「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

茨城県立歴史館の大賀蓮が咲き始まった。

2023年06月29日 08時01分07秒 | 博物館
茨城県立歴史館の大賀蓮が咲き始まった。







昨年は葉も花も寂しく心配したが、今年は見事に復活した。
まだ数が少ないので、蓮の香りはしないようにも感じる。
これから暫くの間、楽しむことが出来るのは嬉しい。







花の寿命は3日間。
真夜中から咲き始め、朝5時から8時頃が満開で香りも強い。

歴史館の蓮は「大賀蓮」(日本の縄文時代の遺跡から発掘された種が原種)を植えたのが始まりだが、今は幾らか混雑しているとか。
古代人にとっても愛する花であったろう。





下草を刈った岸辺に白鷺が餌をついばんでいた。

●大賀ハス(オオガハス)
昭和26年(1951)、千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、2000年以上前のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)。
植物学者でハスの権威者でもある大賀一郎(当時・関東学院大学非常勤講師)が発掘された蓮の種を発芽させたことから「大賀蓮」と呼ばれる。
この古代ハスは、昭和29年(1954)年6月8日に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定された。
日本各地はもとより、世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っている。

第49回MITO彫刻展@アートセンタータキタ(水戸市泉町)

2023年06月27日 09時31分54秒 | 美術展
第49回MITO彫刻展@アートセンタータキタ(水戸市泉町)
6月23日~7月2日






茨城県内の彫刻家7人が参加した「第49回MITO彫刻展」が、アートセンタータキタで開かれている。
49回とあるが、コロナウイルスで開催できなかった年も有るので、50年以上の歴史を有する彫塑団体が存続しているのは素晴らしいことだ。

会員は小張隆男(土浦市)、小宅俶子(那珂市)、北沢努(水戸市)、鈴木しのぶ(水戸市)、六崎敏光(石岡市)、村山悦子(水戸市)、森山元国(水戸市)鈴木しのぶ(水戸市)。







女性像や抽象作品など18点が並ぶ。



小張隆男さんの「猫たち」
ネコのさまざまな動きを6体で構成した小張隆男さんの「猫たち」。



六﨑敏光さんの三つの突起物を造形したオブジェ「時念」。



椅子の足が自然木となる北沢努さんの「森に棲む」

彫刻作品に触れる機会は少ない。
会期中は会員が在廊しているから話を伺うことが出来る。

小石川後楽園(3)

2023年06月23日 21時50分13秒 | 
小石川後楽園(3)



後楽園・西門
小石川の後楽園は水戸藩初代藩主徳川頼房が、邸宅のとして賜った土地に造成した庭園。山水を好む頼房の希望に応じたもので、小石川の土地は沼や丘があり起伏に富んだ地形で、樹齢数百年の高木等の自然的要素を備えていた。
頼房より作庭を命じられた徳大寺左兵衛は、この自然的要素を活かし、沼を大泉水として中島(蓬莱島)を配置する等庭園の基礎をつくるとともに、日本各地の景勝地を表現した。その後も、度々改修を重ね、現在の姿となっている。
5月18日に開催された「偕楽園公園を愛する市民の会」主催の「小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる」は小雨模様で、山の方には登れなかったので、6月18日に再訪し清水観音堂跡から得仁堂や八卦堂を巡った。



清水観音堂跡



通天橋
京都東福寺の通天橋を模して造られた。





得仁堂
光圀が18歳の時に史記「伯夷列伝」を読み、感銘を受け、伯夷叔斉の木像を安置した。創建時の建造物で現存するのは「得仁堂」だけだ。
現在、伯夷叔斉の木像は堂内に無いようだが、現在はどこに納まっているのだろうか。





「八卦堂」跡(当初は「文昌堂」)
寛永10年(1633)に6才の光圀が祖母英勝院に伴われて3代将軍家光に拝謁し、賜った「文昌星」の像が安置されていた。
山頂ともいえる場所はかなり広い敷地だが、下から見上げてはみえない。



菖蒲園と田圃。
光圀は、3 代藩主綱條の夫人に民の辛苦を教えるために水田を設け、水田での耕作や収穫の様子を見せたとされる。
現在は小さな田圃と花菖蒲などが植えられてある。
この場所ではないようだが、「動物園」などもあったらしい。



藤田東湖終焉の地碑
藤田東湖(1806~1855)は、 水戸藩上屋敷で安政の大地震に遭った。
その際、 東湖は母を下に囲って肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、 東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。 圧死した場所は白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園の中に移された。



