中山風軒と桂岸寺@水戸市松本町
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大悲山保和院桂岸寺の山門への参道。
両側に沢山の店が軒を連ね、山門から本堂へと続いていた。
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水戸谷中の“お三夜さん”(二十三夜尊)として親しまれている大悲山保和院桂岸寺は水戸藩付け家老中山風軒(信正)の供養のため三代目信治が天和2年(1682)に建てた寺。
はじめ香華院と云ったが、元禄7年(1694)に光圀が保和院と改め、後に桂岸寺という現寺号になった。
本堂の本尊は勢至菩薩
縁日は毎月旧暦23日、金運・良縁に恵まれると縁日に露店が立ち大賑わいだったという。僕の小学生の頃(約70年前)の三夜さん境内は遊園地でありワンダーランドだった。
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愛染明王堂と朱雀門
朱雀門は旧水戸城二の丸(現・水戸第二中学校あたり)に在った、水戸徳川家霊廟の門と伝えられる。
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中山家墓所
2代の風軒信正(1594-1677)と4代の信行(1648-1682)がねむっている。
徳川家康にみこまれ藩祖頼房の守り役、教育係であった家老の中山備前守信吉(1577―1642)をはじめ、歴代の備前守は先祖の館が在った(現在の埼玉県飯能市中山)の真言宗豊山派の智観寺に葬られている。
光圀のご意見番的な存在だった風軒信正は、三代将軍家光と大久保彦左衛門 の『家康と彦左』と似た『光圀と風軒』の関係にある。
心から直言する風軒を光圀は頼りにしたのだろう。
風軒が広大な新屋敷を賜った寛文6年(1666)は光圀がこの地と酒門に藩士の共有墓地を定めた年である。
*桂岸寺の墓地と常磐共有墓地の境界は全く分からない。
延宝5年(1677)10月28日、風軒死去。84歳だった。
追悼の和歌を詠み「恭子」をおくり名にした。
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1㍍四方の祠に収まった直径50㎝ほどの球形。
「枡形に月」の家紋を形づくったのであろう。
碑面は光圀がおくった「恭子」の二字のみ。
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大悲山保和院桂岸寺の山門への参道。
両側に沢山の店が軒を連ね、山門から本堂へと続いていた。
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水戸谷中の“お三夜さん”(二十三夜尊)として親しまれている大悲山保和院桂岸寺は水戸藩付け家老中山風軒(信正)の供養のため三代目信治が天和2年(1682)に建てた寺。
はじめ香華院と云ったが、元禄7年(1694)に光圀が保和院と改め、後に桂岸寺という現寺号になった。
本堂の本尊は勢至菩薩
縁日は毎月旧暦23日、金運・良縁に恵まれると縁日に露店が立ち大賑わいだったという。僕の小学生の頃(約70年前)の三夜さん境内は遊園地でありワンダーランドだった。
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愛染明王堂と朱雀門
朱雀門は旧水戸城二の丸(現・水戸第二中学校あたり)に在った、水戸徳川家霊廟の門と伝えられる。
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中山家墓所
2代の風軒信正(1594-1677)と4代の信行(1648-1682)がねむっている。
徳川家康にみこまれ藩祖頼房の守り役、教育係であった家老の中山備前守信吉(1577―1642)をはじめ、歴代の備前守は先祖の館が在った(現在の埼玉県飯能市中山)の真言宗豊山派の智観寺に葬られている。
光圀のご意見番的な存在だった風軒信正は、三代将軍家光と大久保彦左衛門 の『家康と彦左』と似た『光圀と風軒』の関係にある。
心から直言する風軒を光圀は頼りにしたのだろう。
風軒が広大な新屋敷を賜った寛文6年(1666)は光圀がこの地と酒門に藩士の共有墓地を定めた年である。
*桂岸寺の墓地と常磐共有墓地の境界は全く分からない。
延宝5年(1677)10月28日、風軒死去。84歳だった。
追悼の和歌を詠み「恭子」をおくり名にした。
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1㍍四方の祠に収まった直径50㎝ほどの球形。
「枡形に月」の家紋を形づくったのであろう。
碑面は光圀がおくった「恭子」の二字のみ。