「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

森英恵さん死去

2022年08月19日 19時18分00秒 | 水戸今と昔
森英恵さん死去
日本のファッションデザイナーの草分けで、チョウをモチーフにしたデザインで国際的に活躍した森英恵さんが8月11日東京の自宅で死去した。96歳。
1996年に服飾デザイナーとして初の文化勲章を受けた。



(茨城新聞1面)

水戸芸術館を運営する水戸市芸術振興財団の理事長を1998年から務め、音楽評論家で初代館長の故吉田秀和さん、指揮者で館長の小澤征爾さんとともに、多彩な芸術文化の発信基地としてけん引した。



(茨城新聞25面)

森さんは1998年から約24年間、同館を運営する水戸市芸術振興財団の理事長を務めていた。優れた芸術作品を身近に鑑賞する機会を提供。自身も同館で3回の展覧会を手がけ、華やかな会場は大勢の観客でにぎわった。
同館の案内スタッフ「ATMフェイス」の制服もデザインした。
2000年10月から採用された制服は、今も当時のまま。紺色のワンピースに赤色のベルトを差し色に使い、スカーフには森さんが長年モチーフにしてきたチョウの柄が入る。





19日放送の「徹子の部屋」では、森さんの追悼特集が放送された。
「お作りになるお洋服は、女性的で、感覚的で、しかも品格があり、外国のどこに着て行っても堂々としていられました」。
 TBSの音楽番組「ザ・ベストテン」での衣装の多くは森さんのデザインだったなどの思い出を語った。
90歳を越えられても全てが若々しく、とても年齢には見えない。





息子の嫁のパメラさんと孫の泉さんが出演した回では、ケンカしたことがない仲良しファミリーであることや家族の集合写真も紹介された。





水戸芸術館開館30周年記念事業として「森英恵 世界にはばたく蝶」展が2020年2月22日から5月6日まで開催された。
2000年に「森英恵展 東と西の出会い」を開催しており、本展は20年ぶりで生涯の軌跡をたどる展覧会となった。





「森英恵 世界にはばたく蝶」展のオープニングレセプションに長男の森顯・パメラ夫妻と次女の雪さんが出席された。
レセプションの席で写真をご一緒、という図々しいことはしないのだが,この時はなぜか。
追悼番組の「徹子の部屋」を見て思い出して探したが、2年前の2月でコロナの蔓延する辛うじて前のことで、その後は、展覧会も中止とかレセプションも行われていないように思うから、それだけに懐かしい。
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茨城県立県民文化センター(現・「ザ・ヒロサワ・シティ会館」

2022年08月18日 19時53分09秒 | 水戸今と昔
茨城県立県民文化センター(現・「ザ・ヒロサワ・シティ会館」)







茨城の文化に大いなる功績と足跡を残した「茨城会館」に代わる文化施設とし、全国的にも誇れる近代的なもの作ろうと、当時の茨城県知事・岩上二郎は県民の要望に応え1966(昭和41)年に「茨城県立県民文化センター」が誕生した。

大ホールは1500席の多目的ホールで、各種講演会・式典・コンサート・コンクール等で幅広く利用されている。
小ホールは386席の規模として、講演会・研修会・音楽発表会・映画上映等目的に応じて利用されている。
中央の食堂(現在は休業中)を挟んで2階建ての展示棟が建設され、2階には「茨城県美術博物館」が開館し、名実ともに県民文化センターとなった。

2019年の命名権募集で金属加工業「廣澤精機製作所」がこれを取得し、新名称は「ザ・ヒロサワ・シティ会館」となった。(契約期間は3年間・契約額は1千万円)

美術博物館は1988(昭和63)年、隣接地に「茨城県近代美術館」が開館することになる。



県民文化センター落成当日。
1963(昭和38)年に建設地を現在地の千波湖畔に決定された。
当初は茨城会館の生まれ変わり的な発想だったが、美術家団体からの強い要望もあって県立美術博物館をも内蔵する文字通りの文化センターが誕生した。
「茨城会館」と同様に県の直営と考えられたが、民間的なセンスとサービスが望ましいと「文化福祉事業団」(現いばらき文化振興財団)が管理・運営を委託することになった。

