の中にLABRANDA(ラブランダ)の遺跡はありました。行き交う車もない遺跡の入り口近くの木陰で、村の人らしきおじさんが昼寝中でした。私達の車の音を聞くと飛び起きたおじさん、手にはしっかり入場券の束が。

LABRANDAは古代ミラスへ水の供給を行っていた場所でもあり、今でも村には「LABRANDA」ブランドのミネラルウォーターの工場があります。

アナドルの南西部にいたカリア人たちにとってLABRANDAはかなり重要なカルトの中心地だったそうです。少なくとも紀元前6世紀から信仰が続いていたそうです。ペルシャ軍に反旗を翻したミレトスに加わったカリア人たちは紀元前497年の戦争で負けてしまいます。

紀元前4世紀にカリアのMAUSOLES王はLABRANDAを家族の神聖な場所とします。MAUSOLES王は自分に企てられた暗殺から免れたことから、その弟IDRIEUSと一緒にゼウス神殿と二つの大きな宴会場などを作りました。この宴会場は現在でもよく残っています。この神聖な場所では毎年5日間続く宗教的なお祭りが行われたそうです。344年にIDRIEUSが亡くなるとこれらの建設にも終止符が打たれ、カルトの中心地としての役割も4世紀頃の大火により終わったそうです。その頃ものとされる墳墓が現在修復中でした。

 

IASOS(イアソス)はミラスから28km、KIYIKISLACIK(クユクシュラジック)村にあり、三方を海に囲まれた二つの半島にあります。ここに入植した人たちのリーダーの名前がIASOSでした。紀元前5世紀までIASOSに関する記述はあまりないそうですが、発掘すると紀元前3000年までさかのぼることができるそうです。

IASOSは小さな家族経営のペンションと入り江にある数軒の魚レストランのほかには何もないような村ですが、その静かな入り江の景色は、回りにまるで要塞のように建っている別荘郡の醜い景観で台無しにされつつあります。私が持っているガイドブックにも「(醜い別荘を)なるべく見ないように努めながら(イアソスに近づくと)」と書いてありました。

内陸部にある通称「BALIK PAZARI(魚市場)」はIASOSの博物館になっていますが、その名前はかつて村民によってこの建物が魚市場に使われていたことから。入り江にくるとそこはまるでオープンエアーの博物館の様に遺跡に覆われています。町の会議場、アゴラ、運動場などを見ることができます。

当時IASOSでは男の子達を運動場で運動した後海で洗うのが習慣でした。ある時、岸へ近づいたイルカが子供達の一人を背中に乗せて海へ連れて行っては、また岸につれて戻ってきていました。この話を聞いたアレキサンダー大王は子供をバビロニアへ連れて行き、海の神ポセイドンの司祭としたとか。IASOSから発掘された紀元前3世紀のものとされる硬貨にイルカの背に乗った子供が描かれているそうです。

何千年もの歴史を一気に旅することのできるトルコ、遺跡と共に生活する地元の人々は自然体で遺跡の中にとけこんでいますが、年々侵食してくるように増え続ける別荘郡、そして建設途中で放棄され廃墟の様になっているところも少なくありません。もう少し景観や村の人と別荘族?の共生を考えた街づくりを考えられないものだろうかと旅するたびに思います。

 

 

現代のLABRANDAの水

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RAMAZAN BAYRAMI(ラマザン休暇)

2011-09-09 15:55:49 | 

8月1日から29日間続いた今年のラマザン(断食月)、一日は長いし、喉は渇くし、朝4時ごろ起きて食事をとってまた寝るというのもなかなか大変でしたが、過ぎてみればあっという間、早くも暦は9月です。まだまだ最高気温は35度前後の日々が続くイズミル、でもさすがに日差しになんとなく秋の気配が感じられるようになりました。

日本では台風の被害が甚大な様子、雨の心配をすることなしに生活していることが申し訳なくなります。トルコの学校は6月から始まった長い長い夏休みを経て、新1年生は9月12日から、その他の学年は9月19日から新しい学年が始まります。その前に最後のTatil(休暇)と言うことで、ラマザンバイラムがありました。

普通宗教上の休暇はだいたい3・4日ということが多いのですが、今年は直前になって「公務員は9連休!」が発表されました。こういう直前になってのお休みの決定が結構あるトルコ、お仕事滞らないんでしょうか・・・。不思議です。

