「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

千葉県立美術館

2009年06月30日 22時48分35秒 | 美術館
東京駅からJR京葉線で約40分「千葉みらい駅」に着く。
何時、埋め立て造成されたのか?街路樹はかなり大きく育っている。



駅からタワーを望むことが出来るが、100メートルの高さとのことだ
水戸芸術館のタワーと同じ高さだが、水戸の方がユニークで存在感がある。

港に向かって駅から10分ほど、千葉県立美術館がある。周辺を含め敷地は広い。
高さを抑えた設計で景観に馴染んでいる。



入り口前には浅井忠の銅像が建っている。千葉県を代表的する画家だ。
この美術館は24体の彫刻が屋外展示されているのも特色の一つ。



入り口を含め、エントランスは設計的に不十分。
狭くて天井も低い。時代的にそのような設計なのか、トイレ等も良くない。
その点、茨城県近代美術館は良く出来ていると思う。

勿論、美術館は設備より企画内容であり、コレクションだが、千葉市立美術館は話題の企画を連発して評価は高い。
展示スペースも比較にならないほどの差がある。
展示室1は、千葉県ゆかりで近代洋画の先駆者浅井忠と、その師フォンタネージやバルビゾン派の作品。
地元ならではの浅井のデッサンも多く展示されている。
先日、笠間日動美術館で観た浅井忠の「小丹波村」の連作の1点も展示されていた。
フォンタネージとバルビゾン派の作品はこの館の目玉だ。



広い展示室で使われてない部分もあり、もったいない。
といおうか、館の方針が定まっていないのだろう。
県民ギャラリーのような感じで貸し出す際に使用する感じだ。
今の時勢にそぐわない、と思った。

ブールデルの「聖母子像」は一見の価値ある作品。
全体との関連は、と考えると疑問だが、彫刻に力を入れている美術館、とは感じた。

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蓮と睡蓮

2009年06月30日 19時45分06秒 | 山野草
大賀蓮



石神井公園の三宝寺池周辺の散策で水戸の県立歴史館の大賀蓮も咲き出したのではなかろうか?と気になった。
大賀蓮は千葉市の2000年前の地層から大賀博士によって発見された古代の蓮。
その後、全国に株分けされて普及した。歴史館の蓮も見事である。
華の寿命は3日間、真夜中から咲き始め、朝5時から8時頃が満開で香りも強い。
とのことだが、その時間帯に観たことはない。

ところで、蓮と睡蓮はどう違うのかを調べてみた。
蓮は花も茎も葉も水面の上だが、睡蓮は葉も花も水面に浮かんだ状態、ということで分りやすい。


ヒツジグサ

睡蓮の日本原産はヒツジグサ1種のみであとは外来種。
この花は、那珂市の蕎麦や「麦や」で初めて知ったが、白く可憐な花だ。


アサザ
アサザは水戸植物園の池に沢山植えられているが、黄色でちょっと見ると睡蓮のようにも見える。


コウホネ
アサザに似た黄色の花だが、葉の形が大幅に違うのがコウホネ。





三宝寺池の睡蓮

睡蓮は大きさも手頃で、色も多くの種類がある。
タイやバングラデッシュで見た睡蓮は、今も心に焼き付いている。
旅の想い出は、一輪の花でよみがえる。

これからの暑い時期、沼沢植物は愉しい。
千波公園一帯にもう少し水生植物があればと思う。




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関武蔵公園

2009年06月29日 14時46分31秒 | 庭園
石神井公園の性格の異なる二つの池、石神井池と三宝寺池はどちらも野鳥の宝庫だが、そこから4~5キロメートル上流の「武蔵関公園」はこれまた野鳥の多い池らしい。石神井川沿いに上流を目指す。貸し自転車の利用は、この様な際に誠に有り難い。夏の陽射しをうけても、自転車なら苦にならない。


新青梅街道に沿って行くと西武新宿線・武蔵関駅の近くに「武蔵関公園」がある。


古くは多摩、新座、豊島の三郡の境界点で、現在はここまでが練馬区で、隣りは西東京市となる。
石神井川の川幅も大分狭くなっている。湧水池「富士見池」の流れが石神井川と合流する。
池の傍らに「早稲田大学グランド」があり『取材お断り』の張り紙がしてある。
”ハンカチ王子”斉藤選手も練習するグランドなのかもしれぬ。
目隠しが在り、道路から見渡せない作りになっている。

今回はバン、カワセミ、ゴイサギ、コサギ、カイツブリ、ツミ等の野鳥に出会うことが出来た。


アマチュアカメラマンや愛鳥家にも出会った。何人かの方からは親切に教えて頂いた。
特にカワセミの営巣地点の前は、三脚をたてて待ち構えるカメラマンが10人近い。
皆さん顔なじみらしい。のんびりとシャッターチャンスを待っている。

今回の、石神井川の上流歩き。いくつかの沼沢の植物や野鳥を観る機会を得て、望外の幸せであった。
美術館用に持ち歩いている単眼鏡がとても役に立ったのも嬉しい。

鳥の羽根の色や草花の色等、どのように描かれても自然の作り出す造型にはかなわない。
動植物、全てはジッと観察するのが最高の贅沢なのかもしれないと思った。


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石神井公園

2009年06月28日 20時31分44秒 | 庭園
東京の仮住まいは東京都北区王子で、桜の名所飛鳥山と石神井川が近い。
石神井川は程なく隅田川に合流する。
けして綺麗な流れではないが、東京の殆どの河川が暗渠となってしまった中で、川として流れているのは貴重だ。
上流はいかなるところか?先ずは、石神井公園を訪ねることにした。

