「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

求道学舎と後藤清一

2009年05月28日 21時54分08秒 | 彫刻家 後藤清一
求道学舎開設の意図は

後藤清一が毎週通って法話を聴いた,求道会館。
創立者の近角常観は滋賀県の貧しい寺の出身で苦労して学問をしてきた人だった。
本山の給費生として中学から、一高、さらに東京帝大にいたるまで、学生寮で暮らした。
京都の大谷中学ででは舎監に選ばれ、一高でも寮長だった。
求道學舎発足に当たり「自分は一生舎監で終わるのだ」と常々もらしていたそうで、舍生と呼んでいた若い学生たちと起居を共にし、食卓を囲み、「朝の歎異抄(たんにしょう)の輪読、晩の正信偈(しょうしんげ)の読書、こういう風な生活が何よりすきだった。」といわれる。

さらに、二年間の海外留学生活をおくり、アメリカでは教会が地域社会における活動拠点として使用されていること。



ヴィッテンブルグのマルチン・ルターハウス

1年間滞在したドイツではマルチン・ルターの跡を訪ねヴィッテンブルグの修道院を直した寮に感動している。

教会の内外を問わず社会を根本的に改善する宗教的社会事業に注目している。
イギリスのオックスフォードを訪ね、「日本人は仏教に新しい光を与えねば」との助言も受けた。

僕もこのような共同生活に一時的に憧れた。
多くの人たちと起居を共にし一定の目的の下に働き学ぶこと。
特に、京都近辺に多く、大正から昭和にかけて多くの団体が活動している。
現代において共同生活は不自由のデメリットが強く感じられ、利点が評価されていない感じがする。
青少年の教育機関においての寮生活は再度検討されても良いと思うが、良き舎監の存在が重要だ。

「一人一人の自覚の上に築かれた信仰が社会の基礎を作るという信念に従い、求道学舎で信仰生活と教育活動、求道会館で宗教活動をおこなう。」という生活を、実践していく。


学舎の生活について、初期の舍生であった哲学者・法政大学総長であった谷川徹三(1895-1989)は

「自伝抄」で「…時々その説教を聴いたりその書を読んでいた近角常観を通して、親鸞がわたしの前に姿をあらわしてきたのである。私は生活を一新するために、その近角先生の求道学舎に入れてもらった。……求道学舎の生活は朝夕仏前で正信偈と阿弥陀経をあげる勤行以外には他とかわらなかった。その勤行も強制的なものではなく日曜日の先生の説教も聴こうと思わなければ聴かないでもよかった。私は『歎異抄』をくりかえして読む他にはとりたてて教義の勉強もしなかった。しかし、粗末ながら一人の室だし、室の白壁にだれが描いたのか、法隆寺の壁画を模した西方浄土の阿弥陀仏が大きく墨で描かれていたのが、妙に私の心を落ちつかせた。私の信仰はいっこう進まななかったけれど、私は室でも学校の図書館でも良く本が読めた』。と記している。
『自伝抄』は中公文庫、1992年。

後藤清一は舍生ではなかったので、日曜講話を聴きに行った。
舍生でない人が日曜講話以外の日に学舎を訪ねる来ることも多かったようで、後藤もそうだったかもしれない。
その頃の青年たちは、宗教的関心が強かった時代で、日本の思想界が一般的に内省的になりつつあった。
後藤も個人的な悩みを抱えつつ時代の子でもあった。

*近角常観・求道舎・会館に関して『求道学舎再生』近角櫻子著 学芸出版(2008年4月)に依っている。
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「水戸のー空・風・人」吉田秀和著

2009年05月27日 11時44分02秒 | 水戸芸術館

1990年3月21日、水戸芸術館がオープンした。
地方公共団体の運営する文化施設が多くの問題を抱え運営が行き詰まっている中、水戸芸術館は20年近く常に進化しながら運営されている。
年々予算が減額されるご時世で、基本方針を貫くのは容易ではない。

開館以来館長を務めている吉田秀和さん(1913年生まれ)は音楽評論家として初の文化勲章を授章し、吉田秀和全集も刊行されている。
評論や随筆は音楽のみならず美術や文学まで幅広い。

日本橋生まれの江戸っ子で、大の相撲好きだが、ドイツ語とフランス語も堪能な国際人。
斎藤秀雄らと現在の桐朋学園の創設にもかかわった教育人でもある。

水戸芸術館での挨拶文、新聞や雑誌に掲載された文章などが纏められて出版された。
編集発行は水戸芸術振興財団。

1 水戸芸術館オープン
2 準備から開館まで
3 実践活動あれこれ
4 吉田館長が語る
5 あいさつ
の五項目に分けられている。何処から読み始めても良いが最初から読むのが理解しやすい。
なるほど、その通り。と思った言葉を抜き書きして紹介する。

* 開館式典式辞、から。1990年3月21日
『芸術というものは、今生きているところから、将来に向かって展望して、これから何をつくることができるだろうか、また、ぼくたちの人生、しゃかいというものがこのさきどうなってゆくだろうか、ということを予感したり、あるいは予告するような仕事をする側面をもっている。この芸術館では、多分そちらの面を美術が受け持つ』

『古いものを使いながら、それを自分の創造物に転換してゆくという、芸術にとって基本的な働きを示す仕事にほかならない。いや、これこそ芸術の本体だといってもよろしい。それを鈴木さんは芸術館の演劇部門でもやってゆくわけです。』

『芸術館は水戸市制百周年記念事業の一環として構想されたそうです。百年といえば、日本で、いわゆる洋楽を容れてからもほぼ百年あまり。ちょうどみとが市になったのと同じ頃、日本でもドレミファでもっておんがくをやり、演奏したり、作曲したりする仕事が始まりました。百年間やってきて、どんないみがあっただろうか。そういうことを検討することに、芸術館音楽部門が役立つよう運営できまいか。その仕事の一つとして、ぼくは、日本で育ち、それから、外国へ行って音楽家としてすぐれた活躍をしている人たちを呼び集め、一団となって演奏してもらったらどうかということを考えました。
 ぼくの理想・夢は、ああ、日本人にも、こんなすばらしい音が鳴らせるのかって、皆さん方がびっくりしたり、感激するような音楽をここで、本当に鳴らしてみたいってことです。出てみるまでは、どんな音になるか知りません。もしも、かって日本で鳴ったことのないような音がここで鳴り、日本人が日本の中にじっとこもってしまうのでなく、世界に向かって手をひろげて歩いてきた結果が、百年経ったらこうなったんだ、ということになったら、どんなにいいでしょう!それは単に日本が小沢征爾さんという一人の名指揮者を生み出したとかいう以上の意味を持っているのではないか。それから、ぼくはまた、室内楽のエッセンスといっていいような弦楽の四重奏団を作ろうと思います。それから、現のほかの楽器、ピアノや管楽器などが入った室内合奏団』

