「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

「水戸の梅まつり」@旧水戸城址

2015年01月31日 21時06分13秒 | 水戸
「水戸の梅まつり」@旧水戸城址



弘道館前から大手橋を望む。
幕末まで「大手門」が在った。
復元事業が計画されているようで、実現すれば、弘道館正庁前の門と対を成す存在になるだろう。

第119回「水戸の梅まつり」が2月20日(金)から開催される。
偕楽園・弘道館には約3000本の梅の樹が植えられている。
1月31日現在、開花しているのは61本・開花率2,2%(水戸市観光協会)とのことだ。

「探梅」と云う言葉があるように、咲き初めた花を探すのが梅の味わい。
桜は咲きそろった姿を愛でるが、梅は古木1本、1輪の花が良い。
その様な観点から「梅まつりを10日位早めては」と思い、関係者などに働きかけたが「観光客は、満開の姿を期待しますから」とのことで実現しない。

偕楽園・弘道館のどちらにも早咲きから遅咲きまで、各種揃っているから、宣伝の方法によると思うのだが。
更に季節が早まる傾向にあり、近ごろは3月下旬になると桜が咲き出す。

梅見客の大方は「偕楽園」を目指すが、僕のお勧めは「弘道館」を含めた三の丸地区。





改築された水戸市立第二中学校から茨城県立水戸第一に向かう道の二中側には築地塀が造られ、付属小・茨城県立水戸第三高等学校側にも建設中。


本城橋を渡れば、水戸一高。



佐竹氏時代の建築と云われる「薬医門」が移築されてある。



南西の隅の土塁に月見櫓が幕末まで在った。


水戸三校の下から、ほぼ同じ場所を望む。
この角地に、東日本大震災の時まで「武石浩玻像」が建っていた。



梅祭りの時期に間に合わず、5月頃に完成らしいが、水戸ニ中から水戸三校にかけて斜面を石垣風にする工事も進行中。


完成すれば、築地塀と合わせ城址らしい景観になる。

二の丸の大手門と付属小の土塁に隅櫓が水戸市の手で再建する計画は進行中。
「月見櫓」の再建は茨城県と水戸一高の協力次第で夢物語とも言えない。
財政状況が良くない折、優先順位としては厳しいか。
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武石浩玻展「憧れの空に」@水戸市立博物館

2015年01月29日 22時57分11秒 | 博物館
武石浩玻展「憧れの空に」@水戸市立博物館
2月14日(日)~3月22日(日)



明日は、関東地方の平野部でも雪が降るかも、との天気予報。
春に向けて天候が不安定な時期、先駆けの梅の花がほころび始める。
梅祭りにお出で下さる皆様に、歓迎のイベントが組まれる。

水戸市立博物館では「あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け・武石浩玻」展が開催される。
今から102年前、空を飛ぶことへの憧れを実践した武石浩玻(1884-1913)もその一人。

水戸中学校(現・水戸一高)を卒業後1903年に渡米。
カーチス飛行学校で操縦技術を学び、わずか3か月で卒業。
在留邦人の援助を得て飛行機を購入して帰国。
日本の航空界の黎明期に民間パイロットとして名をあげた。



しかし、1913年5月飛行会最終日「都市連絡飛行」において、着陸寸前に墜落28歳の生涯を閉じた。
1903年にライト兄弟が飛行機を発明してから10年後の出来事だった。

没後間もなく、水戸中学校長・菊地謙二郎らが発起人となって記念碑建設募金活動が行われた。7月に建碑費二千円が集まり、12月には水戸中学の西端、旧水戸城址・月見櫓跡の土塁の上に飛行服姿の銅像が建立された。