西武池袋線石神井公園駅の近くに練馬区が運営している駐輪場で自転車を借りることが出来る、
一日借りて百円は安い。

石神井公園は横長に連なる三宝寺池と石神井池の二つの池を中心とした公園。

ボート遊びや魚釣りも出来る石神井池の周辺は、高級住宅地で豪邸や屋敷の一角をレストラン喫茶として営業している家もある。








公園を含む周辺の区域は、環境や景観を保持するため、風致地区に指定されており、水戸の千波公園に近い雰囲気だ。

道路を挟んだ三宝寺池は武蔵野の自然がよく残されている。
井の頭池や善福寺池と同様武蔵の台地の湧水が池となったが、最近は水量が少なく地下水を汲み上げて放流しているとの説明版があった。
その点、千波湖は那珂川の水を導水しているのだから、もう少し澄んだ湖面にならないのだろうか?



三宝寺池は水生植物の宝庫らしく岸辺には睡蓮が花盛り、写生する人たちもいる。


水生植物保護のため、周囲の遊歩道は全て木製だ。


こちらは、水戸の七つ洞公園に近い感じ。
七つ洞公園も水生植物をもう少し多く植えることや木道の改修をしてもらい。
予算が少ない時代だが、維持管理の費用は不可欠。
新たに何かを作るより、現状を維持することが大切だ。

石神井公園の中で東京都公園協会のパトロール員を見た。


水戸市の公園協会もこの様なユニホームで公園内の巡回もお願いしたい。
目に見える形での活動は、環境保護の意識も高くなるだろう。

自然保護が行き届いているので、トンボなどの昆虫類やカイツブリなどの野鳥も多いらしい。
バードをッチングをする人たちも見かけた。

水戸市の公園行政、充分とはいえないにしても、良くやっていると思う。
限られた予算の中で不要な出費を抑え、維持管理は充分にして欲しい。





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不思議な魅力ー朝鮮の民画

2009年06月24日 18時55分16秒 | 美術展
後藤清一さんの彫刻「薫染」(1941年)がソウルの国立中央博物館に展示されていることを聞いてから、朝鮮に関連する話題に関心を持つ。
「祥雲」の朝鮮の民画展は興味深い作品ばかり、今までの朝鮮の民画の概念を変えさせられた展覧会だ。
中国や韓国の地方を旅すると、何か懐かしさを感じる。日本の源流の一部が未だに流れていると思う。


オリエンタルアート「祥雲」では年に数回『華蔵』(kezou)と題する小冊子を発行している。
vol3の夏号には今回の展覧会に関連し『不思議な魅力ー朝鮮の民画』と題し関隆さんが述べている。




この度、遠来の美 其の二として“朝鮮の民画展”を開催します。“遠来の美”は、異国で生まれ海を渡り、日本に辿り着いた美術品を対象にしています。朝鮮の民画もそのひとつです。“民画”という言葉は民芸運動の柳宗悦氏が造った言葉であり、民衆から生まれ、民衆に親しまれた絵画を指します。民画については日本民芸館にいくつかの作品が収蔵されておりますが、美術全般を考えた場合にはまだまだ埋もれた美術品とあると言ってよいでしょう。それは民画が名もない人たちによって描かれたことや、多彩な表現があるにもかかわらず一括りされた稚拙な絵画イメージのみが先行したせいかもしれません。
朝鮮の李朝時代の民画は民衆に親しまれたばかりでなく、幅広い階層の人々に愛されました。それらは多くの人の生活に密着した美術だったからです。民画は18世紀、19世紀に主に部屋を飾る屏風のために6枚組もしくは8枚組のえとして描かれ、人々はそれらの屏風を行事ごとに模様替えをしたといわれています。主にそれらを描いた人たちは放浪画家と呼ばれ、国の中心を離れて旅をしながら地方の有力者の家に逗留し、絵を描いていました。
民画の画題は様々ですが、下記にいくつかの代表的な画題について挙げます。

●山水画
伝統的な中国の画題の他、聖地である金剛山図や関東八景図などの朝鮮独特の画題もあります。また朝鮮の風景に中国の瀟湘八景の画題をつけるなど、あまり厳密なこだわりがないのも面白いです。
●虎図
朝鮮には虎に関連した説話が数多くあり、虎を動物の中で最も強いとし、敬ってきました。中国では朝鮮を「虎と話しをする国」として”虎談乃国”と呼んだと伝えられています。朝鮮の人々にとって特別な存在である強い虎が、民画の中ではユーモラスな姿でどこか親しみにあふれた姿に描かれています。虎を当時の権力者に見立てたという説もあります。
●魚図
多くの図は多産と豊穣の象徴として、雄雌対で子供を引き連れて描かれています。また、魚は寝る時も目を開けているので常に過ちを警戒すると信じられとぃました。
●文字図
儒教などの道徳的文字を描くことが多く、孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥の8文字が代表的です。
●花鳥図
鳥を雄雌一対で描き新婚部屋や婚礼の席で使用する屏風に仕立てられました。
自然の移ろいや渡り鳥など、季節の変化を捉えたものも多く描かれました。

*以下は略致しますが『小さな蕾』7月号に、日本民芸館学芸員の尾久彰三氏と関隆さんの対談”パーボ山水は李朝民画の真骨頂”が掲載されているとのことだ。



「李白」の壁面の民画、神保町時代。

*以前、神田 神保町にあった茶房『李白』が世田谷に移転した。数年前に訪ねたが、以前の雰囲気を残し、壁面の民画が印象的だった。

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「朝鮮民画展」@祥雲 銀座1-5-15

2009年06月24日 13時10分37秒 | 美術展
朝鮮民画展 
6月20日(土)-7月5日(日) 11:00~18:00 (月曜休み) 会場 祥雲 1F展示室


