六角堂と天心の墓所・五浦海岸ジオサイトと岡倉天心ゆかりの地を巡る(其之2)
「六角堂」
岡倉天心は、1903(明治36)年に飛田周山の案内で五浦を訪れ、中国の文人画に登場するような奇岩景勝の地を大いに気に入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/5b/3048d2116ba26554d0760e78bc7a287b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/7f/04a3174d2bdc27c607abad1902e6043d.jpg)
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二年後には、断崖絶壁の突き出た岬の先端に六角堂をかまえ、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点とした。
「六角堂」は東日本大震災の大津波によって流失したが、海底に沈んだ実物をできるだけ回収し、2012年に創建時の姿に蘇った。
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「亜細亜は一な里」の碑。
天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。
『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まった。
そうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉績顕彰会が昭和17年に設立された。
これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、この碑が建立された。
「亜細亜ハ一なり」の文字は横山大観が揮毫し、横顔の浮き彫りは美術院同人の新海竹蔵が制作した。
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岡倉天心墓所(「茨城大学五浦美術文化研究所」の道路を挟んだ山側)
大正2年(1913)9月2日、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井墓地に埋葬された。9月末、五浦の地に染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を造り、分骨が行われた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/af/5b95f44860411d27a2b5f4ca39a46d4e.jpg)
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天心の娘「高麗」の墓
天心のお墓のさらに奥、地元の人たちの墓地の一画に天心の娘・高麗の墓地が在る。天心と同じ「土まんじゅう」の形。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/96/9d2b039140ce68b126118d17dbf7311c.jpg)
墓所の脇に縁者に依って2000年に建立された「追慕の記」碑
《碑文の一部》
高麗(こま)は天心・岡倉覚三の娘、われら兄弟の父一雄の実妹、天心から「コマチー」の愛称で熱愛された。一九〇三年辰夫と結婚、不幸子宝には恵まれなかったものの、終生琴瑟相和し、全国各地へ転任の多い夫に随伴して内助の功を立てた。生まれつきの明朗闊達の人柄に加え、旧制仏英和高女卒でフランス語も能くし、豊かな教養、豊富な話題と湧き出るユーモアとウィットに富む会話、春霞みのような抱擁力などで、年令、身分、職業等の別なく誰からも愛され親しまれ、慕われた。夫妻は、晩年五浦に隠棲して天心墓地の墓守として暮らすべく、墓地周辺の此の地に建てる寓居の基礎工事も完了していたが、一九四五年春の東京大空襲で滝野川田端の旧居を消失、やむなく五浦に避難して旧天心漁荘に仮寓するうち、同年末、辰夫は逝去、遺骨は高麗の手により天心墓地を模したこの土饅頭の下に埋められた。以来、孤独の身となった高麗は、旧知の大津、五浦の人々の温情に支えられつつ、愛猫を唯一の伴侶に当時檜皮門の屋根も朽ち、茅屋同様の天心漁荘に気丈にも独居し、亡夫、亡父母の墓を守りつづけることまさに満一〇年、一九五五年十二月、七十二歳の天寿を全うした。
この碑の建立てに際しては、十余年間も天心漁荘の管理に尽くした俳人源郎・村山源治氏を初め、海上保安庁の村田実氏、石工緑川義男氏らの格別の御尽力、岡倉家とは千代次庄兵衛以来父子三代にわたる縁の深い渡辺、鈴木両家などの御協力に与った。深く感謝したい。
二〇〇〇年二月吉日
岡倉 古志郎
桐原 妙 (旧姓岡倉)
追記
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/0e/cf6813daac6949409ed02f7842c5a71f.jpg)
西原昇二さんから写真と文章が寄せられました。
『今はなき六角堂をアップします。(東日本大信さんによる流失前)日本で最大級の炭酸塩コンクリーションによる硬質化した地層が隆起しました。この景観に惚れ、この地に建造したと言われています。(2010に本人撮影)』
「六角堂」
