アウトドアライフの記録 その2

「アウトドアライフの記録1」の続きです。山歩き、桜や紅葉、季節の風景、古代史の舞台、南の島を尋ねた記録です。

ヒミコのまとめ 第五のヒミコ 大和姫 その2

2021-06-30 23:31:45 | 古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて

いわゆるヒミコについてのまとめ  その5. 大和姫  その2

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出雲国には古くから粟島坐伊射波神社(あわしまにいますいざわじんじゃー秋鹿郡伊農郷)がありました。

現在の松江市秋鹿町にはこの神社はありません。粟島とは 八重波津身(出雲王朝第八代副王ー少彦の事で

記紀では事代主と書き換えられた)が 美保関の沼川姫といるところを 徐福の部下の矛卑の息子のタケヒナドリや

海童たちに「大名持(大国主と書き換えられた出雲王朝第八代主王の八千矛)が行方不明です」と騙されて拉致され 

王の海(中海)を西へ向かったまま行方不明になりました。結果は大国主は出雲北部日本海に面した猪目洞窟に

事代主は王の海の弓ヶ浜半島の西の粟島の洞窟にそれぞれ幽閉殺害されました。

このため粟島は事代主を祀る聖地でもあります。

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八千矛王が幽閉されて殺害された猪目洞窟です。

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松江市美保関神社の モロタ舟神事です。

美保関の王宮に沼川姫といたところへ大国主行方不明の知らせに駆けつけた早船を模した神事です。

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王の海の粟島です。周りの海は江戸時代に干拓されました。

正面が志都の岩屋洞窟で最上部に粟島神社があります。

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事代主が幽閉殺害された志都の岩屋です。

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大汝とは大名持つまり主王の八千矛で、少彦名は間違い表記で副王の役職名の少彦で 八重波津身

つまり事代主の事です。

奈良時代の都の貴族豪族は 渡来系の物部家、尾張家、海部家を除けばほとんどが出雲系の

登美家やその親族の人たちでしたから 大国主と事代主が 洞窟に幽閉殺害されたことは

よく知られていました。

その祟りをおそれて 二人の霊を鎮めるために あちこちに大国主や事代主が祀られました。

後になって 大国主を大黒様、事代主を恵比寿様とよばれるようになり、事代主が沼川姫と暮らした

美保関の宮殿跡の美保神社(沼川姫が皇子の建御名方をつれて実家の越の国へ帰られた後 二人の娘の

御穂須須美(みほすすみ)姫が事代主の霊を祀り続けました。)は全国の戎神社の総本社となっています。

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このため粟島坐伊射波神社には古くから 事代主が祀られていました。

志摩の国の伊雑宮(いぞうのみや)は出雲から勧請されたと考えられます。  

また現在の松坂市にも伊射波(いざわ)神社や伊佐和(いざわ)神社がありますが いずれも

出雲系の志摩国造家の影響と考えられます。しかしいずれの神社も 残念なことに現在は祭神に事代主は

全く触れられていません。伊射波神社には井沢富命も祀られています。

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大和姫は伊勢からさらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦の支持を受けます。

彼は名前からもわかるように ヤマトの登美家出身と言われています。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

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上の2枚の画像は 三重県明和町の斎王祭りの画像で 明和町の公式ホームページからお借りしました。

なお2021年の祭りは武漢ウイルスのため中止だそうです。

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伊勢内宮の太陽の女神は 三輪山から移されたので 大和姫の没後彼女の遺体は 三輪山の西麓の