関隆,関美香ご夫婦が運営している「ギャラリー祥雲」はユニークな古美術商として注目されている。
6年前にニューヨークにも進出し、日本の古美術の普及に力を尽くしている。
テーマごとの企画展示が特色で、様々な展覧会を良く考えるものだ、と感心する。
日本美術のみではなく、オリエンタルアート(東洋美術全般)を扱っている店だ。
展示会ごとにパンフレットが制作されるが、その内容も良く出来ている。
全てに、気を配っているのが分る。



今回の展示は「朝鮮の民画」

李朝時代の民画の魅力はなんといっても伸びやかな筆線と自由な構図。
今まで紹介されている「朝鮮の民画」は、類型的なものが多いが、今回の展示品は見たことない作品ばかり。
無邪気な人物や動物の表情など、観ていると愉しく、幸せな気持ちになる。
「半開堂コレクション」とサブタイトルがついているが,どのような人が収集したのか?
珍品の数々を集めた眼力に恐れ入った。
今回の展示は約60点の掛軸を出品されている、とのことだが,スペースの関係で,殆どは巻いたままの状態。
手数をかけることになるので、掛けてある分のみ観て他は写真集で。
また出かければ,別な作品も鑑賞出来そうだ。

独特な絵画の魅力を更に引き立てているのが、表具の素晴らしさ。
掛け軸の魅力は,本体と似合った表具にある。
今回の展示品は全てが小品で表具が良く掛けやすい。
買って手元に置いて眺めたい。と気持ちが動く。
モノは増やさない、と決めてある。値段は聞かずに観るだけ。

会期中にもう一度、出掛けたい。

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西ノ谷の小鳥

2009年06月23日 21時47分36秒 | 西の谷緑地公園
今年は,西ノ谷の清掃にかける時間がとれなくて、申し訳なく思っている。
草も伸びて,この調子では手に負えなくなると,心配していた。
タイミング良く、水戸市公園課による草刈りが始まったのは「歌留談」さんのブログで知った。



久しぶりに出かけ,綺麗に手入れされたのを見て安心した。



芝生の広場は、見たこともない鳥が啄んでいた。
植物ばかりでなく,鳥などまで外来種がふえているのか。
鹿島市在住のBさんは,日本野鳥の会に属して日本中の野鳥を探索している。
お目にかかる機会があったら、その辺の事情をお訊きしたいと思った。

これで当面は安心だが、梅雨が明けるまでの雨の量により、草の繁殖力は強い。
あっという間に、すぐ伸びる。

幸いなことに,空き缶などの投げ捨ては大分減ったようだ。
綺麗になっていれば投げ捨て,置き去りはしずらいのだろう。

ゴミ拾いのボランテア活動をしている人も確実に増えている。
今の状況が持続され,更に美しくなれば,と願う。

紫陽花が美しい花をつけていた。

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牛久沼上の一日

2009年06月19日 14時37分21秒 | 彫刻家 後藤清一
『画聖芋銭』(昭和18年、宮越太陽堂)

昭和9年5月20日、浄土真宗会堂仲間であった森戸達雄(旧姓金子)後藤清一、津川公治と写真家の小野信男の4人は、牛久の小川芋銭の自宅を訪問し、後藤作の『弥勒菩薩像を贈った。その日の出来事を津川公治著『画聖芋銭』(昭和18年、宮越太陽堂)の第30章に『牛久沼上の一日」と題し20ページにわたり克明に記している。その一部を抜粋し概略を述べる。この本は昭和28年に再版され、更に昭和52年に筑波書林から『小川芋銭ー脱俗の田園画家ー』と改題され出版されている。


牛久沼上の一日
 森戸達雄、小野信男両兄とともに常磐線の牛久駅に降りると、ひと足さきに着いていた後藤清一兄が待っていた。午前9時38分である。いそいで駅頭の自動車をたのみ、砂をまきあげながら城中の草汁庵に向かう。牛久沼のほの見える門前で自動車を降りると、庭内一面新緑の若葉が初夏の陽に照り映えて、目がさめるようである。牡丹はもう色も褪せてしぼむばかりであったが、一叢の芍薬はいくつも固い蕾をつけて、その尖端に赤紫の莟をわずかにのぞかせていた。
 「さあ、どうぞお上がりなすって」
芋銭先生は、いつものように楚々として縁に出てこられてわたしたちを迎えてかださった。
 後藤兄が自作の「弥勒菩薩像」をまず先生に贈り、一同その仏像を中心にしてしばらく話しがはずむ。
「どうもまだ未熟な作でお恥かしいのですが」
という後藤兄の言葉に対して、じっと作品に見入っておられた先生は、
「いや、大変結構な作で」
といってにこりともせず、鑑賞していられる。(以下略)

*次いで芋銭の座敷の中の雰囲気が描写されている。それから陶器の話しに移り、小川家に伝来する黄南京や古九谷の皿などを芋銭が持ち出して、古陶磁に詳しい後藤に鑑定を願ったりする。

 くにがみのやまのふもとのこひしかば
 たづねてきませたどりたどりに

*この良寛の書の一幅を観ながら、良寛論、書論へと話題は移って行く。王羲之、鄭板橋などの書に対する話しから、書道でも画道でも自分自身をかく、自分自身をかく、自分の自然に還るところに本義があるのではなかろうか。という文人画を描く芋銭の画境が語られている。弥勒像を中心にして入仏式の記念撮影をしていると昼食の時間となった。すぐ後ろは牛久沼だ、頼んであった船に御馳走を積んで牛久沼へと漕ぎ出した。