『こうして、美術がいわば前衛となって、実験的な仕事を受け持ち、演劇が中央の本体といったかたちをとり、音楽がそのあとをゆく。そういう三位一体となるでしょう。』
『以上はここでは、こういうものを皆さま方に提供するという予告ですが、芸術の仕事の意味は。それだけじゃ終わらないんです。皆さんがここに来てくださって、それをみたりきいたりする。あるいは、笑ったり怒ったりして、あれは何をやっているんだ、ガラクタばかりじゃないかって腹を立てたり、逆に、ああ面白かったとおもってくださったり。こんなふうにして作品と、問答をしたり、批判したり、共感したり、感激したり、そういうことがあってはじめて、芸術というものは一つの実りをむすぶことになるのです。』

式辞の何十分の一を引き写すだけでも、そうなんだ。と納得するばかりだ。
第5項まで引き写したのでは時間とページが足りないので、この式辞だけにしておきたい。

吉田秀和館長のあいさつをを何度か聞いた。
一言ずつが無駄がなく的確で、分りやすい。
辛辣でありながら優しさがあるから、嫌みに感じられない。
話しが、そして文章が音楽のような響きがある。
江戸っ子らしい洒落の精神が身に付いている。
人間年齢が全て、とはいえないが今年で満96歳だが頭脳にいささかの衰えもない。
僕がかって見聞きした方で、吉田秀和さん以上に心身が健全な方を知らない。
まさに、生き方の達人だ。

この本の「あとがき」に代える形で水戸芸術振興財団副理事長の吉田光男さんが「水戸の吉田秀和さん》という文を寄せている。その一部に、
『真の批評家は、一国一時代の趣味を決定する、そうおもっている。小林秀雄がいたので、皆がランボーやゴッホに興味を持ったように、日本の音楽ファンで吉田秀和さんの言説に教えられなかった人などひとりもいない、音楽だけでなく、文化や思想の多くの面で、日本人の価値決定に大きな影響を与えられた。どれが良いか、どれが美しいか、どんなふうに感動するのか。曰く言い難い思いが、吉田さんによって言説化されたことで、多くの人は判断基準を持つ。そしてあたらしい価値がうまれる。』と述べている。

佐川一信元水戸市長は生前『芸術館のことは(運営は)両吉田さんにお任せしてあるから何も心配していない』と言っていた。佐川さんが、三顧の礼を尽くし水戸芸術館館長として吉田秀和さんを迎えたのは水戸市民の誇りだ。

水戸に過ぎたるものは《吉田秀和さんと水戸芸術館》と思う。

僕の周りのブログ仲間も皆さんも吉田秀和さんのファンだ。最近もいくつかの書き込みを頂いている。
嬉しいことである。本物の人間は知れば知る程興味深い。
この本や吉田秀和さんに関するコメントを募集します。以前書いて頂いた方も、改めてお願い致します。


*芸術館のミュージアムショップで販売中。お値段は¥1000だが数量に限度あり、お早めにどうぞ。





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十字花・十薬草・どくだみ

2009年05月25日 22時38分10秒 | 山野草

この写真は北区王子の路傍で写しましたが、我が家の庭の片隅にも咲きます。
西の谷にも咲いていますが、数は少ないようです。西の谷は間もなくあじさいの季節となります。
土地が痩せているので、あじさいの花は小さめ、もっと沢山咲くようになれば良いのですが。

十字花・十薬草・ドクダミ、呼び名は違っても種類は同じ可憐な白い花。
今の季節で僕の大好きな花だ。   
摘んで玄関に挿したりするが、多少匂いが気になる。
それを除けば、見て良し、描いて良し、飲んで良しの優れた草花。
生の葉を摘み煮だして飲むが、意外に爽やかな味がする。


資料を添付しておきます。
興味のある方はお試しあれ。

開花期の地上部を乾燥させたものは特有の臭気はほとんど無い。これは十薬(じゅうやく、重薬とも書く)という生薬名で、日本薬局方にも収録されている。十薬の煎液には利尿作用、動脈硬化の予防作用などがある。
また、湿疹、かぶれなどには、生葉をすり潰したものを貼り付けるとよい。

*薬理成分
デカノイルアセトアルデヒド
生のドクダミに特有の臭気成分。抗菌作用があるが乾燥させると酸化されて抗菌効果は失われる。
ラウリールアルデヒト
デカノイルアセトアルデヒドと同様にドクダミ特有の臭気成分で、抗菌作用がある。
クエルシトリン
利尿作用、動脈硬化の予防作用
カリウム塩
利尿作用

*漢方方剤
漢方では解毒剤として用いられ、魚腥草桔梗湯(ぎょせいそうききょうとう)、五物解毒散(ごもつげどくさん)などに処方される。しかし、ドクダミ(魚腥草、十薬)は単独で用いることが多く、漢方方剤として他の生薬とともに用いることはあまりない。

*食用
ベトナム料理ではザウザプカー(rau gi?p cá)またはザウジエプカー(rau di?p cá)と称し、主要な香草として重視されている。ただし、日本に自生している個体群ほど香りはきつくないとも言われている。

また、中国西南部では「折耳根(ジョーアルゲン zhéěrgēn)」と称し、四川省や雲南省では主に葉や茎を、貴州省では主に根を野菜として用いる。根は少し水で晒して、トウガラシなどで辛い味付けの和え物にする。

加熱することで香りが和らぐことから、日本でも山菜の1つとして天ぷらなどにして賞味することがある。

多くの効能がありながら、あまり利用されていないようだ。
背が高くなる訳でなし、摘んでも摘んでも、地下茎を伝っての繁殖力は強い。
他の雑草を生やさない効能もある。利用方法によっては十役以上の効能を期待出来る。




