「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

市立博物館コレクション展 @水戸市立博物館 其の①

2023年07月27日 18時41分55秒 | 博物館
市立博物館コレクション展 @水戸市立博物館 其の①
2023年6月10日~2024年1月8日





水戸市立博物館は昭和55(1980)年に開館以来、40年以上にわたり水戸に関する自然・歴史・民俗・美術といった分野の資料を収集・保存し、展示や調査・研究に活用してきた。
水戸市民会館のオープン記念特別展示として「コレクション展」が開催されている。

第1期 江戸から近代へ 水戸の作家たちの軌跡(6月10日~8月27日)
立原杏所(1785-1840)、五百城文哉(1863-1906)、中村彝(1887-1924)、横山大観(1868-1958)など、江戸から近代までの時代を象徴する作家たちの絵画や彫刻などの作品を展示。

*博物館の3階の半分が会場なので、作品数は少ないが時代の流れを通観できるようには展示されてある。
しかし、収蔵品は沢山有るのだから4階を使った構成で、多くを拝見したかった。



鍾馗図 東皐心越(1639~1696)
江戸時代初期に中国から渡来した禅僧。
徳川光圀に迎えられ水戸天徳寺(後の祇園寺)の開山となる。
詩文,書画,七弦琴にすぐれた。



鷹図 萩谷遷喬(1779-1857)
林十江、立原杏所とともに水戸の三大画人とされる。
水戸藩士で下梅香に住し、奥右筆や書院番などを務めた。
花鳥画や人物画などを得意とし,30代半ばに立原杏所が江戸詰めになった後は9代藩主徳川斉昭の肖像画や弘道館の小襖絵,弘道館碑上部の龍のデザイン、偕楽園・好文亭内の板戸絵(これは戦災で焼失)など様々なことに拘った。
彰考館や弘道館で活躍した水戸藩士青山延于・延光親子など多くの水戸藩士と交流した。作家でありデレクターともいえる。



日光東照宮 陽明門と神輿舎 五百城 文哉(1863年 - 1906年)

水戸藩士の子として水戸に生まれた。
1878年(明治11年)から翌年まで母校である水戸上市小学校の教壇に立つ。
(*わが母校の水戸市立五軒小学校)
1884年(明治17年)農商務省山林局雇となり、高橋由一の門に入る。
1890年(明治23年)その後、農商務省を依願退職し、肖像画や風景画を描きながら新潟地方や、茨城、栃木など、各地を遊歴。
1892年(明治25年)日光に住み、植物や名所を描く。
日光での弟子には小杉放菴や福田たね等がいる。
1893年(明治26年)シカゴ万博に「日光東照宮陽明門」を出品。
1901年(明治34年)日光を訪れた牧野富太郎と植物採集をする。
東京山草会の結成に携わる。1906年(明治39年)日光にて没、44歳。
高山植物を中心とする、植物学的な知識に基づいた精緻な植物画を得意とした。また、武田久吉らと交遊し「日本高山植物写生図」をのこした。



水温む 横山大観(昭和29(1954)年・
展示期間:7月25日(火)~8月27日(日)

横山大観(1868年- 1958年)
水戸市下市出身の近代日本画壇の巨匠(巨匠と呼ぶのに似合う人物はざらにいない・今だもって取引されている量や金額は多いという)
今日「朦朧体」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。

●築40年以上を経た博物館は、数年前に耐震工事が施されリニュアールが済んだが、照明を含めた展示空間までは手が届かなかった。
一方、新市民会館は巨費を投じて7月に開館した。
分相応の暮らしが持続可能な社会と思うが、コストに見合う運用がなされる施設のようには思えない。考えは人それぞれだから、評価は後の方々に任せる他にないが。
豊富でない市の財政を考慮すれば新たな博物館の計画は難しい。
しかし、何時までも中央図書館に付属した資料館的な博物館では歴史を誇る水戸と水戸を訪れる方々とっても良いことではない。
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世界のカバン博物館@台東区駒形

2023年07月26日 00時14分03秒 | 博物館
世界のカバン博物館@台東区駒形





駒形橋から雷門に向かってぶらぶらと歩いていたらビルの入り口に「世界のカバン博物館」(入館無料)の表示があった。
1階の受付で訊くと博物館は7階とのことで、エレベーターで7階に。



