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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

加藤桜老像 @笠間小学校正門脇

2021年07月24日 12時07分23秒 | 人間
加藤桜老像 @笠間小学校正門脇





「加藤桜老」の生誕210年を迎えた2020年11月、「笠間小学校」の正門脇に
桜老の玄孫・加藤 熈氏が銅像を寄贈した。
(笠間小学校は藩校「時習館」の跡地)



台座横の碑文には、次のように記されている。

幕末の尊攘教育者 加藤桜老

加藤桜老(名は熈 通称有隣 桜老は号)は 1811 年水戸に生まれ 笠
間藩加藤家を継ぐ。藩校時習館の都講を勤め 水戸の会沢正志斎・江戸
昌平坂学問所に学ぶ。笠間に私塾十三山書楼を創ると 全国から有志が
訪れ 高杉晋作は二度来訪・論談し力を得たと評価。1862 年長州の
藩校明倫館に招かれ 途中京都で三条実美ら尊攘派公卿と交わる。山口
では藩校教授に就き 私塾詠帰塾を開設し 多くの人材を育成した。明
治政府では大学設置の上申など教育政策に関与 74 年の生涯にわたり
教育・著述に努め 近代日本の礎を築く役割を果たした。1934 年京
都三条大橋御所遥拝像が造られたが 太平洋戦争の金属供出で失われ
たので 生誕 210 年を迎え銅像を再建する。

2020年11月
玄孫 加藤 熈



加藤桜老(1811~1884)

コシノジュンコ氏が文化功労者に

2017年11月27日 15時51分59秒 | 人間
コシノジュンコ氏が文化功労者に



骨董通りから六本木通りの「レッドシューズ」への曲がり角に「コシノジュンコ」の本社ビルが在る。
1階はショップなのだが、大量の蘭の花で埋め尽くされていた。







何事かと店に入って聞いたら「コシノジュンコが文化功労者に選ばれたことで、お祝の花が、沢山届けられましたので」とのこと。

NHKの連続テレビ小説「カーネーション」のモデルとなり、ファッション・デザイナーとしての業績は広く知られている。

戻ってから調べると『政府は24日、2017年度の文化勲章を光化学・電気化学の藤嶋昭・東京理科大学長(75)、分子生物学の松原謙一・大阪大名誉教授(83)ら5人に贈ることを決めた。文化功労者にはデザインのコシノジュンコ氏=本名鈴木順子=(78)、歌舞伎の中村吉右衛門氏=本名波野辰次郎=(73)、バレエの吉田都氏=本名遠藤都=(51)、重量挙げの三宅義信氏(77)ら15人を選んだ。』とあり『文化勲章受章者は原則として文化功労者のうちから選ばれる。』ので将来文化勲章ということもある。
因みに、水戸芸術館の理事長・森英恵氏は1996年に文化勲章を受賞した。

1978年からは22年間パリ・コレクションに参加しモードの最前線で活躍した。一方、中国、キューバ、ミャンマーなど、さまざまな政治体制の国々でいち早くショーを開き、ファッションを介した交流を続けてきた。
舞台衣装や制服のデザイン、福島県の地場産業との協働など活動は幅広い。2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の一員としても、世界を飛び回る。
異文化、異業種の人々と交わるファッションを通し、洋服だけでなく、衣食住に関わる幅広い活動が受賞の理由のようだ。



衣装を担当した「ドラムロック 疾風」のポスターが貼られてあった。

●1966年頃の数か月の短い期間であったが「コシノジュンコ・アトリエ」で仕事をした。自宅兼事務所が龍土町、アトリエが六本木で、従業員が数名の時代であった。多少なりとも縁があった氏の今回の受賞は嬉しいことだ。
テレビなどで拝見する姿は髪形を含め、当時と変わらぬ若さやバイタリテイーを感じさせることは驚嘆に値する。