東門
入場口は東門と西門が在る。
飯田橋に近い西門が一般的だが、東京ドームに近いのが東門で水道橋駅が最寄りの駅。

「知られざる郷土の偉人・長久保赤水」@茨城新聞みと・まち・情報館

2023年06月16日 12時59分45秒 | 講演会
「知られざる郷土の偉人・長久保赤水」@茨城新聞みと・まち・情報館
講師・長久保赤水顕彰会佐川春久会長





日本の地図を作った人物として、よく知られているのは伊能 忠敬(1745- 1818)で、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。今の千葉県佐原の人で現在も屋敷が保存されており、近所に博物館もある。
今回の講演会は長久保赤水顕彰会の佐川春久会長が「伊能忠敬より42年前に茨城県高萩市赤浜に生まれた長久保赤水は測量を出来なかったが、絵図などの情報により山川道路、主な町村などの情報や距離方向などほぼ正確な絵図であり地誌であった。」と多くの資料と復刻された絵図を元に話された。



「改正日本輿地路程全図」安永8年(1779)初版発行。発行は大阪。
寸法は、84×135センチメートル。縮尺は10里(約40km)を1寸(約3cm)とし、約129万6千分の1の縮図。方位盤は12個。墨1色と6色刷りのカラー版があった。
実測による伊能図は国防上の機密であったが、赤水図は江戸時代において実用性に優れた絵図だった。



常陸の国を中心とした部分。
詳細な情報が詰まった地図であり地誌だ。



関連の図書が沢山刊行されているが『長久保赤水顕彰会創立30周年記念誌・江戸時代後期の巨星・長久保赤水』が参加者に無償で配布された。



長久保赤水の肖像(立原杏所筆)





水戸証券の1階ロビーに展示された拡大図(ビニールシートにプリント)
上で図面を確かめると、多くの情報が刻まれているかが実感する。





長久保赤水の業績の一端に触れることが出来た。
近年、業績が見直され手評価が高まっているとのこと。
関連図書や映画YouTubeなども沢山あるようで、見てみたい。


小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

2023年06月13日 22時35分13秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

小石川後楽園(2)



「水戸様小石川御屋敷御庭之図」 元禄 13(1700)年頃 明治大学博物館所蔵
5代将軍綱吉が本園をご覧になった際に描かせたとされる絵図。

図には、文昌堂や得仁堂、河原書院、西行堂などの建築物が描かれている。
また、大泉水には長橋や、東西に長い形状の蓬莱島が確認できる。
特に光圀によって建立された文昌堂(後の八卦堂)は、文昌星の像が祀られ、学問推奨の拠点となった。



花菖蒲田・藤棚・稲田の辺り。
花菖蒲は6月が見頃らしいが、5月18日では少し早すぎ。



愛宕坂
愛宕坂は急な石段で真直ぐな階段は「男坂」向かって左の緩やかな階段が「女坂」それにしても急な石段だ。雨の日は滑って危ないから上ることが禁止されて残念ながら上まで行けなかった。



坂を上ると「文昌堂」(後に「八卦堂」に改められた)が在った跡地だ。





「文昌星」の像
寛永10年(1633)、6才の光圀が祖母英勝院に伴われて3代将軍家光に拝謁し、「文昌星」の神像を賜ったもので、中国の明からの渡来品であろう。
文昌星は北斗七星中の第1星、ないしは第1星から第4星までの名で「学問・知識・芸術」を司る。書物を足に据え、筆と硯を手に天空を駆る。
後世とくに科挙試験の受験生に信奉された。



「小石川後楽園唐門」(復元)
唐門は水戸徳川藩邸の内庭から大泉水へ向かう正式な入口。
第二次大戦で焼失したが2020年に景観を再現するため、古写真などの資料をもとに門と脇塀が復元された。





内庭
水戸藩の書院があった場所だが、現在は池を中心とする庭となっている。



焼失前の唐門(昭和13年撮影)

庭園の利用に関しては時代によって異なるが将軍家や他の大名家、様々な文化人や知識人が訪問している。特筆すべきは朝鮮通信使や琉球使節団の来訪など、後楽園を舞台に国際交流が行われていたことは、貴重な歴史的な出来事と言える。
*「偕楽園公園を愛する市民の会」の会員の皆さま方と楽しく有意義な旅が出来ました。有難う御座いました。

森山進吾さんの旅立ちお茶会 @稽古場・風(水戸市新荘3-3-5)

