「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

長久保赤水資料群・其の2@茨城新聞みと・まち情報館 その他の遺墨などを読む

2023年09月28日 21時28分51秒 | 講演会
長久保赤水資料群・其の2@茨城新聞みと・まち情報館
その他の遺墨などを読む




赤水肖像幷家訓

この肖像画には「雪旦写」と落款がある。
雪旦といえば、長谷川 雪旦(1778- 1843・江戸時代後期の日本の絵師)だが、」時代も若干ずれているので、長谷川でないとすれば、地元の画家であったと思われる。
上段に自筆で書かれた家訓は、子孫が行うべきこと・行ってはいけないことなど述べている。
天明六年丙午十二月望 
水戸藩侍講 長久保玄珠 行年七十書
とあり、赤水70歳の自筆。

侍講とは字のように、藩主のお側近くに侍はべり、書物などを講ずる役である。
江戸の水戸藩上屋敷に常住し、殿様ばかりでなくその弟や若殿、また御家老から一般の侍まで教える教育係で多忙であった。貴重な資料に接する機会も貴重だった。
「百姓御殿へ上がり候事は先例これ無く、始めての事に候」と郡奉行皆川教純が記す、水戸藩では赤水が初めてのことであった。
葵の紋が入った着物と羽織を与えられた姿は誇らしく感じられる。



「赤水図」
立原杏所・任(画家・立原翠軒の長男)翠軒宅で描いた赤水の肖像画
木村 謙次(1752年- 1811・江戸時代後期の水戸藩の学者、探検家)賛
立原杏所は水戸藩に所縁のある人物の肖像画を何枚か描いているが、何れもその人となりを想像できる素晴らしい作品だ。

大日本史地理志編纂の特命
侍講を勤め上げ70歳で隠居格ともなれば、お役御免だが、藩主からは養老の料として七人扶持、宍戸藩主からも三人扶持を賜わり、藩主からは「大日本史地理志」の編集に従事するよう特命が下った。
息子たちが故郷に帰るよう手紙を出したのに対し、「地理志は、我等一命を懸て君侯御直之御仰を守り(中略)に死候までも其朝迄は、地理志の筆をとりて死申事を本意と存候」と返事した。

藩主からの意向は杏所を通じて行われ、肖像画が贈られた。

*木村 謙次(1752年- 1811)
常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。
立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだほか、農政学にも通じていた。34歳のときに松島・仙台を旅したのち、奥羽地方や蝦夷地を何度も調査した。1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げた。当時の奥羽や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。
江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆した。





杉田雨人 1934 『長久保赤水』杉田恭助

この文を書きかけているときにYさんから「Gさん宅にお伺いしませんか」とのお誘いがあった。
Gさん宅の母屋で天ぷらそばをご馳走になり、久しぶりに浮世話をした。
帰りしなに書棚に『長久保赤水』(杉田雨人 1934)を発見。
奇遇なことに驚く。90年前に評伝が刊行されていたのだ。

評価の高まる長久保赤水だが、知れば知るほどに奥深い。
連続講座(全3回)の第3回は9月14日(水)の午前10時半から正午まで、水戸市南町の茨城新聞みと・まち情報館で開催される。
講師は長久保赤水顕彰会の佐川春久会長。

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長久保赤水資料群・其の1@茨城新聞みと・まち情報館

2023年09月26日 19時42分08秒 | 講演会
長久保赤水資料群・其の1@茨城新聞みと・まち情報館





長久保赤水(1717~1801年)の生涯と功績を学ぶ連続講座(全3回)の第2回が9月14日(水)の午前10時半から正午まで、水戸市南町の茨城新聞みと・まち情報館で開催された。講師は長久保赤水顕彰会の佐川春久会長。





参加者全員に配布された『国の重要文化財指定記念誌・長久保赤水資料群』
この本を資料に佐川春久会長が解説された。

1.いったい何者?江戸時代の地図男!長久保赤水

遠祖は九州の大名大友家の流れを汲み、現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
北条氏に攻め落とされ、東に逃げ、現在の高萩市赤浜に定住し代々農業に従事し庄屋となる。