鶴瓶の家族に乾杯@水戸編

2017年03月23日 11時25分01秒 | 人間
鶴瓶の家族に乾杯@水戸編

●NHK 4月3日(月曜日)午後7時30分~午後8時43分






司会の笑福亭鶴瓶とゲストが旅人として各地を訪れ、「家族」をテーマに地元の人々と触れ合いながら旅する番組。
鶴瓶とゲストが別々に行動するシーンもあり、成り行き次第で展開する。
“やらせ”がなさそうなのも見ていて好感を持てる。

今回は水戸を旅するらしい。
4月から始まるNHKの朝ドラ「ひよっこ」は茨城県の北西部が舞台、で租其の出演者の沢村一樹が「水戸市ぶっつけ本番旅」と云う趣向。
“番宣”だが水戸にとっては大歓迎。

4月3日(月曜日)午後7時30分~午後8時43分の放送だが、見逃せば再放送もある。

先日は「ブラタモリ」の放送で盛り上がったが、今回はどの様な処を巡り、誰と出会うか興味津々だ。

野坂昭如 逝去

2015年12月13日 22時02分14秒 | 人間
黒眼鏡野坂昭如椿落    阿然

本業の作家以外に作詞家・歌手など多彩な才能を持った野坂昭如が12月9日心不全により死去した(享年85歳)。

昨年11月10日に高倉健(享年83歳)
28日には菅原文太(享年81歳)が相次いで亡くなった。
二人とも、昭和を代表する俳優だった。

冬茜 健さん文太 昭和果つ   阿然

このお三方の本を読んだことも無ければ、映画もほとんど観ていない。
テレビの画面からの知識しかないが、偉大な方々だった。

第二次大戦の前に生まれた方々の言語を絶する体験は筋金入りだ。


眞壁明吉良さん@秋田県横手市

2015年08月06日 10時37分30秒 | 人間
眞壁明吉良さん@秋田県横手市



シェ、ジャニーの盛岡・材木町店を訪れることが出来たのは、横手のうどん屋・眞壁屋の専務、眞壁明吉良さんの縁による。

「眞壁屋のうどん」をシェ、ジャニーの春田さんが推奨しているのを、水戸京成のお中元ギフト売り場で知ったのが5年前くらいのこと。
味には厳しく、お世辞やご愛想を云わない春田さんが褒めているのだから、間違いはない。
以来、夏冬のギフトの時期にお会いすることになった。

眞壁さんは紛体工学の工学博士、富士通勤務時代にオランダ留学の実績もある。
退社して家業のうどん製造に携わるように成るや、技術を生かし「饂飩を科学」した。
科学的な粉と水により手造りされる「うどん」は冷やしても・温かくても美味しいと好評で、今や世界に進出している。

今回、水戸の中元セール終了後に横手に戻られる車に同乗し、いったん横手に立ち寄り盛岡の「シェ、ジャニー」にご一緒した。
その際の記録は先に掲載したが、常に変わらぬジャニーの料理を二人で堪能することが出来た。
眞壁さんも僕もジャニーの料理の信奉者で、全面的に信頼している。

この夜は、横手の眞壁さんのお宅に泊めて頂くので、春田さんとは多くを話せなかったのが、シェ、ジャニーの開店を祝すことが出来た。

眞壁さんは仕事の傍ら、横手市や秋田県の行政などに積極的に物申している。
横手市のごみ焼却場の問題などにも積極的に取り組まれた市民運動家としての顏もある。
「横手倫理法人会」の会長も務められている。
「倫理運動」は全国的な広がりを持つ団体で、水戸にも支部がある。
何人かの友人も会員だが、人間的に素晴らしい方が多い。

翌朝、「横手倫理法人会」経営者モーニングセミナーに出席することが出来た。
横手駅前のホテルが例会場で幹事さん達が事前の設営をすませる頃、会員が集合。会員100名を要するらしいが、この日の出席者は約25名位。
会の信条の何か条かを斉唱する。
「今日は最良の1日、今は無二の好機」
幾つかの例会のフォームの後ゲストスピーカーの講話。
この日はヒーリングサロン経営の関坂真紀子氏。

