「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

六角堂と天心の墓所

2022年05月31日 23時37分22秒 | 文化遺産
六角堂と天心の墓所・五浦海岸ジオサイトと岡倉天心ゆかりの地を巡る(其之2)

「六角堂」
岡倉天心は、1903(明治36)年に飛田周山の案内で五浦を訪れ、中国の文人画に登場するような奇岩景勝の地を大いに気に入った。







二年後には、断崖絶壁の突き出た岬の先端に六角堂をかまえ、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点とした。

「六角堂」は東日本大震災の大津波によって流失したが、海底に沈んだ実物をできるだけ回収し、2012年に創建時の姿に蘇った。





「亜細亜は一な里」の碑。

天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。
『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まった。

そうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉績顕彰会が昭和17年に設立された。
これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、この碑が建立された。
「亜細亜ハ一なり」の文字は横山大観が揮毫し、横顔の浮き彫りは美術院同人の新海竹蔵が制作した。





岡倉天心墓所(「茨城大学五浦美術文化研究所」の道路を挟んだ山側)
大正2年(1913)9月2日、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井墓地に埋葬された。9月末、五浦の地に染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を造り、分骨が行われた。





天心の娘「高麗」の墓
天心のお墓のさらに奥、地元の人たちの墓地の一画に天心の娘・高麗の墓地が在る。天心と同じ「土まんじゅう」の形。



墓所の脇に縁者に依って2000年に建立された「追慕の記」碑
《碑文の一部》
 高麗(こま)は天心・岡倉覚三の娘、われら兄弟の父一雄の実妹、天心から「コマチー」の愛称で熱愛された。一九〇三年辰夫と結婚、不幸子宝には恵まれなかったものの、終生琴瑟相和し、全国各地へ転任の多い夫に随伴して内助の功を立てた。生まれつきの明朗闊達の人柄に加え、旧制仏英和高女卒でフランス語も能くし、豊かな教養、豊富な話題と湧き出るユーモアとウィットに富む会話、春霞みのような抱擁力などで、年令、身分、職業等の別なく誰からも愛され親しまれ、慕われた。夫妻は、晩年五浦に隠棲して天心墓地の墓守として暮らすべく、墓地周辺の此の地に建てる寓居の基礎工事も完了していたが、一九四五年春の東京大空襲で滝野川田端の旧居を消失、やむなく五浦に避難して旧天心漁荘に仮寓するうち、同年末、辰夫は逝去、遺骨は高麗の手により天心墓地を模したこの土饅頭の下に埋められた。以来、孤独の身となった高麗は、旧知の大津、五浦の人々の温情に支えられつつ、愛猫を唯一の伴侶に当時檜皮門の屋根も朽ち、茅屋同様の天心漁荘に気丈にも独居し、亡夫、亡父母の墓を守りつづけることまさに満一〇年、一九五五年十二月、七十二歳の天寿を全うした。
この碑の建立てに際しては、十余年間も天心漁荘の管理に尽くした俳人源郎・村山源治氏を初め、海上保安庁の村田実氏、石工緑川義男氏らの格別の御尽力、岡倉家とは千代次庄兵衛以来父子三代にわたる縁の深い渡辺、鈴木両家などの御協力に与った。深く感謝したい。
   二〇〇〇年二月吉日
                       岡倉 古志郎 
                       桐原 妙 (旧姓岡倉)
追記



西原昇二さんから写真と文章が寄せられました。
『今はなき六角堂をアップします。(東日本大信さんによる流失前)日本で最大級の炭酸塩コンクリーションによる硬質化した地層が隆起しました。この景観に惚れ、この地に建造したと言われています。(2010に本人撮影)』

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五浦海岸ジオサイトと岡倉天心ゆかりの地を巡る(其之1)

2022年05月31日 12時49分36秒 | 文化遺産
五浦海岸ジオサイトと岡倉天心ゆかりの地を巡る(其之1)







五浦海岸には名前のとおり、小五浦、大五浦、椿磯、中磯、端磯という5つの入江がある。
今から1700万年前に海底に溜まった砂や泥が固まって、台地の変動により持ち上がった。
それが波に削られて断崖や岩礁を作っている。