 隣りの部屋で仕事をしていた倉持晋一兄も加わって、一行は五人に船頭さん二人、目がさめるような鮮緑の真菰の中を、船はするするすべって、沼上に浮かぶ。空からはたえず柔らかな銀色の五月の光線がふりそそいで、湖上のさざなみにちらちらと照っている。新緑の色滴るような岸の森、草汁庵前の河童松が次第に遠のく。ぽかぽかとした陽射しに、わずかに汗ばむほどの肌を湖上の微風がそよそよと吹いて、何ともいえぬ心地よさである。(以下略)


牛久沼にて。(昭和9年)右から後藤清一、小川芋銭、津川公治、森戸達夫。
原板の撮影は小野信男。

*なんとのどかな光景であろうか。芋銭の絵の世界そのままだ。やがて「太子堂」のある出島に着き、境内に上がって蝉の声や松籟を聞き、景色を眺める。再度船を進め、沼辺の料亭「湖月」でしばらく寛ぐ。卓上には牛久沼名産のジュンサイと鰻の蒲焼き。草汁庵から持参した料理と共に昼の宴。酒も程々に回って,釣りをしようということになる。時間はあっという間に過ぎた。この日の終わりについて、次のように記されている。
 
 六時が少し過ぎた頃おい、わたしたちは草汁庵を辞した。この初夏の一日の清遊は到底筆紙に尽くしがたいのを感じる。行く行くわたしたちは至人芋銭先生の談中の真趣をくりかえし語り合っては心に深く肯いた。その拳蔗はあくまでも簡素悠々、その言句は真捩的確、寡言にして温情溢れ、語って説かず、俗に同じてしかも隠逸、いかなる人も先生の前にあっては自分の粗暴と傲慢を自覚せざるにはいられなかっただろう。この至人に招かれた沼上の清遊、思えば夢のようである。(以下略)


*小川芋銭は1868年(慶応4年) - 1938年(昭和13年)。昭和9年の牛久沼での清遊は芋銭が66歳の時。
簡素悠々、語って説かず、俗に同じてしかも隠逸。正しく至人だ。晩年の後藤清一さんにそのような雰囲気はあった。
その何十分の一でも良いから、僕もこの様な人間にになりたい。と願う。

* 雲魚亭。昭和12年の9月に小川芋銭の旧宅の敷地内に芋銭婦人と長男が新築した画室兼居宅。芋銭は同年9月末にここに移り住み古希記念新作展などの準備に当るが、翌昭和13年1月末に脳溢血で倒れ、12月17日に永眠するまでは、療養のための居宅となってしまった。
 現在は、牛久市立の小川芋銭記念館として一般に公開されており、土日祝日は室内も公開している。

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津川公治と『彼等自身』

2009年06月17日 23時27分13秒 | 彫刻家 後藤清一
『彼等自身』の編集に関わった水戸高等学校の学生であった、土方定一と小林剛については述べた。
両者と共に編集し発行所を兼ねた津川公治は水戸市荒神町(現・城東2丁目)に明治35年(1902)に生まれた。

水戸中学を卒業後、大正11年(1922)東洋大学宗教哲学科に入学するが,1年で中退し,大正12年「いはらき新聞』に入社し,学芸部に所属し活躍した。

『彼等自身』は大正14年11月から翌年3月まで5冊発行された。
それに先立つ大正10年3月、水戸市竹隈町の真宗会堂内の涅槃社から『無憂樹』というリーフレット版の雑誌が創刊された。主宰者は会堂の責任者、浄土真宗の僧侶・寺西恵然。この雑誌は6月、8月、11月と4号まで出た。この雑誌に津川は評論、詩、短歌等を発表している。



大正13年9月10日、暁烏敏講演会、真宗会堂。
中央・暁烏敏、脇の洋服姿・津川公治、前列右から2人め羽織姿・寺西恵然、暁烏敏の後の和服姿・後藤清一。


後藤清一は大正9年、美術学校研究科を中退し,水戸市外酒門の善重寺の竹薮の中の離れに移り,真宗会堂で寺西の法話を聴き生きる希望が湧いた。以後、足繁く会堂に通うようになった。津川は後藤より9歳若年だが、会堂の法友として付き合い始めた。

津川の家は元水戸藩士、神道のの家柄であったが、親鸞・山村暮鳥・小川芋銭を慕い,ミレーを愛した。
文学に対する素養がいはらき新聞入社後いかんなく発揮され、活躍の場が広がった。

記者としての文学評・美術評を紙上に発表したのは仕事として当然だが、取材を通じて知り合った地元の茨城や東京の文学者や美術家と幅広い交流が生まれた。それらを巧みに組み合わせ,プロジューサーの役割を果たした。中学時代から文才もあったが,編集者・出版に関しても興味を持っていたようだ。

津川と後藤の関係は真宗会堂での出会いと考える。
対人関係が不得手で、引っ込み思案の後藤を,何とか表に出したいと考え,多くの知人を紹介した。
山村暮鳥や小川芋銭を紹介したのも津川である。



山村暮鳥
1884年(明治17年)~1924年(大正3年)。本名、土田八九十(つちだ・はつくじゅう) 群馬県生れ、茨城県大洗町で永眠、享年41歳。


2004年,山村暮鳥生誕120年を記念して『発見・山村暮鳥』と云う記事が茨城大学教授・佐々木靖章によって地方紙に連載された。(茨城、群馬、詳細は調査中)その2004年8月23日、30日の記事の一部を引用しておく。