講話を含め約1時間、終了後は各自の仕事場に向かうが、幹事と講師を含んだ方々の朝食会にも参加させて頂いた。







食事をとりながら、講師への質疑や会員情報など。

冬場の早朝は、ちょっと辛いかもしれないが、夏場の早朝、仕事前の例会は快適だ。



豪雪地帯『かまくら』で有名な横手も夏はその様な気配は何
処にもない。

着物の戴き物

2014年03月14日 20時51分54秒 | 人間
着物の戴き物

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和服を着る人が少なくなってしまった。
このままでは、急速に姿を消してしまのではないか、と心配だ。

着付けや小物の取り合わせなど難しいことも沢山あるが、着てみることが必要と、思っている。
着付けの方法は適当だが、恥はかき捨てと、実践するようにしている。

たまたま、着物姿を見た友人が「父親が着ていたものですが」と袴やコートを含め、何着かの和服を持参してくれた。

せっかくの好意、ありがたく使かわせていただくことに。

枯れ木も街の賑わいと、自己弁護しながら街を散歩している。
水戸の街を見直す機会と心得てブラブラしているが、見たい店があまりないのが残念だ。
以前なら、立ち寄る店が沢山在ったのに。

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水戸市南町3丁目の「平本花園」は植木苗や鉢植えの花など、四季を問わず楽しめる。今は、沢山の椿の苗木が並んでいる。
街中に植木屋さんは珍しい存在だろう。
旧市街地の衰退は何処の土地でもあるだろ云うが、個性が有れば存続しえる。

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改良品種だろうが、茶花に最適な藪系の数々に見惚れた。


FBで40数年ぶりの再会。

2013年06月20日 22時41分01秒 | 人間
FBで40数年ぶりの再会。

菅井さんの自宅で

旅先のゲストハウスで出会った台湾の学生が、フェイスブック、旅の記事や写真をアップしているのを見て、便利なものだと感心した。
それから1年ぐらい経って、2009年2月にfbに参加した。
以来、ネット上ではあるにせよ交流の薄れていた友人の状況を知ることが出来るのはfbの効用だ
時には、リアルな再会もある。

40数年前に通ったジャズ喫茶の常連さんの一人、Sさんは、僕が時々行く笠間の蕎麦屋の近所にお住まいらしいとfbで知った。
善は急げとばかり、急遽に訪問。

40数年の時を経ていたが、ネット上で近況を見ていたせいか、幾らか会わなかった、くらいの感じで世間話しに興じた。
4月に定年退職してから、家庭菜園と離れたところに在る畑で農作業にいそしんでいるようだ。

ジャガイモ

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昨日収穫したという、新ジャガの塩茹でをご馳走になった。
ジャガイモは万能選手でいかなる料理にも変身するが、この様なシンプルなものは最高だ。

田舎暮らしで自給自足的な生活に憧れを持った僕から見たら、理想の世界。
好きなジャズのCDを大きな音量で聴きながら、庭先での農作業や花の手入れ。
帰りに、バジルとモロヘイヤの苗を戴いた。

先日は、Sさんのお宅からゴーヤと胡瓜の苗を戴いて植えたばかり。
日当たりが悪く、猫の額の様な狭い我が家の庭で、上手く育つかは疑問だが楽しみだ。


岡倉天心の生誕百五十年

2013年06月14日 22時44分24秒 | 人間
岡倉天心の生誕百五十年

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今年は岡倉天心の生誕百五十周年、没後百年を迎える。
茨城県天心記念五浦美術館では6月14日~8月4日「天心と日本美術院の画家たち ―サースビーコレクションを中心に」が開催される。

映画「天心」は昨年末撮影が終了し今秋公開予定。
昨日(6月13日)水戸でオールラッシュ(映像のみで音声の無いフィルム)の上映会が開催された。
監督の松村克弥さんも登城したトークショウもあったようだ。
撮影が終了しても、完成までは経費も時間もかかる。
資金的にも胸突き八丁の厳しい状況で、多くの方からの資金援助を募っている。

