装飾物としての家族は、夫にとって納得のいくものに近くなければばらなかった。
それは、ワタシの持ち物にも及ぶ。
ワタシのお出かけ着、バッグ、靴、財布、携帯電話、
それらはすべて夫がいいというものしか、持てなかった。
たとえ、ワタシが気に入ったものがあっても、
夫がいまいちだと思うと、あっさりと却下されてしまう。
そうやって、ワタシという自分好みのイメージを作り上げていた。
元気で明るい女性、なんて夫は望まず
ただ上品に見えて自分の言うことだけを聞く、連れていて恥ずかしくない女性を望んだ。
自分より前に出ることは許さず、万が一、席を一緒にしている知り合いと
話が合おうものなら、夫はみるみる雰囲気からして、変わっていく。
自分より良い意見を言おうものなら、
「バカのくせに何言ってるんだ。でしゃばるな」と言い
自分より学問的な話が出来ようものなら
「ご立派な頭脳をお持ちで。子供たちもさぞかし楽しみだな」とねっとりと言われる。
そんな日々を過ごしていると、いつの間にか何も言わずただ従う人間になってしまった。
もっとも顕著なケースは、自転車だ。
長女が小学校に入学し、二番目の子が年中から幼稚園に通い始めたとき
少しでも身軽に早く動きたいと、夫に自転車購入をお願いした。
一番下の子がいるので、はじめは下の子をベビーカーに乗せて歩いたけれど、
片道だけでも早く行きたかったし、
家に一番下の子だけになったので、遠くの買い物にも行きやすいようにと思ったからだ。
ここで余談なんだけど、
下の二人は仲良くごっこ遊びをするのが好きで、
毎日のようにお人形を使って遊んでいたものだ。
でも、二番目が入園してしまってからは相手がいなくなったので
一番下の子は、ワタシに相手を求めてきた。
家事をしながら相手をしていたけれど、昼間に子供が少なくなったことを機に
夫からの要望は増え、こなす家事の量が増えていた。
そんなワタシを見かねたのだろう、たった2、3歳の子がこう言ったのだ。
「ママは忙しいでしょ。だからお仕事しながらお返事してね」
なんて物分かりの良い子なのだろう。
とても感心した憶えがある。
どれだけワタシが気持ちの上で救われたか。
話を戻そう。
夫は自転車購入に関して
「ママチャリは許さへん。そんな格好悪いもの、乗らせられない」
そう言って、カタログから選んだのは
当時3万円程するマウンテンバイクだった。
『え?これにどうやって子供をのせるの?』
「ちゃんとカッコいい専用のものがあるから、つけてやるよ」
ワタシの使い勝手や快適さなど、まったく考えられてないのだ。
自分の嫁として、自分の納得のいく姿形をしていないといけないのだ。
それと同様に、夫自身が持つもの使うものも、たとえ人に見せるものじゃなくても
夫の納得のいくものじゃないといけなかった。
(子供からのプレゼントも、絶対に持つことはなかった)
それは自作PCにも及んだ。
当時で一番高いビデオカードをセッティングした。
PCの外枠も、自分のセンスにおいて納得のいくものを、
値段に関係なく購入した。数台、作った。
PCゲームをするために、CPUもビデオカードもハイスペックにこだわっていた。
しかし、自分だけが楽しむのは心苦しく感じたのだろうか、
ワタシにもゲームをするように促し(する気はなかったのだけど)
夫よりも上手くいってしまったならば、へそを曲げられ
そのうち夫は飽きてしまい、ハイスペックのPCは
ただインターネットとオークションをするだけの「箱」になっていった。
納得いくものは、いつも実力を発揮できずお蔵入りしてしまう。
数年後には、それに一眼レフが加わった。