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「構造社」と後藤清一

2009年05月25日 15時34分33秒 | 彫刻家 後藤清一
「構造社」と後藤清一    伊豆井 秀一 

 近年、多くの美術館が各地に設立され、その殆どが〈近代〉という名を冠せらている。そのゆえか、日本の近代美術の研究は従来の調査の上に、新しい資料の発見、それに新しい視点からの解釈などが次々になされ、従来の捉え方を変えなければならないものもあり、興味深い。
 さて、日本の〈近代〉美術であるが、美術という枠組みが西洋の制度の借用から始まっているのは周知の事実であり、〈近代〉の美術が、本来、個性の発現の行為の結果であることを考えるなら、こうした外圧的な枠組みに対してこれから脱するべく自立的、内省的な個性が生まれ、そこから表現が主体的なものとして熟成されるまでには時が必要であることは論をまたないであろう。
 日本の近代彫刻の基が明治政府の意向を体し、工部省のもとに設立された工部美術学校であったことはよく知られている。
 その設立の意図は「…其ノ学科ハ画学、彫刻ノ二科トシ、画学ハ画法及ビ油絵ヲ教エ彫刻学ハ石膏ヲ以テ各種ノ物形ヲ模造スルノ術ヲ教ユ.…」(『旧工部大学資料』)であり、イタリアからV・ラグーザが招聘され、西洋彫刻の移植がはじまるが、一般の彫刻に対する関心はうすく学生の授業料は免除されていたほどである。
 ところで、この「物形ヲ模造スル」という言葉はその表現の迫真性もあり、その後の彫刻界に深く根を下ろすことになるのである。
 文部省は明治40年に、別々に徐々に成長してきた明治の伝統の木彫と塑像の両者に全国的な規模で共通の発表の場を与えて文展を開設し、彫刻が絵画と並んで造形芸術の一分野としての地位を確立させた後も皮相な形態の模倣による傾向は存続していく。
 こうした中で、明治の末に荻原守衛がロダンの作風を伝え彫刻とは何かという問題をつきつめ、ロダンに傾倒した高村光太郎と共に、其の考えを彫刻界に新しい息吹きとして伝えたのである。ただ、こうした動きは続く大正期の彫刻界においても圧倒的な自然主義的な形態描写の官展系の流れにあってはあくまで傍流的な動きであり、日本美術院に設けられた彫刻部、あるいは二科の彫刻部などのどちらかといえば在野の彫刻界の中で脈をうち。近代の咀嚼と展開がはかられていたのである。
 以上のように、当時の彫刻界は絵画主体の団体に従属していたのであるが、こうした状況下で「構造社」が生まれる。彫刻だけを我が国初めての美術団体の誕生である。
 「大正15年。9月25日、立体芸術の研究発表を目的として、斉藤素巌、日名子実三両人をもって発会。事務所を斉藤方に置く。」と沿革は簡単であるが中心になった斉藤素巌はこのグループの成立について次のように述べている。
 「…わたしがいつも云う事だが、芸術の分野は広い。にも拘らず、日本に於ける彫刻芸術の分野は余りに幅がせま過ぎる。女が裸で腰掛けているだけが彫刻ではあるまい。1年生の講釈のようになるが、群像だって彫刻だ。レリーフだって彫刻だ。衣服を着たって彫刻だ。銅像だって、メダルだって、記念碑だって、首だって、トルソだって、石彫だって、甘くたって、辛くたって何だって彫刻だ.色んなものがあるので人生を楽しめるんだし、展覧会も変化が出来て面白いのだ。……」
 また、
 「造形芸術を応用してその使途を実社会に展開をすることを、いわゆる彫刻の社会化を図ることを、俗的であると考察するのは、余りに色盲的な考え方である.彫刻は社会の要求に融合する公共事業芸術のブランチである。ここに鑑みる所あって立ちたる構造社のスローガンは『彫刻の実際化』である。そは使命の一つでもある。…この意気を鋳造方面まで進めて…建築上への実際化を開拓しようとしつつある。」
 とも述べ、「物形ヲ模造スル」という従来の彫刻に対する意識とはかなり差異があることを示している。
 こうした背景には当時の都市化の歩みがある。大正8年の都市計画法並びに市街地建築法の公布、翌大正9年の都市計画法の施行というように次第に都市の建設が本格化していく。こうした動きに呼応し、建築界も変容を遂げていく。若手の建築家たちの集まりである《分離派建築会》もドイツやオーストリアに興った世紀末の絵画や彫刻、工芸などの各芸術ジャンルが建築に総合されていくという総合的な芸術運動《分離派》からの理念を標榜し、結成されている。美術界も当然、影響を受けざるを得ない。先に述べたように、「構造社」は彫刻と建築の融合を目指していたが、建築及び彫刻家として活躍していた〈イワン・メストロヴィッチ〉というユーゴの作家に注目していた。


「柱頭試作」昭和7年(1932)

 「構造社」の第3回、4回における総合試作、さらに柱頭試作などはこうした建築も視野に入れた試みであり、その果敢な姿勢がうかがえ、美術界はジャーナリズムをはじめ、かなりの歓迎を示すのである。彫刻を単体の「物」から空間との「関係」に着目するという新たな視点を提示しようとしたわjけである。こうした意識の変革には、身体は知覚や行動を通じ、空間に対して新たな間隔を習得するという社会心理的背景があり、それに伴う彫刻に対する認識の変化がうかがえる。
 若い頃の煩悶の時代を経た後藤清一が、創立会員である東京美術学校の同期であった清水三重三の誘いを受けて「構造社」に出品するようになるのは第二回からであった。結婚し浦和に住むようになり、第三回に出品した「少女の顔」では構造賞を受賞している。なおこの作品は倉田百三の眼にとまり、当時としては破格の二百五十円で購入されたエピソードを残している。その後も戦前は「構造社」に出品を続け、この会の代表的作家となる。


「少女の顔」昭和4年(1929)第3回構造社展。

 〈イワン・メストロヴィッチ〉に魅かれ、モチーフなどからはヒントを得つつも建築との対応として総合試作に積極的にかかわった跡は柱頭試作くらいでさほど強くなく、「母と子」の慈愛あふれる像や飛鳥・白鳳時代の古仏からヒントを得た、東洋的感性にもとずく様式された対象の独自の温雅な作風を追求していたように思える。
既に自分の採るべき方向は定まっていたというべきかもしれない。あるいは自らの作品を設置する空間は近代化による無機質なヨーロッパ的なものではなく、日本の寺院にみられる厨子のような親密なものを想定していたのかもしれない。
 夏のある日、あるじの居ないアトリエを訪ね。ふとそう思った。

*この文章は冊子『雑艸』創刊2号(1996年9月5日発行)から転載。筆者の伊豆井 秀一さんは当時、埼玉近代美術館企画課長。美術史家で『構造社』会員の陽咸二を研究している。1995年頃、後藤清一亡き後のアトリエを訪ねた。その際の構造社と後藤清一の印象記。
注に関しては、理解を深めてもらえればと、高橋が勝手に加えた。

注1 「分離派建築会」の結成
分離派は大正9年に結成された日本初の建築デザイン運動グループの名称。「分離派建築会」という名称の由来は、過去の建築様式から分離し新たな建築づくりをめざそうとしたところから名付けられた。
当時、卒業を間近に控えた東京帝国大学建築学科の学生有志数人で結成し、各自が計画案や実作の写真などを持ち寄り展覧会を行なうかたちで活
動した。活動は昭和初期まで続けられた。メンバーは当初堀口捨己,山田守,石本喜久治,森田慶一、瀧澤眞弓、矢田茂ら同期生が中心で、後に蔵田周忠(当時濱岡周忠)と山口文象(当時岡村蚊象),大内秀一郎が加わる。
彼等は分離派終息後もそれぞれ建築の各分野で活躍し独自の道を切り拓いた。しかし、実際のところ当時の日本は先進ドイツの動向に眼差しが注がれ、とりわけドイツ表現主義建築の影響が濃厚だった。分離派=日本の表現主義建築という見方から逃れられない。

注2 2005年宇都宮美術館で「構造社 昭和初期彫刻の鬼才たち」展が開催された。札幌、松戸などでも巡回展示されたが、この展覧会を観て構造社がどのような彫刻団体か良く理解出来た。
彫刻専門の団体として発足したが、絵画。絵本や綜合試作(大型の建造物を設計し、そこに各々の彫刻作品を配置する表現方法)、モニュメントやメダルやレリーフなどの製作をする人など多様性のある集団だ。当時は意匠、現在のデザインの分野の人達も参加している。
注3 因みに、日本サッカー協会が使用している日本代表のマーク「八咫烏( やたがらす・三本足のカラス )」の図案デザインや日本水泳連盟のシンボルマーク、全国高校野球の優勝メダルは構造社会員の日名子実三がデザインしたものが現在も使用されている。