入り口には皮で作った馬と馬具・乗馬靴などがお出迎え。
西洋では鞄の類は馬具屋さんがルーツということが多い。

各種カバンの製造・販売会社「エース株式会社」は新川柳作により、1940年(昭和15年)に大阪で「新川柳商店」としてスタートした。
1975年に創業者・新川柳作が、カバンを通じて世界の風土や歴史を紹介する施設を作りたいという思いから「世界のカバン館」を開設。
2010年の創業70周年の節目に「世界のカバン館」から「世界のカバン博物館」へと大幅にリニューアルした企業博物館だが、鞄の博物館は珍しいのでは。









大小様々、内外のバッグやスーツケースが展示されてある。



鰐皮(クロコダイル)は異様で迫力がある。



アントニオ猪木が使用したボストンバッグ。



三浦雄一郎がエベレスト登頂に使用したバッグなど、希少品も。

街中散歩の途中休憩を兼ねてこのような施設があるのも、観音様の街・革製品の街・浅草ならではですね。
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駒形どぜう@台東区駒形1-7-12

2023年07月25日 17時01分29秒 | 
駒形どぜう@台東区駒形1-7-12



40~45年前に浅草在住の友人を訪ねた際に、連れられてこの店の暖簾をくぐった。話で聞いたことがある「どぜう鍋」が、我が家で食していたドジョウとは大違いだったびっくりした。
(末尾に、子供の頃の我が家のドジョウ料理がどうであったか記しておく。)



一階の入れ込みの座敷は、江戸時代と変わらぬ風情を感じる。
座敷に上がるのは下足を預け、木札を貰う。
他の「飯田屋」或いは桜鍋の「中江」や「みの家」なども同じスタイルで、江戸時代からの風情を感じる。
板の間には、竹か籐かあるいは別の素材か分からないが敷物が敷かれた上に客が一列に相席として座るのが宜しい。

この日は東京に住んでいる息子に江戸情緒を体験してほしい、と同伴した。
80を過ぎ、先があまりないと感じるこの頃、一緒に飯を食う・酒を酌む機会を作ろうと思っている。



品書きは沢山あるが、「どぜうなべ定食」と「さきなべ定食」をひとつづつ頼み、両方を味わうことに。
定食は「なべ、田楽、どぜう汁、お新香、ご飯」が付いてくる。



刻みネギが山ほどのり、一味と山椒が置かれた木桶が運ばれる。



先ずはビールで乾杯。
日本酒が良いのだが、この日の暑さでは麦酒だ。



豆腐と蒟蒻の味噌田楽。
江戸時代の居酒屋の人気のつまみは「味噌田楽」と聞いたことがあるが、その名残か。





小さな七輪に熾った炭火、その上に小さな鉄鍋に泥鰌。
「丸のまま」と「割いて骨を外した」は好みによるが、まるでも、生きたドジョウを酒に漬け水分が酒と入れ替わったら、江戸の白みそでじっくりと煮上げるから、骨は柔らかい。
「まあ、こんなに格好よく」と思える程に見事に並んでいる。

浅い小さな鉄鍋を使った「小鍋仕立て」の鍋料理は誠に趣がある。
「どぜう汁」も酒でころして、江戸白みそ仕立て。
コクがあって家でのドジョウ汁とは別物。

*泥鰌は、子供の頃の夏の食卓の定番の一つ。
近所の「八百徳分店」の店先の樽の中で上下に泳いでいる小さなドジョウを鍋持参で買いに行き、お袋が台所で火にかけるとバタバタと跳ね上がり、おとなしくなったら茄子と合わせて炒め煮、味付けは醤油、玉子でとじる。
細くて小さな泥鰌だが、骨も口に当たるし幾らかの苦みも有る。
そんな簡単な料理だが、妻が嫁にきてもお袋のレパートリーで子供たちも食べた。お袋が亡くなった頃にはドジョウも売らなくなった。
当然、丸のままで割いたりしないのが当たり前だった。
細い泥鰌を割くなんて包丁さばきは職人しかできない技だから。
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『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会のご報告