賀茂家(登美家)に送られました。加茂田田彦は登美家なので 当然出雲系で野見宿祢の子孫たちとも親しく

古墳造りに慣れていました。

賀茂家当主加茂田田彦は土師家から養子に来た人で、当然土師家の古墳造りの技術者たちとも親しく

大和姫の墓は土師氏により作られました。そのため人々は大和姫の墓を土師氏が作った墓「土師墓」と

呼んだといいます。しかし 記紀はなぜかこれが気に入らないと見えて 土師墓の代わりに箸墓(はしはか)と

名前を変えてしまいました。

おまけにこの墓をモモソ姫の墓にしてしまい、しかもモモソ姫が箸で陰部を突き刺して死ぬという

異常な死に方をでっち上げました。

おまけにこの土師墓をどうしてもモモソ姫の墓にしたかったと見えて 「ヤマト、トトビ、モモソ姫」という

わけのわからん姫を作り出して モモソ姫と大和姫を合体させてしまいました。

モモソ姫と大和姫という約百年離れた時代の 別々の姫巫女で しかも両姫ともれっきとしたヤマトの大王とその后

でありながら この二人を合体させるという無茶苦茶なことをしでかしました。

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向こうに見えるこんもりとした丘が箸墓古墳です。

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箸墓古墳と隣接しているホケノ山古墳の模型です。

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出鱈目をしている宮内庁の案内看板があります。

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モモソ姫と大和姫を合体させた上にこの合体姫は磯城王朝第七代孝霊大王(フトニ大王)の娘だと言っています。

まるで出鱈目ですね。

モモソ姫は第八代クニクル大王(孝元)の娘であり、大和姫は初代物部王朝のイクメ大王の娘です。

お二人の姫君の生きた時代は約百年ほど離れています。なぜこんなバカなことをしたのでしようか。

二人の姫君にもそのご両親の大王、皇后たちにも失礼極まりないですね。

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おまけに 石碑の文字の「大和」の文字に支那人が日本人を蔑んで付けた 卑字蔑字が使われています。

矮小の意味合いがあるこんな卑字を日本人が使ってはいけません。江戸時代の朝鮮通商使節が「和国の将軍に

奉る」と書かれた親書を差し出したときにこの字を見た幕府の重鎮は親書を投げ返して書き換えさせたそうです。

江戸幕府はそれほど和国に誇りを持っていたのです。

ほんまに 今の宮内庁は日本人の誇りも尊厳もなく 支那人の家来のまま、支那人の言うがままでほんと馬鹿ですね。

こんなに卑字蔑字は いい加減直しましょうよ。我々の税金で作った石碑ですからね。

日本人として、また出雲王国民として 全く恥ずかしい限りです。宮内庁の無知さ加減、愚鈍さ加減は。

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いわゆるヒミコの時代、ヤマタイコクの時代は和国が魏の属国となっていた時代です。記紀編集指示者

の持統女帝や不比等は 魏書の内容を読む日本人が 魏書の内容を間違いだと思わすためにわざと大王や

姫の名前をぐちゃぐちゃにしたと思われます。

架空の大王の神武や皇子のヤマトタケルは論外ですが、地方の王で終わったのにヤマトの大王にしてもらった

イニエ王(崇神)や和国になんの貢献もしていない地方の豪族で終わった豊前中津彦(仲哀)は

「ラッキー」と思っているでしょうが 大王としての名前を消された「天の村雲」、「日子坐大王」、

「彦美知宇斯大王」などの大王さんたちや 別々の姫君なのに合体させられた「モモソ姫」、「大和姫」

さんなどは 全く浮かばれませんね。

それと息長姫の要請に応えて 大船団を組織して三韓征服を成功させ 和国に膨大な富をもたらした

日向襲津彦大王(長江襲津彦大王)も存在を消されて 浮かばれませんね。

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いわゆるヒミコのまとめを終わります。

ヒミコのまとめのページへはここからも戻れます。

モモソ姫 その1モモソ姫 その2 、モモソ姫 その3

宇佐豊玉姫 その1宇佐豊玉姫 その2宇佐豊玉姫 その3

サホ姫 その1サホ姫 その2

豊来入姫 その1豊来入姫 その2

大和姫 その1大和姫 その2

 

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http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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※歴史内容は斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

斉木雲州著 古事記の編集室、出雲と蘇我王国、出雲とヤマトのあけぼの、飛鳥文化と宗教争乱

      万葉歌の天才(人麻呂の恋)、おとぎ話とモデル

勝 友彦著 親魏和王の都、山陰の名所旧跡

谷戸貞彦著 幸ノ神と竜

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尚 日本の歴史を書き換えた持統女帝や藤原不比等、およびその末裔の藤原家、近衛家に対する

私の個人的な嫌悪感は 斉木雲州先生はじめ 上記の書籍とは全く関係ありません。

また秦国人徐福やその末裔の物部王家、徐福の部下の矛卑やその末裔の出雲国造の果安、韓比佐、

その末裔の今の出雲大社宮司家にたいする 私の個人的な嫌悪感も上記の本とは一切関係ありません。

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