「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

『福地靖作品集 WORKS 1956-2010』(2022年2月1日)

2023年10月09日 19時10分07秒 | 人と作品
『福地靖作品集 WORKS 1956-2010』(2022年2月1日)





2019年10月8日に85歳で逝去された福地靖さんの回顧展「福地靖展 ―遠い記憶、美しい日々―」が常陽藝文センター1階:藝文プラザで2022年2月4日から2月17日まで開催された。

開催に併せ『福地靖作品集 WORKS 1956-2010』(発行人:福地千恵子・編集 :福地靖作品集刊行会・A4変形、本文124頁、頒布価格6,000円)が刊行された。
生涯の作品がカラー図版で紹介されて有る他に、評論や年譜も記されている完全版となっている。



芸術評論家・小泉晋弥「福地靖の芸術」の「ー少女と老人と…」



茨城県立美術館学芸員・宮永勤士「福地靖とROZO群、そして茨城の戦後戦後美術」





フリーライターの大曾根克彦「福地靖とその周辺」幷「年譜」



参考図版として
シロタ画廊で開催された個展会場で白田貞夫とのスナップ(1971)
など若かりし頃の写真も添えられてある。



ブラヨーちゃん「福地靖さんを偲ぶ会」が10月14日(土)午後5時~7時まで、水戸市泉町の珈琲と雑貨の店「たけうち」の2階ギャラリーで開催される。
主なテキストとして『福地靖作品集 WORKS 1956-2010』を使用し、その他の雑誌なども参考にします。参加者には私宛の福地さんのイラスト入りのハガキなどを差し上げたいと思っています。
会費は無料ですが飲み物代は各自でご負担ください。
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陶芸家・羽石修二さん その2 @笠間市飯田1685-15

2022年12月02日 19時45分40秒 | 人と作品
陶芸家・羽石修二さん その2 @笠間市飯田1685-15





羽石さんは筑西市(旧下館市)に生まれた。
中学生の頃に陶芸に興味を持ち、京都の美術工芸高校には陶芸科があると知って、移り住んで学んだという。卒業後は京都の美術短大に進学し、卒業後は地元に戻り茨城県の窯業指導所で学んだのちに現在地に窯を築いた。
十代で進路を決め今年で還暦を迎えるまで、40年以上も一筋の道を歩み続けていることは素晴らしいことだ。

多くの作家がガス窯や電気窯で制作している現代の陶芸界。
羽石さんは電気窯も使うが、炎の力が大きく作用する昔からの「薪窯」にこだわる。
釉薬を使わない「焼き締め」の作品は人智を越えた美しさが生まれる。
とはいえ、時間や温度などを見極める経験が大きく作用する。
一窯を焼くのに4~5日は必要で大量の薪が必要になる。
木の種類によって焼成の味わいも異なるから、その見極めも大切だ。



工房・窯場に隣接する住居に案内頂いた。
住まいも、かなりの部分を手作りされたとのことだが素晴らしい。



一番奥の部屋には床の間がしつらえてあるが、これまた最高。
「楽」と書かれた暖簾の掛物は店舗などをプロデュースする作家の書。



「土蔵の木の扉」を置いてテーブルのように。







室内の棚やタンスの内外には古代から現代まで。
日本・チベット・中国・韓国など内外の食器、民具、民画など幅広い収集品が飾られ置かれてある。



酒の絞り袋の布に置かれた木製の狛犬と白磁の破片に盛り塩。
自由自在に愉しまれている。



収集品などについて語る笑顔に人柄の良さが滲み出ている。
大勢での酒盛りが大好きらしい、飲み会に参加できるのが楽しみだ。
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陶芸家・羽石修二さん その1@笠間市飯田1685-15

2022年12月01日 17時22分37秒 | 人と作品
陶芸家・羽石修二さん その1@笠間市飯田1685-15







10月20日~26日まで水戸京成百貨店の6階アートギャラリーで開催された「羽石修二作陶展」で久しぶりに羽石さんにお会いした。
二年前に同ギャラリーの個展を拝見した際、薪窯で焚き上げた自然釉がたっぷりと掛かった作品が“中世の古窯”の格調の高さを感じ共感を覚えた。
初めての出会いだったが、旧知の間のように話しが通じた。
2021年には「日本工芸会会長賞」を受賞するなど、めざましい活躍をされており嬉しく思っていた。
今回も素晴らしい作品がそろっており来訪者も多かったようだ。
ところどころに、ご自宅の庭から持参された山野草が生けられ、センスの良さをかんじた。