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染井霊園の岡倉天心の墓地。
遺言により分骨され五浦にも墓がある。

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東京芸術大学敷地内の岡倉天心像。


『THE BOOK OF TEA』 1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)は英文。
邦題『茶の本』は多くの翻訳や解説書が出版されている。
ソートン・F・直子訳(昭和44年・海南書房・昭和56・16版)の末尾には

           戒 告

私が死んだら
鐘を鳴らすな 幟を立つるな
寂しい松葉の下深く
静かに埋めてよ―汝が詩をわが胸に乗せ
浜千鳥をして我が挽歌を歌わせよ
もしわが碑を建てんとならば
少しの水仙と香ぐわしき梅樹を植えよ
或いは遠き未来の霧の夜
甘き月光の上に汝の足音を聞くやも知れず
            1913年8月1日

縄文遺跡の発掘@アミューズミュージアム

2013年05月05日 00時10分20秒 | 人間
縄文遺跡の発掘@アミューズミュージアム

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浅草の観光地の傍の博物館でありながら、展示品は青森県生まれの民俗学者・田中忠三郎<1933-2013>の3万点以上の骨董、古民具、衣服などの貴重なコレクションの一部。

日本文化の源流と云える縄文時代。

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青森の縄文遺跡の発掘に八年間携わった時の、おびただしい土器片等の一部が展示されている。

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縄文時代の衣服を再現して展示、アイヌの服装に似た感じだ。

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黒澤明監督映画「夢」の為に、資料を提供している。
「夢」の老人役・笠智衆、ワダエミの衣装デザインだが、インドシナ半島の民族衣装のようでもあり、東北の野良着のようでもある。

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田中忠三郎は同じく青森出身の棟方志功や高橋竹山とも交友があった、
共に、東北・秋田を代表するような人たちだ。


沢木耕太郎「キャパの十字架」

2013年03月03日 21時15分18秒 | 人間
沢木耕太郎「キャパの十字架」

兵士キャパ・崩れ落ちる



1936年に起きた、スペイン内戦の時に、キャパが撮影したという「崩れ落ちる兵士」の写真。戦争報道において、必ず引き合いにだされる有名な写真だ。
これはフランスの雑誌に1936年9月に掲載されたものだ。ほとんど同じ場所で別の兵士にも撃たれたところを演出して撮影しているのである。2つの写真のうち左のほうが“出来”がよかったので、こちらが有名になった


一信忌 『政治は最高の理念である』

2012年11月19日 09時21分22秒 | 人間
一信忌 『政治は最高の理念である』

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今日(11月19日)は元・水戸市長の佐川一信(1940-1995)さんの忌日。
亡くなられて17年が経つ。

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水戸市酒門町「酒門共有墓地」の佐川家墓所には常に花が絶えない。
時間が経過しても、彼を愛した人多かったことを物語っている。

佐川さんは、水戸芸術館の創設者とし知られる、文化によるまちおこしを意図し力を入れた。その他にも千波湖浄化や備前掘りの美化、下水道の普及などの水への拘り。公園都市の実現の夢。清掃工場の建設にあたって熱帯植物公園開設、水戸駅北口開発、図書館の増設など8年足らずの在任中に多くの実績を上げた。
強引な手法に反感を持つ方も多かったが、眞の人柄は、照れ屋で謙虚な方だった。多面的に活躍し、多くの顏を持っていたから、「私の・僕の、佐川一信さん」像が有り固定出来ない。

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没後の2007年に編まれた追悼文集『声低く語れ』は執筆者が83人、605ページ、写真も多用された分厚い本だが、それ以外にも沢山の方々との交流が有った。執筆者それぞれの佐川感が述べられている。
追悼集の発行者・吉田光男さんは―序に変えて―の中で、
『文化のことを第一に据える心意気。私心の無さ。それに国際性。今日本の政治や行政にもっとも必要な資質を三つながら身に付けていたといえる。異端児の様に思われながら、彼ほど正統的に政治の理想を追った男はいない』と述べている。