2023年07月24日 15時01分26秒 | シェジャニー
『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会のご報告





7月22日(土)午後5時から7時まで水戸市泉町「雑貨と珈琲の店・たけうち」で開催された『春田光治・魅惑の南仏料理』(1981年 中央公論社)~専門家の味をあなたの食卓に~を読む会が開催された。
本を回し読みしながらの説明や、秋田県横手市から駆け付けた眞壁明吉良さんの春田さんとの交流秘話。
『フレンチレストラン シェ.ジャニー ~魅惑の南仏料理~』のブログをOHPで写しながらの高橋からの説明など、食べてみなければ分からない料理の世界と、春田さんの人となりを幾分かを伝えることが出来たようだ。







2020年7月22日に盛岡のフランス料理店「シェジャニー」の春田光治さんが亡くなられて早くも3年が経った。
1969年に渋谷の自宅の一部を改装しにフランス料理店をオープン。
南仏やモロッコなどアラブ料理を含めた料理の数々は、その後のビストロブームの先駆けとなり、今では日本全国の定番料理として普及したメニューも沢山ある。
開店12年の頃に上梓された『春田光治・魅惑の南仏料理』は40年前の著作ではあるが料理本の名著と思っている。
料理の世界も変化が激しいが「春田光治の料理は世界一」と考えている人間として、春田さんの人柄と料理を伝えるにはこの本が最適と思っている。

渋谷から安比、そして盛岡へと移り住んだ春田さんと40年以上のお付き合いになるが、葬儀に行けず、お墓参りも出来ないで3年目を迎えるのが心苦しく思っていた。
店の常連さんやお弟子さんなど親しい方、料理や人柄に詳しい方々が大勢いる。そこから少し離れた輪の外にいたが、春田さんの料理の世界が大好きだ。
春田さんを偲んで今回の会を開くことができたことに安堵している。

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《春田光治さん略歴》其の4

2023年07月20日 18時55分23秒 | シェジャニー
《春田光治さん略歴》其の4



仔羊や内臓料理などを取り入れた新しいフランス料理、渋谷の閑静な住宅街の隠れ家的な店、若夫婦がもてなす家庭的な雰囲気などなど、多くの魅力で瞬く間に話題を呼び予約が取れない人気店となった。





さらに、昭和48(1973)年に開館したNHKホールの影響で渋谷の公園通りが脚光を浴びるようになり、コンサートの帰りに立ち寄る店としても便利な立地だった。
常連さんとしてシャンソン歌手・石井好子、女優・黒柳徹子、ファッション評論家・鯨岡 阿美子、ピアニスト・安川加壽子、評論家・古波蔵保好などが名を連ねている。

開店間もないころに、話題の店として紹介された雑誌を見た友人Hさんが、「この店で修業をしたい」と相談された。まもなく弟子入り志願し、最初の弟子となり働くことになったとなった。そのようなことで、シェ・ジャニーの存在を知ったが客として行ったことはなかった。



その後、客数の増加に伴い弟子も急激に増えた頃から、上京の際に僕も厨房に出入りするようになった。
閉店時刻の午前1時頃になると、ジャニーの知り合いや弟子の友人が集まってくる。
皿洗いのお手伝いと片付けの手伝いが建前だが、ジャニーの作る賄い料理のご相伴に与かりたいと集まるのだ。料理関係者ばかりでなく、街中の情報にたけた人たちが沢山くる。
その頃、水戸のレストラン「西洋堂」が赤坂にも支店を設け、こちらも盛業だった。
そんなことで、西洋堂主人・木下太介さんも時折、顔を出した。Hさんの同級生でバイトをする人もいて、水戸関連の人も多かった。
賄いは修行を兼ねて、店の新人が作ることが多いらしいが、シェ・ジャニーではシェフの春田さんが自ら行った。中華やタイやベトナムなどのエスニック時には和食など、春田さんが食べたい、試したいという料理を作る。充分に店のメニューとして出せる料理だから誰も食べたいのは当然で毎日、余分な人が集まる。
厨房には常時「菊正宗」樽の菰かぶりが用意されており、収蔵庫には糠漬けもある。
先ずは日本酒と漬物で乾杯してから食事が始まる。
食事が終わるのが2時から~3時頃、一斉に片付けて退出だが、時には朝まで仕込みの時もある。