15日間にわたる祝賀公演では松竹歌舞伎・NHK交響楽団・バレエ公演などが連日にわたって繰り広げられた。





美術博物館は1988(昭和63)年、隣接地に「茨城県近代美術館」として独立会館。



事業団が直営する「文化センターグリル」はホテル同様のメニューとサービスで公演日以外でも多くの客を集め、パーティーなども行われるなど新たな社交の場となった。
賑わったグリルの窓は塞がれ「休業」の立て札。
世の中の移り変わりは如何ともしがたいとしても往時の賑わいを思い出すと何とも侘しい気持ちだ。



1500名収容の大ホールも、ここ数年のコロナ渦という状況下で公演を含めた利用が少ないようだ。
(基本的には貸しホールで、運営財団の主催する事業は多くはない)

*開館から半世紀以上、当初の数十年間の多彩な企画は豊かな暮らし実感させてくれるのに充分であった。
近年、足が遠のいているのは己の意欲の欠如によるが、アフターコロナの生活様式の変化を含め、大ホールなどの公演や文化施設に対する考えが変化していることも事実だろう。
来年7月に開業予定の「水戸市民会館」の工事が進んで、企画運用の準備段階になったようだ。
当初から懸念されている問題が多いにもかかわらず、見直すこともなく進んでいるように思える。開館当初の数年は物珍しさもありある程度の集客はあるだろうが、その後の運営はどのように考えているのだろうか?
他の同様施設の現状を十二分に把握し、慎重に進めていただきたい。
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旧茨城県立図書館@水戸市三の丸1丁目

2022年08月16日 18時22分58秒 | 水戸今と昔
旧茨城県立図書館@水戸市三の丸1丁目



旧茨城県立図書館(1956・昭和31~2000・平成12)
入り口は北側の田見小路に面していた。



俯瞰写真。
左下、白の3階建が図書館で道路を挟んで水戸市水道低区配水塔。
図書館の後方の建物は茨城県警察本部庁舎と並んで県庁舎。



フェンスの辺りが入り口。
当時の建物は撤去され現在は駐車場。
旧弘道館と県庁舎(現・三の丸庁舎)配水塔などが残され、大手門と築地塀・隅櫓などが再建された三の丸エリア、中学・高校を過ごした65年前頃とは大きく変わった。



水戸市水道低区配水塔、道路を挟んで図書館と県警本部庁舎があった。
1932年(昭和7年)築の配水塔は国の登録有形文化財。
近代水道百選、土木遺産にも選定されている。(高さ21.6m、直径11.2mのコンクリート製円筒型。)
近年、建設当時の色に塗り替えられ、夜間はライトアップされるなどこのエリアのランドマークとなっている。





2000年(平成12年)12月 - 新たな図書館を新設するため、旧図書館を閉館。
2001年(平成13年)3月 - 1970年(昭和45年)竣工の旧県議会議事堂に、新たな図書館が開館。



開館当時の館内。
中央に「母子像」(木内克作)
県会議事堂として建設された際に設置されたものを継続した、と考えられるが当初からこの場所かどうかは不明。



1904(明治37)年に水戸城内・旧彰考館跡地(現・水戸二中)に開館し、1945(昭和20)年に空襲によって焼失した県立図書館。

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茨城会館@水戸市三の丸・水戸城址

2022年08月14日 20時17分02秒 | 水戸の今と昔
茨城会館@水戸市三の丸・水戸城址



1935(昭和10)年6月に開館した「茨城会館」



跡地は1970年(昭和45年)旧県議会議事堂となった。
旧県議会議事堂を改修して2001年(平成13年)3月 に「茨城県立図書館」として開館。

ひと頃、市町村など地方公共団体が競ってコンサートホールなどを建設し、多彩なイベントが開かれるようになった。
ところが、コロナ渦による生活様式の変化も含め、施設過剰で遊休となっている所も多々あるのが現状だ。
しかし、戦前から戦後にかけての時代は公共施設の公会堂は極めて稀だった。
茨城県においても「茨城会館」(現在の県立図書館のところ)が唯一の公会堂だった。



開館記念祝典
1935(昭和10)年6月に竣工した鉄筋コンクリート3階建て・延べ面積2500㎡(約750坪)の施設。舞台はあるが客席は固定椅子でなく、撤去すれば床面は平らになる多目的なホールで、当時としては豪華な施設だった。