我が家は9連休と言うわけには行きませんでしたが、珍しく6連休!以前からずっと行きたいと思っていたMUGLA(ムーラ)県のOREN(オレン)と言うところへ行くことに。トルコでは日本のように各種至れり尽くせりのガイドブックはあまりないので、我が家の旅は行くところ(宿泊先)を決めたら地図を開いて、その途中にある遺跡や景色のよさそうな場所を探しながら巡っていくスタイル。

今回もMUGLA県の中の遺跡やトルコの夏のリゾート地として有名なBODRUM(ボドルム)半島を回りながらORENまで。ORENではホテルの前の海岸で海に入ったり、チャイを飲んだり、観光客も少ない小さな入り江を探してドライブしたり、のんびりと過ごしてきました。LABRANDA(ラブランダ)、EUROMOS(エウロモス)、IASOS(イアソス)、BECIN KALESI(ベチン城壁)などの遺跡はほとんどガイドブックにも載っていないし、訪ねる人も少ないマイナーな遺跡ですが、予想していたよりも見応えがありました。

そして今回の旅の一番の収穫はなんといってもこの蟹~!!!IASOS(KIYIKISLACIK村)と言う本当に鄙びた村にあるレストラン、トルコで初めて食べた蟹!!!Mavi Yengec(青蟹)と言う種類だそうですが炭火で焼いただけなのに絶品でした。二人で無言でかぶりつきました。しかもお値段1杯10TL(約430円)。この蟹を食べるためだけにでもまたこのKIYIKISLACIK村へ行く価値ありです。

そしてもう一つはBODRUM半島のYALIKAVAK(ヤルカヴァク)と言う海辺の街で食べたKABAK CICEGI DOLMASI(ズッキーニの花のピラフ詰め)。夏になるとパザルや街角で摘んだばかりのズッキーニの花を売っているのを見かけるのですが、買って料理する勇気もないし、花にご飯?と言う感じでした。家庭料理レストランのメニューに見つけて思い切って食べてみることに。これがまた美味しかった。来年の夏には絶対にチャレンジしようと今からレシピ研究中です。

結局食欲がメインの旅だった様ですが、遺跡について次回ご紹介したいと思います。

 

 

 

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ISTANBUL(イスタンブル)

2010-12-21 23:53:47 | 

アヤソフィア

旅行者としてトルコを旅していた頃、イスタンブルは私にとって特別な場所でした。空港へ着き、ホテルへの車の中からイスタンブルの街を見ながら「帰ってきた~」と思えたものです。においや音、空気までが違うものに感じられました。

トルコに住むようになり、イスタンブルは「新宿」よりも遠い街となったのです。その遠い遠いイスタンブルへ日帰りで行ってまいりました。JIKAD(日本イズミル文化友好協会)の会長アルズさんとイスタンブル総領事館主催の「天皇陛下即位記念パーティ」へ参加が目的。協会として招待を受けたので私はアルズさんのお供でした。

朝8時45分の飛行機に乗り、夜は0時55分イズミル着という強行軍。家族はお留守番なので、二人で密かにウキウキしながら、どこへ行こう、あそこへ行こう、ここへも!とあれこれ興奮して相談していたのですが実際にイスタンブルに着いてみると、人と会う約束があったりして自由な時間はそれほどなく、その上反対方向に乗り物に乗ったりの「おのぼりさん珍道中」となりました。

グランドバザール

久しぶりに歩くイスタンブルは、どこもきれいになっており私の知っているごちゃごちゃとした雑踏はどこかへ行ってしまったようでした。もしかしたらトルコに慣れてしまってこれが私の見る普通の光景になってしまったせいなのかもしれません。この7・8年の間にメトロやトラムバイなどの公共交通機関が驚くほど整備されており、びっくりしてしまいました。

イスティクラル通り

夜のタキシム広場

肝心の「天皇陛下即位記念パーティ」は19時開始。日本、トルコ両国の国歌斉唱の後総領事の挨拶があり、あとは立食形式のパーティーでした。

会場はリッツカールトンホテル

お箸で食べたかった・・・。

お寿司や天ぷら、日本酒などがふるまわれました。日本で初めてトルコ語を習った時のクラスメートに偶然再会できて感激。アルズ会長は今後の協会の活動の糧になるようにと関係者への売り込みも忘れませんでした。

深夜に着いたイズミル、空港から家へ向かう見慣れた風景にほっと緊張が解け、「イズミルはいいなあ」と思いました。 

 

 

ビルテン12歳になりました。

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バイラム旅行-チャナッカレからビガへ

2010-12-01 22:02:35 | 




トロイの遺跡やゲリボル半島観光の起点となる街チャナッカレはダーダネルス海峡に面した街です。街の中心はゲリボル半島へ渡るフェリーの港に面しており、どんな時間に行ってもフェリーに乗り込む車の列や港沿いの遊歩道をのんびりと歩く人達でにぎわっています。