第二次大戦中は多くの銅像や梵鐘など金属製品の回収が行われたにも拘らず供出を免れた。飛行操縦士の像と云うことなのだろうが、まれな例だ。

水戸中学・水戸一高生に親しまれた「武石浩玻像」


この像を見れば、卒業生の多くは何らかの思いが連想される。



100年以上も同じ場所に立ち続けたが、2011年3月11日の東日本大震災の際に倒壊した.今では跡地に立ち入る人は少ない。





2011年10月、校舎前に移築された。

2月14日(日)から水戸市立博物館開催される「あこがれの空へ 民間パイロットの先駆け・武石浩玻」展。
どの様な展示内容になるか、心待ちにしている。
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児島虎次郎記念館・オリエント室@倉敷アイビースクエア

2015年01月29日 10時18分34秒 | 美術館
児島虎次郎記念館・オリエント室@倉敷アイビースクエア








大原美術館は想像以上の広さと広範囲なコレクションであったが、倉敷アイビースクエア内の「児島虎次郎記念館」内の「オリエント室」にも驚いた。

倉敷アイビースクエアは1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、1973年(昭和48年)に改修され、観光施設として再生された。
児島虎次郎記念館はその一部で、大原美術館の共通券で入場できる。


児島虎次郎(1881年– 1929年)は、1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。
倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。

かねてよりわが国には本格的な西洋絵画のコレクションや美術館がなく、西洋画を学ぶ人たちにとって極めて不便な状況であることを残念に思っていた児島は、その収集を孫三郎に進言する。

その結果、自身の留学と絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入した。
その行きと帰りにエジプトに立ち寄りカイロ、ギザのピラミッドなどを訪れ、非常に感銘を受けた。1923年3月の復路では、カイロ、ギザのほかルクソールなどにも訪れている。 この時、児島は骨董店などをめぐり、エジプト古美術を収集した。
「児島虎次郎記念館・オリエント室」には、この時に購入されたエジプト・オリエント美術のコレクションが展示されていた。
現在は、世界中の国が文化財の持ち出しが禁止されている。
当時は、その様な状態でなかったから、購入した大量の品々を持ち出すことが出来た。



女神イシス、または女神ネフティス。木製・金彩:高さ34,5㎝。
プトレマイオス期(紀元前304年-紀元前30年)



猫・ブロンズ 高さ17㎝ エジプトファラオ時代の末期(紀元前663-525)


この収集品が後の大原美術館建設の礎を築いたが、児島虎次郎が将来した古代エジプトやペルシアの古物は当事国内最大のコレクション。
蒐集品から児島虎次郎の卓越した審美眼と学術的先見性が窺える。

素晴らしいコレクションだが、展示室内の照明や展示の什器等改良すべき点を感じたが、予算の面等で致し方ないのかもしれない。

とは言え、100年近く前に西欧の近代美術、中近東・エジプト美術、中国美術などに対する炯眼に驚くほかない。

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佐伯祐三アトリエ記念館@新宿区中落合

2015年01月28日 15時37分09秒 | 人と作品
佐伯祐三アトリエ記念館@新宿区中落合






訪ねたのは12月9日、イチョウの大木が黄葉していた。

20代の頃はフランスに憧れた。パリを描いたユトリロやモジリアニに漠然とした興味を感じた。物心がついてからアメリカ的な生活の願望は強かったが、文化はヨーロッパのほうが勝っていたように感じていた。

日本人では佐伯祐三(1898-1928)の描く、ポスターが貼り尽されたパリの街角、近郊の村落や教会、など荒々しいタッチで書きなぐった、古き良き巴里を偲べる画面と30歳と云う若さでパリに客死したという夭折の画家の印象などから別格の存在に思っていた。
ほぼ同じ年代に活躍した中村彝と佐伯祐三。
佐伯が中村に私淑したことによるらしいが両者のアトリエは近い距離にある。
当時の下落合は郊外の農村地帯で、住宅地となった現在も農道がそのまま残された感がする。
「佐伯祐三アトリエ記念館」は袋小路の突き当りで、近くまで行きながら見い出せない程、細い路地裏。