 「彼等自身」は発行所を津川の自宅に置き,水戸高等学校在学中の土方定一、小林剛の三人で編集した,水戸高の教師達が盛んに寄稿、芋銭は云うまでもなく、後藤清一、高橋元吉等応援し、草野心平も詩を載せた。
 創刊号の編集後記で津川は、もともと暮鳥と「桃源」という雑誌を雑誌を出すつもりでに芋銭に表紙絵を描いてもらっており、それを今回後藤が木版にして載せたといい、暮鳥の短詩については「思想を超脱した一種の悟得の美」があるという。(以下略)

山村暮鳥の顕彰と小川芋銭の信奉者であった津川公治は多くの関連図書を刊行している。
昭和18年に『画聖芋銭』(宮越太陽堂)を刊行した。そのなかに「牛久沼上の一日」と云う一章があり、後藤清一、森戸達夫、津川公治(この3人は真宗会堂での仲間、お互いに法友とよんだ)で牛久の小川芋銭を訪ね、後藤が自作の「弥勒菩薩像」を芋銭に贈り、その後「草汁庵」で愉しい1日を過ごした情景が綴られている。(この件に関しては後日改めて書きたい。)

新聞社を退職後は、水戸市厚生課長等を経て茨城県児童福祉協会を設立し、県下の子供会育成の仕事に携わった。
晩年、全ての蔵書は石岡市の「常陸郷土資料館」に「津川文庫」として寄贈された。
昭和33年(1958)に没す。

*佐々木靖章さんには一度もお会いしたことがない。機会があればお目にかかり、ご教授をお願いしたいと思っていおります。
*山村暮鳥はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わった。(日本聖公会の水戸教会は、大町の「愛恩幼稚園」と云った方が分りやすい。)自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、異端として追放された事も数多くあったという。
* 明治大正期の新詩体から口語自由詩への変革期の中で、革新的な作風から人道主義的な作風まで、これほど短期間の間で己の詩質と詩風を何度 も変容させた詩人はまれであり、日本近代史に類例のない軌跡を描いている 。
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四谷駅周辺の散策

2009年06月17日 11時23分27秒 | 散歩
韓国文化院

後藤清一さんの彫刻作品がソウルの中央博物館に展示されている話しを聞き、それに関する資料を見つける為に、四谷4丁目に新設された『韓国文化院』を訪ねた。四谷駅から徒歩10分、新宿通りに面した15階位の正面にガラスを多用した今流行の建築。聞けば今年の4月に出来たばかりとか。



韓国大使館の付属施設で1階はギャラリーで3階に資料室がある。主には書籍類だが、映像もあるようだ。
韓国の美術品の資料は多いが、韓国が所有する日本美術の資料はない。
数年前に龍山公園内に作られた「国立中央博物館」の図録は1冊、そこに日本美術の載っていない。
何かあればと,思っただけのことだから、残念ではない。
韓国美術の疑問解明には役に立つ資料室だ。
後藤さんの作品拝見の韓国旅行に期待を込め、観光地図を貰う。
1階のギャラリーの「韓日交流工芸交流展」を観て、韓国文化院を後にした。

消防博物館
四谷3丁目の交差点の四谷消防署に併設された東京消防庁『消防博物館』が在ったので入館する。
ちなみに入館は無料。地下1階から11階までだが主な展示室は地下と4階、5階。


消防の変遷や江戸の火消し等についてジオラマや実物展示で分りやすく説明している。
勿論,現在の消防活動についてもだが。




地下には古い消防車の展示コーナー。ヘリコピターまで吊り下がっている。

消防の博物館まであるとは、さすが《東京》と感じた。
もっとも、人口や予算規模からいっても,ヨーロッパの小国以上だ。

荒木町


新宿通りに面して《荒木町》の看板、ここが噂の荒木町か、と曲がってみました。

頃は午後1時30分過ぎ、ランチタイムも終了と云うので,静かであった。
とはいえ、裏町好きには、匂うものがある。




もっとも夜が主体の町。夕方以降でなければ雰囲気は分らないだろうが。
営業していなくても、個性的な店が多そうだ。
神楽坂の縮小版ともいえるが,観光地化はしていない。
後日、ランチか一杯飲みに立寄りたい町だ。



水戸でいえば東照宮の裏、または旧黒羽根町の裏側が似た雰囲気だ。
僕は,路地裏の飲食街が大好きだ。

永六輔、柳家小さん治等が会員の「やなぎ句会」の例会所でもこの辺にあるようだ。
あるいは永六輔の実家のお寺が近いのか?
それらしき説明板がある。

新宿歴史博物館

荒木町から四谷駅寄りに「新宿歴史博物館」の案内標識を見つけた。
地下一階、地上二階の博物館。常設以外の企画展は無料だ。
新宿は大名・内藤家の敷地の一部に出来た「内藤新宿」の宿場(現在の新宿御苑のあたり)から発展が始まった。
更に,新宿区は文学者にゆかりの地が多い。特に早稲田周辺にはたくさんある。
企画展は幕末・明治の版画展。

ソフィア大聖堂。

四谷駅のすぐ前の上智大学の一角を占めるソフィア大聖堂。
10年ほど前にドーム型の大聖堂として再建された。

最近知り合いになったUさんがカトリック教徒の作家・遠藤周作の大フアン。
その影響もあるし、須賀敦子に対する憧れもある。
高校生のころ、友人に誘われ五軒町のカトリック教会に何度か足を運んだ。
同級生に何人かのクリスチャンいて、1人は現在神父となっている。
カトリックの教義を勉強に通った。友人について行った程度ではあるが。