街中に映画館が多数存在した時代で、映画演劇などを除くと「茨城美術展」などの美術展に使用された記録は残るが、他の用途について詳しいことは分からない。
1945(昭和21)年8月1日の空襲により、水戸市内の8割以上が焼失した中で、鉄筋コンクリートの開館は屋根や壁は損傷するが本体は残った。

1949(昭和25)年に復興し1966(昭和41)年に茨城県民文化センターが開館するまでの17年間にわたって、美術展覧会・演奏会・演劇・歌謡ショー・ダンスパーティー・ファッションショー・アメリカ中古衣料販売など、幅広く使用された。



ファッションショー(1954年)

貸会場だから幅広い催事に使用されたが、外国人演奏家を含め著名なタレントの公演は新聞社が関わった事業が多い。
とりわけ地元紙の「茨城新聞」は多彩な事業を主催・後援した。
戦前に生まれ、戦後の耐乏生活を余儀なくされた人々にとって、娯楽の少ない時代、茨城会館での公演の数々はそれぞれの思い出があろう。

*『水戸に文化の灯がともる ―舞台公演戦後史―』(竹内昱之助著 発行:県民文化センター友の会 昭56・1981)には詳細が記載されており、参考にした。
●余禄
1960(昭和35)年に「水戸市高校演劇祭」として、水戸一高・三高の合同公演が開催され、演劇部だった私も舞台を踏んだ。
(記憶に残る催事などあればコメントください。)
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「木内克の全貌展」@茨城県立美術博物館

2022年08月11日 10時20分28秒 | 美術館
「木内克の全貌展」@茨城県立美術博物館
1970年9月12日―27日




「郷土が生んだ彫刻の巨匠・木内克の全貌展」のカタログ表紙(1970)



水戸市立博物館で「彫刻家・木内克のまなざし展」が7月23日(土)~8月28日(日)まで開催されている。
“夏休み子どもミュージアム”として企画されたが、生き生きとした猫や人体など、子供も大人も楽しめる展覧会として好評だ。



本展に先立つこと52年前の1970(昭和45)年9月12日―27日、茨城県立美術博物館で彫刻家・木内克の全容を紹介する展覧会が開かれた。
105点の彫刻と版画・デッサンを加えた129点が陳列され、生命感に溢れた作品は多くの共感を呼んだ。
彫刻界においては、テラコッタの技法やアルカイックな彫刻の精神を継承する作家として注目を集めていたが、この展覧会により木内克の人と作品は広く知られるようになった。



『木内克の世界』土方定一

巻頭に美術評論・美術史家の土方 定一(1904- 1980)による人と作品の紹介されている。土方は岐阜県生まれで、旧制の水戸高等学校から東京帝国大学に学び、1965年に神奈川県立近代美術館館長・全国美術館会議会長を務めるなど美術評論界で活躍した。











カラー図版を含め、32ページにわたって作品が紹介されている。



巻末には酒井忠康編纂の「木内克の歩み」と題する年譜が添えられ、時代背景を含め木内作品に対する理解が深まる。
今は豪華なカタログが流行りで、これほどのものが必要なのかと疑問に思うことがある。それから見たら質素だが、当時としては珍しい本格的な展覧会カタログとなった。

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世界的にも珍しいパレットコレクション@笠間日動美術館

2022年08月04日 17時29分54秒 | 美術館
世界的にも珍しいパレットコレクション@笠間日動美術館







パレット館はピカソやダリなどのパレット340余点を展示。
笠間日動美術館は1972年(昭和47年)11月に、東京・銀座の日動画廊創業者、長谷川仁・林子夫妻により、創業45年と金婚式を記念し、長谷川家ゆかりの地である笠間に創設された。
その後、敷地・建物・収蔵品が増えて、今年で開館50周年を迎える。
西洋の近代、日本の近・現代の巨匠が描いた絵画を中心に3千点を超す所蔵品を展示している。









世界的にも珍しいのは、ピカソやダリを始め国内外の著名画家が愛用したパレット画コレクションで、長谷川が親交を深めた画家たちから譲り受けた340余点という世界に例がなく、美術史的にも貴重な品々だ。
開館当初の主要なコレクションで、お稲荷さんと笠間焼の街がアートの街として変貌するきっかけとなった。
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絵の中のワンダーランド@笠間日動美術館