「茨城百景・五浦」の碑
岡倉天心はこの奇岩を、中国の文人画などに登場するものと同質と考え、天心が日本美術院や自邸としてこの地を選ぶ一つの要因であったとされる。



常陸の國五浦真景図 (明治10年代 歌川広重・三代目)



茨城大学五浦美術研究所
茨城大学五浦美術文化研究所は、1955(昭和30)年に設立された。
天心偉績顕彰会の会長横山大観から、天心遺跡(旧天心邸・六角堂・長屋門)の寄贈の申し出を受けてのこと。
1913年の天心の没後、遺族の住まいだったが、1942(昭和17)年、天心偉績顕彰会が遺族から管理を引き継いでいた。



門をくぐってすぐ左手に、1963年に建設された展示室天心記念館。
平櫛田中作の《五浦釣人》、《岡倉天心先生像》、天心の釣舟「龍王丸」などの関連資料が展示されてある。



記念室の隣には《ウォーナー像》と覆堂。

ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1 - 1955年)は、アメリカの美術史家でシルクロードの探検家としても知られる。
太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされる。





天心邸
ウォーナー像から苔むした小道を下ると視界が開け、左手に太平洋、右に旧天心邸を擁する広場に出ます。
天心邸は、この地に建っていた「観浦楼」という料亭の古材を再利用した。
天心没後改築され、往時の半分の広さになっている。
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磯浜古墳群(国指定史跡)@東茨城郡大洗町磯浜町

2022年05月29日 23時07分18秒 | 文化遺産
磯浜古墳群(国指定史跡)@東茨城郡大洗町磯浜町

大洗町役場の直ぐ近くに古墳時代前期から中期初頭の古墳群が在る。
「国指定の史跡」として文化財なのだが、その存在を最近まで全く知らなかった。







姫塚古墳・五本松古墳・五本松下古墳・坊主山古墳・日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳・車塚古墳の総数6基からなっている。



日下ヶ塚(常陸鏡塚)古墳

昭和24(1949)年に國學院大学により行われた、日下ヶ塚古墳(常陸鏡塚)の発掘調査で長大な粘土槨が確認され、内行花文鏡や変形四獣鏡、石製模造品、玉類、鉄製品、木製櫛など4000点に及ぶ副葬品が出土して、ヤマト政権との密接な関係が想定される古墳時代前期後葉の代表的な前方後円墳であると考えられた。
その後の調査で、周濠が巡ること、墳長が約101.4mで墳丘には壷型埴輪、円筒埴輪を樹立することもわかった。



古墳の手前、崖際に平坦な土地が在る。
幕末に「海防陣屋」として使われたそうだが、大洗港・マリンタワー・フェリーターミナルを含む太平洋を一望できる。
ここからの眺めは壮観だ。



そこから北側の急斜面を上り詰めると、墳丘の上に到達する。
昭和40(1965)年に建立された「史跡・日下ヶ塚古墳」碑。
西側に水戸や筑波山を望むことが出来る。
築かれた当時、墳丘の周囲には立木など無かったから、これ以上の眺望であったろう。

この様な場所に記念植樹をする場合もあるが、多くは鳥などに運ばれたりした種子が発芽し、大木となることが多い。
自然保護として樹木を伐採しない風潮が在るが、本来の景観を守るには定期的に伐採することも必要と思う。





「日下ヶ塚」からは直行出来ず、住宅地を迂回するようにして、中期初頭4世紀後半の車塚古墳(円墳・直径88m)に到達。
巨木が何本も茂り、頂上が見通せないほどに傾斜もきつく、磯浜古墳群の中では規模が大きい。
古墳時代が終焉を迎えた時期に造成された円墳。



頂上からの眺望は「日下ヶ塚古墳」以上に雄大だ。



車塚古墳の北側に位置する姫塚古墳(前方後方墳・全長29m)は前期前葉3世紀中頃の造営で磯浜古墳群の中では最古。

磯浜の地に100数十年の間、作り続けられた古墳群。
全てを人力に頼った古代人の逞しいエネルギーは想像を絶する。
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水戸八景「巌船夕照」@東茨城郡大洗町祝町

