秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

明智藪。

2011年12月10日 21時34分10秒 | 京都非観光迷所案内

   

 「この金柑頭!」と、信長が光秀の額を扇でピシャリと打ったのは、家康饗応の席を準備中のことでした。
アタシャ、その現場を見たわけじゃないんですけどね。(当たり前ですけど)

これは私が小学生の頃読んだ戦国武将伝の中の一文。それ以外にも信長の光秀に対する仕打ちは目に
余るものがありました。これは光秀だけに対してだけじゃないようですけどね。

後世、光秀の謀反の原因に関して諸説あげられていますが、衆人の目前でこのような辱めをうけちゃい
ますと、武将として立つ瀬がありまへんわナ。

人質問題で肉親を死にいたらしめた、ってのも今なら大問題ですけど、当時では日常茶飯事とまでは
いかないまでも、謀反の因子としては、やや弱いものを感じます。

   

他にもいろいろ推察されていますが、そのあたりは小説家の先生にお任せしときましょう。小説といえば、
光秀は生き残って天海和尚と名を変えて、江戸幕府の礎に協力したってのも多々ありますナ。

小説としてはナカナカ興味深い題材ですが、私、個人の思いを言わせてもらえれば、光秀は、こんな昼
なお暗いような藪の中で、土豪(一説には落武者狩りの土民、とも云われてますけど)に討ち取られた、
ってのが彼らしい最後に思えてなりません。