特定の教団に属す気持ちはないが、神仏に素直に手を合わせる気持ちはある。
久しぶりにお堂に足を運びたいとの気持ちが,自然に湧いてきた。
在家の仏教やキリスト教には、興味があるが教団に属する気はない。



ともかく、お堂に入った。
ドーム型の広いお堂の中に10数人が静かに祈っている,あるいは瞑想している。
ステンドグラスを通して入る光は、気が安まるし,落ちつく。
無言の祈りなのが更に良い。


暫く座って,最近の出来事を思い返し、瞑想した。

大小3つの聖堂があるようで、もう一つ2階の小さな聖堂に入ってみた。
こちらは誰もいない。
一人静かな時間を過ごした。

カトリックのお堂の良さは何時でも自由に出入り出来ること。
もっとも,現在の五軒町のお堂は夜間は出来なくなった。




四谷駅前の四谷橋の橋脚と欄干。時代を感じるレンガと御影石そして鋳鉄の欄干。

今回の四谷駅周辺の散歩。
再び訪れたい魅力の場所が多かった。
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小林剛と奈良文化財研究所

2009年06月16日 18時56分23秒 | 彫刻家 後藤清一
前回の旧制水戸高等学校の記事について、yocyan7さんからコメントを戴いた。

旧制水戸高校教授の長谷川四郎さんにはお世話になりました。水高跡地記念碑があり長谷川先生の書が刻まれています。偕楽園公園の晩鐘のプレートもそうです。先生は東京小石川の水戸藩御殿医の家に生まれ、東京帝大時には芥川龍之介と同窓だそうです。英文学者でしたが、書と浮世絵への造詣は深く、真の文化人でした。子息の五郎さんは水戸一校時代、オセロを開発した人です。オセロの名前は英文学者の四郎先生が名付けました。
当時の旧制高校については、北杜夫著「どくとるマンボウ青春期」に自由で本をむさぼる高校生像が描かれています。

と云うことだが、おっしゃるとおりである。

僕が20代の前半に読んだ本は、北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」と小田実の「何でもみてやろうの」も2冊のみ。
旅もの、旅行に関するものが好き、ということなのだろう。
「どくとるマンボウ青春期」は読んでいないが、旧制高校の寮生活は青春そのもの、だったのだろう。
北杜夫の本は何冊か読んだ。真面目さが滑稽な愉しい話しが多いが、強度な躁鬱症も親近感を感じる。

本題に戻って、土方定一の同級生小林剛にふれないのは片手落ち。
土方より早く没したのと、地味な仕事だったので知名度は低いが、美術史家としては甲乙付け難い実績がある。



小林剛(1903-1965)は水戸市に生まれた。
旧制水戸高等学校を卒業後、東京大学美術史科にに進んだのは土方と同じ。
生涯を通し日本彫刻史の研究に従事した。
奈良帝室博物館在職中の昭和8年に開催した「運慶を中心とする鎌倉彫刻展」は研究成果の発表形式をとった画期的な展覧会として、今日の博物館展示の原型となったことで名高い。
また、奈良国立文化財研究所の開設に尽力し、初代の所長を務めた。
南都七大寺の研究や、平城宮跡の国による買い上げに奮闘し、研究所の基礎を築いた。
今日の埋蔵文化財調査の方法を確立するなど大きな功績を残している。
また、郷土茨城県の文化財の調査研究にも力を尽くした。


著書の数々。

『御物金銅仏』『日本彫刻史研究』『仏師運慶の研究』など、多くの著書や論文がある。

後藤清一も彫刻の実作家として、昭和27年に茨城圏文化財専門員として絵画・美術工芸・彫刻の部門を担当している。
小林は水戸高等学校在学時に『彼等自身』の刊行を初め何かと世話になったお返しにと、後藤の長男・道夫が美術史家の道に進み、難問に遭遇した際、何度か助言をしている。

惜しむらくは、早過ぎた死で、実績に応じた評価をされてしかるべき人物だ。
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土方定一と『彼等自身』

2009年06月15日 18時50分34秒 | 彫刻家 後藤清一
旧制水戸高等学校

彫刻家・後藤清一が人生問題に悩み東京美術学校牙彫研究科を中退した大正9年(1920),旧制水戸高等学校が全国13番目の官立高等学校として設立された。水戸高等学校は船舶事業で一代にして巨額の財を築いた茨城出身の内田信也の寄付金百万円(現在の金額で百億以上だろう)を基金として、水戸郊外の東茨城郡常盤村(現・水戸市東原町)に5万坪の敷地を得て開校した。
文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置され、学生の4割が東京出身、3割前後が地元出身であった。
旧制高校中最も「蛮カラ」の雰囲気の強い学校として知られ、一高に次ぐ大型の寄宿舎「暁鐘寮」(ぎょうしょうりょう)が設置されたのも特色だ。毎年ではないが、卒業生の集いがあるようだ。

マントに高下駄姿の水高生は、街頭ストームや寮の記念祭でバンカラぶりを発揮したが、市民には愛され親しまれていた。
年齢的には現在の高校生と同じだが、大人として社会から認められた存在だった。
水高出身者は各界に多数の人材を輩出している。
俳人の金子兜太も水高出身と最近知った。「水高俳句会」に属していた。
有名な俳人は学生時代から俳句の道を志した人が多い。
今なお、若々しく、自由な感性は水高卒らしい雰囲気を感じる。

僕は、戦後間もない頃の水高生を見聞きした記憶が若干あるが、あこがれの存在だった。
戦後の学制改革で昭和24年茨城大学文理学部となり移転した。
跡地北半分は昭和40年に国立水戸病院となるが、平成16年に茨城町に移転した。
現在その跡地は、北水会医療グループの手で、医療・福祉・健康の総合センターに生まれ変わりつつある。