2022年08月03日 11時46分42秒 | 美術館
絵の中のワンダーランド@笠間日動美術館
2022年 7月16日(土)~9月25日(日)








巨大な花を描いて話題となった、渡辺香奈による10メートル超の大作《The River》はじめ、動物たちによるコミカルな世界など、同館の所蔵品を中心にした約60点を紹介する展覧会。







各作家の個性が光る不思議な世界が楽しめる。



1Fに常設の「鴨居玲の部屋」を観て、竹林を望む出窓に設置されているジャコメッティの彫刻をみるのも笠間日動美術館の楽しみ。







2 階中央展示室では、全国から公募した小中学生の「第 6回全国こども絵画コンクールinかさま」( 7 月 16 ~ 9 月 25日)が開催されている。
本年度は全国103の小・中学校の参加で、668点の作品が集まり217点が入選。うち41点が「茨城県知事賞」をはじめとする各賞に輝いた。
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『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会

2022年08月02日 08時03分24秒 | 本・雑誌
『木内克の言葉』 和田敏文 著 発行:農山漁村文化協会
(人間選書) 1978(昭和53)年11月1日 233p








水戸市立博物館で「彫刻家・木内克のまなざし展」が7月23日~8月28日まで開催されている。
木内克は1893(明治25)年に水戸に生まれ、海野美盛に学んだ後に朝倉文夫に師事。1921(大正10)年より渡英・仏、フランスで15年間を過ごした。ギリシャのアルカイック彫刻に魅せられのテラコッタの技法を習得する。
1935(昭和10)年に帰国後は二科会、新樹会に発表した。戦後の活躍はめざましく、日本を代表する彫刻家となった。
1977(昭和52)年に85歳で生涯を閉じたが、82歳を迎えた1974(昭和49)年に第49回茨城国体のモニュメント「女神像」(高さ5.6m)を完成させるなど、晩年になるほど大作が多い。
‘75年’76年にはバリ島、台湾、タイへのスケッチ旅行をするなど、創作意欲は旺盛だった。





『木内克の言葉』(和田敏文著)は20歳で彫刻家を志し、生涯にわたり独立独歩の在野精神で貫かれ心のうちに触れることが出来る。
木内作品を扱っていた「ゆーじん画廊」の和田敏文が1974(昭和49)年から1977(昭和52)年までの4年間にわたり、制作を終えモデルが引き上げた午後6時ころから木内家の家族と夕食を共にしながら対話した筆録集 。
4年間の記録ではあるが、海野美盛に学んだ後、朝倉文夫に師事し、1921年より渡英・仏で15年間を過ごした時期を含め、戦前戦後まで多岐にわたる内容だ。





巻末には略年譜が記されているので、木内克の全貌を覗うことが出来るといっても過言ではない。
一日当たり半ページ、時には1ページくらいの短い文章だが、そこまで言って大丈夫?と思える「歯に衣着せぬ」発言はまっとうで、水戸人としての矜持をいかんなく発揮している。

*例として15頁から16頁を紹介すると。

『昭和四九年四月七日(日)〔木内克先生応接間〕
ぼくの先生の朝倉文夫には天性のある利口さがあった。無益な芸術論なンかする人じゃなかっ た。
朝倉文夫のことは「銅像や」というが、肖像彫刻としては一級品だ。その制作数だけを見ても、 やはり、大変な作家だといえるだろう。
気取ってばかりいた、高村光太郎なんか問題じゃない。

朝倉は金儲けにせよ、名誉であるにせよ、とにかく一生懸命、仕事をした人だ。 世の中では清水多嘉示や山本豊市のように、それぞれ「私はブルデルの弟子です。私の先生はブルデル」「私はマイヨールの弟子です。 私の先生はマイヨール」と、言った方が権威があ るし、画商もその方が得らしい。
ぼくなんかも時として、ブルデルの弟子・・・・・・などと間違って言われることがある。冗談じゃない よ。ぼくはただブルデルの研究所に通っただけで、弟子なかじゃない。
そのことだけはハッキリとケジメをつけなくちゃ………………。
ブルデルの弟子というと、世の中で高く買ってくれるのかね。そんなこと言うの、ぼくはイヤだよ。
ぼくは朝倉文夫の弟子なんだ。』

*『木内克の言葉』は水戸市立図書館、茨城県立図書館に収蔵されている。
借りてきて読まれることをお勧めする。

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