佐伯祐三は明治31年(1898)大阪の浄土真宗光徳寺の二男として生まれた。
大正7年(1918)東京美術学校洋画科入学。
大正9年(1920)東京銀座の象牙商の娘、池田米子と結婚。
大正10年(1921)アトリエが完成、私淑した中村彝のアトリエが近くに在ったのが、この地を選んだ動機らしい。
大正12年(1923)に家族と共に神戸港からパリに出発。
大正15年(1926)健康状態がすぐれず、帰国し下落合の自宅・アトリエに戻る。
日本の風景などを描くが飽きたらず、昭和2年、病身をおし家族3人で再度フランスに渡る。
再び訪れたパリでは以前にも増して制作に熱中し、厳冬期でも
一日中戸外で描き続ける日を重ねた。

昭和3年(1928)8月死去、間もなく娘も6歳で病死。10月に妻・米子は
2人の遺骨を抱えて帰国、大阪の実家光徳寺に埋葬された。

妻の米子は昭和47年(1972)10月に死去(享年75歳)するまで、自ら画家としても活動し、このアトリエ兼住居で暮らした。

没後、この地は昭和50年(1975)建物を撤去し「新宿区立佐伯公園」として開放されていたが、平成22年(2010)4月当時の設計図を基に一部を復元「佐伯祐三アトリエ記念館」として開館した。



ライフマスク。

写真パネル、「下落合風景」の写真展示、佐伯が描いた地点と考える所の現在の写真、略歴・年譜など展示されているが、若干の物足りなさを感じた。
とは言え「土地の記憶・街の記憶」として、この様な復元事業は意義のあることだ。
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「中村屋サロン美術館」@新宿中村屋ビル3階

2015年01月26日 23時54分28秒 | 美術展
「中村屋サロン美術館」@新宿中村屋ビル3階







新宿駅前の「中村屋」は相馬愛蔵・黒光夫妻によって1901年に創業された老舗。
インドカレーやパンやお菓子の店として知られているが、明治末から昭和初期にかけて多くの芸術家を支援したので多く文化人が集った。
あたかも、ヨーロッパのサロンの様で「中村屋サロン」と呼ばれた。

その様な歴史を秘めていたが、収蔵作品を含めあまり知られる事はなかった。
新宿中村屋本店ビルの新築を契機に3階に「中村屋サロン美術館」をオープンし公開することになった。





2014年10月29日から2015年2月15日まで「中村屋サロン美術館 開館記念特別展 中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」が開催されている。

「第1章 中村屋サロンの胎動 碌山・穂高~海外時代」
創業者・愛蔵の同郷で、中村屋サロンに最も影響を与えた荻原守衛(碌山)の留学時代に焦点を当てた。
守衛は、22歳でニューヨークへ渡り、その後フランス、イタリア、エジプトへと足を運び、のちのサロン仲間となる戸張弧雁や柳敬助、高村光太郎と出会った。画家であった守衛は、ロダンの「考える人」に衝撃を受け、彫刻家へと転向。守衛の彫刻作品の他、彼に影響を受けた友人たちの作品が並ぶ。

「第2章 中村屋サロンの躍動 碌山・新宿時代~」
守衛が中村屋サロンで、友人の芸術家たちと交流を深めた時代の作品が並ぶ。
中原悌二郎をはじめとする、サロンに出入りした仲間達の作品。
守衛が急逝した後のサロンの中心となった水戸出身の中村彝の作品が9件。
第八回文展三等賞を受賞した「小女」も展示。
鶴田吾郎が彝と競作した「盲目のエロシェンコ」も出品されているが、アトリエで反対方向から描いたので、顔の向きが異なるのは興味深い。

この展覧会を観て後、落合の「中村彝アトリエ記念館」に行った。
どちらを先に観るかはともかく、両者を観ることで、郷土の先人の姿が身近に感じられるようになった。

*今回の記念展は中村屋と碌山美術館(長野県安曇野市穂高)の収蔵品で構成されている。51件のうち株式会社中村屋27件、碌山美術館17件、その他7件。
*碌山美術館は安曇野市穂高生まれの彫刻家・荻原碌山の個人美術館で、彼の作品と資料の蒐集、保存および公開を目的として、1958年4月、安曇野市穂高に開館した。
*30年前頃「松本民芸館」と「碌山美術館」を観るため、松本から安曇野に旅した。その感激は未だに忘れられない。
開館当初の建物はキリスト教の教会堂、或いは山小屋を思わせる小さな建屋に碌山の作品がひっそりと並んでいた。
これに倣って、後藤清一さんの作品を展示する「後藤清一彫塑館」を夢見たが実現には至っていないのが残念だ。
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中村彜アトリエ記念館@新宿区下落合