2023年06月10日 22時26分14秒 | 水戸今と昔
森山進吾さんの旅立ちお茶会 @稽古場・風(水戸市新荘3-3-5)
6月11日(日)13:00→17:00(三々五々お好きな時間に)




汗かき小僧こと森山進吾さん(享年58歳)が2023年の春、突然に旅立ちました。「泰安洋行」を願い「稽古場・風」でお見送りのお茶会が開かれます。
午後1時から5時までの都合の良い時間(出入り自由)に平服でお気軽にお出かけくださいとのこと。
お香典・お供物なども無用(思い出の写真や極秘の話は大歓迎)のようです。

後記





















1時から3時頃まで、2時間近く滞在していました。
進吾さんの子供のころから落書きなどを含め大学・大学院生時代の資料なども展示されてありました。
出席者も茨大・美術科の同級生や下級生が主だったように感じました。
久しぶりの再会の方々も多いようで午後5時から9時頃まで半日以上滞在していたようです。
下級生で尼さんになったという方の読経もあったし、遺骨や遺影も置かれてありましたから、葬儀でもありました。
多くの方々に送られ昇天したと思います。
葬儀や偲ぶ会は故人の為でもありますが残された遺族や友人・知人が集って新たな生き方を確認する場でもあると感じました。
稽古場・風という素晴らしい空間だからこそ実現できたともいえます。


「フィンランド・グラスアート」@茨城県陶芸美術館

2023年06月10日 18時30分23秒 | 美術館
「フィンランド・グラスアート 
輝きと彩りのモダンデザイン/ムーミンの食卓とコンヴィヴィアル」
3月18日~ 6月11日 @茨城県陶芸美術館











北欧フィンランドのデザインや工芸作品は日本でも人気が高い。
その中でもガラスに焦点をあて、20世紀初期から現代までのフィンランドを代表する8名のデザイナーの作品を、フィンランド国内のコレクション約130点が紹介されている。





















*北欧はデザイン全般が素晴らしいく、社会福祉が充実している国々としても知られている。

20年ほど前に福祉関連の学校や施設を見学する研修でデンマークを3回にわたって訪問した。「ゆりかごから墓場まで」をモットーに、税金は高いが生涯の全てを国に任せられる。豊かでゆとりある生活が出来る国であることは間違いない。
軍事と外交は国が担い、ほかの全てはコミューン(地方の自治体)が行う。
どの自治体も「充実した生活が送れますよ」と競争して住民を呼び込む。
老後に一戸建てから施設に移る場合はかなりコンパクトに荷物を纏めるが、以前と変わらない環境で過ごすことが出来る世界で有数の地域だ。

デンマークの家具や照明器具の分野では世界的に評価が高い。
シンプルで美しく機能性に富んだデザインに感心したが、大方は第二次世界大戦以降のことと知り驚いた。
スカンジナビア3国(スウェーデン、ノールウェー、フィンランド)とデンマーク等の北欧の経済発展と福祉国家への歩みは何れも第二次大戦以降のことで日本と変わりないが、日本は質より量を優先する道を歩んだ。


桔梗(キキョウ)の初花

2023年06月10日 10時55分36秒 | 山野草
桔梗(キキョウ)の初花

6月8日に桔梗の初花が咲いた。



桔梗はキキョウ科の多年生草本植物で秋の七草のひとつ。
秋の七草とは、萩(ハギ)、女郎花(オミナエシ)、芒(ススキ)撫子(ナデシコ)、葛(クズ)、藤袴(フジバカマ)、桔梗(キキョウ)を指す。
万葉集のなかで秋の七草と歌われている「朝貌の花」とはキキョウ説であるというのが最も有力となっているようだ。





花屋で買った1鉢を地植えしたら、毎年芽を出し株数も増えた。
6月から秋まで、約4か月次々と花を咲かせてくれるので秋草とは言えない。
清々しい青紫色をしている星形の花と、紙風船の様に膨らんだ蕾が次々と現れる、生命力がある植物だ。
根を乾燥させたものは漢方薬に使われるらしい。
青紫色と白色が一般的だが、淡いピンク色の花もある。

小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

2023年06月07日 20時30分07秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

小石川後楽園(1)







小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に造営を始め、2代光圀の代に完成した池を中心とした回遊式築山泉水庭園。
光圀は作庭に当たり明の遺臣・朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を設け、園名の後楽園も宋の笵仲淹の『岳陽楼記』中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられた。