どのような環境から作品が生まれるかを知りたいと思っていたが、11月の小春日に訪問が叶った。
笠間市飯田の県道脇の台地の上に窯場や自宅ある。
窯を焚く薪を割っているところだった。
薪も自家製で、薪割り専門の道具までそろっている。





通路を挟み“囲炉裏のある展示場を兼ねた遊び場”のような建物。
敷地内の全ての建物は「難しい所は専門家にお願いしたが、半分以上は自分達で作った」という。
古民家の古材や建具を利用し、いわゆる民芸調にはならない程度にまとまっている。コロナ渦の現在なので暫くはやっていないそうだが、仲間内やお客さんとの飲み会にも使われるらしい。
陶芸家は器用な方が多く、家や窯を自作される方が大勢いる。



工房の轆轤場と作業室は広々として明るい。
轆轤で成形された端正な形のものもあれば、手捻りの自由な器形のものまで幅広い作品を生み出す。

略歴
1962 茨城県筑西市(旧下館市)に生まれる
1981 京都市立銅駝美術工芸高等学校陶芸科卒業
1984 京都嵯峨美術短期大学陶芸科卒業
1985 茨城県窯業指導所成型科修了
1988 独立築窯
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「生きているうちが花なんだぜ」宇崎竜童

2022年02月16日 11時12分25秒 | 人と作品
「生きているうちが花なんだぜ」宇崎竜童







偶々TVを見ていたら「2020 FNS歌謡祭 」の再放送で「生きているうちが花なんだぜ」を演奏していた。

宇崎竜童の作詞作曲を、木梨憲武×宇崎竜童×佐藤浩市の3人で歌う。

「Woh Woh Woh 生きてるうちが花なんだぜ
Woh Woh Woh 生きてるうちが花なんだぜ花なんだぜ」

の繰り返しの後に、歌ってるかい、踊ってるかい、笑ってるかい、泣いてるかい、、、、呑んでるかい、酔ってるかい、盛り上がってるかい、馬鹿やってるかい、、





「Woh Woh Woh 生きてるうちが花なんだぜ
Woh Woh Woh 生きてるうちが花なんだぜ花なんだぜ」
を繰り返し、その後に日々の喜怒哀楽の一言を入れるだけ、自分勝手になんでも叫べばよい。

呑んでるかい、酔ってるかい、盛り上がってるかい、馬鹿やってるかい、

年を重ね、ましてコロナ渦が続く近頃は、吞んで馬鹿やることも無くなったが、
「生きてるかい」「生きてるうちが花なんだ」身に染みる。





YouTubeで検索したら中井貴一の加わったバージョンもあった。
宇崎竜童の他は役者などミュージシャンではないが、タレントは確かに何をしても様になる。

この曲は映画「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」(森崎東監督)で音楽を担当した宇崎竜童が、後に「生きているうちが花なんだぜ」という楽曲を作詞作曲し、続編の『ニワトリはハダシだ』のエンディングで使われた。とのことだ。







宇崎竜童 ”生きてるうちが花なんだぜ PV” 「拝啓 森崎東監督」に。

森崎東(1927-2020)
1956年に松竹入社。野村芳太郎や山田洋次の助監督に付き、69年、「男はつらいよ」第1作の脚本を山田とともに執筆する。
初監督は同年、山田の原案になる泥臭い人情ドラマ「喜劇・女は度胸」。
翌年には「男はつらいよ フーテンの寅」を監督するが、過激な描写が寅さんの雰囲気に合わないとして、シリーズからはずされる。
 その後、「喜劇・女は男のふるさとヨ」「喜劇・女生きてます」など人情豊かな喜劇を監督。「喜劇ではなく怒劇」と自ら称するように、社会から虐げられている庶民の怒りを代弁する作品を生涯撮り続けた。
 83年に古巣松竹で撮った夏目雅子主演の「時代屋の女房」がヒット。
85年の「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言」も話題を集めた。
 04年の「ニワトリはハダシだ」で芸術選奨文部科学大臣賞。認知症の母親の介護を明るくつづった13年公開の「ペコロスの母に会いに行く」が、キネマ旬報ベスト・テンの1位に選ばれた。これが最後の作品になった。
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福地靖展 ―遠い記憶、美しい日々―