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水戸室内管弦楽団と巡る『ヨーロッパ音楽紀行』

2009年05月25日 10時10分48秒 | 水戸芸術館
水戸室内管弦楽団と巡る『ヨーロッパ音楽紀行』
     水戸芸術館音楽部門編 音楽之友社 2009年3月


市制100年を記念して開設された水戸芸術館が来年で20年を迎える。
音楽・美術・演劇の3部門を狭い敷地に併存させ、しかも、貸し会場にはしない。
という基本方針を守りながら見事に存続したものだと思う。奇跡ともいえる。
これは吉田秀和館長初め館のスタッフや行政サイドの運営のかじとり。
運営方針を理解し自分達の芸術館との認識が深まった水戸市民。
内容の素晴らしさに賛同してくれている企業の賛助金。
多くの人達の気持ちが繋がったからこそ出来たこと。

もし、という話しは、話しにならない。
しかし、もし芸術館が生まれていなかった水戸の街は?
と考えたら、ぞっとする。
今以上に寂れた街になってしまっていただろう。
関係する方々の努力に感謝したい。



今回出版された、水戸室内管弦楽団と巡る『ヨーロッパ音楽紀行』水戸芸術館音楽部門編 音楽之友社刊は
クラッシック門外漢の僕にも楽しめる内容だ。因みにクラキチさんから贈呈された。

水戸室内管弦楽団(以下MCO)は2008年5月31日から6月14日まで、ほぼ2週間のヨーロッパ公演を実施した。
MCOは1998年と2001年にもヨーロッパ公演を行い、その模様はそれぞれ書籍にまとめられている。

今回の公演は小澤征爾音楽顧問の指揮のもと、ミュンヘン、ウイーン、フィレンツエ、マドリード、パリという順で5都市を巡るツアーを予定していた。しかし、直前に小澤音楽顧問が腰椎椎間板ヘルニアのため指揮出来ないというアクシデントが起きた。
指揮者なし.という形で演奏旅行を行わざるを得なくなった。
この本は、この不測の事態をどう乗り越えたかのドラマテックな記録。

その意義を吉田秀和館長が関根哲也、中村晃楽部門の学芸員の質問に答えるところから始まる。
更に、「現地在住の日本人聞く』というページでは、ウイーンで出会った水戸出身の羽部真紀子さん(24歳)へのインタヴュー。
羽部さんは水戸一高から東京芸術大学の指揮科を卒業後、2006年ウイーン音楽大学指揮科に留学した。女性の指揮者は未だ少ない。その険しい道を選んだのは水戸芸術館でのMOCの手お子演奏会で小沢征爾指揮による演奏を聴いたことがきっかけだった。「小澤先生を身近に見ていたこと。それがなかったら指揮者になりたいとは思わなかったろう」とかたっている。
芸術館が次の世代に繋げる役割を果たしている。

訪問各都市の『街と音楽』について矢澤孝樹学芸員が記している。
『街と音楽』について出発前の2008年1月から4回にわたり水戸国際交流会館で講演会が開かれた。
その際、僕も受講したが、かなり詳しい説明であった。
本書からは、ガイドブックのように街の雰囲気が伝わって来る。
行ったことの有る街も、無い街もとても親しく感じられるように書いてある。

水戸芸術館の特色として、各部門の学芸員が芸術館内のみでなく館外の活動にも力を入れているので市民との接触が多い。
この様なことは、とても稀な例でたの都市の学芸員ではあり得ないのでは、と思う。
全ての活動は学芸員に始まる。
幸い水戸芸術館は優秀な学芸員に恵まれてきた。
勿論、専門職だからキャリアを積んで他の同様施設や教授なども転向する。
水戸芸術館に在籍した学芸員が全国で活躍しているのは、嬉しいことだ。
音楽好きでなくとも楽しめるこの一冊、是非お薦めしたい。
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阿修羅像、脱活乾漆について

2009年05月24日 21時31分03秒 | 彫刻家 後藤清一
阿修羅展に再度足を運んだのは、阿修羅像を始め八部衆などの脱活乾漆の技法を確かめてみたいと思ったから。



後藤さんは『玉』(昭和19年・1944)という作品を含め、数点の脱活乾漆による作品を制作している。
第二次世界大戦の最中は軍需品以外の金属使用は出来なかった。という事情も考えられる。
以下に記すように、脱活乾漆造の技法は奈良時代からあった。

阿修羅展では十大弟子や八部衆がその技法による。
見た感じより軽量なので、度重なる災害をくぐり抜け現存している。

脱活乾漆造 の制作方法
まず、木製の芯木で像の骨組みをつくり、その上に粘土(塑土)を盛り上げて像の概形をつくる。この上に麻布を麦漆で貼り重ねて像の形をつくる。麦漆とは漆に麦粉(メリケン粉のようなもの)を混ぜてペースト状にしたもので、接着力が強い。麻布の大きさ、貼り重ねる厚さなどは像によって異なるが、おおむね1センチほどの厚さにする。こうしてできた張り子の像の上に抹香漆(まっこううるし)または木屑漆(こくそうるし)を盛り上げて細部を形づくる。抹香漆とは、麦漆にスギ、マツなどの葉の粉末を混ぜたものであり、木屑漆とは麦漆におがくず(ヒノキ材をのこぎりで曳いた際のくず)や紡績くずなどを混ぜたものである。奈良時代には抹香漆、平安時代以降は木屑漆が主に使われた。



今回の展覧会、五部浄の一部が構造を見ることが出来る。おおむね1センチの厚さだ。
後藤さんの「玉」は小さく厚みも薄そうだ。



阿修羅像の魅力は、三面六臂という特別な姿形によることが多いと思う。
今回、少し離れて良く見ると、合掌している以外の手の形が何かしっくり来ない感じがした。
制作時から、現在の姿なのか?特に一番後ろの上に揚げた手が何故か不自然に感じた。
勿論、三面六臂と言う姿そのものからして不自然んではあるが。

どちらにしても、仏様。あれこれ言う話しではない。
素直に、手を合わせるのが肝心だろう。

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ロダンの彫刻

2009年05月24日 12時54分57秒 | 彫刻家 後藤清一
東京国立博物館での阿修羅展、既に入場者が50万人を突破したとのことだ。
何処の美術館も何とか入場者を増やしたいと、努力している。
今回の様なことは、滅多に無いことだろう。
僕は、開始されて間もなくの土曜日の6時頃入館したのでゆっくりと観られた。
その後、1時間待ちがあたりまえのようになったようだ。
会期も残り少ないのでもう一度拝見しようと、土曜日の4時頃上野に行った。
国立西洋美術館の「ルーブル展」も50分待ちとの表示。
これでは「阿修羅展」も同様だろうと西洋美術館の庭のロダンの作品を観てからにした。

