「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

蓮花文の瓦

2021年06月30日 23時03分06秒 | 骨董・古美術
蓮花文の瓦



ハスと睡蓮の花を指して「蓮華(花)」と呼ぶが、水芙蓉(すいふよう、みずふよう)、もしくは単に芙蓉(ふよう)、不語仙(ふごせん)などの異称もあるくらいに風情のある色や形をしている。
水中に咲く夏の花は、春の桜のように見飽きることがない。

日本での古名「はちす」は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説で「はす」はその転訛だが、花托と花びらが同時に存在しているは独特だ。
天上に咲く花の例えもあって、古来より特別な場所の荘厳に使われた。



奈良・飛鳥寺の鐙(あぶみ)瓦(飛鳥時代)



奈良・山村廃寺の鐙(あぶみ)瓦と宇(のき)瓦(白鳳時代)

生の蓮の花に勝るものはないが、588年に百済から渡来した「瓦博士」に依って始まった「瓦」にも蓮の文様が使われていることが多い。



鐙瓦細部の名称



複弁蓮花文鐙瓦 奈良・川原寺址
1枚の花弁に子葉2個を配する複弁蓮花文で蓮子は大粒
*昭和49年(1974年)、川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。



単弁蓮花文鐙瓦 奈良・山田寺



飛鳥資料館第二展示室・山田寺趾東回廊
蘇我倉山田石川麻呂が、641年に建設をはじめた初期仏教寺院。
1982年の発掘調査によって、その東回廊が、倒れた状態で地中に埋もれているのが発見された。
飛鳥の大寺院の多くは時代の流れとともに地上から姿を消しており、山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古い例となる。

蓮花文の瓦の一つくらいは断片でもいいから持ちたいものだ。

*果実の皮はとても厚く、土の中で発芽能力を長い間保持することができる。
1951年(昭和26年)3月に千葉葉市の落合遺跡で発掘され、理学博士の大賀一郎が発芽させることに成功したハスの実は、放射性炭素年代測定により今から2,000年前の弥生時代後期のものであると推定された(大賀ハス)。
その他にも中尊寺の金色堂須弥壇から発見され、800年ぶりに発芽に成功した例(中尊寺ハス)や、およそ1,400年から3000年前の地層のものが発芽した例(行田蓮)もある。
蓮花文の瓦、断片でいいから手元に置きたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

K.L.G商店出張展示販売会 6月28日(月)~7月4日(日)

2021年06月29日 23時09分40秒 | 水戸の今と昔
K.L.G商店出張展示販売会 6月28日(月)~7月4日(日)









水戸市南町1丁目「バイロンベイコーヒー 水戸店」地下1階のイベントフロアーで、渋谷区笹塚本社を置く(株)フェイスによるファッショングッズの展示販売会が開催されている。

イギリス製の靴をはじめ帽子や小物まで、ファッション関連品を展示販売。







デザイナーズブランドの商品も。



主催しているのは津田昌也さん。
僕の50年来の友人・津田猛さんの息子さんだ。





バイロンベイコーヒーではコーヒー以外の飲食メニューもある。
店内で飲む以外に、階段を登った屋上のテラスも利用できる。
夏の夕暮れ時、眼下に広がる街並みを眺めながらの一杯は格別だろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧水戸城・二の丸角櫓の復元工事が完成

2021年06月28日 22時34分18秒 | 水戸の今と昔
旧水戸城・二の丸角櫓の復元工事が完成



昨年2月に完成した大手門の復元工事に続いて、旧水戸城・二の丸の物見やぐらの一つ「二の丸角櫓」と土塀が完成し27日(日)から一般公開が始まった。



茨大付属小学校と水戸三高の境界の、間口1間位の引き戸が入り口。
公開時間は9:30~16:00



境界線に沿って細長い通路の両側は竹風な垣根。



櫓の全景、この奥が水戸駅方面。



内部は資料などのパネル展示。



建築工法などのパネル展示。



大手門に使用した鬼瓦や使用材。



工程などVTR展示も。



発掘された礎石が展示されて在る。



三高方面に続く土塀。ここは、通路も広い。











2019年11月19日、茨城新聞社主催の見学会に参加した。
屋根の下地となる土居葺きや壁の下地となる竹木舞の施工など、古来の伝統的工法で復元されている。
「一枚瓦城主」の寄付により記名された瓦が葺かれていた。
完成した建物を見ただけでは分からない、見学会に参加しておいてとても良かった。