2022年02月13日 17時04分57秒 | 人と作品
福地靖展 ―遠い記憶、美しい日々―
後期展:2月11日(金)17日(木)
@常陽藝文センター 藝文プラザ(1階)








2019年10月8日に85歳で逝去された福地靖さんの―遠い記憶、美しい日々―の後期展が2月17日(木)まで開催されている。
前期展は茨城大学美術科在学時から関わった『ROZO群』の活動頃からの初期の作品が主だったが、後期は東京・銀座の「シロタ画廊」での個展を開催により、作家自らが『ファニー』と名付けた女性像がTVや雑誌などで紹介され、版画集なども制作するなど、一躍、流行作家となった。



銅版画



パステル作品も多く手がけた。



油絵









2000年ごろから2010年にかけて、自画像とも見える老人像を描いている。
晩年は句集を出すなど、俳句に傾倒した。
漢詩文に題材をとった水墨画なども書かれた。





開催に併せて『福地靖作品集 WORKS 1956-2010』( A4変形、本文124頁、上製本)が刊行された。頒布価格6,000円(税込)

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福地靖展@常陽藝文センター1F 藝文プラザ

2022年01月31日 23時15分22秒 | 人と作品
福地靖展@常陽藝文センター1F 藝文プラザ
2022年2月 4日 ~ 2022年2月17日








常陽藝文センター1階の 藝文プラザで「福地靖展 ―遠い記憶、美しい日々―」と題する展覧会が2月4日から2月17日まで開催される。

2019年10月8日に85歳で逝去された福地靖さんの回顧展,,ともいえる展覧会。
未知の作品と出合えることに期待が高まる。
遺族並びに親交があった方々の努力が実った展覧会で、ファンの一人として、とても嬉しいことだ。







油絵・パステル・版画・ペン画など、多彩な技法の作品を生み出したが、『ファニー』と名付けられた女性の肖像画が代表作だろう。
渦巻いた長い髪、うつろに見つめる眼は瞳が描かれて無いので、なおさらに異様だが、ファンとしては現実離れしたこの女性に憧れた。
瞳がないからどのようにでも表情を変える、あたかも自分の気持ちを反映したように・
晩年は自画像とも思える老人像を描いた。

骨董や俳句の世界に身を投じ、野良猫と語り合う市井の世捨て人の姿。
声高に語ることは少なかったが、反骨・反権力の人生を貫かれた。


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酒泉淳・作『秋筑波』

2021年11月24日 12時18分46秒 | 人と作品
酒泉淳・作『秋筑波』



黄色や茶色が茨城の紅葉の特色で真っ赤にはならない。
紫峰・筑波の姿は高浜から恋瀬川を望む姿が素晴らしい。
山頂の峯と峯が離れているが、どの方面から描いたものか?
明らかに筑波ではあるが。



右隅に「A.SaKaizumi」の署名がある。
酒泉淳(さかいずみあつし・1920−2006)の作品。
父が土浦高等女学校(現土浦二高)の美術教員だったので、昭和5年に土浦中学校(現土浦一高)を卒業し、昭和7年頃に水戸の菊池五郎のアトリエで洋画の基礎を学んだ。
同11年に美術教師となるが、この頃に小堀進と出会い、本格的に水彩画に取り組んだ。同13年白日会展に初入選、同18年白日賞、同22年会員。
戦後は日展で活躍(同33年特選)するほか「水彩連盟茨城支部」を結成し、同会メンバーとして活躍した。
僕が水戸一高在学時には美術の教員を務めていたのだが、美術を選択しなかったので指導を受けることはなかった。
今となって、美術を選ぶべきだった、と若干の後悔がある。