遊歩道には映画「TRUVA」で使われチャナッカレに寄贈された「トロイの木馬」のオリジナルが。また古い街並みの中にはオスマン時代の時計塔が見えます。
高いビルが少なく、中心街にも緑が多くのんびりと街歩きをするにはもってこい。人々もイズミルの様にせかせかしているわけでもなく、穏やかな暮らしやすい街に見受けられました。





チャナッカレでお土産を買うならトルコの民謡にもなっている「AYNALI CALIS(アイナルチャルシュ)」で。イスタンブルのグランドバザールやイズミルの「クズラルアースハン」のミニミニ版でトロイやゲリボル半島のお土産が所狭しと並んでいます。
名物と言えば「PEYNIR HERVASI(ペイニルヘルバス)」と言うチーズを使ったお菓子。小さなロカンタ(レストラン)でオーブンで焼いたものを食べたのですがこれが絶品。お土産に求めました。


焼いていないPEYNIR HERVASI。


これはオーブンで焼いたタイプ。いずれも羊のチーズ(無塩)を使うことが特徴だそうです。

チャナッカレから次の目的地BIGA(ビガ)へマルマラ海沿いを走ります。ここでは「MRGホテル」と言う1800年代後半の商人のお屋敷を改装したホテルがあると知り泊まることにしたのです。



格式のある木造の建物は重厚でとても雰囲気がありました。あいにくこの日はオリジナルのお屋敷部分が満室だった為私達は新館に泊まりましたが、街の中にありながら静かで100年位タイムスリップしたような気分に。





BIGAから20kmほどの海沿いの街KARABIGA(カラビガ)には夫の兵役時代の友達が住んでいます。行く前に何度も電話をしていたのですが通じず、もう会えないかと思っていたようですがダメモトで家へ行ってみることに。8年前にも一緒に訪れたことがあったのですが、時が立ち街の様子も一変していました。



ところが海っぱたに彼が設計して一人で建てた6角形の家は健在でした。8年前に生まれたばかりの赤ちゃんだった娘さんがすっかり大きくなって楽しいおしゃべりで私の相手をしてくれました。現在はBIGAに本宅があり、この日はたまたまバイラムだったのでこちらに来ていたそうで運よく会うことができて本当にラッキーでした。予定のない旅はこういうサプライズがあるから楽しいのですね。







2年半ぶりくらいでトルコでもyoutubeが見れるように!AYNALI CALISという歌です。

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バイラム旅行-ゲリボル半島

2010-11-26 14:41:25 | 


明け方、激しい雨と雷の音で目が覚めました。ああ今日はチャナッカレ海峡を渡ることはできないかなあと思っていたのですが、朝食を済ませた頃から白い雲の間から真っ青な空が広がり始めました。



チャナッカレの桟橋からフェリーでチャナッカレ海峡を渡ること20分ほどでアジアからヨーロッパへ、対岸のECEABAT(エジアバト)はゲリボル半島観光の拠点となる街です。





この地は第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指して半島への上陸作戦を行いました。連合軍は、当時国家として末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑んだものの、オスマン側の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わりました(Wikipediaより)



北端の戦場跡から南端まで34km、東岸のエジアバトから西岸まで12kmの地で1915年4月の連合軍の上陸から1916年1月に最後のイギリス軍が撤退完了するまで激戦が繰り広げられました。



半島のほとんどは「ゲリボル国立公園」となっており、戦場跡に各国の兵士達が眠る墓地や追悼碑、博物館などがあります。かつて500,000人もの各国の若者が命を落としたと言われる激戦地とは思えない緑におおわれた大地と美しい海に囲まれたとても穏やかな光景が広がっていました。道路やそれぞれの慰霊の場所を示す標識はよく整備され静かに、往時に思いを馳せることができました。



最後に立ち寄った最も激しい上陸作戦が繰り広げられたと言うアンザック湾の慰霊碑にあるオスマン帝国軍で活躍をしたムスタファ・ケマル(後のアタチュルク)の言葉が印象的です。

Bu memleketin toprakları üstünde kanlarını döken kahramanlar,burada bir dost vatanın toprağındasınız,huzur ve sükun içinde uyuyunuz. Sizler Mehmetçiklerle yanyana koyun koyunasınız. Uzak diyarlardan evlatlarını harbe gönderen analar,göz yaşlarınızı dindiriniz,evlatlarınız bizim bağımızdadır,huzur içindedirler ve huzur içinde rahat rahat uyuyacaklardır. Onlar bu topraklarda canlarını verdikten sonra artık bizim evlatlarımız olmuşlardır.

