水戸八幡宮@水戸市八幡町
慶長3年(1598)に完成した本殿は、奇しくも昭和20年の戦災を免れた国指定の重要文化財。
水戸八幡宮は天正19年(1591)佐竹義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、翌年の文禄元年(1592)馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎したのが始まりと伝えられる。
後に八幡小路(現在の水戸市北見町)に遷座し、慶長3年(1598年)に本殿を建立し、水府総鎮守と定めた。
水戸城下図・慶安4(1651)年~明暦元(1655)年
八幡神社・神主・社務・六供衆・社務門前、(大阪から参道が繋がっていた)
*六供衆とはいかなる職種の人達だったのか?
*西側の梶川彌三郎が現在の水戸気象台の一角。
水戸城下図・宝暦11(1761)年~明和元(1764)年
元禄7(1694)年、水戸徳川家の寺社改革を受け、八幡小路から那珂西村(現在の東茨城郡城里町那珂西)に遷座した。
これに対し、神職氏子の請願等があり宝永6年(1709)現在地に再び遷座した。
*参道は太郎坂の下から階段を登ってが本道だった。
現在も当時のままの姿が残っている。
「烈公御涼所」
遠くに日光連山、久慈の山々、那珂川を眼下に望む。
元旦にはここから初日の出を拝む、御来光清祓式が行われる。
拝殿。
向かって左側に天然記念物に指定されている「お葉付銀杏」
本殿の後ろに「白旗山下製作所跡」の碑
この場所より東側になるが、九代藩主斉昭は鉄砲筒師・鉄砲銅物師・刀工・鎧甲制作師・鎧甲塗師などを住わせたので、この一帯は藩の兵工廠のような町となっていた。周囲には、石工・左官・大工などの職人も住んでいた。
このマンションの辺りが、藩の武器製作所跡地。
右奥の杜が水戸八幡宮。
慶長3年(1598)に完成した本殿は、奇しくも昭和20年の戦災を免れた国指定の重要文化財。
水戸八幡宮は天正19年(1591)佐竹義宣が江戸氏を滅ぼして水戸城主になると、翌年の文禄元年(1592)馬場八幡宮の分霊を水戸城中に奉斎したのが始まりと伝えられる。
後に八幡小路(現在の水戸市北見町)に遷座し、慶長3年(1598年)に本殿を建立し、水府総鎮守と定めた。
水戸城下図・慶安4(1651)年~明暦元(1655)年
八幡神社・神主・社務・六供衆・社務門前、(大阪から参道が繋がっていた)
*六供衆とはいかなる職種の人達だったのか?
*西側の梶川彌三郎が現在の水戸気象台の一角。
水戸城下図・宝暦11(1761)年~明和元(1764)年
元禄7(1694)年、水戸徳川家の寺社改革を受け、八幡小路から那珂西村(現在の東茨城郡城里町那珂西)に遷座した。
これに対し、神職氏子の請願等があり宝永6年(1709)現在地に再び遷座した。
*参道は太郎坂の下から階段を登ってが本道だった。
現在も当時のままの姿が残っている。
「烈公御涼所」
遠くに日光連山、久慈の山々、那珂川を眼下に望む。
元旦にはここから初日の出を拝む、御来光清祓式が行われる。
拝殿。
向かって左側に天然記念物に指定されている「お葉付銀杏」
本殿の後ろに「白旗山下製作所跡」の碑
この場所より東側になるが、九代藩主斉昭は鉄砲筒師・鉄砲銅物師・刀工・鎧甲制作師・鎧甲塗師などを住わせたので、この一帯は藩の兵工廠のような町となっていた。周囲には、石工・左官・大工などの職人も住んでいた。
このマンションの辺りが、藩の武器製作所跡地。
右奥の杜が水戸八幡宮。