酒泉五楓「細雨来」
◎父親の酒泉真一(1877-1957)は女学校の教師で杏村・五楓と号した。
酒泉家は江戸時代の儒学者・筑前国福岡出身で水戸藩彰考館総裁を務めた酒泉 竹軒の家系で、一族はしばしば水戸藩の歴史に登場する。

地元の画人・松平雪江に入門し、東美卒、高等女学校の美術教師となった。
川端玉章・山田敬中に師事、のちに小室翠雲に師事し南画を修めた。
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福地靖さんの納骨堂@光台寺(水戸市上水戸3-1-39)

2021年11月11日 20時02分37秒 | 人と作品
福地靖さんの納骨堂@光台寺(水戸市上水戸3-1-39)







画家の福地靖さんが2019年10月8日に85歳で逝去された。
葬儀には参列できたが墓所が何処に在るのか分からず、改めてお参りしたいと思いつつ2年が過ぎた。
福地さんとの縁は50年に及び、美術関連に留まらず多方面に渡り教えて頂いた。
亡き後も何かにつけて思い出すことが多々ある。

偶々「谷中の光台寺の供養塔に納骨されている」と聞き及んだ。
光台寺は1583(天正11)年、佐竹義宣が水戸城の西側(現在の金町・五軒町辺りと言われるが、古地図で探しても見当たらなかった)に開基した浄土宗の遍照山義宣院を、江戸時代の寛文年間に徳川光圀が現在の場所に移した、と伝えられる。



県道を挟んだ「二十三夜尊・桂岸寺」は良く知られているが、光台寺って何処に?
と思ったが、彰考館総裁・吉弘菊潭、水府温古録の著者・高倉逸斉、桜田烈士岡部三十郎、長谷善四郎や明治の文豪菊池幽芳の墓地が在る。
納骨堂脇の無縁さん、地蔵菩薩、寒水石の碑などを見廻すと、この寺の歴史を感じる。









葬祭場に展示された遺作(甥御さんの収蔵品とか)

福地靖さんは1933(昭和8)年に水戸市に生まれた。
1955年茨城大学美術科に在学中に美術集団ROZO群を仲間たちと結成する。
以後、ROZO群展、個展、企画展で作品を発表。
作風は何度か変化しているが、カラーインクを使用したペンの点描で女性を描いた『ファニー』のシリーズが代表的だ。
瞳のない女性、は見るでもなく見られるでもない不思議な存在感。
薄気味悪く感じる人もいるが、自分の心を映すかの如くどの様にも感じることが出来る。
点描的な銅版画を試み、詩画集『ハレルヤ・耽』(1969年・シロタ画廊)を刊行。
パステル画も得意とし、晩年は水墨画の世界に遊んだ。

何時もお洒落で、ダンディーな身のこなし。
優しい人柄で、めったに怒ることはなかったが、在野精神・反権力の心を終生貫かれた人生だった。

没後2年を過ぎても作品と人柄を慕う方々が大勢いる。
作品展示と年譜を含んだ冊子の刊行が来春には実現する。
との情報もあり、心待ちにしている。
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青山二郎 画・文 福地靖

2021年07月08日 19時24分39秒 | 人と作品
青山二郎 画・文 福地靖





青山二郎 画・文 福地靖
郵便はがき・平成27年3月1日 水戸郵便局消印」

福地さんは筆まめで郵便はがき用の画用紙に植物や猫の絵、俳句や所感など。日々感じた出来事を書き送ってくれた。
人柄を映した、絵も文も文章も素晴らしく、権威におもねることない独自の道を歩んだ。
何れの機会に回顧展が開催されることを切望している。



『鎌倉文士骨董奇譚 青山二郎』講談社文芸文庫 1992年

『骨董交遊録・青山二郎』(里文出版)と同じような内容の文庫本の年譜で、二郎の父親が茨城出身で青山家に養子に入った、二郎は小学生時代に水府流の水術を習ったことなどは読んでいた。『私憤30秒』という章で徹底的に父親を憎悪し軽蔑していたことを知って、後味悪い思いをした。
ともかく、青山二郎は骨董古美術の世界の異端児で先達であった。
小林秀雄・中原中也・白洲正子などとの交友は良く知られている。