*水戸市役所制作のPDF資料「水戸城二の丸角櫓復元 及び土塀整備工事の概要」に詳細な計画と図面などが掲載されてある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉田正の墓@法鷲院(日立市十王町)

2021年06月27日 21時29分22秒 | 人と作品
吉田正の墓@法鷲院(日立市十王町)



作曲家・吉田正の墓

水戸市南町2丁目水戸証券ビル1Fに在る「茨城新聞みと・まち情報館」は県内の催事情報や、展示会の開催など文字通りの情報館だ。
所長の木村勝一さんはじめスタッフの対応も親切で、ほぼ毎日の訪問は僕の生活サイクルの一部となっている。
しかも、木村さんとは同じ歳なので話が合う。

日立市のかみね公園に在る『吉田正音楽記念館』の話から、お墓は何処?の話になった。
吉田 正(1921年 - 1998年)は日立市出身で第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人で、死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞した。

話しているうち、2017年6月11日開催された【Tabi-ぶらin日立市北部】で櫛形炭鉱のズリ山であった地域~十王川沿いあたりを歩いた時に十王町の法鷲院を訪ねた際に、吉田 正のお墓にお詣りしたことを思い出した。



この日、十王町を案内して戴いた地元のガイドさん。
お名前は失念したが、お世話になりました。



結構暑い日だったが、和気藹々と楽しいハイキング。
「Tabi-ぶら」の仲間は素晴らしい人達ばかり。
暫くお会いしていないが、再会した気持ちでいっぱいだ



見事な五重塔が目に飛び込んできた。



「サマー・ナイトイン寺子屋」で知られた法鷲院だった。
境内の五重塔は本格的な寺社建築。



この本堂の中で、声明や演奏が行われた。
当時、一度は来たいと思っていた法鷲院。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「仏陀」‘77サマー・ナイトイン寺子屋

2021年06月26日 23時49分33秒 | コンサート
「仏陀」‘77サマー・ナイトイン寺子屋
ジャズと説教の夕べ 1977年8月20日








1977年8月20日、茨城県日立市十王町「法鷲院」の本堂で開催された「JAZZと説教の夕べで」のライブ録音盤。
‘77サマー・ナイトイン寺子屋と題したイベントは、読経のみ・JAZZ演奏のみの・最後にはフリーJAZZ演奏と読経のコラボレーション。
演奏した前田憲男・荒川康男・猪俣猛のトリオは日本を代表するジャズ演奏家。

70年代後半から80年代にかけてはジャズシーンが熱い時代だった。

十王町の「法鷲院」の副住職だった大越孝一は東京のジャズ演奏家をはじめミュージシャン、芸能人に知り合いが多かったようだ。
ハーレーのバイクで水戸の街にも度々顔を見せた。



「サマー・ナイトイン寺子屋」は他の寺院の僧侶も加わり、多彩な演奏家を招いて数年続いたと記憶する。

残念乍らこの企画に1度も参加することは出来なかった。










このレコードは2017年6月11日開催された【Tabi-ぶらin日立市北部】<十王・田尻で山より、海より>のフィナーレ、田尻の鵜の島ヴィラの庭で矢部 英雄さんの焚火を囲んで、のんびりと海を見ながらコーヒーを飲んでいる席竹蓋年男さんが持参したLPだった。
従って、ジャケットを拝見しただけで、残念ながら中身は聞いていない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田東湖と後藤玉龍

2021年06月25日 23時27分09秒 | 彫刻家 後藤清一
藤田東湖と後藤玉龍





後藤玉龍が嘉永5年(1852)に寄進した歌碑(吉田神社境内)

