「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

水戸八幡宮@水戸市八幡町

2021年04月29日 21時07分03秒 | 水戸の今と昔
水戸八幡宮@水戸市八幡町



慶長3年(1598)に完成した本殿は、奇しくも昭和20年の戦災を免れた国指定の重要文化財。

水戸八幡宮は天正19年(1591)佐竹義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、翌年の文禄元年(1592)馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎したのが始まりと伝えられる。

後に八幡小路(現在の水戸市北見町)に遷座し、慶長3年(1598年)に本殿を建立し、水府総鎮守と定めた。



水戸城下図・慶安4(1651)年~明暦元(1655)年
八幡神社・神主・社務・六供衆・社務門前、(大阪から参道が繋がっていた)
*六供衆とはいかなる職種の人達だったのか?
*西側の梶川彌三郎が現在の水戸気象台の一角。






水戸城下図・宝暦11(1761)年~明和元(1764)年
元禄7(1694)年、水戸徳川家の寺社改革を受け、八幡小路から那珂西村(現在の東茨城郡城里町那珂西)に遷座した。
これに対し、神職氏子の請願等があり宝永6年(1709)現在地に再び遷座した。
*参道は太郎坂の下から階段を登ってが本道だった。





現在も当時のままの姿が残っている。



「烈公御涼所」
遠くに日光連山、久慈の山々、那珂川を眼下に望む。
元旦にはここから初日の出を拝む、御来光清祓式が行われる。



拝殿。
向かって左側に天然記念物に指定されている「お葉付銀杏」



本殿の後ろに「白旗山下製作所跡」の碑
この場所より東側になるが、九代藩主斉昭は鉄砲筒師・鉄砲銅物師・刀工・鎧甲制作師・鎧甲塗師などを住わせたので、この一帯は藩の兵工廠のような町となっていた。周囲には、石工・左官・大工などの職人も住んでいた。



このマンションの辺りが、藩の武器製作所跡地。
右奥の杜が水戸八幡宮。
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日本画の150年 明治から現代へ@茨城県近代美術館

2021年04月27日 11時55分21秒 | 美術館
日本画の150年 明治から現代へ@茨城県近代美術館
4月17日~6月20日









クレヨン・クレパス・水彩画で戦後の美術教育を受けてきたので、洋画と言われる絵画が普通で、日本画に馴染みがない。
明治から現代までの日本画の歴史を、4部構成で概観できる展覧会。

第Ⅰ章 明治
第Ⅱ章 大正から昭和戦前
第Ⅲ章 受け継がれる美―美人画、歴史画、花鳥画
第Ⅳ章 昭和戦後から現代

《展覧会資料から》
幕末から明治にかけて西洋絵画が本格的に紹介されるようになると、人々はその写実的な表現に驚かされました。
画家たちの中には、西洋絵画の技法を学び油彩画に取り組んだ人々がいる一方、岩絵具や和紙といった日本の伝統的な画材を基盤としながら、西洋絵画の表現も取り入れつつ、あらたな時代にふさわしい日本画の創造を目指す人々も現れました。
 明治期には横山大観や菱田春草らが、空気感や内面的な感情をどのように表現するかについて試行錯誤し、芸術の自由が標榜された大正期には、今村紫紅や速水御舟らが独創的な作品を発表しました。
古典が見直された昭和前期を経て、戦後、伝統的なものが否定される状況から再出発した画家たちは、それまでの日本画ではあまり扱うことのなかった主題にも取り組み、戦前とは表現を一変させました。人間の存在を問うような作品が描かれたのもこの時期の特徴です。
その後登場した戦後生まれの画家たちは、明治以来続いた、西洋絵画を意識しながら日本画を描くことからは距離を置き、日本画ならではの特性を生かした制作を行っています。
本展では、受け継がれてきた伝統や技法に基づきながらも、独自の表現を打ち出し、時代を切り開いてきた画家たちの作品を多数展示し、明治から現代に至る日本画150年の流れをたどります。