2015年01月26日 18時51分11秒 | 人と作品
中村彜アトリエ記念館@新宿区下落合







水戸出身の洋画家・中村彝(1887~1924)は優れた人物画などを遺し、37歳で亡くなった。





特に盲目のロシアのエスペランティスト、作家、言語学者、教育者をモデルにした『エロシェンコ像』(1920年・東京国立近代美術館蔵・重要文化財)は代表作といえる。
この作品の以前の所有者は春日部市のO氏で、その購入に際し後藤清一さんが相談に預かった。との話を聞いたことがある。



大正5年(1916)に建てられた中村彜のアトリエが修復され「新宿区立中村彝アトリエ記念館」として公開されている。
水戸市千波町、茨城県立近代美術館の敷地内に同じアトリエが再建され公開されているが、下落合のこちらがオリジナル。
とは言え、最近まで奇跡的に廃屋で残っていたのを、資料をもとに新宿区が建て替えた。

入館は無料で、自由に観て廻れる。
管理棟(展示室)では、解説パネルで彝の生涯や画業を紹介している。



このアトリエで亡くなった「彝のデスマスク」(複製、実物は茨城県立近代美術館)このデスマスクの発見は郷土史家・網代茂の手になる)も展示。



アトリエの床や天井、壁の腰板などは当時の建築部材を利用して復元している。

室内には彝の使用したイーゼルや家具・調度品(複製)が展示。







作品や写真等は複製だが、生前暮らした場所で見ると、美術館などで見る感じとは異なり、正しくそこに存在している感がある。

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薪ストーブのある「カフェ・ ジュニアボナー」@笠間市大田町364-2

2015年01月25日 23時14分53秒 | カフェ・喫茶
薪ストーブのある「カフェ・ ジュニアボナー」@笠間市大田町364-2





如何にも冬と感じるような日は、薪ストーブのある部屋の柔らかい暖かさに身を置きたいと思うことがある。
「やきものって何ダ?」展で、「六古窯」と呼ばれる中世の古陶を観ることが出来たので、薪ストーブのある「カフェ・ ジュニアボナー」でコーヒーを飲んでジャズでも聞いて帰ろうとの心だ。



民家を改造したカフェだが、沢山のレコードとCDコレクションを要している。
さらに、オーディオのセットが凝っている。
音が聞こえるだけで良いと思うから、そちらに詳しくはないが、スピーカーやアンプなどが沢山並んでいる様に感心する。



レコード盤が主体だがCDも流される。
ジャズを旨とはするが、リクエストが有れば拘らない。
客が持ち込んだレコードもかけてくれる気安さがある。

奥様の作る、ご飯やスパゲテーの野菜サラダ付きのセットが廉くて美味しい。



今回も「ガーリック焼き飯、半熟卵乗せ」


プーポーと豆腐屋のラッパの音が響いた。
この辺りまで「佐白山のとうふ屋」が軽トラで移動販売に来るのだ、とのこと。
急いで飛び出して“青ごぜん”の豆腐を2丁買い求め、お土産に。

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UTSU工房ペニーレーン@笠間市手越

2015年01月25日 21時56分18秒 | 音楽
UTSU工房ペニーレーン@笠間市手越





茨城県立陶芸美術館は笠間芸術の森公園の一郭だ。
笠間稲荷を中心とした旧市内が寂れる一方で、芸術の森を囲むエリアは陶芸工房やギャラリー、工芸品店、カフェ・レストランなどが多くなった。