後藤は水戸高等学校の学生であった、土方定一(1904-1980)や小林剛(1903-1965)とも知り合いになった。両者は後に東大文学部美術史科に進み美術史家となった。
当時の状況について土方は『茨城の美術史』(昭和47年、茨城美術博物館編)の中で「近代美術と茨城」と題して次のように述べている。


 日本の近代美術と茨城の関係については、ぼくとしていろいろな回想がある。はじめに私事を述べることを許していただくとして、ぼくは旧制水戸高校の生徒として水戸に御厄介になっている。その間、中村彝(明治20年-大正13年、1887-1924)の出生地といわれる水戸市上市寺町7番地を探そうしたり(もちろん、生家などはなかったが)、小川芋銭(明治元年-昭和13年、1868-1938)の牛久付近の茫洋たる景観が好きで、しばしば訪れた。その頃の土浦市はわかさぎの屋台が並んでいて、その焼いた匂いがただよっていた。当時は、美術史専攻するにいたるとは考えていなかったが、「エロシェンコ氏像」(大正9年、東京国立近代美術館蔵)など、この盲目のエスペランテイスト=童話作家であり、盲目がいつも示す内面凝視の孤独で、人なつっこい肖像をニュアンス深く中村彝によって描かれているのが忘れ難くて、その出生地を探したりしていた。小川芋銭については、そのころ「いはらき新聞」の文化部長をしていた津川公治が小川芋銭と親しく、ぼくらの文芸同人誌に、小川芋銭の水墨色紙を後藤清一に木刻していただいて、オリジナル木版画を挿入したことがある。いまもなお健在の後藤清一で、そのころ、後藤清一の「微笑している少女の首」を倉田百三が新聞で激賞し、ぼくらもこの「薇笑している少女の首」にかすかなかすかな感動を抑えきれなかった。このころの後藤はユーゴの彫刻家メシュトロヴィッチ(1883-?)に憑かれてお微られたようだ。仏像彫刻に移行される前の後藤清一であるが、この「微笑している少女の首」の所蔵者が不明であったが、最近、倉田百三の遺族が所蔵されているのがわかったことは、よろこびである。この「薇笑している少女の首」はロダン、ブールデル、マイヨールといったフランス近代彫刻の流れとは別個な伝統を示し、その後も後藤清一の伝統は、全く別個な造型の追求となっている。 (以下略)



土方の云うぼくらの文芸同人誌は『彼等自身』といい船橋聖一や小林剛も同人であった。

*『ウィキペディア(Wikipedia)』には
土方 定一(ひじかた ていいち、1904年12月25日 - 1980年12月23日)は、美術評論家、美術史家である。
岐阜県生まれ。水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学卒。1930年ドイツに渡る。1935年詩誌『歴程』発足とともに同人となり、美術批評を執筆。1938年興亜院嘱託となり、1942年燕京大学華北総合調査研究所所員。1951年神奈川県立近代美術館(鎌倉市)副館長、1954年美術評論家連盟会長、1963年『ブリューゲル』で毎日出版文化賞受賞、1965年神奈川県立近代美術館館長、1973年菊池寛賞受賞。
全国美術館会議会長を務め、現代絵画を初めとした画集解説や、美術全集などを編集・監修、新潮社<日本芸術大賞>の選考委員であるなど、長く美術評論界に君臨した。著名な弟子に美術史学者では酒井忠康など、評論家に海野弘がいる
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笠間日動美術館

2009年06月14日 09時23分54秒 | 美術展
笠間日動美術館


6月初旬「三重県立美術館所蔵名品展」が開催されている笠間日動美術館に行った。
笠間日動美術館が開設されたのは昭和47年(1972)だから37年が経過した。
東京・銀座にある日動画廊の創業者、長谷川仁・林子夫妻により長谷川家ゆかりの地に創設された美術館。
当初は、国内外の著名画家が愛用したパレット画が主な展示品だった。
地方都市には美術館が少なく、「お稲荷さん」で有名な笠間に新名所が出来たと評判を呼んだ。
同時に、北大路魯山人の鎌倉の旧居を芸術村に移築し「春風満里荘」と名付け、別館とした。

開館時は小さな美術館であったが、日本を代表する画商の系列美術館なので、所蔵品が増えた。
現在は西洋の近代、日本の近・現代の巨匠が描いた絵画を中心に2千点を超す美術館となった。
敷地も数倍に拡張され、彫刻庭園や企画展示の新館も増設され、全国的に有名となった。
水戸の「茨城県立近代美術館」が開館する前のことだ。

今回半年ぶりに訪ねたら、企画展示館は閉鎖されていた。
入り口も、開館当初の所に変わってしまった。



三重県立美術館は1982年の開館以来、日本の近現代美術や西洋絵画を中心に収集している。
今回の展覧会では浅井忠『小丹波村』明治26年(1893)や松本竣介『駅の裏』昭和17年(1942)が印象に残った。
僕は建物やその時代の風俗に興味がある。
『駅の裏』は現在改修工事が進行中の戦前の東京駅を八重洲方面からみた絵。
たかだか65年前の東京駅周辺、レンガ造りの駅舎以外はは地方の町のようだ。
時代の変遷は激しい。


パレット画、鴨居玲(1928-1985)