横山大観「松月雪景」 明治37(1904)年 茨城県近代美術館寄託



森田曠平「女神春秋 花鎮め」昭和57(1982)年 茨城県近代美術館寄託



片岡球子「喜多川歌麿」昭和53(1978)年 茨城県近代美術館寄託(国際交流基金蔵)



那波多目 功一「寂光」平成25(2013)年 茨城県近代美術館所蔵

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「オールドノリタケ×若林コレクション アールヌーヴォーからアールデコに咲いたデザイン」@茨城県陶芸美術館

2021年04月25日 17時32分39秒 | 美術館
「オールドノリタケ×若林コレクション アールヌーヴォーからアールデコに咲いたデザイン」@茨城県陶芸美術館
20021年4月17日~6月27日








「オールドノリタケ」は、愛知県名古屋市の日本陶器(現・株式会社ノリタケカンパニーリミテド)で、明治中期から第二次世界大戦前に制作され、主に欧米に輸出された洋風陶磁器を指す。
花瓶や置物などの装飾品と洋食器などのテーブルウェアが主体で、日本の伝統技術と欧米の嗜好を融合し、華麗な彩色と繊細なデザインで西洋の人々を魅了し高い評価を得た。

オールドノリタケの製品は主にアメリカ向けに輸出され、国内で販売されることはなかったので、一般の目に触れることはほとんど無かった。
輸入先のアメリカで1970年代に専門誌が発行されるなど、骨董愛好家のあいだでブームが高まり日本においても1990年代から逆輸入されるようになった。













本展では、日本を代表するオールドノリタケコレクターである若林経子氏(大阪府枚方市在住)が所蔵する250点が展示され「モチーフ」「スタイル」「テクニック」「ファンクション」の4つの観点から読み解く。










若林さんは名古屋市生まれ、戦後の物不足の中、一家が物々交換で手に入れたティーセットが、のちにオールドノリタケと判明した体験で魅力に取りつかれた。今回は、若林コレクションの展覧会としては過去最大規模となる。

近頃のレストランなどでは白磁一色、帽子を逆さにしたような器も多い。
白磁だから何にでも合うにしても、余りにも芸がない。
それらと真逆の指向で、装飾過多とも言えるが見て楽しいし、どのような料理が盛り付けられるのだろう?などの興味も湧く。
自分の日常生活とはかなり離れているが、素晴らしい展覧会だ。

*2008年9月27日から11月6日迄「オールドノリタケと懐かしの洋食器」展が茨城県陶芸美術館で開催された。
この展覧会は日本のラスター彩(ペルシャ陶器を源流とする技法で、金属光沢のある釉薬を用いたもの)の研究資料として収集を始めた、つくば市在住の主婦・守屋知子氏のコレクションだった。

両氏ともに、大実業家でもない一般の主婦の執念とも言えるコレクションであることはとても素晴らしいことだ。
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祇園寺@水戸市八幡町11−69

2021年04月22日 23時39分44秒 | 水戸今と昔
祇園寺@水戸市八幡町11−69





心越禅師の廟

祇園寺の前身は、佐竹氏が開いた天徳寺という寺だった。
光圀が明から亡命し長崎に滞在していた東皐心越(とうこうしんえつ)禅師を迎え住持とした。
心越禅師は元禄8年(1695)に入寂し、その後正徳2年(1712)天徳寺は河和田村に移され、そのあとが寿昌山祇園寺として改号され、今日に至っている。

心越禅師在世中は祇園寺ではなかったが、水戸祇園寺の開山として、曹洞宗寿昌派の祖として崇敬されて来ている。



水戸市立博物館蔵の古地図《天和元(1681)年~天和2(1682)年)》
祇園寺は未だ「天徳寺」で隣接の八幡宮は移転しておらず、本法寺・本行寺などの寺域となっている。



1694年(元禄7年)建立の穢跡(えせき)金剛尊天堂。






「水戸戊辰殉難慰霊碑(恩光無辺碑)諸生党殉難碑(1934・昭和9年建立)

