「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

「里山-人と自然がつながる未来へ-」@水戸市立博物館

2014年11月09日 21時13分49秒 | 博物館

「里山-人と自然がつながる未来へ-」@水戸市立博物館

11月16日(日)迄

 

昨日訪れた「常陸秋そばフェスティバル里山フェア」の会場、常陸太田市の「ヤマブキ運動公園」の里山の紅葉が綺麗だった。

 

西の谷のイチョウやモミジも色づき始めた。

住まいに近い場所の紅葉は人と樹木の繋がりを感じる機会だ。

 

水戸市立博物館の「里山-人と自然がつながる未来へ-」が11月16日まで開催されている。

博物館は水戸市立中央図書館の2階と云う事もあって、覗く機会は多い。

展示室が2・3・4階に分かれていることや、展示空間の照明などに問題があるが、予算の都合で改善されないは、残念だ。

図書館と共有の建物と云うのも問題で、独立館として検討された時期も在ったが、立ち消えとなってしばらく経つ。

少子高齢化の時代の財政は難しいだろうが、大型の市民会館建設などに多額の費用が必要なのかと、疑問を感じる。

 

 

「里山-人と自然がつながる未来へ-」の会場は、

里山に生きる動植物を通して里山の森林保全の大切さを訴えている。

 

 

模型の展示であったが、管理の行き届かない里山は荒廃し災害を引き起こすようになる。その様な状況の場所を身近に見かける機会は多い。

 

 

筑波山麓(桜川市眞壁町)で1931年に開かれた「第1回植樹祭」が植樹祭の始まりのようだ。

 

 

間伐材や製材の端を利用した「木質ペレット」は、環境やエネルギーに効果が大きそうだ。

 

木質ペレットを利用したストーブも展示されていた。

暖房ばかりでなく、調理などにも使える利点がある。

余裕が有れば(スペースや購入費)使いたい。

 

この展覧会でふれてはいないが、茨城県は、県北地域や筑波山周辺などの森林や霞ヶ浦を始めとする湖沼・河川などの自然環境を、良好な状態で次世代に引き継ぐために、平成20年度から平成29年度までを課税期間とする「森林湖沼環境税」を導入され、県民1人が年間1000円を支払っている事実を認識している人は少ないようだ。

 

森林は全ての環境問題の原点。

多くの方たちが展示を観て、それぞれに感じてほしい。

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那珂川のアキアジ

2014年11月09日 11時47分02秒 | 水戸

那珂川の献上鮭@水戸市城東

 

『常陸国風土記』(奈良時代初期の713年に編纂され、721年に成立した常陸国・現在の茨城県の大部分・の地誌)に現・日立市助川で鮭を獲っていた記載があるとのこと、常陸の国は鮭の遡上の南限と云われる。

江戸時代も那珂川を登るサケが珍重され、その年初めて獲れる「初サケ」は必ず藩主に献上され、光圀も毎年必ず食べていたという。

初サケは麹と塩で漬けられ、江戸に献上されたが、水戸で漬けたサケが江戸に運ばれるうちに、ちょうどよい漬かり具合になったのだそうである。

塩麹、最近はやりの言葉、と思ったが、考えてみれば本来の保存の方法だ。

「初霜漬」と呼ばれるこの逸品、こんがりと炭火で焼き上げる。熱々の新米で戴けば、正に、水戸の秋だ。

 

我々の子供の時代も、那珂川の鮭は秋の味覚。

卵を醬油とみりんに漬け込む。白子はお澄ましの具に。骨や頭はアラ汁にと、全てを食べつくした。

北海道産や外国産が主流を占める時代になったが、秋になれば「那珂川の鮭」を食べたくなる。

幸い、近所の魚屋に10月頃に少量だが店頭に並ぶ。

身の色は赤くなく薄いオレンジで脂は載っていないが、これがサッパリとした鮭本来の味。養殖のノルウェーサーモンとはまるで別物。

脂の乗ったものを好む最近の風潮は、味覚を狂わせてしまったようだ。

 

那珂川の鮭漁は水戸藩が特定の家に対して免許を下していたが、戦後は漁業組合が管理し、捕獲と採卵、人工ふ化をして稚魚を放流する方法に変わった。

人工ふ化に関して、那珂川は早い時期から取り組んできた。

 

今年も10月に3度ばかり味わうことが出来た。

漁の期間は9月から10月までと思っていたら11月末までらしい。

那珂川流域の何か所かで「鮭の流し網」が行われている。

 

水郡線の鉄橋下流、「新寿橋」の間の漁場を見に行った。

二隻の船が、長さ約100メ-トル深さ5.6メ-トルある網を川いっぱいに広げて流し、一定の時間を経て引き上げる。

漁期の始まる9月前に川底をダイバーを入れて清掃しないと、流木が絡んだりして上手くいかないので、厄介らしい。

 