江戸時代の藩邸絵図。



明治時代の絵図。
明治になって屋敷は召し上げられ、砲兵工廠となったのでかなり縮小された。
庭園も埋め立ての危機に瀕したが、稀代の“庭道楽”として知られる陸軍の重鎮の一人で首相も務めた山形有朋の鶴の一声で庭園は存続した。

小石川台地の南端に位置する起伏に富んだ地形と自然林を活かし、日本と中国の名所や古典になぞらえた見所を配した「後楽園」は文化財保護法により「特別史跡・特別名勝」に指定されている文化遺産。



「小石川後楽園庭園保存会」(庭園ボランティアグループ)の皆さま方による歓迎の言葉、並びに概略の説明を受けた後に2グループに分かれて園内を散策。
生憎の雨模様で清水観音堂跡・得仁堂・八卦堂跡などは危険とのことで、拝観が出来なかったのは残念だった。



西湖の堤
中国の杭州の西湖の堤に見立てたもの。
清掃作業が行われていた。
落ち葉などが溜まるので常時清掃がなされる。



大堰川
徳川家光の好みであった山城国(現在の京都府南部)の大堰川を写した。
家光が川の石に腰掛けて造成の指揮を執ったといわれる。
川の上流には「通天橋」、下流には「渡月橋」がそれぞれ架かる。



円月橋
朱舜水が設計したといわれる石橋。
水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられた。

雨のために登れなかったが、円月橋の上の方に光圀の本意を現した堂「得仁堂」が在る。(建立当時の姿を残す園内唯一の建物)
光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置した。





神田上水跡

江戸の上水のうち、東北部をカバーしたのが「神田上水」
井之頭池(現在の武蔵野市・三鷹市)を水源とし、寛永年間後期(1620~30年代)までに完成したといわれる。
現在の文京区関口にあった大洗堰(今回訪ねた細川庭園の在るあたり)から取水し、小日向台地の縁を走り、そこから水戸徳川家の屋敷の庭(後楽園)を横断し、邸外に出るところで地下に潜って管路となり神田川を越えて市中に送られた。
江戸の上水は公共のもので武家屋敷内を流れるのは稀、邸内を横断した理由は判然としない。現在の水は井戸から汲み上げたものを使用しているが水路は江戸時代のものがそのまま使用されている。



大泉水に面した一つ松

小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の壱)

2023年06月01日 16時54分29秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の壱)

「偕楽園公園を愛する市民の会」主催の「小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる」(2023年5月18日)は会員以外も参加可能とお誘いを受け訪ねた。
朝から夕方まで小雨模様であったが、貸し切りバスでの移動並びに現地のボランティアグループの方々の御案内と接待に与かり、ほぼ園内をくまなく見ることが出来た。







肥後細川庭園



江戸時代の切絵図に現在の施設を落とし込みしてある。





肥後細川庭園は、目白台の台地(関口台地)の自然景観を活かした池泉回遊式庭園。この地は、江戸中期以降は旗本の邸地になり、江戸末期には清水家や一橋家の下屋敷となり、幕末には熊本54万石の細川越中守の下屋敷になった。
明治15年には細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となり、その後は東京都が買収し昭和36年に「新江戸川公園」として開園し、昭和50年に文京区に移管され、平成29年3月に「肥後細川庭園」に名称変更した。
大地の上には細川家の「永青文庫」や「和敬塾」が在る。



この庭園は京都の嵐山を模して造られたらしい。
熊本藩の最後の御用絵師「杉谷雪樵」が明治27~28年頃に描いた図というが、現状とほぼ変わりない。



池の水の全ては台地の中腹からの湧水による。
湧水を利用した小さな滝の上部が水源地らしい。





松聲閣は細川家の学問所として使用されていたが、一時期は細川家の住まいとして使用されていた。細川護熙元首相も子供の頃に住んでいたとか。
現在は歴史性を生かし保存修理を行い誰もが利用できる文化施設となっている。



抹茶と肥後銘菓の御接待を頂いた。



肥後六花
肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花かの6種の花の総称。
肥後六花の共通の特徴は、花芯(雄蕊)が見事なこと、花形が一重一文字咲きであること、花色の純粋なことの三点がある。



肥後細川庭園ではそのうち4つ(肥後椿・肥後芍薬・肥後花菖蒲・肥後山茶花)を見ることが出来る。
肥後花菖蒲は咲き初めでこれからが本番。
秋から冬にかけて紅葉の樹木と、肥後山茶花・肥後椿の競演は見事です。
とガイドの方のお話。

「永青文庫」の秋期特別展の拝観しながらの再訪を期す。