HITOMIのおくに(ちょこっと日記)

瞳にうつる たくさんのもの・・・日々を(出来れば面白く)書きたい、ちょこっと日記です。

裸眼が一番

2019年10月29日 |  雑 日 記


最初に作った近近レンズの老眼鏡が左側。
最近では、体調にもよるのだけど見えにくくなってきて
おまけに仕事でデスクトップモニターと手元の書類を見るので
眼鏡屋さんで相談したら、中近レンズを勧められました。
 
ということで、作ってもらったのが右側。
PCレンズ加工もしてもらったので、光の反射が写真では同じだけど 肉眼では青っぽく反射する。
 
これがね・・・
 
なんとも、便利っちゃー便利なんだけども コツがいるんですわ(^-^;
中近レンズはご存じの方も多いとは思いますが レンズ横側は利いてないので、ゆがんで見えます。
なので、真ん中しか、見えません。
 
眼鏡屋さんで言われたのは
「近近レンズの時のように頭を動かさずに、中近レンズは目だけ上下に動かしてください」
 
それを実践するのだけど、なんせ、近レンズは本当に単焦点なので、
 
そこしかみえないのですぅ
 
ってな感じで、焦点を合わせるために、結局少し頭は動かすのです(苦笑)
 
更に困ったのは、手元だけをみて書類と書類を横のラインで見るとき。
ピントがピンポイントなので、頭を横に振らねばならん( 一一)
 
うーーーむ
 
縦のラインが得意か
横の動きが得意か
みたいな使い方ですねぇ(;一_一)
 
中近レンズは、コツをつかんで慣れるしかないですね~
 
使用初日の本日は、ほんに、目が疲れました(笑)
 
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暴力をとめたもの

2019年10月26日 | 結婚生活
二女がお座りできるようになって、長女のいたずらが始まった。
二女のおでこを ツン! と押すのだ。
当然、装具を付けている二女はひっくり返る。
それが面白かったようで、しょっちゅうするようになった。
畳や絨毯ならまだしも、フローリングだと危ない。

ある日、長女は夫の前でそれをやった。
ちょうどワタシは夕飯の支度で台所にいた。
ゴン!という音とともに二女の泣き声。
慌てて三人のいる二階に駆け上がると
夫の怒号とともに長女の体が吹っ飛んだ。

ガンッ!
けたたましく長女が泣いた。

二女を助け起こし抱っこし、長女に怪我がないか見る。
吹っ飛んだ先のテーブルの角に、後頭部をぶつけたようだ。
クッションとなるものがない長女は、少しの範囲だが皮膚が裂け
血が出た。

「なにもそこまでしなくても!」
ワタシがそういうと、夫は言った。

「こわいこわい。傷を見たくないから、早く子供連れてあっちへ行って!」


自分のやったことは反省しない。
長女が悪いことをしたから、手をあげた。
でも、怪我をしてしまった。

恐らく、自分自身が母親から受けた暴力を、思い出したのだろう。
その後、冷静になった夫はこう言った。
「もう手は上げない。すごく気分が悪いから」

言った通り、それからは子供たちに手をあげることはなかった。
次に手をあげたとき、自分の身に何が起こるのか、考えたのだろうか(笑)
25年後にそれは現実となる。
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死人に口なし

2019年10月23日 |  思いのまま
最近、知り合いが亡くなった。
幼い頃から、知っている人。
歳もわりと近い。

東京の大学へ行き、結婚相手を連れてきた。
お腹にはすでに新しい命があった。
ワタシは、幸せなんだと思っていた。

ワタシも結婚をし家庭を持ち、その人に会うのは、帰省して挨拶に行った時くらいになった。
実家は田舎なので、独特の雰囲気がある。
そんな中、その人の結婚相手が両親とうまく行ってないことが耳に入ってきた。
都会育ちの結婚相手は、ドライなところがあったのだろう。
そして、厚かましいこともあったのだろう。
次々と子供が生まれるのに、耳に入る話は、悪い方向ばかりだった。
時折、その人の表情が曇る一瞬があった。
いつもいつでも笑顔を絶やさず、ワタシの名前を呼んでくれた人。