翌日は、昼頃に集合して仕込みの食材を買い出しに行く。
野球が好きだった春田さん、従業員で草野球のチームが出来る程にスタッフが増え、試合も行うこともあった。忙しい厨房だが、テレビは野球中継も流れることもあった。

客として訪れたのは数回で、店内の状況はよく分からないが、厨房のスタッフが交代でサービスする方式だった。作ることに携わっている調理師がサービスするから、料理も詳しい。
僕自身は料理に詳しいわけでなく食べ歩きをした訳でもないから、この文章を含め間違いや知らないことばかりだ。
店のこと春田さんのことと料理に関しては、渋谷時代から安比・盛岡まで行動を共にした、ハモサンこと中村 美智男さんが一番詳しく知っているが、現在も盛岡在住なので話す機会もない状況で、今回の件についてもかなりあいまいな状況で書いている。
没後3年を経過し、何とか書き留めて置きたいとの気持ちによるので、断片的な話もある。

*春田さんは日本の夏の暑さに閉口していたので、開店当初から夏期の1か月は休業とした。期間中はフランスに渡り、各地を食べ歩き新たなメニューの開拓や店内のインテリアや食器などを買い整えた。

*私生活に関して話された機会は少なく、2017年1月10日放送のテレビ東京「鶴瓶の巷(チマタ)の噺」で中のインタビューVTRのコーナーで偶々、春田光治さんご夫妻がインタビューを受けたのが放映されたが、『学生結婚に始まり8回結婚し、現在の奥様とは41歳の齢の差。3番目のカミさんに2人の子供がいると自ら話している。』

僕が「シェ・」ジャニー」に出入りを始めた頃は開業時に2人で始めた2度目の奥さんとは離婚し独身だった。その方が青山の珈琲専門店Dで時折パートのバイトをしていたことをHさんから聞き、どんな方かと見に行った。その頃、僕は骨董に夢中で青山の骨董街に近いDは疲れを休めるに最適だった。

間もなく、春田さんは3番目の方と結婚し同居を始めた。
春田さんは生涯において結婚離婚を繰り返したが、ピカソと同様「惚れてしまえば後先なし、すぐにでも結婚したくなり」いやと感じたら顔も見たくなくなる感情の起伏があったように思える。
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Brewery Factory & Outlets ビール工場とアウトレットモール見学。

2023年07月20日 10時21分59秒 | イベント
Brewery Factory & Outlets ビール工場とアウトレットモール見学。
Social Field Trip for Foreign Residents 外国人市民のための社会科見学ツアー
July 16, 2023 (Sun)7月16日(日)曜日9:00 am ~ 5:00 pm











水戸市国際交流協会主催の取手のキリンビール工場と「あみプレミアム・アウトレット」見学に参加しました。猛烈な暑さでしたが無事生還。
外国人・水戸市民が大いに交流出来ました。













キリンビール工場の出来立てビールは味も香りも最高。」
注ぎ方にもよるのでしょう、試飲とはいえかなりの量でした。







「あみプレミアム・アウトレット」も初めての体験。
牛久大仏に近い場所、間近に見る大仏様は見事でした。
上空は成田空港への進入航路、次々と飛行機が飛んできます。



アウトレットでは90%引きの商品(定価の1割)というキャップ・短パン・Tシャツを購入しました。
楽しい一日を過ごさせていただきました。
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《春田光治さん略歴》其の3

2023年07月19日 18時15分35秒 | シェジャニー
《春田光治さん略歴》其の3

今では一般的なメニューとなった料理の幾つかを『春田光治・魅惑の南仏料理』から引き写し紹介します。沢山の中から好みを選びましたが、食べてみなければ分からない料理を写真では難しい。料理について詳しいことが分からないから、なおさらです。