徳川斉昭(烈公)の側用人として烈公を補佐し、藩政の改革を進めた藤田東湖は幕末の動乱期に良く対処して多くの期待を集めた。
しかし、藩政の内紛により幕府より斉昭が隠居を命じられ、東湖も蟄居閉門となった。
横竹隈の借家の東湖を訪ね、酒などを差し入れたのが後藤玉龍。
本町で「三浦屋」という煙草屋を営んでおり、店頭には東湖が揮毫した「三浦屋」の暖簾が掛かっていた。
東湖は逸話の多い人で酒豪であったことは有名で、お気に入りは「甕の月」(現・吉久保酒造の「一品」)だった。

当時の下町本町は土蔵構えの大商家が軒を並べる繁華街であった。
玉龍は「常陸三宮」吉田神社の鳥居前の大灯篭を大願主として寄進している。





更に、境内の三角山「前の展望台に『翌名楼』の歌碑も在る。

目の覚めぬ
うちぞ浮世は
栄華なれ
夢に暮らせし
昔思えば

嘉永五壬子春時
七十四翁 後藤玉龍自書

東湖が安政2年(1855)の大地震で50年の生涯を終える2年前。
調整力に長けた東湖亡き後は、烈公の指導力や名声に陰りが生じた

戸田蓬軒も安政の大地震で同様に災死。
戸田と藤田は斉昭を支える、世に「水戸の両田(りょうでん)」と称された。
後藤玉龍は町人で士分でも学者でもないが能書家としてしられていた。
しかし、このような歌碑がなぜ建立されたかの謎は解けない。

玉龍の孫の一人が彫刻家の後藤清一(1893-1984)。
仏像や母子像など慈愛に満ちた作品が多く、木内克と共に茨城を代表する彫刻家だ。









三浦屋の跡地の前に平成元年(1989)後藤清一作の「幼影」が建立された。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

〈麻のハ堂〉夏の着物・浴衣販売会@水戸京成百貨店4階エスカレーター前

2021年06月24日 19時29分00秒 | ファション
〈麻のハ堂〉夏の着物・浴衣販売会@水戸京成百貨店4階エスカレーター前
6月24日(木)~27日(日)











鳥羽麻美さんが主宰するレトロきものアトリエ「麻のハ堂」が水戸京成百貨店4Fのエスカレーター前特設会場で展示販売会を開催中。
会期は:本日・6月24日(木)~27日(日)迄

グローバルスタンダードは地球上の全ての國の文化を均一なものしてしまった。
世界中どこに行ってもジーンズ姿が溢れている。
しかし、その土地の気候・風土や生活習慣に根差した民族衣装は大切に守り育て、後世に伝えることが大切だ。

日本には「きもの」と云う素晴らしい衣装がある。
僕も日常生活においてなるべく和服を着るようにしている。
着付けや帯結びが適当であろうとも、先ずは着ること。
特に夏は浴衣や羅など、気軽に着られる。







鳥羽麻美さんは「大正浪漫」「昭和レトロ」に魅入られた“着物大好き”さん。
自宅アトリエの他に、各地の骨董市やイベントを中心に“行商”している。
出張販売をする行商こそ商いの原点だ。
コロナ禍の現在、多くの業種で見直されている。

麻美さんは商品選びのセンスが抜群で、何時でも〈麻のハ堂〉は素敵な品々が並ぶから見ているだけでも楽しい。
小物類が充実しているのも魅力だ。

どこに出かけるのも着物。
梅祭りや紫陽花祭りなど各地のイベント会場に着物好きの仲間たちと出没する。



6月16日に常磐共有墓地でお会いした。
常に着物の魅力を広く伝えようとしている姿に共感し声援を送りたい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桔梗(キキョウ)

2021年06月23日 19時13分32秒 | 植物
桔梗(キキョウ)









5~6年前に植えた桔梗が1週間前から咲きだした。
更に、根分けなのか種が飛ぶのか、株も増えたからかなりの数だ。
次々とつぼみが膨らみ、咲き続く。
一つの花がしぼむまで、数日は咲いているからうるさいほどだ。
園芸種だから、花が沢山咲くように改良されているのだろう。