特に、笠間と石岡を結ぶ国道355線は北関東高速道路の岩間ICに繋がるので交通量が増え、手越の辺りはお店が増えている。

JR水戸線と国道が並走する辺りの里山、特に桜の時期は、新緑と山桜が混ぜあった風景で、北山公園を含め僕の大好きな場所だ。

道路に沿う形で洒落た木造の建物がある。
ギター工房とギャラリーカフェが併殺された複合施設。
看板がおとなしいからうっかりすると見逃す。



中央の入り口を入って右が「ノブズギャラリーカフェ」
2014 年6月7日(土)~15日(日)「にし よしみ 小品展」でお訪ねして以来、「新井倫彦 陶展」2015 1/24(土)~2/1(日)の開催前で休廊だった。

左の入り口を入れば「こりゃ・なんだ!」と驚きの世界。
ビンテージギター販売&修理「UTSU工房ペニーレーン」
創業は1986年、2005年に笠間に移転するまでは水戸市泉町に在った。





ギターを弾くことが出来ない僕にとってはチンプンカンプンだが、凄い!と云う事だけは分かる。この様な専門分野の店が成り立つのが文化的な街、と云うのだろう。
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郷戸一行 『てん・せん』@ギャラリーしのざき

2015年01月25日 19時44分43秒 | 美術展
郷戸一行 『てん・せん』@ギャラリーしのざき



今日(1月25日)まで水戸市泉町の「ギャラリーしのざき」で郷戸一行(ごうどかずゆき)no『てん・せん』展が開催された。


「archetype」 屏風(和紙・箔・墨・胡粉・樹脂膠)



「感覚」《軸・部分》(和紙・箔・墨・胡粉・樹脂膠)

屏風・掛け軸・パネルなど、何れの作品も、和紙に胡粉を塗り墨で描き、ところどころに箔が置かれているものもある。
技法的には日本画だろうが、そうとも言えない。


「点が連なり線になる。

 私は線を淡々と引き続けることで作品を作っている。
 大まかな全体の流れや動きを決めたのちに線を引く。
 明確な下描きは作らずに、線の行方はその場で決める。
 感情的ではなく、自制的に自身の元型に沿った線を引く。
 そして、その日その時その瞬間の線により画面が増殖していく。

 そこに、時間や生を見る。

 さらにこの線のために舎利を描く。
 舎利は死でありその時間は動かない。

 始まりの点と終わりの点
 そこに線が引かれ、時間や記憶が生まれていく。
 そんなこんなを考えながら制作した作品群の展示です。」


微細な点と線を辿っていると、たしかに、何か連想されてくる。



石膏の型取りに箔を置き着色した作品も。


水戸京成百貨店の道路を挟んだ古いビルの3階に「ギャラリーしのざき」が開店したのは2011年。
絵画・陶器・ガラス・写真・アクセサリー・木の器など、多彩な展覧会を企画し、生活の中に生きる美を求める姿勢を感じた。

画廊主はひたちなか市に本業をお持ちの方と聞いていた。
お会いした事はないが、家賃を払い店番の人を雇っての経営は難儀であろうと推察し、それでも継続されていることに対し尊敬していた。