昔ほど高価で取引されないが、自然味わいが人気で、築地の市場にも出荷され人気が有るようだ。

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常陸秋そばフェスティバル@常陸太田市

2014年11月08日 21時30分19秒 | イベント

常陸秋そばフェスティバル@常陸太田市

11月8日(土)・9日(日)

 

 

「常陸秋そば」は今や全国的な銘柄となった。

その発祥地として知られる常陸太田市で,新そばができる時期に合わせて「常陸秋そばフェスティバル里山フェア」が開催される。

今年は、常陸太田市合併10周年と云う事で、盛りだくさんの内容だ。

 

 

新蕎麦を食べ歩き、農産物等特産品直売コーナーなどで秋の味覚を満喫することが出来る。

 

 

姉妹都市・交流都市の秋田市・仙北市・牛久市・臼杵市の物産展。

 

広島県達磨雪花山房の高橋名人、来年は九州に移転するので、来年の参加は未定と伝えられていたので、長蛇の列だった。

 

運動公園の「武道館」里山の風景、良いですね。

 

ホーリーホックも参加しました。

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多賀城の瓦 @東北歴史博物館

2014年11月06日 21時56分39秒 | 博物館

多賀城の瓦 @東北歴史博物館

 

 

平安朝の貴族や文人の奥州(みちのおく・陸奥)に対する憧れは現代人とは比較にならない程に強かったらしい。

「宮城野」「信夫」などの地名が歌人たちに歌い継がれて「歌枕」として独立したものになっていった。と云う様な事を司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んでわかった。

芭蕉の『奥のほそみち』もそれらを辿る旅でもあった。

 

文学的なことより古瓦の名品である「山田寺の瓦」、に劣らぬ魅力をもつ「多賀城出土の瓦」は洗練されてはいないが、力強さを感じ、「多賀城」の地に対し漠然とした思いを抱いていた。

 

仙台市博物館で開催された「室生寺展」(7月4日から8月24日)を観た翌日、松島に行き帰途に塩釜経由で多賀城跡を訪れることが出来た。

 

多賀城は、神亀(じんき)元年(724年)、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端に築かれ、規模は約900メートル四方におよび、ほぼ中央には重要な儀式を行う政庁があった。

陸奥国を治める国府として、また陸奥・出羽両国を統轄し、さらに、東北地方北部の「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込む役割も担った多賀城は、奈良時代には鎮守府も併せ置かれるなど、東北地方の政治・軍事の中心だった。

 

とは言え、奈良や京都の様に歴史的な場所が沢山有る訳ではない。

仙台の郊外と云う感じの地方都市の風景。

 

東北本線の「国府多賀城」駅は遺跡の端になるが、隣接して「東北歴史博物館」がある。

宮城県立の博物館だが、多賀城ばかりでなく、東北の歴史資料が展示されている。

昨今、どこも現物ばかりでなく複製資料も多い。

現品の重要性を考えれば、仕方ないとは思うが、品物に重さを感じることが出来ない。

 

 

お目当ての多賀城遺跡出土の瓦。

「宮城県多賀城跡調査研究所」の度重なる発掘調査などで、何期にも渡る建築や瓦の年代なども分かってきた。

これは、創生期に近いのでは。

 

距離的にも近い、陸奥国分寺・陸奥国分尼寺との関連性もあるようだ。

陸奥国分寺の瓦(仙台市博物館)かなり似てます。

 

●水戸に戻って調べて分かったが、発掘調査による研究報告『多賀城様式瓦の成立とその意義』(須田勉)には「台渡里遺跡長者山地区との関連」と題し、台渡里遺跡長者山地区の造営に携わった工人たちが多賀城に移ったのであろう。という推論が示されている。

水戸と多賀城が密接な関係にあったと云う事は、嬉しい発見だった。

 

 

多賀城南門付近にある高さ2mの石碑は日本三古碑の一であると云われる「多賀城碑」歌枕で有名な「壷碑」とも呼ばれている。

 

碑面 には、多賀城の位置、神亀元年(724)に多賀城が大野東人によって創建されたこと、762(天平宝字6)年に修復されたことなどが彫り込まれている。

 

●時間の関係で現物を見ることは叶わなかったが、複製が展示されている。

 

碑の拓本。

碑面の一部には「去常陸國界四百十二里」と刻されており、常陸の國との繋がりも強く感じられる。

 

多賀城廃寺跡

 

東北歴史博物館の後ろの丘に徒歩10分足らずの所に、多賀城と同じ時期に建てられ、塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・僧坊などからなる寺院跡。

主要な建物配置が大宰府の付属寺院の観世音寺と同じで、これを手本にして建てられたと考えられている。

昨年、大宰府を訪ねた時を思い起こした。

 

*『奥のほそみち』には、多賀城:元禄二年五月八日)