つい最近NHKのテレビ番組、プレミアム8<文化・芸術>シリーズ巨匠たちの肖像「ロダン あくなき生命への欲望」をたまたま観た。
「近代彫刻の父」と呼ばれたオーギュスト・ロダン(1840-1910)。
ロダンの優秀な弟子にして愛人だった、カミーユ・クローデルとの出会いと葛藤。
代表作「地獄の門」や「カレーの市民」などの最新研究から浮き彫りにされた人間像は今まで知らなかったことが多かった。




テレビ番組を観た上で改めて観る、「地獄の門」や「カレーの市民」は今までと観方が変わった。
単に見聞きするのと、物事が分って見聞きするのは大きな差がある。

後藤清一さんが東京美術学校在学時代はロダンが大流行した。
明治時代末期から大正時代にかけてロダンが紹介された頃は、彫刻の世界のみならず絵画や文学の世界にまで大きな影響を与えた。
日本に紹介したのは荻原守衛(1879-1910)である。萩原は洋画の修行にフランスに渡り、1904年のサロンに出品されたロダンの『考える人』を観て感動し彫刻に転向した。帰国して2年後の明治43年、31歳の若さで急死した。僅か4年間の彫刻制作であったが、ロダンに触発された生命感あふれる新鮮な造型は、同時代の美術家に大きな影響を与えた。
高村光太郎も『ロダンの言葉』などを翻訳・刊行してロダンの魅力を啓蒙した。
文芸雑誌『白樺』(明治43年創刊)は文学誌であると同時に美術誌で、毎号西洋美術の写真版を挿入していた。
武者小路実篤、梅原龍三郎、志賀直哉を初め多くの美術家・文学者がロダンの紹介に務めた。

この時代に彫刻を学んだ後藤も当然のようにロダンの作品から影響を受けた。

 ロダンの彫刻は、物の外装を破って、その実相に深く喰い入っている。真の知識人が、その知識に、おぼれずして、しかも、その知識に、万全に生ききつておることに、よく似ている。これは何か永遠につながりをもつ、大きな力にちょるもの、働きであるのか?『隠者の方影』より


阿修羅展は50分の待ちで入場出来た。夕方5時過ぎでも入場者はたえない。
博物館や美術館入場者が多いのは良いことだ。
しかし、東洋館や、本館は入場者は少ない。
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ヴェートーヴェンと彫刻家・後藤清一

2009年05月23日 13時38分24秒 | 彫刻家 後藤清一
彫刻家・後藤清一さんの作品が縁でおつきあいが始まったUさんはクラッシック音楽の愛好家。
さらに陶芸家の岡部嶺男、小説家の遠藤周作のファンでもある様です。
先日2度程訪問し、お話しを伺いました。
拙著の出版記念会で、後藤清一さんがベートーヴェンがお好だったので、弦楽四重奏を演奏してもらった。
と話しました。
それに答えてUさんは『ベートーヴェンが初めて、作品を芸術と認識した作家です。自作の曲に作品番号を付けたのも彼が初めてです。』更に「殆どの芸術家や哲学者はベートーヴェンの曲を愛してます」
という様なは話しをお聞きしたが、門外漢の僕には理解出来ないところもあり、間違いもあるので戴いたメールを転載します。

ベートーヴェンと後藤清一
人類史上最高の芸術家はベートーヴェンとミケランジェロと言われています。
ベートーヴェンには多くの傑作がありますが、音楽史上最高の芸術作品と呼ばれているのが弦楽四重奏曲です。
特に最晩年の6曲が究極の芸術作品と高く評価されています。
ベートーヴェンが作曲した時には、あまりにも斬新な音楽だったため、音楽界からは大不評でした。
それからかなりの時代を経て、弦楽が高く評価されるようになりました。特に哲学者からの評価が高いのが特徴です。

後期弦楽四重奏曲は下記のとおりです。

・弦楽四重奏曲第12番変ホ長調 作品127
・弦楽四重奏曲第13番変ロ長調 作品130
・大フーガ変ロ長調 作品133【13番の最終楽章を独立させた】
・弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調 作品131
・弦楽四重奏曲第15番イ短調 作品132
・弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135
どれも甲乙つけられない名曲です。

哲学者の谷川哲三氏は「晩年の弦楽四重奏曲は哲学や宗教の古典を読んでいる時と同じ感銘と充実感を与えてくれる。」
哲学者ベルクソンは「彼は、後期の四重奏曲などの、あの崇高な純朴さに到達する。それは芸術の奇跡である。多くの芸術家はそのことを少しも考えていない。彼は最も確固たる神の使者の一人、彼は案内役である。」

弦楽四重奏曲の影響を受け、自らの作品に魂を込めた芸術家は、陶芸家の岡部嶺男です。
岡部は弦楽15番イ短調を毎日聴いて、構想を練ったり精神を鼓舞したりしました。
岡部は家族に「ベートーヴェンのようになりたい」といって作陶に励んだそうです。
昨年、岡部作品に出会ったのですが、まさにベートーヴェンの復活で感銘いたしました。

高橋様からの話では、後藤先生は大フーガ133番を好んで聴いたそうです。
後藤先生もベートーヴェンから多くのものを得たことが推測されます。
後藤先生がベートーヴェンについてどう仰っていたか、知りたいものです。

このブログでの後藤先生の言葉「宗教に芽生えを置かない芸術は神のものかもしれない。されど人間の芸術とはいひがたい」。
遠藤周作の言葉「人間がこんなに苦しんでいるのに 主よ 海はあまりにも碧いのです。」
そして岡部の言葉、「愛のないものは芸術作品ではない」
この3者、それぞれ道は違いますが、「人間の芸術」を求め、常人では出来ない苦闘を乗り越えて、成就された方々であると思うのです。
共通するのは「母の慈悲」だと思います。

後藤先生は人間の芸術の先達者、ヴェートーヴェンに敬愛の念を抱いたのではないでしょうか。」
後藤作品の写真を観ていると「人間の芸術」を感じます。本物を見たい、先生のメッセージを受け止めてみたい・・と願う私です。
このような素晴らしい先生の作品が多くの人に出会って欲しいと思います。

*上記が頂いた文章だ.ベートーベンの肖像彫刻としてブールデルの作品が有名で、ヴェートーベン像を40数体制作した。



後藤清一作『口を歪めた男』(昭和5年/1930)
上記の他に『土くれ』(昭和26年/1951、第4回日本アンデパンダン展)など苦悩する顔の作品があり、ブールデルの影響を受けたかは分らないが、ヴェートーベン像に共通する要素を感じる。





アントワーヌ・ブールデル作、ヴェートーベン像。


*アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)はロダンのアシスタントをやっていたこともあるフランスの彫刻家。
ジャコメッティやマイヨールなどの後の有名彫刻家たちもブルーデルに学んだ。
1861年10月30日にフランスで生まれ、トゥルーズの美術学校に入学し、その後パリの国立美術学校にて学ぶ。
しかし、この美術学校の教育に満足がいかずに美術学校を中退する。その後、ロダンに出会う。
ロダンはブールデルの作品をみてその才能を高く評価した。そして約15年間ものあいだブールデルはロダンのアシスタントをつとめた。
そのせいもあってブールデルの作品にはロダンに影響を受けたものが多いと言われる。
ブールデルは生涯の制作として「ベートーベン像」を40数点残した。