店番の方の話によれば「今回の展覧会をもって、いったん休業」と云う事らしい。再開の可能性を秘めているとはいえ、残念だ。

しかし、この約5年間のご努力に対し「有り難う」の感謝の気持ちを捧げたい。

駅前の「スタバ」「松屋」南町の「モスバーガー」「シダックス」など‥、相次いで閉店、或いは閉店予定。

経営者が努力してもどうにもならない時代となった。
とは言え、駅南から千波方面、新県庁舎周辺、或いは赤塚の駅前、内原の「イオンモール」など活気のあるエリアもある。

街も人も成長しやがて消えてゆくのが自然の摂理。
全ては、成行きに任せる以外にはなさそうだ。

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五味田充子 手紡ぎニット展 @ギャラリーしえる

2015年01月22日 22時53分29秒 | 美術展
 五味田充子 手紡ぎニット展 @ギャラリーしえる
        1月20日~25日   






羊の原毛を解きほぐして糸に紡ぐ。
糸を好みの色に染め上げる。
長い長い1本の糸を、編んだり織ったり。
編上りや織り上がりはある程度計算できても、確かではない。





今回の展覧会、サブタイトルは「カクテル」
出来上がった作品は手染めとは思えない程に鮮やか。
多くの色を使いながら、濁らない。
作者の色彩感覚の豊かさが分かる。





なかには、原毛の色を残した、渋めの色合いも。

単純に見えるが、複雑な柄行は現代美術のようだ。

セーター、帽子、マフラー。
手触りがとても優しい。



今年で5回目とのことだが、作者の五味田充子さんに初めてお会い出来た。
五味田さんは水戸在住だが各地で展覧会をされている。
次回は2月4日から2月8日まで杉並区久我山の「ギャラリー藍」されるとのこと。益々の活躍を!

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「やきものって何ダ?」@茨城県陶芸美術館

2015年01月22日 20時42分17秒 | 美術館
「やきものって何ダ?」@茨城県陶芸美術館
1月2日~3月8日



日本には数多くのやきものの産地があり、土地ごとに特徴のあるやきものが作られている。食のための器ばかりでなく、茶の湯や生け花など伝統文化にも大きな役割を果たしてきた。
現代は器という枠を超え、新たな造形表現が生まれている。



「やきものって何ダ?」は国内の「やきもの」産地の有田、萩、丹波、信楽、越前、美濃、瀬戸、笠間においてやきものを専門的に収蔵し展示・公開する美術館・博物館8館による共同企画で、過去から未来への陶磁器のありようを探る展覧会。何れもこの8館の所蔵品で構成されている。

紀元前3,000年頃に制作された縄文式土器から現代までの約130点。
国内のみならず、中国や朝鮮半島まで含まれている。



縄文土器「深鉢」紀元前3000-2500年頃 愛知県陶磁美術館
縄文土器の造型の豊かさは世界的な評価を受けている。

有田や九谷など青白磁や色絵の華麗な作品も多いが「六古窯」と云われる中世の焼き物が好きなので、どうしても、そちらに目が行く。



越前「三筋文壺」12世紀(平安時代末期) 福井県陶芸館



越前 大壺13世紀 福井県陶芸館蔵



瀬戸「灰釉草花文四耳壺」 鎌倉時代(13世紀)愛知県陶磁美術館



渥美「灰釉蓮弁文壺」12世紀(平安時代末期) 愛知県陶磁美術館 

蟹江良二「チェルノ・ブイリシリーズ」
松田百合子「ヒップシリーズ」
等の現代美術家の作品は、陶磁器を通した新たな世界。

3階展示室の「いばらきの伝統工芸・常陸の巧みと手仕事」展は織物、塗り物、和紙など県内の匠の仕事が紹介されている。

陶磁器に限らず工芸の世界の展示も大切で「陶芸・工芸美術館」のほうがより適切か、と感じた。
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大原美術館@岡山県倉敷市・倉敷美観地区

2015年01月22日 00時19分11秒 | 美術館
大原美術館@岡山県倉敷市・倉敷美観地区



一度は訪ねてみたい、という街は沢山あって何処から先にとも言えない。
幾つかの偶然により実現することがある。

倉敷の美観地区と大原美術館は、是非とも訪ねたい場所だった。
旅行社のパンフレットで、茨城空港から神戸に行き新幹線を経由して岡山・倉敷へのルートを辿れば、岡山の後楽園も周遊圏と知った。
偕楽園は、金沢の兼六園、 岡山の後楽園と共に日本の三公園(「三名園」「三庭園」)の1つと云われる。
金沢の兼六園 には行ったことがあるが、岡山の後楽園は未だ。
昨年11月19日から22日まで、神戸~倉敷~岡山~姫路~神戸の3泊4日の旅を計画した。



倉敷の美観地区の広範囲に及ぶ歴史的な建造物が健在で、しかも、実用に供されていたのを目の当たりにし、驚くと同時に嬉しかった。
水戸は残念ながら、戦災に遭ったので残されている町並みや建築は殆んどない。