長久保赤水像・自画自賛 赤水自筆
藩主から葵の紋の衣服を賜った。

11歳で天涯孤独となった赤水。
農作業をしながら寸陰を惜しんで勉学に励む。
かの有名な二宮金次郎に先駆け、書を懐に農作業に勤しんだ。
書籍・師・学友・旅人などから多くを学ぶ。
多くの書からミクロ的、マクロ的な複眼の視点をもって多くを学んだ。

2.『赤水図』の原稿を読み解く
長久保赤水は35歳の頃から日本地図の構想を始めた。
全国の絵図(模写図)や天文図は個人では見ることが出来ないので、水戸彰考館の図書係、立原蘭渓・翠軒親子や名越南渓、水戸藩の天文家であった小池友賢の指導を受け自らも天文書の研究をした。



ポルトラーノ型日本図草稿
海図を元に緯度経度による日本全体の正しい地形を描写した。
現地での測量を中心とした伊能忠敬と違って、赤水は文献から正確な図面を作成した。



『飛騨国図』
赤水の手書き図で国名の由来など地誌的記載もある。
『瀬戸内船路及び西国街道図』など船路の図もある。

3.中国地図の手書き原稿を読む



『三国鼎峙図草稿』 (唐土歴代州郡沿革図)
35.3 x 38.8cm 高萩市歴史民俗資料館所蔵 (長久保甫氏 寄贈)
和紙に極彩色で、『唐土歴代州郡沿革図』中国・ 三国鼎立時の手書き原稿、
中国に関する資料も多い。



『朝鮮興地之図』朝鮮半島の絵図
中川氏蔵本写、と表紙に書かれており、長崎奉行の中川忠英が作成した地図を赤水自身で書写した。唐通時(中国語翻訳官)を動員して清の江南や福建などから来た商人から聞き、これらを図説化した。当時は情報を図に書き込むのが普通の方法だった。



マテオ・リッチの6枚図を長久保赤水が1枚図にまとめた世界地図を読む。
地球を球形としてとらえ、平面の地図を立体的に表した地図。

経緯線・山川・湖沼・都市・島なども記されている。

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新治廃寺跡古瓦

2023年09月25日 11時46分07秒 | 骨董・古美術
新治廃寺跡古瓦







複弁蓮花紋鐙瓦(奈良時代)直径20㎝、最大幅10㎝。

骨董の世界に入門して間もなくの頃から古瓦や塼(せん)や塼仏に興味を持った。
大方は破片で完全な形ではない。だからこそ、欠損部分を想像しながら観る「残欠の美」の味わいが良いと思う。
奈良法隆寺内の巨大な塔心礎が現法隆寺とは別の寺院の若草伽藍跡だと、法隆寺再建を確定した石田茂作博士が「瓦礫洞人」と自称し仏教遺物や仏教遺跡を対象とした仏教考古学を提唱したことにも大いに影響された。
韓国・慶州「仏国寺と石窟庵」を訪れた際は李朝の白磁・高麗青磁と共に、古瓦の残欠を買った。どれも欠損や修複品ではあったが、大いに満足したものだ。
当時、旅をした仲間達も大方はあの世に旅立ってしまったが、50年以上を経過しているからやむを得ないことだ。

河和田の骨董商「S」に、しばらく前から「新治廃寺跡古瓦」が並んでいた。
ほぼ完品に近く、繊細な文様も残っている魅力的な瓦だ。
50年ほど前に国道50号線の「裏筑波ドライブイン」近くの新治廃寺跡碑に車を停めて、辺りを散策した。道路反対側の農家の納屋のようなところで新治廃寺の瓦を多数見た。
今になってみれば、在野の考古学研究者である藤田さんのコレクションの一部だったのだろう、近畿の寺の瓦に劣らない美しい瓦だと思った。
茨城県内で出土する古瓦では「石岡の国分寺・尼寺」「水戸の台渡廃寺」「新治廃寺」などに優品が多い。
思い出の品だが、今さら、と何度か迷った挙句に最後の買い物として持ち帰った。
洗剤をかけてブラシで汚れ洗うと線刻がより鮮明になり白い色も取り戻した。
連弁の部分が平坦と思ったが、わずかに膨らみのあるカーブを描いて立体感もある。
周縁のギザギザした鋸歯紋(きょうしもん)が摩耗して薄っすらしか見えないのが残念だが、複弁の連弁や中央の連珠紋も良く残っており、しばらくの間は楽しませてもらえそうだ。