ラタトウイユ=ニース風・野菜の煮込み。



クスクス=北アフリカ発祥でヨーロッパや中東に広まった。

小麦粉から作る粒状の粉食、要はパスタの一種ともいえる。
粟粒・米粒大の乾燥状パスタのような物をスムールとよび、蒸しあがったスムールにスープの具材をかけ、子羊の串焼きと一緒に食べる。



ケフタ=羊の肉をミンチし、ピーマンや玉ねぎを細かく切ったものと合わせ、クミンとコリアンダーを加え、細長いつくねにして網焼きにする。(モロッコ料理)





ムーサカ=羊と茄子の型蒸し。トルコ料理



仔羊の骨付き背肉のロースト。モロッコ料理



トリップ・アラ・モード・カン(カン風牛胃袋の煮込み)
トリップ・アラ・モード・ニース。(ニース風牛胃袋の煮込み)



ガスパチョ=冷製の野菜のスープ。(アンダルシア風)スペイン料理





仔羊腿肉とジャガイモのロースト「Gigot d'agneau à la boulangère」

等など、これらを初めて日本に紹介したのは彼である。

『春田光治・魅惑の南仏料理』(1981年 中央公論社)~専門家の味をあなたの食卓に~と云う企画で、有名シェフの料理がシリーズで刊行された。
第4巻が『春田光治・魅惑の南仏料理』。レシピや調理法も解説されてある。
南仏の景色や風物なども掲載され、楽しい本となっている。時代を越えた名著と思うが、ジャニーはレシピを含め書き直したいと思っていた。

*カメラマンの黒部徹さんは『79年フリーになり、最初の本格的な料理単行本でした。師匠(佐伯義勝)の姿に憧れ、フリーになってすぐにフランス放浪旅。
市場の捨てられた篭、牡蠣の篭まで拾って日本へ。ジャニーさんの本では活躍しました。その時のスナップも沢山使って頂き思い出一杯の本です。
後の家庭画報に連載された「安比料理工房」も毎回楽しかったです。「魅惑の南仏料理」の様な単行本が作れて良かったです、今も机の上にあります。』

*『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会@水戸市泉町「雑貨と珈琲の店・たけうち」2023年7月22日(土)午後5時から7時。
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春田光治さん略歴 其の2

2023年07月18日 12時49分20秒 | シェ・ジャニー
『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会
@水戸市泉町「雑貨と珈琲の店・たけうち」
7月22日(土)午後5時から7時


《春田光治さん略歴》其の2










帰国後、フランス人が日常食べている料理を提供したいと思い、昭和45(1970)年自宅の一画を改装し、夫婦2人で切り盛りする「シェ・ジャニー」開店した。自分が調理し、妻がサービスする家庭的な雰囲気の料理店。
渋谷の住宅街の洋館で提供される未知な料理の数々は、東京の料理界に新風を吹き込んだ。









後に、大流行するビストロ(小料理店)ブームのはしりで、他は「シェ・フィガロ」1軒。池波正太郎のエッセイにも“近頃、若手による活気のあるレストラン”として取り上げられている。
ジャニー自身は「ビストロ」という言葉は好きでなく「南仏家庭料理」の看板を掲げ、プロバンス地方のニンニクとトマト、オリーブオイルを使った家庭料理とアフリカやアラブ料理も加え、今では一般的なメニューとなった料理を始めて提供した。
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『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会

2023年07月17日 20時14分34秒 | シェジャニー
『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会
@水戸市泉町「雑貨と珈琲の店・たけうち」
7月22日(土)午後5時から7時(出入り自由)






2020年7月22日にジャニーこと春田光治さんが亡くなられて3年が経ちました。渋谷区神南の自宅の一部を改装して1969年に「Chez Johnny 」が開店し、瞬く間に繁盛店になりました。開店から15年を経た1985年、世はグルメブームとなり舌より頭で料理を食べる客が増えたことに嫌気して、大繁盛の店を閉め田舎暮らしを考え、1986年安比高原のペンション街の一角に100坪の住まいを造り移住した。10年を経過しレストランを再開、安比高原~盛岡と移り住むが何れも知る人ぞ知る、の仏蘭西料理店でした。時を経て「Chez Johnny “シェ・ジャニー”」を知らない方が殆どの時代となりました。
伝説の料理人・幻の料理人ともいわれた『春田光治・魅惑の南仏料理』を読み、ブログの記事えを見ながら春田光治さんの人となり、料理について、食についてのおしゃべり会を開きたいと思います。
会費は無料ですが、飲み物代は各自でご負担願います。