岡倉天心は、1903(明治36)年に飛田周山の案内で五浦を訪れ、中国の文人画に登場するような奇岩景勝の地を大いに気に入った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/5b/3048d2116ba26554d0760e78bc7a287b.jpg)
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二年後には、断崖絶壁の突き出た岬の先端に六角堂をかまえ、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点とした。
「六角堂」は東日本大震災の大津波によって流失したが、海底に沈んだ実物をできるだけ回収し、2012年に創建時の姿に蘇った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/1f/f765795b3181d4797a1678401ea11276.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/2c/501eeac0f5b7a0fa71cdf928878e9040.jpg)
「亜細亜は一な里」の碑。
天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。
『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まった。
そうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉績顕彰会が昭和17年に設立された。
これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、この碑が建立された。
「亜細亜ハ一なり」の文字は横山大観が揮毫し、横顔の浮き彫りは美術院同人の新海竹蔵が制作した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/8c/0981c919e91a7d873016457fa93b84f3.jpg)
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岡倉天心墓所(「茨城大学五浦美術文化研究所」の道路を挟んだ山側)
大正2年(1913)9月2日、50歳で亡くなった岡倉天心は、東京の染井墓地に埋葬された。9月末、五浦の地に染井墓地と同じ土饅頭型の簡素な丸い墓を造り、分骨が行われた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/af/5b95f44860411d27a2b5f4ca39a46d4e.jpg)
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天心の娘「高麗」の墓
天心のお墓のさらに奥、地元の人たちの墓地の一画に天心の娘・高麗の墓地が在る。天心と同じ「土まんじゅう」の形。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/96/9d2b039140ce68b126118d17dbf7311c.jpg)
墓所の脇に縁者に依って2000年に建立された「追慕の記」碑
《碑文の一部》
高麗(こま)は天心・岡倉覚三の娘、われら兄弟の父一雄の実妹、天心から「コマチー」の愛称で熱愛された。一九〇三年辰夫と結婚、不幸子宝には恵まれなかったものの、終生琴瑟相和し、全国各地へ転任の多い夫に随伴して内助の功を立てた。生まれつきの明朗闊達の人柄に加え、旧制仏英和高女卒でフランス語も能くし、豊かな教養、豊富な話題と湧き出るユーモアとウィットに富む会話、春霞みのような抱擁力などで、年令、身分、職業等の別なく誰からも愛され親しまれ、慕われた。夫妻は、晩年五浦に隠棲して天心墓地の墓守として暮らすべく、墓地周辺の此の地に建てる寓居の基礎工事も完了していたが、一九四五年春の東京大空襲で滝野川田端の旧居を消失、やむなく五浦に避難して旧天心漁荘に仮寓するうち、同年末、辰夫は逝去、遺骨は高麗の手により天心墓地を模したこの土饅頭の下に埋められた。以来、孤独の身となった高麗は、旧知の大津、五浦の人々の温情に支えられつつ、愛猫を唯一の伴侶に当時檜皮門の屋根も朽ち、茅屋同様の天心漁荘に気丈にも独居し、亡夫、亡父母の墓を守りつづけることまさに満一〇年、一九五五年十二月、七十二歳の天寿を全うした。
この碑の建立てに際しては、十余年間も天心漁荘の管理に尽くした俳人源郎・村山源治氏を初め、海上保安庁の村田実氏、石工緑川義男氏らの格別の御尽力、岡倉家とは千代次庄兵衛以来父子三代にわたる縁の深い渡辺、鈴木両家などの御協力に与った。深く感謝したい。
二〇〇〇年二月吉日
岡倉 古志郎
桐原 妙 (旧姓岡倉)
追記
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/0e/cf6813daac6949409ed02f7842c5a71f.jpg)
西原昇二さんから写真と文章が寄せられました。
『今はなき六角堂をアップします。(東日本大信さんによる流失前)日本で最大級の炭酸塩コンクリーションによる硬質化した地層が隆起しました。この景観に惚れ、この地に建造したと言われています。(2010に本人撮影)』