2023年9月23日(土)・24日(日)に茨城県立歴史館講堂で開催されたシンポジウム「瓦から読み解く古代社会の諸相-基礎資料の集成と分析-」茨城県考古学協会主催のチラシのメイン図版として「新治廃寺跡古瓦」が掲載された。
23日に出席し、大谷昌良氏の講演を聞くことが出来た。
専門的な話が多かったが、新治廃寺と隣接の上野原窯跡について。
藤田清が蒐集した考古学関係資料や高井悌三郎との遺跡発掘調査などもいくらか分かった。

*『常陸国風土記』(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。
口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。
新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている。
*常陸国は、大化改新(645年)により646年(大化2)に設置される。
現在の石岡市に国府と国分寺が置かれた。
常陸国分寺の建立は752年(天平勝宝4年)とあり、同年5月に百済王敬福が常陸守に任ぜられた。
そののち新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた。

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偕楽園の萩まつり@水戸・偕楽園 9月9日(土)~10月1日(日)

2023年09月24日 18時01分37秒 | 水戸今と昔
偕楽園の萩まつり@水戸・偕楽園
9月9日(土)~10月1日(日)





偕楽園の萩まつりが行われている。
会期は10月1日までだが、開花が遅れていたのでこれからが見頃だ。
偕楽園公園といえば梅を連想するが、四季を通して多様な樹木や草花を楽しむことが出来るのが、あまり知られていないのが残念だ。

偕楽園の萩は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が偕楽園創設時に仙台藩から譲り受け、植えたものと言われている。
宮城野萩を中心に白萩・山萩・丸葉萩など、総株数約750株が咲き競う。
萩の花はすこぶる小さいので、じっと目を凝らして観ることが大切だ。
万葉集の植物で一番多く詠まれているのが「萩」の花。
江戸時代は、お花見ならぬ「萩見」が盛んだったというから、もう少し見直されても良い。





松の木陰に若い女性のグループがお茶を楽しんでいた。
ネパール人の留学生とのこと。





結婚記念のアルバムを撮影しているカップルとの女性写真家。
披露宴で紹介する写真などを撮っていた。
自分の50年前を思い出す。





偕楽園で自慢出来るのは、手入れの行き届いた松の樹。
2代藩主・徳川光圀の作った湊御殿「い賓閣」の古木には及ばないが見事だ。





任天堂といえば今はコンピューターゲームだが、我々の時代は花札。
花札の7月は萩で、萩と猪の組み合わせで、萩=臥猪の床として知られる。
野生の獣が萩を寝床にして身を休めるという事だが、広義で天下泰平を表しているとも言われる。
望月玉泉《萩野猪図屏風》
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ぴょんぴょん舎・盛岡駅前店@盛岡駅前通9-3 ジャーランビル 1F~3F

2023年09月19日 19時00分27秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その参
ぴょんぴょん舎・盛岡駅前店@盛岡駅前通9-3 ジャーランビル 1F~3F






ぴょんぴょん舎 盛岡駅前店
盛岡冷麺の名を全国に広めるきっかけとなったお店とのことで、郊外の本店は広い敷地らしい。駅から数分のビル1階から3階まで洗練された空間だ。
焼肉と冷麵というより、カフェ・レストランというお洒落な感じ。
観光客ばかりでなく、地元の人たちも多いように感じた。





盛岡は光原社なども在り、民芸品・工芸品のレベルの高い街であるがこの店の絵画や什器備品や壺などは何気なく飾られているが存在感がある。







メニューには多くが並ぶ。
焼肉+冷麺というのがスタンダードなコースらしいが、近ごろは胃袋が小さくなりたくさん食べられないので冷麺だけを注文。
麺はコシの強い中太麺でモチモチの食感。
スープは牛肉や牛骨に鶏ガラを加えた旨味たっぷり。
キムチは冷麺専用で、爽やかな酸味と辛味が特徴だとか。