《春田光治さん略歴》其の1

昭和15(1940)年3月、兵庫県生まれ。
父は三菱銀行の銀行マン。生後間もなく東京の麻布に移り、幼稚舎から慶應義塾に学ぶ。



春田家の肖像・ジャニーが小学生の頃、裕福な家庭で育った。
左端の母親の手元に。

普通部(中学3年)の時に渋谷区北谷町、今のNHKの近くに引っ越した。
食糧難の時代背景であり食べるものに関心を示す。
母親の影響で、幼いころから料理に関心を持つようになり、中学時代は母と交代で料理を作り、料理コンテストにレシピを応募したこともある。
高校時代に買い求めたエスコフィエ著『LE GUIDE CULINAIRE』の原書を読み研究する。
この本は、終生の教科書となった。だったが、他にも多くのフランス語の料理の本を蔵し、疑問があれば常にひも解いていて、研究を重ねた。

家にはアメリカ人が出入りしていたようで、兄は「ケニー」姉は「パッツイ」光治は「ジャニー」と呼ばれた。以来「ジャニー」が通称となった。
そのような環境で育った、兄は早くにアメリカに渡りベルハウエルに勤務し、アメリカ人と結婚し、アメリカで暮らしている。



大学生の頃

外国に行くのが難しい時代であったが、昭和37(1962)年に慶応義塾大学卒業後にフランスに渡り、ボルドーの「プランティエ」で1年間修業する。
子供のころから包丁を握っていた彼の調理技術は高く、シェフも周りのスタッフも何の文句もつけなかったらしい。
大学在学中に学生結婚した、と語っているが2人で行ったかは不明だ。
ボルドーでの修行中にフランス料理について会得『料理は勘でも秘伝でもない、理屈です。一流の店のシェフはまるで医学書を読むように料理書に親しみ、何時も思索している。そして自分のレシピを公開することを惜しまない。レシピを他人に明かさないシェフはよほどの変わり者か三流の人だけです』が持論。
ボルドーでの修行の後、ジュネーブ駐在の青木大使が公邸付き料理人を募集していると知り応募し、昭和39(1964)年から4年間、公邸付き料理人となる。
大使は大変な食通で「美味しいモノなら何でも作ってみなさい」と言う。それなら、と多くの料理に挑戦して要望に応えた。
昭和43(1968)年、ベトナム大使館に転勤になった大使に同行し、ベトナムに1年の勤務を経て、ベトナム戦争の激化に従い帰国した。
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『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会

2023年07月06日 22時08分31秒 | シェ・ジャニー
『春田光治・魅惑の南仏料理』を読む会
7月22日(土)午後5時から7時(出入り自由)




会費:無料ですが飲み物代は各自でご負担願います。
会場:雑貨と珈琲のみせ「たけうち」(水戸市泉町)

2020年7月22日にジャニーこと春田光治さんが亡くなられて3年が経ちました。渋谷区神南の自宅の一部を改装して始まったお店が、瞬く間に繁盛店になり、予約の取れない店になったのが1969年、今から55年前のことです。
その時「この店知っている」との可視体験をしました。
結果として何かの繋がりがある方でしたが、それは後日談。

その後、安比~盛岡と移り住みましたが何れも知る人ぞ知る、の仏蘭西料理店でした。そのような「Chez Johnny “シェ・ジャニー”」を知らない方が殆どの時代となりました。
料理を言葉で表すのは難しいことですし、ジャニーの料理を食べることは不可能ですが、あえてこのような会を企画しました。



幾分かを伝える資料として『春田光治・魅惑の南仏料理』 昭和56(1981)年 中央公論社 発行があります。
~専門家の味をあなたの食卓に~と云う企画で、有名シェフの料理が中央公論社から1981年にシリーズで刊行された第4巻が『春田光治・魅惑の南仏料理』です。
この本とジャニーのブログを元にジャニーの人となり、そして料理を紹介したいと思います。

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