季語では秋に分類されるが、実際の開花時期は六月中旬の梅雨頃から始まり、夏を通じて初秋の九月頃まで。

「万葉集」で、山上憶良が詠んだ歌があるのでかなり古くからあるのだろう。

五弁の星形の花「桔梗紋」が生まれた。
美濃の山県氏、土岐氏一族は桔梗紋を紋所にしていた事で知られている。
明智光秀も土岐氏一族であり、桔梗紋を用いていた。

つぼみが徐々に緑から青紫にかわり、裂けて星花を咲かせる。
花色が、桔梗色としか言いようがないほどに素晴らしい。





元々あった、半夏生が追いやられてしまった。

背が高くスート伸びた株もあるが、これはまだ花芽を付けず時期が遅れる。

数か月、通る人達の目に留まり安らぎとなっているのは嬉しい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮池・其の2@茨城県立歴史館

2021年06月22日 21時38分05秒 | 公園・緑地
蓮池・其の2@茨城県立歴史館









6月20日に行ったときは殆ど咲いていなかった歴史館の蓮池。
昨日の石田哲郎さんのFbに「蓮が一気に咲きました」との情報。
中一日で、大分咲きました。










株が増え茎もしっかりと立ち上がり、大きな葉の緑も濃く蕾も多いが花の大きさはいつもこの位だったか?
一寸ばかり小さいのではないか、と感じた。
それはともかく、今年は長期に渡り楽しめそうだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏至の日(6月21日)の西の谷緑地

2021年06月21日 13時15分10秒 | 公園・緑地
夏至の日(6月21日)の西の谷緑地



紅色の原料となる紅花



水戸藩ゆかりの薬草園、と称する花壇が在ります。

夏至(げし)は、二十四節気の第10。
梅雨の最中であるが、北半球では一年中で一番昼が長く夜が短い日。
本格的な夏は未だだが、暦の上では秋に向かっていることになる。

夏至としてのお祭りやその日に何か決まったものを食べる、という風習は、各地においても少ないようだ。



自撮りの自画像、間もなく満80歳、



キスゲに似た花、なんという名前でしょうか?



樹形は低いが南天です。



ハーブの一種のようです。



アカザ 葉は食べられるようです、大きくなった幹はアカザの杖。





クチナシの花



芝生の広場にはシロツメ草が、



ソッペに竹や篠がまだ出ます。
今朝だけでも100本以上切りました。

●追記
「Cope 幸子」さんからコメントがありました。
『ハーブはロシアセージ(Russian sage)ではないでしょうか!
黄色い花は、アメリカではディーリリーといいます。(day lily))


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮池@茨城県立歴史館

2021年06月20日 23時18分38秒 | 水戸今と昔
蓮池@茨城県立歴史館


茨城県立歴史館の蓮池の莟が膨らみ、花が咲き始まった。
大きな蓮の葉が元気にそよいでいる。







何が原因だったか?
昨年は葉も花も寂しく心配したが、先ずは一安心だ。








蓮華は沼沢に生ずる宿根草の植物。
花の香りがよく、泥の中に生じて精浄な花を開くところからインドにおいては古来珍重された。
「蓮華化生」という言葉があるが、仏教の思想の重要な部分だ。

歴史館の蓮は「大賀蓮」(日本の縄文時代の遺跡から発掘された種が原種)を植えたのが始まりだが、今は幾らか混雑しているとか。
日本でも蓮は古代から身近な植物で、蓮根(レンコン)も食されていたのだろうか?