青山二郎(1901~79)美術評論家・装幀家
福地靖(1933‐2019)画家・俳人
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疎開せし村の胡瓜とトマトとか 靖

2021年07月07日 22時21分33秒 | 人と作品
疎開せし村の胡瓜とトマトとか 靖



「疎開」って何のこと?
第二次大戦の末期、アメリカ軍のB29 により日本国内の200以上の都市が空襲に遭った。対処するために都市の人達を地方に分散退避させたことを疎開と呼んだ。作者の靖さんは昭和8年水戸生まれ、旧制中学の生徒だった。
私は当時4歳、昭和20年(1945)8月2日未明に水戸が空襲に遭う前の7月、予告のビラがまかれことで父の郷里の栃木県に疎開し、そこで終戦を迎えた。
若干の山河の風景と焼け野原となった水戸の街を若干憶えている。

胡瓜もトマトも夏野菜なのに、今では一年を通して販売されている。
時季の野菜として何の感慨も持たない人達が大勢を占める時代となったが、疎開先の畑や庭先で育ったキュウリやトマトの味は特別なものが有る。



福地靖(1933‐2019)画家・俳人
水戸市生まれ。茨大美術科卒。ROZO群同人。「ハニー」と題する耽美的な女性像が著名。本の表紙絵や雑誌などのイラストレーションも数多く手がけた。
詩画集『ハレルヤ耽』(1969年・シロタ画廊)
「日めくり俳句会」「篠」会員、句集『蟹の念仏』『しっぽ』など。
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吉田正の墓@法鷲院(日立市十王町)

2021年06月27日 21時29分22秒 | 人と作品
吉田正の墓@法鷲院(日立市十王町)



作曲家・吉田正の墓

水戸市南町2丁目水戸証券ビル1Fに在る「茨城新聞みと・まち情報館」は県内の催事情報や、展示会の開催など文字通りの情報館だ。
所長の木村勝一さんはじめスタッフの対応も親切で、ほぼ毎日の訪問は僕の生活サイクルの一部となっている。
しかも、木村さんとは同じ歳なので話が合う。

日立市のかみね公園に在る『吉田正音楽記念館』の話から、お墓は何処?の話になった。
吉田 正(1921年 - 1998年)は日立市出身で第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人で、死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞した。

話しているうち、2017年6月11日開催された【Tabi-ぶらin日立市北部】で櫛形炭鉱のズリ山であった地域~十王川沿いあたりを歩いた時に十王町の法鷲院を訪ねた際に、吉田 正のお墓にお詣りしたことを思い出した。



この日、十王町を案内して戴いた地元のガイドさん。
お名前は失念したが、お世話になりました。



結構暑い日だったが、和気藹々と楽しいハイキング。
「Tabi-ぶら」の仲間は素晴らしい人達ばかり。
暫くお会いしていないが、再会した気持ちでいっぱいだ



見事な五重塔が目に飛び込んできた。



「サマー・ナイトイン寺子屋」で知られた法鷲院だった。
境内の五重塔は本格的な寺社建築。



この本堂の中で、声明や演奏が行われた。
当時、一度は来たいと思っていた法鷲院。
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雪村の碑@常陸太田市稲木町

2021年05月19日 12時25分41秒 | 人と作品
雪村の碑@常陸太田市稲木町



雪村の碑
水戸八景「山寺晩鐘」の碑は「西山研修所」の手前150㍍辺り、山道の左側の階段を10㍍登った平坦地が旧久昌寺三昧堂檀林・妙見堂の跡地にある。



寒水石に「雪村」の二字は、横山大観の揮毫による。
《昭和19(1944)年「雪村顕彰会」に依って建立された》

雪村は室町時代後期・戦国時代の画僧で雪村周継とも称した。
常陸国部垂(現在の茨城県常陸大宮市)に佐竹氏の一族として生まれるが、幼くして夢窓疎石を開山とする正宗寺に入って修行する。
雪村周継の「周」の文字は夢窓派の通字。

禅僧として東国各地を遍歴し、後北条氏や蘆名氏など戦国大名の庇護を受けた。
その生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしないが、『潭底月図』に「行年八十歳継雪村之図」とあり、80歳まで現役の絵師であった。