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散歩の途中で

2009年05月23日 11時00分02秒 | 散歩
東京下町は道路の両端に花が多いと思う。
庭の広さが限定されているので、道路が庭の代わり。
とも言えようが、自然を愛する気持ちや近隣を美しくする公共心が根付いているのだろう。
多くの花が咲いているが、今日は数点写真に撮った。
花の名前は正確では無いが、調べる楽しみもある。



ムラサキツユクサ。
子供路頃からよくみかけた、ツユクサより大きいが、どちらの液を搾って色染めの遊びに使った。



ビオウヤナギ。
我が家の狭いにをにも有ったがいつの間にか消滅した。
黄色が凄く綺麗なのと花芯の繊細な線が美しい。

ウツギ(卯木)。
卯木は沢山の種類が有る。また卯の花とも呼ばれる。
1.ゆきのした科うつぎ属
  卯木(うつぎ)
  姫卯木
2.すいかずら科たにうつぎ属
  谷卯木
  箱根卯木
  藪卯木
3.すいかずら科つくばねうつぎ属
  衝羽根卯木
4.みつばうつぎ科みつばうつぎ属
  三葉卯木
西の谷にも谷卯木があり、今が盛りの頃だ。
3~5メートル卯木で、小さな白い花をいっぱいに咲かせるのも見受けるが姫卯木?
ツクバネ卯木は羽根つきの羽根に似ているので、ツクバネウツギと呼ぶが、品の良い花だ。


この卯木は紅白2色卯木?



ヤマボウシ。
今が盛りのヤマボウシ。北米原産のハナミズキに似ている。
ハナミズキは街路樹に多いが、ヤマボウシモ街路樹としても植えられていた。




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宗教家 近角常観(ちかずみじょうかん)とは

2009年05月21日 08時01分05秒 | 彫刻家 後藤清一
彫刻家・後藤清一が人生問題で悩み、解決の道を探した真宗会堂(水戸市竹隈町・現東台1丁目)。
浄土真宗の僧侶・寺西恵然が主宰していた会堂だ。
どういう経過か聞き漏らしたが、東京本郷森川町(現・文京区本郷6-20-5)に在った求道会館にも通う様になった。
求道会館を運営していたのは、宗教家・近角常観(ちかずみじょうかん)。

近角常観とはいかなる人物あったのか?
求道会館のホームページによる略歴は、次のようだ。

 明治3年滋賀県に生まれた浄土真宗大谷派の僧侶で、親鸞聖人の信仰を伝える歎異抄を原点に据え、悩み煩悶する人間が絶対他力によって救済されることを自らの入信体験を基に繰返し説き、仏教界のみならず幅広く同時代の知識人に大きな影響を与えた。
 近角は若き日の欧州留学の体験をふまえ、青年学生と起居を共にして自らの信仰体験を語り継ぐ場として求道学舎を本郷の地に開き、明治35(1902)年から昭和16(1941)年に没するまでその経営に心血を注いだ。
 また、広く公衆に向けて信仰を説く場として、大正 4(1915)年に求道会館を建立。
 その壇上から有縁のものへ語りかけると共に、広く社会に対して仏教の有るべき姿を訴えた。その主張は政教分離の立場から国家による宗教管理とともに教団の政治参画にも強く反対し、宗教界の自立性の喪失に警鐘を鳴らし近代仏教の確立に大きく貢献した。





求道会館にて、中央・近角常観、右・後藤清一、左・森戸達雄 (大正10年代)

1990年『後藤清一 ひとつの象徴の造型』を書いた時の僕の認識は、求道學舎と求道会館の2つは同一と思っていた。
学舎は学生寮で、会館は浄土真宗の教会であったのだ。
当初は学生寮として始まったが、規模が拡大して求道學舎と求道会館に分けたのだ。
その辺のことが分らなかった。

洋行帰り32歳の青年だった、近角常観が開いた求道學舎は木造2階建の、もと憲兵の屯所。
十数人の学生を寄宿させ、信仰を中心に据えた共同生活を始めた。
この様な学生寮の共同生活の効果は、外遊した体験オックスフォード或はドイツのルターハウスなどによるのでは、といわれている。
旧制の高等学校などの寮生活の楽しさと、有意義さはよく聞くことだ。
現在の教育の欠陥を、寮制度が解決出来ることがある、と僕は思っている。

ともかく、1階を書斎と居間、食堂として使用し、学生はそれ以外の部屋に住んだ。
日曜日は食堂ともう一間をぶち抜いた部屋で近隣や外部の人を対象に日曜講話が開かれた。
次第に多くなった聴衆は座敷に入りきらず廊下や縁側に腰をおろして聴聞するようになる。
人がはみ出る状況になったため、常観は付属施設として会堂を建てようとした。

求道会館設立
資金などの難問を乗り越え、武田五一の設計による会堂が落成したのは大正4(1915)年。
その会堂に後藤さんは通った。

当時の会堂内での日曜講話。

多くの人達が法話を聞きに行ったのだろうが、後藤さんや同じ念仏者の森戸達夫さんなどは別格だったのだろうか、個人的に指導を受けていたらしい。法話は対話型であったようだ。弁論部の活動が盛んであった時代、言葉が重要であった。
この点も、外遊の体験によるのだろう。

求道会館はレンガ造り、木造トラストの小屋組がかけられた2階建て。
関東大震災や太平洋戦争にも消失を免れた。





改修前と改修後の姿。
戦後は、荒れ果て使用されずお化け屋敷の状態となったが、東京都指定有形文化財に指定され、2002年に修復された。
月に1回、見学会があり、一般の人も参加出来る。僕も昨年参加し、見学した。
大正時代を感じる建築だ。


勿論、宗教施設で浄土真宗の教会堂だから、仏典の講座なども開かれる。
音楽会なども開催されるらしい。
詳しくは、予定を確認する必要がある。

それにしても、大正時代の新仏教の動きが盛んだった頃。
後藤さん達は、何を思い何を感じ、どう生きようとしたのか?
生前にお聞きしておきたかった。

求道会館の、現在に生きる仏教はどうあるべきかの模索は続いている。

*写真は何れも求道会館のホームページより。
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信願寺(水戸市緑町1-2-1)の門柱

2009年05月20日 22時31分55秒 | 彫刻家 後藤清一
親鸞24輩の唯心房が創建した信願寺。



参道の入り口に、御影石の門柱が目に入る。
開創700年を記念して昭和29年に寄進された。

この門柱(或は塔と言ってもよいのだが)をデザインしたのが彫刻家・後藤清一。




塔(スツーパ・卒塔婆・塔婆)は多種多様なものが有る。
この塔は相輪塔の一部の様に思える。
塔の頂上部、覆鉢以上の請花・九輪・宝珠を心柱と共に造形した様に見える。
何れにしても、何処にも類例がない。

