連続講座「クラシック音楽でめぐるヨーロッパの街」Vol.4>
第一回 1890-1950 ミュンヘン
「もうひとりのシュトラウスを生んだ街」・講師 関根哲也
水戸市備前町の住宅地の中に財団法人・水戸国際交流開館が在る。
水戸市の国際交流の資料が展示されている2階は、外国語の図書、ロビー、事務所などがある。
三階は、研修室、調理実習室、ホール等が設備されている。
それらの施設を利用して、ボランテア団体による語学講座(フランス語・タイ語・韓国語・ロシア語など)も定期的に開催されている。
一つの国に絞った交流月間も有る。例えば3月1日から16日はインド月間。3月8日はインドカレーの講習会。
3月15日は”インドってどんな国”との講演会。
インドの歴史や文化を知る事の出来るパネル展示や、民芸品・民族衣装の展示。3月9日には
インド映画の上映会も行われる。
これらは活動の一旦だが珍しい催事が多い。
2階のロビーには、各種の催しのチラシが有るので、参加したい行事があるときは申し込むようにしている。
クラッシク音楽に無縁な僕が、水戸市国際交流協会主催・水戸芸術館音楽部門が企画協力した、上記の講座を聴講した。
“音楽でめぐるヨーロッパの街”のサブタイトルに惹かれ、参加の申し込みをした。
水戸市国際交流会館の3階ホールの会場に行くと座席は満員。定員60名なのに申し込みが殺到して、キャンセル待ちの状況だったとの事。
今年(2008年)水戸室内管弦楽団が3回目の欧州公演で訪れる5つの都市のうち、パリ、ミュンヘン、ウイーン、マドリードに焦点をあて、それぞれの街が歴史の中で奏でた音楽を、水戸芸術館の音楽部門の学芸員が紹介するという趣向だ。
本日(1月30日)の第一回のミュンヘンの案内役は関根哲也さん。
資料を基にしたお話しと、関連する楽曲のさわりの部分のCDを聴かせてくれ、さらに歌劇「サロメ」のクライマックスのシーンをDVDで見せてくれる等、内容は豊富であった。
* 最近の講演会はパワーポイントを多用する人が多い。
参考資料として配布したのと同じ画面を見せて、講演会と言うより説明会の様なつまらないのがはびこっている。
今回はそんな事を感じさせない素晴らしい会で感動した。
終了後、安らかで清々しい満足感に浸る事が出来た。
ではどのような内容であったのか?説明して下さい。
と言われると門外漢の僕にはとても難しい。
参加して見聞する以外にありませんねとしか言いようが無いが、配布された資料を基に概略だけお伝えしましょう。
リヒャルト・シトラウス(1864-1949)はミュンヘンに生まれた。ミュンヘンというとビールの有名な所。
或いはバイエルン州の首都で名車BMWの本社のある場所くらいの認識が一般的だ。
ドイツ第三の都でモーツアルトやワグナーもミュンヘンには縁がある人たちだそうだ。
父親はミュンヘン宮廷管弦楽団の主席ホルン奏者だった。
父の下で4歳でピアノ、6歳で作曲、7歳でヴァイオリンを始めている。学校では文学・哲学・美学等を専攻したそうです。
しかし、若い頃から音楽の才能を評価されブラームス或いはワグナーの後継者と位置づけられていた。マーラーとは同世代でお互いに尊敬しあった仲であったとの事です。1883年(19歳)でホルン協奏曲1番を作曲する。*この曲のさわりをCDで聴く、ホルン奏者としての父の影響があるようだ。
そのご指揮者として、交響詩の作曲家としての評価を確実にする。
1888年(24歳)交響詩<ドン・ファン>を作曲。*この曲のさわりもCDで聴く。
1894年(30歳)パウリーネと結婚。
4つの歌曲 作品27を作曲。この歌曲はスコットランド生まれでドイツに住み、ドイツで活躍した詩人ジョン・ヘンリー・マッケイの詩による。
* この曲もCDで聞かせてもらい、詩を翻訳した文章も資料として配布された。
一部を紹介するが、花嫁に捧げたシュトラウスの気持ちが伝わってくる。
そしてあした、太陽がふたたびてりそそぐだろう、
そしてぼくの歩む途中で、太陽は
しあわせなぼくたちをまた結びつけるだろう、
この陽光が息づく大地のまっただなかで・・・・・
シューベルトの歌曲とは全くちがった感じを受けた。