美観地区の一角を占める大原美術館も想像以上だった。

大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託し、収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。
西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初と云われる。

イオニア式柱を有する古典様式の本館。



玄関にはロダン「カレーの市民―ジャン=デール」像。
開館当時からの建物だが、展示室は何度か改良が加わっているのだろう観やすい空間となっている。
エル・グレコ「受胎告知」、モネの「睡蓮」モロー「雅歌」モディリアーニ「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」など印象派を主体とした名画が展示されている。



本館隣の中庭に面してコの字型の工芸館が在る。
浜田庄司室、バーナード・リーチ室/富本健吉室、棟方志功室、河井寛次郎室、芹沢介室、など民芸運動に携わった作家の展示。
これらの木造建築は大原家の米蔵を利用し芹沢介がデザインした。
従って、作品と展示空間が見事に調和している。
倉敷は柳宗悦が展開した「民芸運動」の一大拠点だ。

工芸館に連なって、東洋館は中国を中心とした東アジアのコレクション。
児島虎次郎は中国に3回出向き、陶磁器や仏像を収集している。
北魏時代(386-534年)の「一光三尊仏像」は見事だ。

本館裏に「新渓園」と称する庭園を挟んで分館がある。





分館前の芝生にはヘンリー・ムーアの像など。

熊谷守一「陽の死んだ日」はじめ、近・現代洋画の傑作。



水戸出身の中村彝(つね)(1887-1924)「頭蓋骨を持てる自画像」(1923)
この自画像は彝の代表作で度々紹介されている、

更に地下室には現代美術まで幅広いコレクションだ。

聞きしに勝る美術館で更に、1972年開設の「倉敷アイビースクエア」には「児島虎次郎記念館」にもオリエント・エジプト美術のコレクションが展示されている。

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光原社@盛岡市材木町2-18

2015年01月20日 23時14分16秒 | シェ・ジャニー
光原社@盛岡市材木町2-18





シェ・ジャニーの盛岡への移転の経過について、ブログには。

『どんなところがお望み? と聞かれ、贅沢言えば紺屋町か材木町と答えたら、「そう言えば物件有ったな~~」で見に行ったら、何と知る人ぞ知る光原社の隣昔の弟子のハモちゃんの真正面に物件が・・・・・
値段も手頃、もうこれは呼ばれてる、流れが来たら乗るのは信条。 即決定!
3月後半から工事が始まり、5月末には新”シェ・ジャニー材木町店”開店を目指しております。』

僕も盛岡の街が好きで特に「光原社」は大好き。





「光原社」は宮沢賢治の生前唯一の童話集「注文の多い料理店」を発刊した元出版社で、社名も賢治が名付けた。
その後は、柳宗悦との出会いから伝統工芸品の店になっている。

その街を訪ねる際、美術館や博物館を始め土地の名物が食べられる飲食店や居酒屋、骨董店や美術品店などをあらかじめ探して出かける場合もあるが、偶然通り掛かって発見するときもある。

僕は盛岡を始めて訪ねた1987年にたまたま「光原社」を発見し感激した。
以来、盛岡に立ち寄れば足を運ぶようにしている











「光原社」の敷地は広く、通りを挟んで2ヶ所、片方の奥は石畳の中庭に民芸建築が立ち並ぶ美しい空間で、カフェの「可否館」ギャラリー空間もある。
その奥は北上川の河原に接している。

器や生活雑貨、衣類など、国内はもとより世界各地から選び抜かれた品々が並ぶ。更に、東北の風土やぬくもりを感じるヤマブドウやクルミ、スズタケなどの自然素材を使ったカゴやザルなど。見飽きることがない。

おそらく、日本中から来訪者があるだろう。

「光原社」のある材木町は駅からは近いのだが、県庁や盛岡城址に近い繁華街とは異なる風情のある通りで、工芸品店なども多くゆっくりと散策できる。

この様な立地に“シェ・ジャニー材木町店”が開店する。
「光原社」と共に、盛岡に新しい名所が誕生だ。

“町興し”とかで、何処でも人集めのイベントが多い昨今だが、その時だけ“人が来た”と云っても何の意味もない。
何度も訪れたいと感じる店や通りが有ればこそ、街は賑わう。
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1月20日は大寒で二十四節気の最終章。