雪村自画像(重要文化財) 大和文華館蔵



呂洞賓図(重要文化財、大和文華館蔵)


*江戸時代の尾形光琳は、雪村の自由で伸びやかな筆致や作品全体に溢れるユーモアを特に好んだのか、雪村を深く敬愛し私淑した。
*明治時代以降は、橋本雅邦や狩野芳崖らに影響を与え、岡倉覚三(天心)も雪村を高く評価している。



雪村碑記
この様な雪村の業績を伝えるべく、瑞竜町沢山の耕山寺に住んでいたことが有る、との縁で地元常陸太田に「雪村顕彰会」が結成され、昭和19(1944)年に「雪村碑」を建立するまでの経緯などが刻されてある。

撰文; 武藤常介雪村顕彰会会長 武藤常介
書: 福地徳

* 福地徳は「茨城新聞」の主筆を務めた。
歴史にも詳しく『水戸先賢烈士と其墳墓』(昭和4年・杉雨樓書屋)を著した。
能書家としても知られ、小鉾田市紅葉に在る「宮山楓軒頌徳碑」(昭和17年・1942) の撰文と書も担当した。子息の一人が洋画家の福地靖)

*常陸の雪村に関する研究書として、小川芋戦の孫・小川知二著『常陸時代の雪村』(中央公論美術出版 2004年)がある。

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吉田正雄さんのこと。『草花は語る』(岩田正著)から

2020年10月03日 12時55分32秒 | 人と作品
吉田正雄さんのこと。
『草花は語る』(岩田正著)から







水戸プラザホテルのフロントとロビーを飾る吉田正雄作の絵画。

『草花は語る』(岩田正著)は花にまつわる物語だが、人との出逢い・交遊録で、1回に数名以上、全編で数百人が登場するのも愉しい。
地元の石岡の同窓生、水戸までの通勤を共にする友人、勤務先の上司、画廊・企画催事で関わった作家たちなど多種多彩だ。

「スイートピー」(193㌻、平成4年2月9日・1992年)は画家の吉田正雄さんの、あれやこれや。(抜粋・転載)

『先日、二科会の評議員・吉田正雄さんの画業40周年記念の新作展が、私どもの店で開かれ盛況裡に終了した。開会に先立ち開かれたレセプションには数多くの知人が集い、祝いの生花があふれた。
この日が実は吉田さんの誕生日でもあった。やや遅れて来場した水戸観光協会長の金沢正一さんの奥様から「先生これお誕生祝の花よ」と、本当は展覧会祝いの花を渡られたが、誠にいいタイミングだった。
上野の美術の秋を開く二科展に私が初入選したのは19歳の時だったが、吉田さんは何と17歳の高校生だった。以来、40年画業一筋に生きてきた。
今は亡き東郷青児の愛弟子として、その卓越した表現力と斬新な感覚で二科の全ての賞を獲得してきた。
不思議な縁がもとで、いろいろと私どもの企業は吉田さにお世話になった。
中央ビルゴールデンホール八階にある金属製のレリーフは、昨年亡くなった綿引敬之輔会長の依頼で作成したんものだ。
工事中のビルの外壁にある作業リフトに、吉田さんは何トンもあるレリーフの塊を抱えて会長と一緒に乗り、命の縮む思いで取り付けた作品だ。
水戸プラザホテルのロビーにある長さ10㍍の油絵も吉田さんの作品だが、恐らく県下最大の大作だろう。
今月11日より、県立つくば美術館で吉田さんの画業40周年の回顧展が開かれる。
自選した作品群が一堂に展示されるが、苦労したなつかしい作品、授賞に輝いた作品などが並ぶことだろう。
多彩な吉田さんが手がけた壁画が完成した「東雲」で開く回顧展の祝宴の日は、ちょうど私の誕生日だ』(抜粋・転載)



水戸プラザホテルの庭園のオブジェ「創世」
ゴールデンホールのロビー設置のものと似ている。

豪快で洗練された国際人「怪獣マサオ」と親しまれ、水戸にも度々来られていた。
クリスマスパーティーやゴルフコンペなど思い出が沢山で、いささか長い引用になった。
画業40周年記念の新作展とレセプション、つくばの「東雲」の祝宴にも出席させて頂いたが、吉田さんらしい華やかな集いだった。
中央ビル・ゴールデンホールの巨大なレリーフも印象に残る。