数年後には、実家母から、その人が宗教に入信したと聞いた。
あんなに強いその人が、入信するほど心を痛めていたとは……。

それからは、一年に一度の帰省の時に、その人の亡くなったご両親へのお供えを持って、訪ねていた。
決して、ワタシには愚痴をこぼさなかった。

ワタシが家庭内でゴタゴタして、しばらく顔を見に行けなかったのだけど
2年ぶりに帰省したときに、実家母から「病気だって聞いたけど、どうしてるんやら」という不思議な一言を聞いた。
そのニュアンスから、近しくしていないことは、察しがついた。
恐らく、結婚相手を気にしてのことだと思ったので、ほとぼりが覚めた頃に顔を見に行こうと思った。

そんな矢先、死の一報が入った。


なんでも、お盆の頃、実家の玄関先に果物のお供え物が置かれていて
留守にしていた両親は、理由を尋ねたそうだ。
返ってきた言葉は
「来年はいないかもしれないから、今年しておこうと思って。」

自分の死期を感じていたのか。

春頃には、合う薬が見つかったと言っていたとあとで聞いた。
それなのに。

ねぇ、どんな人生だったの?
ねぇ、幸せなときもあったのでしょう?
ねぇ、また笑って。
ねぇ、ねぇ。

そっちに行った時に、たくさん聞くよ。
話してね。
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二女の異常

2019年10月19日 | 結婚生活
その後しばらくは、本当に何事もなく日々が過ぎていったのだが
二女の検診で整形外科受診を勧められた。
実は、二女は生まれたときから、左右の足の開きが対称ではなかった。
不思議に思っていたけれど、小児科で特別何も言われなかったので
そのままにしていたのだ。

もしかしたら、何かあるのかもしれない。
不安を抱えながら、整形外科を受診した。

「股関節脱臼ですね。装具を付けて矯正しないといけません」

そう主治医に言われた。

ああ、また長女と同じく、体に異変があるのか・・・
様々なことで心が不安定になっていたのだろう。
認めたくなかった。

そんなワタシに気付いたのだろう。
主治医は静かに語りかけるように言った。
「何もしないでおくと、足の長さのバランスが取れなくて
 体のあちこちに負担がかかるようになります。
 お母さんは大変かもしれませんが、今、治しておいた方がいいですよ」

装具はオーダーメイドなので、正確な位置に股関節が来るように作られる。
肌あたりは柔らかな、固めのフェルト生地で肩から足の裏を吊るような形。



二女は、足を伸ばせず、自由も利かないので、泣いては怒った。
まだ寝返りも打てない頃だったが、グズグズとぐずり倒す日々が続いた。

装具を付けてからしばらくは、こまめに受診するように言われた。
その都度、ぐずることを主治医に伝えて、
主治医はその度優しくワタシを労わるように、声をかけてくれた。

今思えば、二女の経過を見ることよりも、
ワタシの状態を心配してのことだったように思う。
それくらい、主治医は優しかった。

後に、ワタシ自身が整形外科を受診した時、整形外科部長なる医師が担当だった。
ワタシの訴えを鼻で笑い、親身にはなってくれなかった。
つくづく、二女の主治医がこの部長でなくて良かったと思ったものだ。
(その後、ワタシは別の病院で椎間板ヘルニア予備軍と診断された)

二女はその後、寝返りを打つようになり、座るようになった。
ここでまた、ひとつ事件が起こった。

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連休最終日の近況

2019年10月14日 |  雑 日 記
こんにちは。
三連休でしたね。
ワタシは予定が入っていたのですが、台風19号の影響で、取りやめになりました。
思いがけず、ゆっくりと過ごす連休になりましたが
みなさまはいかがでしたでしょうか。
この台風により被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。

ワタシはご存じの人はご存じでしょうが、更年期に差し掛かっております。
回りのお姉さま方から、更年期についての様々な話を聞いて、ビビっておりますが
今のところ、体に変調は来しておらず、なんとか健やかに過ごしております。

しかし、やはり、ホルモンの影響というものは感じています。

尤も、元々があまりそういった影響を受けていなかったので
いまさら、という気もしていますが(^-^;

月のものの直前に食欲が増進する、などは3人目を生んだ後に経験いたしました(苦笑)

今はですね、「やる気」が左右されている気がします。
数日は「やる気」が存在するのですが、あとはただ単に「生きていればいい」という状態(笑)

ワタシは今独り身なので、好きに外出もできるし、人と会うこともできる。
再婚を勧めてくれる人もいますが、なんていうか面倒になってしまうんですよ。
ましてや、異性を意識してないのに、相手が「男」を出してきたとたん、吐きそうになる。
手を触られようものなら、振り払ってしまうレベルw
なんなんでしょーね(笑)