興味は多岐にわたるが、理屈なしに花は美しく香りも素晴らしい。
花の後のハチスノの色も形も、これまた良い。

花の寿命は3日間。
真夜中から咲き始め、朝5時から8時頃が満開で香りも強い。
とのことでなるべく早朝に行く様にしているが、どのような状況と思い立ったのが今日(20日)の午後なのでしぼんでいた。

しかしながら、これから1月半位の長きに渡っては楽しめるのは嬉しい。

⁂水戸には「蓮池町」と云う洒落た町名が在ったが、昭和45年の町名変更で「城東」という味気ない名前となった。

●大賀ハス(オオガハス)

昭和26年(1951)、千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、2000年以上前のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)。
植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘された蓮の種を発芽させたことから「大賀蓮」と呼ばれる。
この古代ハスは、昭和29年(1954)年6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。
日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の「あじさいまつり」を歩く(その2)

2021年06月19日 14時38分51秒 | 水戸今と昔
水戸の「あじさいまつり」を歩く(その2)



「ブラヨーちゃん・あじさいまつりの水戸八幡宮~祇園寺~保和苑~桂岸寺~常磐共有墓地を歩く」
6月19日(土)午後3時30分に水戸市泉町・雑貨と珈琲の店「たけうち」に
集合。
梅雨に入った雨模様の午後、足元の良くないエリアを歩くので長靴など履物には十分の対策をお願いします。

「ブラヨーちゃん」は明らかに「ブラタモ」のパクリの町歩き。
あれ程にマニアックではなく、水戸市内の歴史的なことや地形などについてブラブラしながら観察しお喋りしよう、と云う縛りの緩い集まり。
月に一度、第3或いは第4土曜日あたりに開催している。
はっきりは数えていないが、1年以上、10回を過ぎた。



今回は前回の積み残し、八幡宮の本殿~祇園寺の墓地などからリスタート。
保和苑のアジサイ~回天神社~常磐共有墓地まで約3時間のマジカルミステリーツアー。

追記













雨の中にも拘わらず、多くな方々に参加いただけました。
およそ、1万ぽ歩いたようです。
それぞれの目線で、新たな発見をされたようです。
雨に濡れての4時間お疲れ様でした。

会費は無料で自由参加、「たけうち」での珈琲代は各自でお支払いください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常磐共有墓地 @水戸市松本町

2021年06月18日 22時35分57秒 | 水戸の今と昔
常磐共有墓地 @水戸市松本町







常磐共有墓地は第二代水戸藩主・徳川光圀が寛文6年(1666)年に上町に居住する藩士のために城下の常磐村(現・松本町)に創設した共有墓地である。
同年に下町の藩士には、坂戸(酒門)共有墓地がつくられた。

当時は迷信邪教がはびこり混乱していた世の中、光圀は純正な神仏の信仰を打ち立てようと、社寺の改革を実施した一環だった。



さらに葬祭の簡素化にも取り組み「喪祭儀略」という書物を編纂し頒布。
儒式(神式の要素も加味)による葬祭の仕方・墓石の大きさや形態まで規定して、贅沢に流れないように注意した。

t

水戸黄門漫遊記の「格さん」のモデルともいわれる安積澹泊の墓石。
後世に台座などが追加されているが準拠している。

常磐や酒門の共有墓地ばかりでなく、水戸市内の他の寺においても、ほぼ同様の規格に基づいて作られている墓石があるのが、注意深く見れば分かる。



藤田幽谷(右)東湖(左)の親子の墓。
幕末の混乱の中で活躍したから、別格の扱い。




関鉄之助、 桜田門外の変の実行部隊指揮者。
小塚原回向院に墓が在るが、明治24年(1891)に贈従四位を受けた際の碑だから大きい。



酒泉竹軒 彰考館総裁。

t

藤田小四郎 藤田東湖の四男、
筑波山挙兵の後、敦賀で捕縛され鰊蔵に監禁されたのち処刑される。
敦賀にも墓所が在る。



墓地の間に台地から下に通じる道が在った。
谷中新道の旧道が何処であったか気になっていた。
谷中の通りからは何度も折曲がるが、どうもこの道なのではないか。
後日、下から登りながら古地図を参照し、確かめたい。

常磐共有墓地には数多くの先賢志士が葬られている。
名前を列挙するよりも、墓域図をもとに訪ねてみるのが良さそうだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山風軒と桂岸寺@水戸市松本町