4階の常設パレット画の展示場は330点余に増えた。
世界的にも珍しいコレクションだけに、観れば観る程に愉しい。
勿論、その作家を知っていれば楽しみは深い。

ここ数年、日本を含めた世界経済の停滞と同様に美術界も活気のない時代となった。
それに加え、笠間は県立の陶芸公園を中心とした陶芸美術館の周辺に街が移動した。
何れの街にも共通することで、活性化の為に郊外に新しい施設を作ると、旧市街が衰退すると云う図式。
笠間日動の来館者が減少し、縮小も止むなし。となったのでは?
この流れを元に戻すのは難しそうだ。

これまで、笠間日動美術館が果たした業績は偉大だ。
新たな体制を整え、小さいが味のある美術館として再出発することを願って止まない。






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『隠者の片影』について。

2009年06月13日 13時41分49秒 | 彫刻家 後藤清一
『隠者の片影』読後の感想をUさんが寄せてくれた。
Uさんはクラッシック音楽の愛好家で、小説家・遠藤周作のファンで、陶芸家岡部嶺男の信奉者でもある。
お父さんの胸像を後藤清一さんが制作された縁で知り合った。
お宅を訪ねた際、遠藤周作の本を5冊お借りした。僕も後藤清一さんの随想集『隠者の片影』をお貸した。

以下が戴いた感想だ。
高橋さまから『隠者の片影』をお借りして毎日、読まさせていただいています。
「薫華」でもコメントしたのですが、この本は、僕にとっての道標であり、後藤作品を深く理解するための道標であると思います。

読み始めたころは、凡人の僕には理解できなかったのですが、最近は少し理解できるような気になってきました。おおよそ年代順になっているのですが、先生が求道に入られた頃よりは、悟りを得た頃のほうが理解できるように思われます。先生の求道の足跡が分かりますし、それと先生の作品における変遷とが一致していることと推察します。

先生は生前、このようなことを誰にも話されなかったとのことですが、作品に表現されて、後世に伝えています。

『真実とは、悪人に対し善人になれと云ふことではない。悪人の自覚に於いて、真実の人間性を知れと云ふことである。』

この言葉が私の心を打ちました。
自分は善人だ、人を愛している。困っている人に金を恵んだり、食べ物を分かちあっている・・・。でもそれは自己満足の域を出て.いない。そんなはずは無い。しかし冷静に考えると自己満足なのだ。「情けは人のためならず」という言葉が自己から離れられない自分を裏付けているのではないか。自分は悪人であるのだと。
世阿弥の言葉を借りれば「離見の見」。自分を離れて見れば、自分のことが分かる。
すべては「自覚」から始まるのですね。

30年間修行なされて悟りを得て、それを彫刻で表現し続けた後藤先生・・真の芸術家です。今はあまりにも環境が悪い。そのような修行をしなくても、一般受けの良い作品を作れば生活に困らない。いまこそ後藤作品を改めて観てみたいと思います。
(以上がUさんからの感想)


孤独者   昭和32年(1957)ブロンズ

今、お借りした『深い河』を読んでいる。その前に遠藤周作夫人・遠藤順子著『夫からの宿題』を読んだ。
遠藤周作はカトリックのキリスト教徒、後藤清一は親鸞に帰依した。

たった2冊しか読まないで云うのはおこがましいが、両者とも終生宗教心を持ち続けた。
教会や教団の教条主義を嫌い、自分の心の問題として深く考えた共通性がある。
如何に生きるか、如何に死を迎えるか。あの世とこの世。
作品を創造する悩みや苦労など共通するところは多い。

『隠者の片影』の語句の真意は何か、を考えながら読み返している。

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娑羅の樹あるいは夏椿

2009年06月12日 16時42分54秒 | 山野草
娑羅の樹あるいは夏椿



骨董・古美術の世界に入門した頃、茨城山草会のお世話役をしていた墳本喜久蔵さんと出会った。
墳本(つかもと)さんは印刷会社の社長さんで、古美術の蒐集と、山草・野草の栽培と鑑賞が趣味だった。
桜川沿いの見川町の自宅は崖から湧き水があり、流れには池があった。
豊富な水を利用して、鱒の養殖もしていた。
庭には多くの野草と娑羅の樹が植えられていた。
もっとも、沙羅双樹と呼ぶお釈迦様に縁のあるインドの樹とは違うらしいが。
その当時、娑羅の樹(夏椿)は珍しく、数寄屋風の家と広い庭を『沙羅林居』と名付けていた。

広い庭には鉢植えの山草や野草が棚にぎっしり。何れも珍品ばかり。
地植えも多く、季節によって生える種類も異なるので、管理にも手間がかかる。
水やりは欠かせない作業、遠方にはナカナカ出かけられない。とこぼしていた。

その様な御自宅で、古美術の鑑賞会が何度か行われた。
庭の中程の四阿(あずまや)で、獲りたての鱒の塩焼きを頂くこともあった。
珍しい山草や野草を観ることができ、名前も教えて頂いた。

買い求めた壷にお花を生けたくて、何度も、お花を頂きに上がった。
花材が良ければ、どのような器も映える。

友人と、(勿論、墳本さんも一緒だったが)『土器に花を生ける』展等もした。

春と秋に「茨城山草会」主催の山草の展示会が県民文化センターの集会室で開かれた。
毎回、観に行くのを楽しみとしていた。
現在は、水戸市植物公園を会場として開かれているようだが、移ってからは行っていない。

今は、かなりの山草・野草が花屋で売られたり、植木市で販売されている。
僕の仮住まいの東京下町でも、沢山見かけることが出来る。

近所で夏椿を見た。我が家も咲いていることだろう。
夏椿・娑羅の樹。
どう云おうと、すばらしい花だ。
柔らかで厚みのある白と、芯の黄色が美しい。


  
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