1896年(32歳)交響詩<ツアラトウストラはこう語った>を作曲。
ニイチェの著作から。*というが、これまた読んだ事もないし、全くわからない。
1905年(41歳)歌劇<サロメ>を作曲。オスカーワイルドの原作を歌劇としたもの。
*出演者が誰か判らないが、DVDで『サロメ』の有名な場面“7つのベールの踊り”を見せてくれた。
その後は、第1次世界大戦から晩年(1918-1949)はウイーン国立歌劇場音楽監督やドイツ帝国音楽局総裁等などの役職につく。
それらの経緯から戦後はナチスとの共謀の嫌疑もかけられるが無罪となる。
1948年(84歳)<四つの最後の歌>作曲
* この曲の④「夕映えの中で」を聞かせてくれた。8分間の曲だがオーケストラの部分が長く、歌のところは少しだが心に浸みた。詩の原作はヨーゼフ・フォン・アイフェンドルフ(1788-1857)この曲も翻訳した文を配布してくれた。一部を紹介すると・・
苦しみにつけ、よろこびにつけ、
ぼくらは手をとりあって歩んできた、
さすらいの足をとどめて、いまぼくらは
静かな田園を見張らす丘でやすらう。
悲しみや嘆きの無い静謐な世界。若い時から才能を認められ、妻との幸せな生活。
晩年に多少の不運は有ったにせよ、生涯を通して劇的な出来事に合わずに全うした人生。
ほんのさわりとしても、2時間でシュトラウスの生き様をなぞる事ができた。
そして多くの宿題も戴いた気がする。
2008年7月5日、6日の水戸室内管弦楽団 第73回定期演奏会は 準・メルク指揮でシュトラウス最晩年、1945年(84歳)に作曲した<メタモルフォーゼン>も演奏されるとの事である。
久し振りに受けたこの感動。
エビネンコ氏が出席していたら、もっと的確に書いて貰えたのに!と残念だ。
今回は、夜の催事なので西の谷に抜けて散歩するのは無理だったが、国際交流協会からにしの谷迄は歩いて5分足らず。
この会館建設当時、西の谷に直接繋がる遊歩道の建設も案の内だった事もある様だ。
今からでも遅くない、実現してもらいたいものだ。
其の前に、会館の存在も余り知られてないし、より充実した企画もお願いしたい。
第一回 1890-1950 ミュンヘン
「もうひとりのシュトラウスを生んだ街」・講師 関根哲也
水戸市備前町の住宅地の中に財団法人・水戸国際交流開館が在る。
水戸市の国際交流の資料が展示されている2階は、外国語の図書、ロビー、事務所などがある。
三階は、研修室、調理実習室、ホール等が設備されている。
それらの施設を利用して、ボランテア団体による語学講座(フランス語・タイ語・韓国語・ロシア語など)も定期的に開催されている。
一つの国に絞った交流月間も有る。例えば3月1日から16日はインド月間。3月8日はインドカレーの講習会。
3月15日は”インドってどんな国”との講演会。
インドの歴史や文化を知る事の出来るパネル展示や、民芸品・民族衣装の展示。3月9日には
インド映画の上映会も行われる。
これらは活動の一旦だが珍しい催事が多い。
2階のロビーには、各種の催しのチラシが有るので、参加したい行事があるときは申し込むようにしている。
クラッシク音楽に無縁な僕が、水戸市国際交流協会主催・水戸芸術館音楽部門が企画協力した、上記の講座を聴講した。
“音楽でめぐるヨーロッパの街”のサブタイトルに惹かれ、参加の申し込みをした。
水戸市国際交流会館の3階ホールの会場に行くと座席は満員。定員60名なのに申し込みが殺到して、キャンセル待ちの状況だったとの事。
今年(2008年)水戸室内管弦楽団が3回目の欧州公演で訪れる5つの都市のうち、パリ、ミュンヘン、ウイーン、マドリードに焦点をあて、それぞれの街が歴史の中で奏でた音楽を、水戸芸術館の音楽部門の学芸員が紹介するという趣向だ。
本日(1月30日)の第一回のミュンヘンの案内役は関根哲也さん。
資料を基にしたお話しと、関連する楽曲のさわりの部分のCDを聴かせてくれ、さらに歌劇「サロメ」のクライマックスのシーンをDVDで見せてくれる等、内容は豊富であった。
* 最近の講演会はパワーポイントを多用する人が多い。
参考資料として配布したのと同じ画面を見せて、講演会と言うより説明会の様なつまらないのがはびこっている。