東北新幹線盛岡駅は(東北本線・山田線・秋田新幹線・田沢湖線・銀河鉄道線)のターミナル駅ということもあり駅舎も大きいし、駅前広場を取り巻くホテルやレストランも多い。盛岡市の人口は28万人で水戸市とほぼ同じなのに、街の規模と活気は水戸市の何倍もある。年間を通しての観光客は比べようもないほどに多い感じだ。
岩手県の人口は120万人で盛岡市は約1/4を占め。
茨城県の人口は280万人で水戸市は1/10で、県都としての存在感が薄いのが甚だ残念だ。
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盛岡の街をブラよーちゃん その弐 「一ノ倉邸」@盛岡市安倍館町19-64

2023年09月18日 23時01分13秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その弐
「一ノ倉邸」@盛岡市安倍館町19-64






観光案内所で頂いた地図によれば岩手大学の西側、北上川の上流に「一ノ倉邸」という明治時代に作られた庭と建物があると記されてある。
すぐ近くと思って向かったが、目的地と思われる辺りで人たちに聞いても分からず、右往左往したのちにやっと行き着くことが出来た。







この庭園と建物は、明治後期に盛岡市出身の政治家 阿部 浩により造られた由緒と歴史のあるもの。その後、一ノ倉氏に譲渡され、市民からの保存要望を受け、平成4年に盛岡市が取得した。



この施設は盛岡市の所有だが管理運営などは外郭団体とボランティアに委ねられている。一ノ倉邸管理保存委員会の初代会長 西郷和子さんが平成4年から30年もの間、仲間と一緒にこの一ノ倉邸を守り続けてきた。
ここを憩いの場として多くの市民が訪れたらしい。その方が亡くなってから役目を引き継いでいる若い女性が案内してくださった。
背景の品々は西郷和子さんのコレクションで没後に寄贈された。





廊下に掲げられてあった絵画作品。
これも、西郷コレクションだったとのこと。
僕も好みの作で、観たことのあるように思うが、誰の作かは不明。
分かる方がおられたら、ご教授願いたい。

猛暑の中、汗まみれで自転車をこぎ続けた甲斐があり、市民に愛される憩いの場に来ることが出来た。
地方公共団体の施設は規模の大きさや人数の多寡でない、真に愛される施設であることが大切だ。
〈開館時間〉 10:00〜16:00〈 休館日 〉 月・火





市内に戻って盛岡城址や岩手銀行赤レンガ館などを見学。
ニューヨーク・タイムズ紙が発表した「2023年に行くべき52カ所」に盛岡市が選出された理由は「歴史的な和洋折衷の建築が残る街並み」「中心市街地を流れる川や城跡公園などの自然」「書店や珈琲、喫茶店文化が根付く町」であることなどを挙げ、「歩いて回れる珠玉の街」と表現した。
4キロ四方にほぼ街が入る、まさにコンパクトシティーで従来の商店街がおよそ8割は残っているように感じた。
新幹線で上野~盛岡間は約2時間10分~50分、 距離は535.3キロ。
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盛岡の街をブラよーちゃん その壱

2023年09月17日 12時43分50秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その壱



開運橋脇「FPホーム’s自転車駐車場」でレンタサイクルを借りた。
旅先では必ずレンタサイクルを利用するが、1回1日 200円は格安だ。
宇都宮のように無料の街もある。
全国組織のレンタシステムが多くなり、アプリをダウンロードしての利用や支払いなど、年配者には使いにくい。



宮沢賢治が生前に刊行した童話集『注文の多い料理店』を出版した光原社。
道路を挟んで2か所あるが。この隣が元の「シェジャニー」。
ここは大好きな場所で、何度も訪れている。



元「シェジャニー」の内・外装はそのままに、イタリア料理「pullussagio(プラッサッジョ)」になった。夜だけの予約営業らしい。



旧盛岡農林高等学校(現・岩手大学)本部。



石川啄木の像。



啄木も住んだ旧盛岡農林高等学校の寄宿舎の跡地。



山邊の五葉松。
岩手大学の敷地は武家屋敷で植物園の辺りは山邊邸だった。



松の近くの蓮池の睡蓮の前で。



岩手大学旧正門・農学部



旧正門に至る楊柳の並木。
開設時はこちらからが正式ルート。

*ニューヨーク・タイムズ紙が発表した「2023年に行くべき52カ所」に盛岡市が選出されたこともあって、外人さんが多いのではと危惧したがそのような感じはしなかった。
夏の一大イベント「盛岡さんさ踊り」(8月1日~4日)や「お盆」が終わった8月22日~23日だったことだからだろう。
しかし、東北の盛岡でも連日の猛暑だった。
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中村 美智男・成美さんご夫妻

2023年09月15日 23時57分10秒 | シェジャニー
中村 美智男・成美さんご夫妻



「シェジャニー」の渋谷時代から、安比さらには盛岡に至るまで春田光治さんと永らく行動を共にしたハモさんこと中村 美智男さんと会いたい、というのも今回の盛岡訪問の目的の一つだった。
「我が家で昼飯でも一緒に」という返事を頂き、22日の12時半に盛岡駅前に迎えに来ていただき、15分足らずの郊外の御自宅へ。
奥様の成美さんと初めての対面。





友人が釣ってきた、大きなヒラメがあるから、と捌いて刺身に。
渋谷時代からスーシェフだったハモさんは何にでも興味を示す春田さん(ジャニー)の良きアシスタント、安比では春田さんと渓流釣りに多くを費やし、イワナなどの魚料理も手を伸ばした。
今でも釣り仲間が多いらしく、釣果の多い友人から差し入れもあるのだろう。
冬の安比では春田さんと共に猟銃を携え、ウサギやカモなどを狩りジビエ料理に凝った時期もある。



手打ちそば
春田さんはそばも大好きだった。
常陸太田の蕎麦の名店「慈久庵」店主の小川亘夫さんとも友人。
従って、春田さんと共にハモさんも蕎麦打ちに精進した。
この日は友人に差し上げようと打った蕎麦のおすそ分け。



黄ニラの水餃子。
春田さんは中華も大好き、黄ニラの水餃子はシェジャニーの賄料理の代表格。
お取り寄せなどにも販売したらしい。
どちらかといえば、ハモさんの得意料理のようだ。



フランボワーズのソルベ。
今では一般的だがシェジャニーでは渋谷の頃から提供していた。



ハモさんと。
気が付けば4時半、食事をしながら3時間半も過ごした。
シェジャニーの渋谷時代~安比~盛岡・材木町、50年間に及ぶ話しだから、それでも話したりないところや、記憶があいまいなところも多々あった。



ジャニーとハモさん、かば焼きを焼くの図。
春田さんはウナギも大好きだった。

春田光治さんはこの世を去ってしまったが、多くの人々に多くの思い出を残した。有難うございました。

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ラ・メゾン ポデタン(La Maison Pot d'Etain)@八戸市番町2

2023年09月14日 19時32分43秒 | シェジャニー
ラ・メゾン ポデタン(La Maison Pot d'Etain)@八戸市番町2



念願がかなって春田さんのお墓をお参りすることが出来た。
「これから、八戸の「ラ・メゾン ポデタン」に参りましょう」と真壁さん。
春田さんの安比時代のお弟子さんの三浦祐紀さんが独立し、八戸でフランス料理店を始めて21年になる。
私も2017年8月に訪問し、ジャニー流+ポデタン流の料理を味わった。
盛岡から100キロ、高速を使用しても2時間を要する。

お墓参りの後にお弟子さんのお店で食事をするという、夢のプランが実現するとは思いもしなかった。
これも春田さんの思し召しなのだろう。





厨房の2方向が開放され、調理の様子が眺められるライブキッチン。
八戸の魚と近郊の農家の野菜をうまく取り合わせた料理を提供する。
地元の料理人たちによる「八戸やさいマルシェ&七夕ブイヤベース」などのイベントの中心人物でもあるらしい。