 

かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。

 壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。

 

むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。

 

古人の旅の心に比べ、我々の安易なる心を反省せざるを得ない。

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関頑亭の 仁王像 @東金砂神社

2014年11月03日 11時23分12秒 | 人と作品

東金砂神社の 仁王像 @常陸太田市天下野町9740

 

今日(11月3日)は文化の日、この日は雨の降らない特異日と言われる。

ここ数日、定まらない天候だが、昨夜の雨も上がって、晴れた空に秋の雲。

11月1日からの3連休も今日でおしまい。

毎日が休日の徘徊老人にとって、あえて混雑に出かけることは控えようとしていたが、外出の心は治まらず。

 

1日はケーズデンキスタジアムでの横浜FCを迎えての水戸ホーリーホックの応援に。雨とあって、屋根付のメインスタンドに席をとったが、応援の子供達がいっぱい目についた。ホーリーホックが着実に市民の間に根付きつつあることを実感する。

 

雨にもかかわらず観衆は4,121 人、横浜のサポーターはごくわずかだったから、天候でも良ければ6000人は集まっただろう。

前半28分にCKから新里が先制点を奪ったが、42分には小池に同点弾を許してしまう。後半42分にはCKから鈴木雄が勝ち越し点を奪うものの、45分に寺田に得点を許してしまい、2-2の引き分けに。

 

二度のリードを守り切れずの引き分けは負けに等しい。

前節の讃岐戦は、見せ場も無くてスコアレスドロー。

最近のホームゲームしまらない試合が多い。

とは言え、勝ち点1を得て、14位になったから健闘と云うべきか。

J2からの降格は脱し、15日(土)の栃木との最終戦を心置きなく戦うのを応援したい。

 

2日は、雨も上がって暖かとなったので、予ねて考えていた「東金砂神社」に行くことに。東金砂神社は山田川の谷を挟んで西金砂神社と対をなしている。

しかし、両社の間隔はかなりある。

 

西金砂神社は道路が整備されているので何度か行ったが、東金砂神社までの山道はかなり狭いらしく、行ったことが無かった。

 

金砂神社は延暦25(806)年創建の古刹で、2003年(平成15年)に開催された第17回「金砂神社磯出大祭礼」で広く知られるようになった。

渡御行列が神輿を担いで、西金砂神社・東金砂神社と水木浜の間を延べ10日で往復する神事で、行列は500mに及ぶ。

72年に一回という長いスパンで開かれるから、2度見るという人は稀だろう。

 

幕末の天狗党の乱や明治政府による廃仏毀釈などの混乱でなくなっていた東金砂神社の山門に仁王像が本年2月に安置された。

 

東京国立市の仏像彫刻家・関頑亭(がんてい)さん(94)が制作した約2メートルの阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二像。

漆を何度も塗り重ねる「脱活乾漆」と言われる技法で、制作に約5年を要したという。


仁王像の制作を関頑亭さんに依頼し寄進したのは、近くでそば店「慈久庵」を経営する小川宣夫さん。小川さんはこの地(現・常陸太田市、旧・水府村)の生まれで、都内でそば店を開き水府産の蕎麦粉を使用し評判の店だった。

蕎麦による地元の発展を願い、帰郷して龍神ダムの近くに「慈久庵」を開店した。自らも蕎麦畑を切り拓き、栽培し、製粉する。自家製の蕎麦を使用し、全てを自分一人で調理しサービスする。

開店と同時に満席となる評判の店で、全国からお客さんが来る。

 

 

東金砂神社までの登山道は車一台がやっとの林道で対向車が来たらどうしようと思うような道で勾配もきつい。

 

社務所の脇のモチノ木、樹齢約500年とか。

 

仁王門までの階段はかなりの角度。

 

 

「阿形像」は怒りの表情を顕わに。

 

「吽形像」は怒りを内に 秘めた表情に。

 

 

更に、「田楽堂」までの階段も急だ。

 

本殿

田楽堂からさらに、急な階段を上ると本殿。

西金砂神社のような見晴らしではなかった。

 

多くの寺社仏閣で感じることだが、急な山の傾斜地などに、人力しかない古の人々が堂宇を築いた信仰心にはただ圧倒される。

 

下山し、龍神峡に向かう県道は車の列。

これらの車の、何分の一でも東金砂神社を訪れても良いのではとも思ったが、対面交通のできない山道では、どうしようもない。

何れは整備されるだろうが、この清閑な環境を守れるか、難しい問題だ。

 *関頑亭さんは私が骨董に入門した当時(約40年前)、古美術の愛好家として度々紹介された著名人で、現在もご活躍とは存じ上げなかった。東金砂神社の宮司さんの話によると、開眼会にもお見えになったとのこと。
94歳にしてお元気らしい。彫刻家は長寿の方が多いように思う。

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