今回はそんな事を感じさせない素晴らしい会で感動した。
終了後、安らかで清々しい満足感に浸る事が出来た。
ではどのような内容であったのか?説明して下さい。
と言われると門外漢の僕にはとても難しい。
参加して見聞する以外にありませんねとしか言いようが無いが、配布された資料を基に概略だけお伝えしましょう。
リヒャルト・シトラウス(1864-1949)はミュンヘンに生まれた。ミュンヘンというとビールの有名な所。
或いはバイエルン州の首都で名車BMWの本社のある場所くらいの認識が一般的だ。
ドイツ第三の都でモーツアルトやワグナーもミュンヘンには縁がある人たちだそうだ。
父親はミュンヘン宮廷管弦楽団の主席ホルン奏者だった。
父の下で4歳でピアノ、6歳で作曲、7歳でヴァイオリンを始めている。学校では文学・哲学・美学等を専攻したそうです。
しかし、若い頃から音楽の才能を評価されブラームス或いはワグナーの後継者と位置づけられていた。マーラーとは同世代でお互いに尊敬しあった仲であったとの事です。1883年(19歳)でホルン協奏曲1番を作曲する。*この曲のさわりをCDで聴く、ホルン奏者としての父の影響があるようだ。
そのご指揮者として、交響詩の作曲家としての評価を確実にする。
1888年(24歳)交響詩<ドン・ファン>を作曲。*この曲のさわりもCDで聴く。
1894年(30歳)パウリーネと結婚。
4つの歌曲 作品27を作曲。この歌曲はスコットランド生まれでドイツに住み、ドイツで活躍した詩人ジョン・ヘンリー・マッケイの詩による。
* この曲もCDで聞かせてもらい、詩を翻訳した文章も資料として配布された。
一部を紹介するが、花嫁に捧げたシュトラウスの気持ちが伝わってくる。
そしてあした、太陽がふたたびてりそそぐだろう、
そしてぼくの歩む途中で、太陽は
しあわせなぼくたちをまた結びつけるだろう、
この陽光が息づく大地のまっただなかで・・・・・
シューベルトの歌曲とは全くちがった感じを受けた。
1896年(32歳)交響詩<ツアラトウストラはこう語った>を作曲。
ニイチェの著作から。*というが、これまた読んだ事もないし、全くわからない。
1905年(41歳)歌劇<サロメ>を作曲。オスカーワイルドの原作を歌劇としたもの。
*出演者が誰か判らないが、DVDで『サロメ』の有名な場面“7つのベールの踊り”を見せてくれた。
その後は、第1次世界大戦から晩年(1918-1949)はウイーン国立歌劇場音楽監督やドイツ帝国音楽局総裁等などの役職につく。
それらの経緯から戦後はナチスとの共謀の嫌疑もかけられるが無罪となる。
1948年(84歳)<四つの最後の歌>作曲
* この曲の④「夕映えの中で」を聞かせてくれた。8分間の曲だがオーケストラの部分が長く、歌のところは少しだが心に浸みた。詩の原作はヨーゼフ・フォン・アイフェンドルフ(1788-1857)この曲も翻訳した文を配布してくれた。一部を紹介すると・・
苦しみにつけ、よろこびにつけ、
ぼくらは手をとりあって歩んできた、
さすらいの足をとどめて、いまぼくらは
静かな田園を見張らす丘でやすらう。
悲しみや嘆きの無い静謐な世界。若い時から才能を認められ、妻との幸せな生活。
晩年に多少の不運は有ったにせよ、生涯を通して劇的な出来事に合わずに全うした人生。
ほんのさわりとしても、2時間でシュトラウスの生き様をなぞる事ができた。
そして多くの宿題も戴いた気がする。
2008年7月5日、6日の水戸室内管弦楽団 第73回定期演奏会は 準・メルク指揮でシュトラウス最晩年、1945年(84歳)に作曲した<メタモルフォーゼン>も演奏されるとの事である。
久し振りに受けたこの感動。
エビネンコ氏が出席していたら、もっと的確に書いて貰えたのに!と残念だ。
今回は、夜の催事なので西の谷に抜けて散歩するのは無理だったが、国際交流協会からにしの谷迄は歩いて5分足らず。
この会館建設当時、西の谷に直接繋がる遊歩道の建設も案の内だった事もある様だ。
今からでも遅くない、実現してもらいたいものだ。
其の前に、会館の存在も余り知られてないし、より充実した企画もお願いしたい。