2021年06月17日 22時53分02秒 | 水戸今と昔
中山風軒と桂岸寺@水戸市松本町






大悲山保和院桂岸寺の山門への参道。
両側に沢山の店が軒を連ね、山門から本堂へと続いていた。



水戸谷中の“お三夜さん”(二十三夜尊)として親しまれている大悲山保和院桂岸寺は水戸藩付け家老中山風軒(信正)の供養のため三代目信治が天和2年(1682)に建てた寺。
はじめ香華院と云ったが、元禄7年(1694)に光圀が保和院と改め、後に桂岸寺という現寺号になった。

本堂の本尊は勢至菩薩
縁日は毎月旧暦23日、金運・良縁に恵まれると縁日に露店が立ち大賑わいだったという。僕の小学生の頃(約70年前)の三夜さん境内は遊園地でありワンダーランドだった。





愛染明王堂と朱雀門
朱雀門は旧水戸城二の丸(現・水戸第二中学校あたり)に在った、水戸徳川家霊廟の門と伝えられる。





中山家墓所

2代の風軒信正(1594-1677)と4代の信行(1648-1682)がねむっている。

徳川家康にみこまれ藩祖頼房の守り役、教育係であった家老の中山備前守信吉(1577―1642)をはじめ、歴代の備前守は先祖の館が在った(現在の埼玉県飯能市中山)の真言宗豊山派の智観寺に葬られている。

光圀のご意見番的な存在だった風軒信正は、三代将軍家光と大久保彦左衛門 の『家康と彦左』と似た『光圀と風軒』の関係にある。
心から直言する風軒を光圀は頼りにしたのだろう。

風軒が広大な新屋敷を賜った寛文6年(1666)は光圀がこの地と酒門に藩士の共有墓地を定めた年である。
*桂岸寺の墓地と常磐共有墓地の境界は全く分からない。

延宝5年(1677)10月28日、風軒死去。84歳だった。
追悼の和歌を詠み「恭子」をおくり名にした。



1㍍四方の祠に収まった直径50㎝ほどの球形。
「枡形に月」の家紋を形づくったのであろう。
碑面は光圀がおくった「恭子」の二字のみ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回天神社と回天館@水戸市松本町

2021年06月16日 23時04分25秒 | 水戸の今と昔
回天神社と回天館@水戸市松本町





回天神社
安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、東禅寺事件、那珂湊に、水戸で、筑波山で、敦賀に殉じた1,785名の士民の霊を慰め後世に伝えるため、昭和8(1933)年に銅板に名前を刻んだ忠魂塔が建てられた。
昭和44(1969)年、明治維新100年を記念し回天神社と祀られることになった。





回天館
元治元(1864)年、尊王攘夷の志なかばにして幕府に降伏した天狗党の志士800余名は、敦賀の海岸にあった16棟の鰊倉に押し込まれ、残酷きわまりない処遇を受けた。約100年後この鰊倉の1棟を福井県敦賀市より譲り受けて水戸の常磐神社境内に移築し「回天館」と名付けた。

しかし、歳月の経過と共に老朽化が進んだため、水戸市民の有志が寄付を募り、平成元(1989)年に回天神社境内に移築した。

現在、回天館は保存会によって管理され、天狗党の資料などを展示されている。
(開館時間10:00~15:00 入場無料 定休日:毎週月・火・金曜日)



「天狗党行軍経路略図」





出版された関連書籍など。



「信州和田嶺合戦図」



藤田小四郎の楠公自画賛



敦賀の海岸に在った16棟の鰊倉のうち1棟が常盤神社境内に移され「回天館」として資料展示館となったが、老朽化が激しくなった。(昭和63年9月・この場所は現在・常磐神社の資料展示の「義烈館」となっている。)



「異国船那珂湊接近図」文政6年



桜田門外の変、愛宕山集結の版画





板の扉に、牢居していた人々の血書の「叶」の文字などが散見され、武田耕雲斎らが処刑されるまで拘置されていた当時の過酷さを思い起こす。

2011年3月11日の東関東大震災で損傷を受けた。
10月に修復工事が完了し内部は明るくなったので、陰惨さは感じなくなった。



*市民有志のボランテアで運営されているから、多くを望むのは難しいことは承知だが、展示内容がもう少し充実できればと思う(:資金面を含め解決策が見つかることを願う)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする