長久保赤水資料群・其の2@茨城新聞みと・まち情報館
その他の遺墨などを読む
赤水肖像幷家訓
この肖像画には「雪旦写」と落款がある。
雪旦といえば、長谷川 雪旦(1778- 1843・江戸時代後期の日本の絵師)だが、」時代も若干ずれているので、長谷川でないとすれば、地元の画家であったと思われる。
上段に自筆で書かれた家訓は、子孫が行うべきこと・行ってはいけないことなど述べている。
天明六年丙午十二月望 水戸藩侍講 長久保玄珠 行年七十書
とあり、赤水70歳の自筆。
侍講とは字のように、藩主のお側近くに侍はべり、書物などを講ずる役である。
江戸の水戸藩上屋敷に常住し、殿様ばかりでなくその弟や若殿、また御家老から一般の侍まで教える教育係で多忙であった。貴重な資料に接する機会も貴重だった。
「百姓御殿へ上がり候事は先例これ無く、始めての事に候」と郡奉行皆川教純が記す、水戸藩では赤水が初めてのことであった。
葵の紋が入った着物と羽織を与えられた姿は誇らしく感じられる。
「赤水図」
立原杏所・任(画家・立原翠軒の長男)翠軒宅で描いた赤水の肖像画
木村 謙次(1752年- 1811・江戸時代後期の水戸藩の学者、探検家)賛
立原杏所は水戸藩に所縁のある人物の肖像画を何枚か描いているが、何れもその人となりを想像できる素晴らしい作品だ。
大日本史地理志編纂の特命
侍講を勤め上げ70歳で隠居格ともなれば、お役御免だが、藩主からは養老の料として七人扶持、宍戸藩主からも三人扶持を賜わり、藩主からは「大日本史地理志」の編集に従事するよう特命が下った。
息子たちが故郷に帰るよう手紙を出したのに対し、「地理志は、我等一命を懸て君侯御直之御仰を守り(中略)に死候までも其朝迄は、地理志の筆をとりて死申事を本意と存候」と返事した。
藩主からの意向は杏所を通じて行われ、肖像画が贈られた。
*木村 謙次(1752年- 1811)
常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。
立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだほか、農政学にも通じていた。34歳のときに松島・仙台を旅したのち、奥羽地方や蝦夷地を何度も調査した。1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げた。当時の奥羽や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。
江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆した。
杉田雨人 1934 『長久保赤水』杉田恭助
この文を書きかけているときにYさんから「Gさん宅にお伺いしませんか」とのお誘いがあった。
Gさん宅の母屋で天ぷらそばをご馳走になり、久しぶりに浮世話をした。
帰りしなに書棚に『長久保赤水』(杉田雨人 1934)を発見。
奇遇なことに驚く。90年前に評伝が刊行されていたのだ。
評価の高まる長久保赤水だが、知れば知るほどに奥深い。
連続講座(全3回)の第3回は9月14日(水)の午前10時半から正午まで、水戸市南町の茨城新聞みと・まち情報館で開催される。
講師は長久保赤水顕彰会の佐川春久会長。
その他の遺墨などを読む
赤水肖像幷家訓
この肖像画には「雪旦写」と落款がある。
雪旦といえば、長谷川 雪旦(1778- 1843・江戸時代後期の日本の絵師)だが、」時代も若干ずれているので、長谷川でないとすれば、地元の画家であったと思われる。
上段に自筆で書かれた家訓は、子孫が行うべきこと・行ってはいけないことなど述べている。
天明六年丙午十二月望 水戸藩侍講 長久保玄珠 行年七十書
とあり、赤水70歳の自筆。
侍講とは字のように、藩主のお側近くに侍はべり、書物などを講ずる役である。
江戸の水戸藩上屋敷に常住し、殿様ばかりでなくその弟や若殿、また御家老から一般の侍まで教える教育係で多忙であった。貴重な資料に接する機会も貴重だった。
「百姓御殿へ上がり候事は先例これ無く、始めての事に候」と郡奉行皆川教純が記す、水戸藩では赤水が初めてのことであった。
葵の紋が入った着物と羽織を与えられた姿は誇らしく感じられる。
「赤水図」
立原杏所・任(画家・立原翠軒の長男)翠軒宅で描いた赤水の肖像画
木村 謙次(1752年- 1811・江戸時代後期の水戸藩の学者、探検家)賛
立原杏所は水戸藩に所縁のある人物の肖像画を何枚か描いているが、何れもその人となりを想像できる素晴らしい作品だ。
大日本史地理志編纂の特命
侍講を勤め上げ70歳で隠居格ともなれば、お役御免だが、藩主からは養老の料として七人扶持、宍戸藩主からも三人扶持を賜わり、藩主からは「大日本史地理志」の編集に従事するよう特命が下った。
息子たちが故郷に帰るよう手紙を出したのに対し、「地理志は、我等一命を懸て君侯御直之御仰を守り(中略)に死候までも其朝迄は、地理志の筆をとりて死申事を本意と存候」と返事した。
藩主からの意向は杏所を通じて行われ、肖像画が贈られた。
*木村 謙次(1752年- 1811)
常陸国久慈郡天下野村にて、農家の4男として生まれる。
立原翠軒から儒学を、吉益東洞からは医術を学んだほか、農政学にも通じていた。34歳のときに松島・仙台を旅したのち、奥羽地方や蝦夷地を何度も調査した。1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げた。当時の奥羽や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。
江戸では大黒屋光太夫関連のロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆した。
杉田雨人 1934 『長久保赤水』杉田恭助
この文を書きかけているときにYさんから「Gさん宅にお伺いしませんか」とのお誘いがあった。
Gさん宅の母屋で天ぷらそばをご馳走になり、久しぶりに浮世話をした。
帰りしなに書棚に『長久保赤水』(杉田雨人 1934)を発見。
奇遇なことに驚く。90年前に評伝が刊行されていたのだ。
評価の高まる長久保赤水だが、知れば知るほどに奥深い。
連続講座(全3回)の第3回は9月14日(水)の午前10時半から正午まで、水戸市南町の茨城新聞みと・まち情報館で開催される。
講師は長久保赤水顕彰会の佐川春久会長。