この国の大地で血を流した英雄達よ、あなたは今、友の国の地にいるのです。穏やかな静けさの中で眠ってください。あなた達兵士は並んで横たわっています。遠い国から息子達を戦場へと送リ出した母達よ、涙を拭いてください。息子たちは私たちの胸の中にいます。平穏の中にいます。平穏に静かに眠るのです。彼らはこの地で命をささげた後、今や我々の息子達となったのです。



また毎年4月25日はアンザックデートとしてこの地でも追悼の式典が開かれているのですが、今年のアンザックデーに際しオーストラリアのエバンス移民相がオーストラリアの若者に呈した苦言も意味があると思いました。→http://www.25today.com/news/2010/04/post_4441.php






ゲリボル国立公園の地図。クリックすると大きな写真が表示されます。
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バイラム旅行-イズミルからトロイへ

2010-11-21 21:49:53 | 


8日間あった我が家のバイラム休暇もあっという間に最終日となりました。3泊4日のバイラム旅行、お天気にも恵まれて気持ちのいい旅ができました。
バイラム1日目ははっきりしない天気でしたが、翌17日の朝イズミル湾に大きな虹がくっきりとかかりました。


アリアノイがある村から眺める別の村。

今回の旅はマルマラ地方のチャナッカレ方面。まずベルガマ遺跡の近くにあり、近くダムの底に沈んでしまうと言われているALLIANOI(アリアノイ)と言う遺跡を夫が見たいというので寄り道をしました。まだイズミル県ですがとんでもない山の中。見当をつけて進んだ道は通行禁止になっていました。村人に聞くと「かまわないで行け行け」と言うのでふさがれた道の横から入ってみました。

それらしき村に既に住む人はいず、何の為か重機が何台かありました。古い石橋や遺構の様なものがわずかに確認できましたが、その辺一帯立ち入り禁止の標識。アリアノイの歴史は青銅器時代までさかのぼるようですがヘレニズム時代には既に温泉センターとしての役割を担っていたようです。ローマ時代の橋や道路など様々な公共事業の跡が見られるそうです。



上のすばらしいニンフ像もアリアノイから発見されました。現在はベルガマ博物館で見ることができるそうです。
アリアノイの遺跡は現代の公共事業という名の下に、砂がかけられダムの底に沈もうとしています。現在また埋没を差し止める為の何度目かの訴訟が起されているようですが、周辺の村もまったく空っぽになっておりまだ望みはあるのでしょうか。




村を後にして一路トロイへ。通り道の北エーゲ地方はオリーブ産業が盛んで、この時期オリーブの木にはたわわにオリーブの実がなり収穫作業、そしてオリーブオイル搾油のシーズン真最中です。途中KUCUKKUYU(クチュククユ)と言う町を通ったのですが、そこにある先日の「オリーブ・オリーブオイル商談会」で同席したあるメーカーさんが持っている「オリーブ博物館」に寄ってみました。






オリーブについて勉強した後だったので、昔使われていた圧搾機や濾過機などとても興味深く拝見。石鹸を作る窯や昔の商標など古い道具は温かみがあってどれも素敵でした。





そしてこの日の最終目的地TRUVA(トゥルワ=トロイ)。「トゥルワ(トロイ) は、プリアム王、ヘクトル、パリス、そして美しいヘレンの登場するホメロスの物語で有名です。考古学者らにより、9つの異なる時代の集落と、城壁や家屋の基礎、寺院や劇場が発掘されました。伝説のトロイ戦争を記念して、トロイの木馬が立てられています。」(トルコ共和国観光ガイドより)





20年前に初めて訪れた時はあまりにも漠然とした遺跡に「兵どもの夢のあと」と言う言葉がイメージされただけでした。今回は当時に比べてずいぶん整備されていたり、その後多少なりともトルコを巡る歴史を知ったせいもあってか9層からなる壮大な歴史の変遷を少し感じることができたような気がしました。



エフェスやパムッカレの様に観光客が殺到する場所ではないせいもあって来る人々が静かに歴史を楽しんでいます。でもやっぱり一番人気はトロイの木馬。昔は何もないところにぽつんと馬が立っていましたが、今はすっかり観光地の顔に。そういった意味では20年前のトロイの遺跡の方がシュリーマンの夢をかきたてたように、自由に歴史を旅するにはふさわしかったのかもしれません。







トロイの遺跡にいたリス。
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