版画による年賀状、交友が多いから数百枚規模だろうが、律義に毎年頂いた。

晩年はバリ島に工房を設け、彫刻など立体作品も手掛けた。
絵描きより芸術家として幅広い分野で活動したいと願っていた。
二科会のリーダーとして期待されていたが、残念ながら1998年に63歳で亡くなられた。



本年の1月19日~26日、土浦市民ギャラリーで「吉田正雄の世界展Ⅱ ~土浦とパリ、バリ~.」と題する回顧展が が開催された。
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長山はく筆:竜胆(リンドウ)

2020年10月01日 19時42分34秒 | 人と作品
長山はく筆:竜胆(リンドウ)






秋に青紫の花をつける竜胆(リンドウ)は、桔梗(キキョウ)とともによく知られている。
中国植物名(漢名)の竜胆・龍胆(りゅうたん)の音読みに由来し、中国では代表的な苦味で古くから知られる熊胆(くまのい)よりも、さらに苦いという意味
で竜胆と名付けられたという。

花屋で売られているリンドウは一直線の茎に花が沢山着いて味気がない。
骨董と山野草の収集家・墳本喜久蔵さん宅の庭で拝見した野草のリンドウは地を這うような姿で丈も花も可憐だった。
株を戴いたが栽培するのは難しく、いつの間にか消えてしまった。



そんな折に「竜胆」の色紙を見かけて手に入れた。
日立出身で水戸市千波に在住した女流画家くらいのことしか知らなかった。

『草花は語る』(岩田正著)の最終100話「健康と生きがい:ヒメジョン」で長山はくさんの人なりを知ることが出来た。一部を抜粋したが、お目に掛かっておけばよかったと、残念である。

『明治、大正、昭和、平成と画道一筋に来年九十九歳になる日本画家長山はくさんがいる。
長山はくさんは東京女子美術学校に学び、松岡映丘に師事し、昭和7年には帝展で特選を獲得した画家だ。
私は、長山さんが東京で戦災に遭い、疎開していた御前山にいたころからの知り合いだ。
失意のどん底にあった御前山時代以後、はくさんは山口蓬春先生などに励まされ、あまり丈夫でない身体をかばいながら花を描いてきた。はくさんを支えたのは画業へのあくなき執念だったろう。
私の学生時代に六十歳近かった、はくさんだが清楚で端麗な姿にあこがれを抱いた思い出がある。
川合玉堂先生の推薦で北白川宮家日本画講師を務めていたはくさんが、御前山時代は絵筆はおろか畑仕事に追われたり、田植をさせられたり散々な思いをしたそうだ。
大正初めに女子美大に行ったお嬢さんにとって、父と師の死、戦災、農作業と追い打ちされた人生は、誠に変転と試練の歴史であったろう。
竹下夢二の描くきもの姿の美人に似たはくさんは、明治人の気骨で一人身で生きてきた。』(書かれたのは1992年、93年出版)

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福地靖『月刊・みと』表紙絵 /1980年1月~12月

2020年02月25日 15時47分30秒 | 人と作品
福地靖『月刊・みと』表紙絵 /1980年1月~12月













福地靖さんが『月刊・みと』の1980年(1月~12月)の表紙絵を任された。
詩画集『ハレルヤ・耽』(1969年・シロタ画廊)の頃の耽美的な表情の女性像から明るく装飾的な画面に移行する作者が50歳頃の作品群。














月ごとの花々と女性像を組み合わせたカラフルな作品だ。

水戸市泉町の「雑貨と珈琲の店・たけうち」で2月21日と24日の2日間、16:30~19:00に福地靖さんと網代茂さんを語る会が開かれた。
それぞれ、10人位の参加者の話しが繰り広げられた。
今日(25日・火)が最終回、16:30~19:00まで開催される。
お時間がある方はお出かけください。

本や雑誌を含めた資料や絵画類は店主のご厚意で、暫くの間、店内に置かれます。
近所にお出かけの際は気楽にお立ち寄りください。

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