2022年05月29日 00時08分53秒 | 水戸今と昔
水戸八景「巌船夕照」@東茨城郡大洗町祝町







「巌船夕照」碑
横170cm、縦148cmの大理石(寒水石)。

願入寺山門前を右に「かんぽの宿」を左に折れてまもなく、入り口の標識が在る。
駐車スペースが2台分在り。
そこから崖沿いの細い道を下った途中、岬の先端。



那珂川と涸沼川の合流点の真上。
この日は前夜の雷を伴った大雨で水量が増加し、対岸側の那珂川の濁った水と手前の涸沼川の澄んだ水が明らかに異なっている。



対岸のひたちなか市那珂湊と大洗に掛かる赤い海門橋。



涸沼川の左奥に筑波山。
右側には茨城県庁舎が望める。

訪ねたのは午前中で碑文の「夕照」の時間帯ではないが、夕日が沈むころには麗峰が赤紫に映えるのであろう。
しかし、ここから夕映えを観るには懐中電灯でも持参しないことには不安。
ここを訪ねたのは40年以上前で「かんぽの宿」も建設されていなかった。
現在の願入寺の脇からの道路も作られていなかったから、墓地裏から藪道を辿ったように記憶している。
当時より分かりやすく成ってはいるが、途中の道標などもなく「水戸八景」としての多くの人々に訪ねてもらう努力が感じられないのは残念だ。





古刹の願入寺も東日本大震災によって損傷を受けてから、いまだ復興中で完成をみない。
40数年前の頃のことだが、積極的な広報活動がなされ多くの方が訪れた。
大洗観光の中心が鹿島線「大洗駅」~フェリーターミナルを含めたアウトレットやサンビーチ、近年の「ガルパン」名所めぐりなどに移り変わった。
とは言え、歴史的な「水戸八景」や「願入寺」を忘れ去ってしまうのは忍びない。
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水戸八景「巌船夕照」@東茨城郡大洗町祝町

2022年05月29日 00時08分53秒 | 水戸今と昔
水戸八景「巌船夕照」@東茨城郡大洗町祝町







「巌船夕照」碑
横170cm、縦148cmの大理石(寒水石)。

願入寺山門前を右に「かんぽの宿」を左に折れてまもなく、入り口の標識が在る。
駐車スペースが2台分在り。
そこから崖沿いの細い道を下った途中、岬の先端。



那珂川と涸沼川の合流点の真上。
この日は前夜の雷を伴った大雨で水量が増加し、対岸側の那珂川の濁った水と手前の涸沼川の澄んだ水が明らかに異なっている。



対岸のひたちなか市那珂湊と大洗に掛かる赤い海門橋。



涸沼川の左奥に筑波山。
右側には茨城県庁舎が望める。

訪ねたのは午前中で碑文の「夕照」の時間帯ではないが、夕日が沈むころには麗峰が赤紫に映えるのであろう。
しかし、ここから夕映えを観るには懐中電灯でも持参しないことには不安。
ここを訪ねたのは40年以上前で「かんぽの宿」も建設されていなかった。
現在の願入寺の脇からの道路も作られていなかったから、墓地裏から藪道を辿ったように記憶している。
当時より分かりやすく成ってはいるが、途中の道標などもなく「水戸八景」としての多くの人々に訪ねてもらう努力が感じられないのは残念だ。





古刹の願入寺も東日本大震災によって損傷を受けてから、いまだ復興中で完成をみない。
40数年前の頃のことだが、積極的な広報活動がなされ多くの方が訪れた。
大洗観光の中心が鹿島線「大洗駅」~フェリーターミナルを含めたアウトレットやサンビーチ、近年の「ガルパン」名所めぐりなどに移り変わった。
とは言え、歴史的な「水戸八景」や「願入寺」を忘れ去ってしまうのは忍びない。
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