別室の食卓は、春田さんの自室のダイニングテーブルを譲り受けた。
このテーブルを囲んで春田家と縁のある人たちが集い、食べて飲んだ思い出に満ちた食卓で、私もこのテーブルを囲んで何度か楽しい時間を過ごした。
ポデタンの部屋に寸法を合わせたから、当時よりかなり短い。





我々の席の脇に、亡き春田さんの為のミニ膳が用意されてあった。
一緒に食事をどうぞ、という心遣いだ。前菜を含め、次々と料理が並んだ。
「シェジャニー」の冷凍庫にあったブイヤベースを頂いてきたのが有ると、提供してくれたのだ。何というご縁だろう、春田さんの料理が3年以上を経て並んだのだ。「味はどう!」と、にこやかに眺めている。







使用する野菜は八戸近郊の農家さんの畑が主だが、在来危惧種の保存にも力を入れ、使い道を模索している。「糠塚キュウリ」は胡瓜というより瓜に近い在来種で今が旬のようだ

次々と料理が並んだが、詳しく覚えていない。
不思議な一日だった。



眞壁さんお気に入りの三浦さんと大笑いしている春田さん。
「私の印象はこの顔、笑いこそ春田先生というイメージです。最高のショットです。」と眞壁さんは言う。
三浦さん、真壁さん有難うございました。

●La Maison Pot d‘Etain
青森県八戸市番町2 電話:0178-22-3383
営業時間:月~土、祝日、祝前日: 11:30~14:00
(料理L.O. 13:15 ドリンクL.O. 13:30)
18:00~22:00 (料理L.O. 20:00 ドリンクL.O. 21:30)
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故・春田光治さんのお墓にお参り @徳玄寺「盛岡庭苑」(盛岡市名須川町)

2023年09月12日 09時01分26秒 | シェジャニー
故・春田光治さんのお墓にお参り @徳玄寺「盛岡庭苑」(盛岡市名須川町)



2020年7月22日に盛岡市材木町のフランス料理店Chez Johnny「シェ・ジャニー」オーナーシェフ春田光治さんが亡くなられた。
葬儀に参列することが出来なかったし、墓参の思いも叶わず3年を経過した。

2023年8月21日に予定した中・高時代の仲間3人の旅が急遽中止となった。
ならば、念願のお墓参りと思い立ち秋田県横手市の眞壁明吉良さん(春田さんの料理と人間性に惚れ込んだ「春田教」の信者同志といえる間柄で、既に、何度もお墓参をされている)に連絡し、お寺の場所などをお伺いした。
速攻で返事を頂いた。盛岡駅まで出迎え、その足で徳玄寺「盛岡庭苑」の墓地まで案内して下さるという。
横手~盛岡は約100キロで水戸~東京と同じ距離、高速を経由しても2時間以上を要するにも拘らずの、ご厚意である。
お受けするには、あまりに厚かましいとも思ったが、これも春田さん思し召しかと、お任せすることになった次第。



午後3時半、盛岡駅到着に合わせ出迎えていただいた車で10分足らずで、お寺さんの多い地区の一角の徳玄寺に。
本堂裏の、樹木葬墓地「盛岡庭苑」は寺の墓域とは別の従来とは異なった墓地の様式だった。

東京で生まれ育った春田さんにとって、岩手県の安比や盛岡は異郷の地であるが、35年を過ごした第2の故郷でもある。
しかし、春田家は鶴見の総持寺に立派な墓地も在るのに何故、という疑問も感じていた。「墓なんて、何処でもいいだよ」という自由人・春田さんの気持ちが分からないことでもないが。
会えば必ず、春田さんの料理と人柄について話し合った眞壁さんと共にお参り出来るのは、予定された縁だったのかと。「春田先生が脇に立たれていた」と眞壁さんは言った。そうかもしれない。





徳玄寺・樹木葬墓地「盛岡庭苑」。
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