これも、ホルモンのせいなのでしょうか(`・ω・´)

こうやって、人間は「男女」の垣根を越えて、「ヒト」として生きるようになるのでしょうかねぇ。

あ、人類学のようになってしまった(;'∀')

自分が生きている意味、生きてきた道のりを考えてしまう今日この頃です。
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震災後の記憶

2019年10月12日 | 結婚生活
幸いにも、祖母も姑も被害は少なく、無事だった。
震源地からは数本の河川を挟んでいるため、衝撃を少しずつ吸収したようだった。
それにしても、大きな地震だった。
普段は重くて開けるのに力のいる窓が、7センチほど開いていた。
しかし、家具は、家具の長辺が揺れる方向と平行だったため
倒れることも、扉が開いてしまうこともなく、助かった。


困ったのは、そのあとだ。
被災地への物流が寸断されているので、様々な方法を使っていたようだが
近所の市場やスーパーへ行ってみると、品物が少ししかないという状態だった。
当時、夫はインスタントコーヒーに大量の砂糖を入れ、牛乳でのばす飲み物を好み
(これもなぜかワタシが作るようになっていた)
一度に3~5本買わないと間に合わないという感じだった。

店頭には、4本のパック牛乳があるだけ。
お店の人に聞くと、被災地優先なのでこれだけしか入ってこないということだった。

遠慮して、1本だけ買った。

そうこうしているうちに、二女の夜泣きが始まった。
夜になって皆が眠りにつく頃になると、火が付いたように泣き始める。
眠い目をこすりながら起きて、乳を飲ませたり、ゆらゆらしたりするが
すぐに泣き出してしまう。

3日ほど続いたとき、夫は
「僕には仕事があるから、あっちの部屋で寝るわ」
と、布団を抱えて行ってしまった。
寝不足で朦朧としていたワタシは、腹を立てることもなく黙っていた。
そんな日々が3か月ほど続いただろうか。
ようやく、夜泣きが収まった。

その時長女は2歳半。
大人しいとはいえ、日中は起きて遊んでいただろうし
夫が好むような生活を送っていたのだから、ワタシはいつ寝ていたのだろう。
合間合間に、寝ていたのだろうとしか思えない。

その間の記憶は、まったくないのだ。

人間は、追いつめられると、記憶が定着しないようだ(苦笑)
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年末年始のあわただしさから

2019年10月05日 | 結婚生活
結婚してからずっと、ワタシはどんなに体調が悪かろうと
子供が増えようと、お節を手作りしてきた。
これは、実家がそうだったということではなく、夫に言われたからだ。
理由として、母親が手作りでお節を作る家庭であってほしいから、だった。

あたたかな家庭で育っていない夫。
だからこそ、理想の家庭像があるのだろうと、ワタシは自分に出来ることであるなら
やろうと思っていたことは確かだ。
悲しみや寂しさを、少しでも埋めることが出来るなら、と。
でも、これは自分の勝手な解釈で、
「家庭」というものは子供をも巻き込むものであるということを、
考えていなかったのかもしれない。
その時点で、母親失格だ。

でも、言い訳をするなら、無意識に『丸く収める』ということをやっていたのかもしれない。

そんなお正月が過ぎ、一週間が経ったころそれは起こった。

阪神淡路大震災

その時、ワタシは夢を見ていた。
家族で夫の本家にお邪魔していた。
微笑む本家のおばあさん(見た人とは違った)
次の瞬間、ボートに乗っていた。
海が、渦を巻く。
その渦に飲み込まれるかと思うくらい、近くに寄ったその時。

ゴーッという音とともに、体が宙に浮いた。

ドーーーーーン!

激しく揺れる家。
驚いたワタシは、横に寝ていた二女を抱え、立ち膝で立ちすくんだ。
立てないほどの、揺れ。
一度は布団をかぶった夫は、突然飛び起き、タンスを押さえた。

揺れが収まるまで、何もできなかった。

ただ、夫の行動に感謝した。
家族を守ろうとした行動が見えて、嬉しかった。

すぐに実家から電話があり、無事を伝えた。
でも、一時間後には電話は不通になった。
そして、震源地は淡路島の北だと知った。

夫はすぐに祖母のところへ行った。
幸いにも、祖母の家もお皿が数枚割れただけで、被害はなかった。
陽が上がるにつれ、被害の甚大さに驚愕した。
「お母さん(姑)は、大丈夫かしら」

そういうのが精いっぱいだった。

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