明らかに、仏塔だ、手前の小さな塔も同様だ。

円柱部分は唐招提寺の柱と同じ様に、中間が膨らんでいる。
しかし、この柱は力強い四角柱で、さらに面取りされて優しくもある。

この作品が後藤清一さんの作と知ってみれば、いかにも後藤さんだ。
若くして親鸞に帰依し、仏様を信じた後藤さんでなければ出来ない造形だ。

思索の跡を綴った『隠者の片影』(昭和38年刊)
という著作には、
「宗教に芽生えを置かない芸術は神のものかもしれない。されど人間の芸術とはいひがたい」
との言葉がある。


 
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水戸での三食

2009年05月18日 03時06分34秒 | 食べ歩き
粗衣粗食

戦前の生まれとしては、粗衣粗食が当たり前だ。
最大の不況、不景気だと言われている。
しかし、大方の人は昔の王侯貴族の様な生活をしている、と思う。

戦後間もない頃の記憶は、誰も継ぎの当った服や靴下を着ていた。
麦飯は未だましも、薩摩芋やカボチャなどが入ったご飯だった。
空き地に、トマトや豆類など食べられるものを植えた。
白米なんて夢の世界だ。

誰もがその様な状況だから、貧しい。と感じたことはなかった。
無いのが、あたりまえ、だったから。
たかだか、60数年前のことだ。

いつでも、その時代に戻っても大丈夫だ。
木喰上人ほどとはゆかないが、質素な食生活を心がけている。

そうは思っているが、今回の水戸での数日は盆と正月がが一気に来た、感じだった。



土曜日は毎月16の昼食会。会場は水戸市大町の「レストラン・よこかわ」
この会は来年で30年を迎える。
会則なしで12時に集って食事をしながらの雑談。
食事のメニューは、お店にお任せ。本日はハヤシライス。
よこかわのメニューは、昔ながらの洋食が多い。

食時を含めて、正味1時間で散会というのも良い。
先輩お二人が、最近亡くなられた。と言う話を聞いた。
ご冥福を祈ります。

65歳を過ぎると、何があってもおかしくない。
生きている間を、せいぜい楽しみたいものだ。

夕食はKさん御夫妻と東海村の「Q寿司」へ。
銀座の名店「Q寿司」で修行して、暖簾分けしてもらい、開業したらしい。
本家と同じとはゆかなくとも、それに近いのでは、と思う。
もっとも、銀座のQに行った事ないから分からないが。

とにかく、美味しい鮨屋さんだと思う。
夜の部の開店草々の5時半頃は、ゆっくりと食事をたのしめる。






日曜日はYさん御夫妻と、ひたちなか市の「木挽庵」に。
以前は、日曜の昼間は休業だったが、最近は営業しているようだ。
山菜のてんぷら蕎麦を食べる。
大好きなコシアブラもある。
水戸近辺は、季節のモノが手軽に食べられるのが嬉しい。

食後は、サザコヒーに。
サザの画廊で十河正典さんの個展が開かれていいた。
この展覧会を観るのを目的で出かけたのだ。
今回は、スペインやローマに滞在した際に撮影された写真も展示されている。
各々、1年間滞在していたから、生活者の視線だ。
旅行者の観光写真とは大きな違いだ。

水戸に戻って、Uさんのお宅に。
ご自宅で採れた”蕗の煮物”をご馳走になる。
彫刻家・後藤清一さんの話しから始まり、ヴェートーベンの弦楽四重奏の話しなど、あっという間に時間が過ぎた。

遠藤周作の著書を5冊お借りする。
Uさんの見解では後藤清一、陶芸家の岡部嶺男、遠藤周作には共通のところがある、とのことだ。

夕刻、エビネンコさんが拙宅を訪れUさんから戴いた蕗の煮物、饅頭を頂きながらの話し合い。クラッシック音楽や水戸芸術館などの話題を重点に、ご意見を拝聴。

月曜日は南町の魚屋「山大」でサシミ盛り合わせ、アナゴのやわらか煮を買って一杯飲みながらの夕食。

この数日間の食生活に大満足。
皆々様、ごちそう様でした。

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今良寛のような

2009年05月16日 22時53分04秒 | 彫刻家 後藤清一
良寛さんと後藤清一さん

「大和し美し」展の感想をいくつか書いた。
限られた時間では言い尽くせないことが沢山あった。
機会があるごとに書こう、と思っている。

幾かのコメントを頂いた。
改めて、この展覧会は自分にとって何が大切なのか。を考える場となった。

二人に共通していたのは、良寛に対する敬慕の念。
良寛は現代の風潮とは正反対の生き方をした人だ。  

生涯、金などには無縁。名誉慾もなく、草庵住まいの乞食暮らし。
更に詩をつくり和歌を詠む。
書を能くするが書家の書では無かった。
本来、禪宗の僧侶なのに仏の道を説く訳でもない。
無所有を貫くと同じく知識の所有をまた所有として斥けた。

現代において同じ様に行動するのは無理にしても,気持ちの上では成し得る。


僕が尊敬していた彫刻家・後藤清一さんも良寛を尊敬し憧れた。
生活面でも、かなり近いものを感じた。
周囲の人から”今良寛のような”と言われたし,僕もそう思った。

古美術を身辺座辺に置いたが,決して高額なものではなかった。
川端や安田の様な売れっ子作家では無かったから、値の張るものは手が出なかった。
しかし、彫刻家としての美的審美眼で,佳いものが集まった。

僕もお宅にお邪魔しては,部屋にあるもの全てが素晴らしく感じた。
同様な品物を身辺に置きたく,買い求めた品は似て非なるものばかりだった。



簡素な生活は良寛の越後五合庵のよう。
6畳の居間と囲炉裏の付いた3畳間,そして2畳分の台所。農家の藁葺きの隠居所を借りた住まいは、まさしく草庵と呼ぶのがふさわしい。
生活用品も、飯茶碗、汁碗,更に少々の皿や鉢。
何れも住まいに合わせ古い品物であった。

モノを増やすのを嫌い,何か一つ買ったら何か一つ処分するという生活だった。
抹茶や煎茶を好んだが、茶人の茶は敬遠して自己流に毎朝の一服を楽しんだ。
酒は時折たしなんだ。

親鸞に帰依していたから、夜は仏教に関する本を始め哲学書などを大きな声を出しながら読んだ。膨大な読書量だが、『宗教の話しは、みだりにするものでない』と自らを律していた。
床の間には常に一輪の山野草が生けられていた。
散歩の途中で摘んだものもあれば,自宅の庭の椿などであった。

『庭の手入れは、彫刻の作法と一緒』殆どは野山の芽生えの木を移植して自分で作り上げた。庭師の庭と違って,風情のある庭だった。

蒐集した古美術品も,他人が褒めれば『どうぞ、お持ちなさって』と差し上げてしまう様な欲の無さだった。
お金も、『有ると落ち着かない』と執着は無かったが、好きな古美術品が買いたい時は困ったようだ。