水戸藩士の墓地として、寛文6(1666)年光圀によって「常磐共有墓地」「酒門共有墓地」が定められたが、その以前に仏寺に葬られたものはそのままとしたので、創藩時からの藩士の墓所も多い。
幕末期の諸生党は市川氏・朝比奈氏など保守・門閥派で、改革派の天狗党と内乱は足掛け5年に及び、有為な人材は水戸からいなくなったと言われる。
維新後は朝敵として迫害の憂き目にあい、水戸を離れた家が多い。
昭和に入って、共に憂国の念からの争いとして殉難慰霊の動きとなった。



市川三左衛門の墓所



朝比奈弥太郎の墓所

近年の著名人では



洋画家の中村彝の墓地



漫画家の山田みのるの墓地。



飯村丈三郎(政治家・実業家・教育者1853年 - 1927年)の分骨墓地
祇園寺の興隆に寄与し、境内の一部に1927年(昭和2年)に水戸藩藩校の弘道館の流れを汲む水戸学院を引き継ぐ形で、旧制・私立茨城中学校(現在の茨城中学校・高等学校)を設立。



雲の詩人として知られる山村 暮鳥(やまむら ぼちょう・1884年- 1924年)
日本聖公会の伝道師であったが、江林寺墓地に眠る。

佐竹氏時代に建設されて水戸城橋詰門と推定される薬医門が1981年水戸一髙内に移築され現在に至るが、明治時代以降は位置や所有者が二転三転した。



1942年に小山田邸から祇園寺の正門として移築され、水戸一高に移されるまで祇園寺の山門として使用された。





春は桜、秋は紅葉の名所として知られるが「ドウダンツツジ」の古木は比類を見ない。

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鬱金桜(ウコンザクラ)と御衣黄桜(ギョイコウザクラ)

2021年04月14日 13時15分28秒 | 植物
鬱金桜(ウコンザクラ)と御衣黄桜(ギョイコウザクラ)



築90年を超える古民家・食事処「元屋敷」(那珂市本米崎2014)
座敷卓上のガラスコップに挿された鬱金桜(ウコンザクラ)と御衣黄桜(ギョイコウザクラ)
薄緑色の花が咲く2種を同時に見ることが出来た。

*鬱金桜はオシマザクラ系のサトザクラ。
江戸中期以前に人の手によって作られた品種と考えられている。
花弁が香辛料で知られるウコン(鬱金)に似た萌黄色になることから、ウコンザクラと名付けられた。
・清酒「黄桜」はこの花にちなむ。
・日本では公園や植物園の一部に見られるのみだが、欧米ではより人気が高い。
・開花は4月中旬から5月上旬で、カンザンやフゲンゾウといった代表的なサトザクラよりは少しだけ遅れて咲く。
花の直径は3.5~4センチほどで、10~20枚の花弁が重なり合う八重咲き。
・咲き始めは文字どおりのウコン色あるいは薄緑色だが、すぐに白っぽくなり、最後は中心部からピンク色に染まっていく。このため観察の時期や個体によっては見分けにくい。




*御衣黄桜(ギョイコウザクラ)
サトザクラの品種の1つで、開花したばかりの花は淡い緑色、徐々に黄色に変化していき、やがて花びらの中心部が赤く染まっていくのが特徴。
「御衣」とは貴族の着物を意味で、緑色の花びらが平安時代の貴族の衣服の「萌黄色」(モエギイロ)に近いことが由来する。
江戸時代に、京都の仁和寺で栽培されたのが始まりだといわれている。

◎この2種の他に須磨浦普賢象(スマウラフゲンゾウ)、園里黄桜(ソノサトキザクラ)、園里緑龍(ソノサトリョクリュウ)、仁科蔵王(ニシナザオウ)等の新種もあるようだ。
◎ギョイコウザクラが茨城県立図書館前の土塁に在るのは「花留談」の木村さんから教えて頂き、何度か見たが今は消滅してしまった。
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