2015年01月20日 16時17分05秒 | 歳時記
1月20日は大寒で二十四節気の最終章。



今日(1月20日)は大寒で二十四節気の第24の最終章。
期間としての意味もあって、1月20日~2月3日まで。
次の節気の立春前日まで、一年で最も寒い時期である。

小学時代に「耐寒訓練」か「大寒訓練」なのかの意味はともかく、この時期になると街中を走らされたつらい経験が甦る。
今では危険で、そのような訓練はなされないが、懐かしい思い出だ。

水戸では偕楽園や弘道館の梅の便りが始まる時期だが、1月末から2月にかけては雪が降ることが多い。
紅梅や山椿に雪が被った姿は美しいが、交通機関の障害やお出で下さる「梅見お客様」などを考えれば、楽しみ、とばかりは言えない。

安比高原のレストラン・シェジャニーが盛岡に移転するとのブログを見ると、
『安比の家も築30年、寒さを知らない設計屋さんに頼んだ事もあり、被害続出、数々の修繕を施して参りました。自然豊かな安比は大好きなのですが、修繕にかかる無駄な費用、月50時間位の雪かきの時間を思うとこれまた大好きな街盛岡に住むのも運命と思っております。』
雪かきに要する労力は大変なものだろうし、労を惜しめば家屋の破損が伴う。





ジャニーのブログからの引用の写真。
夏場しか行ったことがないから、雪に埋もれた状況は想像以上だ。



2014年7月、安比を訪問した際ペンションビレッジの一角で無人の建物の崩落を見て、積雪の力を推測はしたが。

年に数度の降雪で一喜一憂する水戸辺りの寒さなど、雪国の人達から見たらお笑い草かもしれない。

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新たな水戸市会館の「用地」を含めた事業費は。

2015年01月17日 14時13分00秒 | 水戸今と昔
新たな水戸市会館の「用地」を含めた事業費は。

整備計画地は、四方を道路に囲まれた約1ヘクタールの区域。
民有地で、「泉町一丁目北地区再開発準備組合」を2003年7月に発足させ、低層階に商業施設、中・上層階に業務施設や住宅が入る再開発ビルを建設する計画だった。
しかし、再開発ビルを建設しても事業採算が見込めない、と計画を中断した。

そこに、降って湧いたのが「新市民会館構想」

計画書46頁から47頁には、
市街地再開発事業(組合)に市が、地区内に権利を所有しすることにより、従前事業者となることが出来る。土地又は建物に権利を有する従前利用者のすべては組合の組合員となることから、市は市街地再開発事業や組合運営に直接かかわることが出来る。

*これはどういうことか?知識がないから分からないが、地区内に権利を有するためには、金額を支払うことだろうが、その金額の概算は表示されていない。土地の評価などにより、今の時点で幾らとでなくとも、相応の予算が必要だ。

本体の事業費の前に、権利金のようなものが必要になるのだろう。
さらには、これからは地代類する様な対価を払い続けるのではないのか?

49頁に概算事業費が計上されている。
現時点では180~192億円。
これから先の着工とあらば、それを上回ることは十分予想される。

完成後は、大きな設備だから維持管理費もかなりの金額となるだろう。
運営費や人件費もかかる。

事業費の財源は交付金・特例債などを活用し、実質的な負担軽減を図る。
とは言え財政的な負担は大きすぎると思う。

人々の嗜好・志向が多角化した現代の社会で、一つの催事で大量のお客さんを呼び込む時代ではなくなっていること、も認識すべきだ。

少子高齢化、財政は年々厳しくなる。
新たな投資に掛ける余裕はないだろう。

市民会館を起爆剤にして活性化を図ろうとの狙いは分かるが、文化的なコトは支出に見合う収入にはならないのが普通で、甘い期待は出来ない。
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