多くの人と交わるのは苦手だったが、少人数の内輪の友人との交流を楽しまれた。
けして人嫌い、孤独を好んだ訳ではない。
むしろ、若い時は義太夫に張り込んだこともあるくらいで、話し上手。
面白可笑しい骨董蒐集談は、同じ話しを何度聞いても腹を抱えて笑った。
まるで落語のようだった。
水戸の古い方言?或は江戸言葉の名残?
独特な語り口は今でも耳に残る。

彫刻家・後藤清一さんについて調べて書くことも重要だし、人と作品を紹介することも大切だ。と再確認、ブログはその意味も有って始めた。後藤さんに興味の有る方、或は、知り合いが後藤さんと何らかの関連が有った。という方是非ご連絡ください。

偶然に出会ったUYさんのお陰で、後藤さんについてもうひと頑張りするきっかけを得ました。有り難うございます。



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「母の慈悲」後藤清一さんの彫刻について。

2009年05月16日 20時11分06秒 | 彫刻家 後藤清一
ブログの縁で知り合いになったUさん。
Uさんのお父さんの胸像を作られたのが、後藤清一さん。
作品を早速拝見に行った。その際、拙著『後藤清一 一つの象徴の造型』(1990年)を差し上げた。
読後の感想文を戴いたので、ご披露する。

後藤先生の資料読まさせていただきました。
後藤先生の作品はどれを見ても芸術性の高い作品です。
私の尊敬する作家、遠藤周作の世界に合い通じるものがあったので嬉しくなりました。

遠藤は純文学やユーモア小説を書いておりますが、全ての作品に「母の慈悲」がテーマになっています。
神は父のような強いものではない、全知全能でもない。
人が悲しければ人に寄り添い一緒に泣き、苦痛があれば手を握り励ます。
人はそのような神の存在を知った時「神は復活する」。
人は弱いもの、たとえ踏み絵をしても、神はそれを赦す。
そしてそのひとの罪悪感からの苦悩を癒す。(これは私の解釈であって、異論は沢山あると思います。)


IMG_20090517183122.jpg

(作品の前の後藤清一、昭和6年・浦和時代)

後藤先生の作品には「母の慈悲」の優しさが溢れていると思いました。
伝記の一節に高名な彫刻家が「後藤作品には力がない」と一蹴したと書いてありましたが、何と狭量なことだと思いました。
先生と同じように遠藤も幼い時に母の慈悲を受けていません。
勝手な言い方をすると、母の慈悲に飢えて育った為、一層、母の慈悲に憧れたのではないでしょうか。

私は特定の宗教には属していませんが、先生や遠藤の思想には共感しました。
父の胸像を改めて観ると、先生の慈悲、やさしさが浮かびました。
先生のお陰で父は幸せものだと思います。
今まで後藤先生のことを何にも知らなかったことに恥じ入るばかりです。

以上のような内容だが、僕は遠藤周作の作品を読んだ事が無い。
従って、遠藤作品と後藤作品の共通する要素は、分からない。
確かに、後藤清一の作品には母子像が多い。
幼くして父母と別れて育った後藤さんは母に対し憧憬の念があったであろう。

僕は後藤さんの多くの作品が人間でありながら、仏でもあるようだ。
興福寺の阿修羅の像を含めた八部衆は、仏でありながら人間のようだ。
どちらの像からも、慈悲の心を感じる。

後藤さんの彫刻作品は、身近で見守ってくれる『現代の仏さま』だ。
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都電荒川線、ぶらり旅

2009年05月14日 23時48分01秒 | 散歩
荒川線一日切符¥400也。

各駅停車の旅、特に都電荒川線の旅はお手軽でテレビの番組に再三登場する。
東京唯一の路面電車として有名だが,ルーツは「王電」と呼び親しまれた王子電気鉄道。
明治44年(1919)にまず大塚~飛鳥山が開業.のちに路線を延ばし昭和7年に全線が開通した。

昭和40年,都電は次々と廃止の憂き目に遭う。
王子赤羽間は廃止されたが、王子~三ノ輪と王子~早稲田が一本化され,荒川線が誕生した。

乗車料金は全線均一の¥160で、一日券は¥400。
3回以上乗れば割安だ。
早稲田の演劇博物館見学に、一日券を購入した。

王子を出ると飛鳥山の急な坂を上る,飛鳥山にはミニケーブルカーが建設中。
来月頃は運用開始らしいが、車いすでも駅から直行出来る様になる。

5番目停留所、庚申塚で下車。年寄りの原宿・巣鴨地蔵に。
何時からこれ程の人気になったのか?
僕が東京にいた50年前に来た時は、別にどうというところでは無かった。

中山道板橋の宿への本通。江戸六地蔵の一つ、真性寺は《江戸名所絵図》に描かれている。
高岩寺(巣鴨のとげぬき地蔵)は書かれていない、それもそのはず、明治24年下谷から現在地に移った。
とにかくお参りして、庚申塚の駅に戻る。

電車が来る間、踏切の反対側に行く。とある餃子やの前には行列が。
おいしい餃子の店として有名らしい。
並んで食べるのも面倒と駅に戻るが,何か気になって,寓居に戻って買いに行った。
これ、一日乗車券の利点。

次は鬼子母神前で下車.



鬼子母神は各地にあるが安産と子育ての神様?仏様?。


ケヤキと石畳の参道を行くこと3分で到着。

境内には大きな銀杏の樹が聳えている、東京で2番目の銀杏の大木と説明されている。
水戸の八幡さんの銀杏が格式と大きさを感じた。



社殿の前に,由緒ある駄菓子屋「上川口家」,年配の女性が店番している。
大人が立ち寄っているが,子供の姿は無い。
この店も,沿線の旅では度々紹介される。

鬼子母神前を発車すると,下りにかかり,次は学習院下。
そこから直角にカーブして新目白通りに、間もなく終点の早稲田駅。

博物館に行く前に腹ごしらえ,日頃は粗食だが今日は豪華に鰻。
明治10年(1877)創業の老舗で、漱石も通ったという『すず金』へ。
ガイドブックではメニューはうな重(1200円・1500円)、蒲焼き(1000円・1500円)のみ。
営業時間は午後2時30分まで,夜間は営業しない、とある。
到着したのは2時前だったが閉店しており,本日の営業は終了しました、の貼り紙。
残念ながら,次回に持ち越し。

さればと,大学に向かう道筋には沢山の飲食店,何処に入るか迷う。
エイッとばかり入ったのが「キッチン南海」ここが大正解。
さくっと揚がったカツとフライの定食。
お値段控えめ.学生街は損得なしに奉仕の精神だ。
ごちそう様でした。

やっと,演劇博物館の「越路吹雪展」に。前回のブログでは書き尽くしていないが,またの機会に。
甘水公園の脇、一坪位の小さな鯛焼き屋「カタオカ」へ。





1個100円なれど味は抜群、周りがかりかりとした食感は珍しい。

一日券で都合6回の乗車、十分に元手をとった都電荒川線の旅でした。
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