タイトルの如く、話す声は低く、非常に聞き取りにくかったが、言葉を慎重に選び、発言には重みが有った。
子供の頃から万巻の書に親しみ、何度かのヨーロッパ遊学で激動するフランス政治の現実をつぶさに見た経験から『ミネルヴァの梟が翔びたつ日―自主管理社会への模索』(毎日新聞社、1982年8月)、更には1978年水戸市民の会を主宰し「市民からの出発」に投稿した水戸市の発展への提案。
退任後、市長時代を総括し未来を展望した『水戸発地方からの改革』(日本評論社、1994年11月)。等の著作にまとめられているが、それらの考えは、時間を経ても今でも多くが通用する。

水戸市長在任中に聞いたが、『権力者は10年以上やっちゃいけない。初めからそう思っていたけれど、やってなお一層その感ははっきりしたね』。と話した。

常に、次の世代にバトンタッチをしようとする気持ちを持ち続けていた。
生前の佐川さんを知らない世代の人が、水戸・茨城・日本の為に立ち上がることを期待する。

墓碑には『政治は最高の理念である』と刻まれている。


深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973年)

2012年10月27日 18時09分34秒 | 人間
深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973年) @まちなかシネマ

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昨日と今日は(19日・21日)は「水戸バー・バル・バール(310bbb)」
今から、水戸駅前で友人と待ち合わせて下市をクロールしようと考えている。

明日は「水戸まちなかフェスティバル」
市内各地域で様々なイベントが開催される。
沢山の企画が有るから、街を歩きながら覗いて見る心算。

必ず行こうと思っているのが、映画上映会「まちなかシネマ」
深作欣二監督の代表作『仁義なき戦い』(1973年)が10:30/13:30/16:30の3回上映される。
料金はなんと¥500。

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任侠映画に興味あるわけではないが、深作監督は水戸の出身。
一度も観たことが無いので、敬意を表して観ることに。

会場の前を通ったら、ボランテアスタッフが準備をしていた。
中を覗くと、かなり広いスペース。
明日が楽しみだ。


陶芸家:ゲルト・クナッパーさんのお住まい@大子町塙

2012年10月27日 09時36分20秒 | 人間
陶芸家:ゲルト・クナッパーさんのお住まい@大子町塙

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1943年ドイツに生まれ、1966年に来日。
1967年 加藤唐九郎を訪問 瀬戸の鈴木清々に師事、益子に濱田庄司を訪ねる
1968年 イギリスのバーナード・リーチを訪問する島岡達三の援助で益子にて修行 益子に築窯する。

焼き物好きから見たら羨ましい経歴を持つクナッパーさんが、庄屋だったボロボロの古民家を買取り、骨組みだけを残し改築し、大子に移住したのが1975年。

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友人と訪問した時は、2階の部分は改修が済んでいなかったから1980年頃か?
1階の土間で、奥様の手作りのアップルパイをご馳走になった。クナッパーさんのお母様から直伝のレシピ、と聞いたが、いまだに忘れられない味だ。

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クナッパーさんの作品は、太陽や海のイメージで無限の広がりを感じさせ、彫刻的だ。したがって、ブロンズなどによるオブジェも制作、建造物にも設置されている。
日本人以上に日本を愛する姿は、改修と云うより梁や柱などの材料を使って新築したともいえるクナッパー邸(太郎坂屋敷)に顕われている。
150年以上は経過しても新たな命が吹き込められている。
更に、故郷のドイツ風でもある。
北ヨーロッパには、藁葺きの住居を大切に住み続けている。
その影響も感じるドイツ風でもある。
東洋と西洋の文化が見事に融合している。

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作品にもその精神が表れ、クナッパー作、と一目で分かる。
現在、「信州高遠美術館」で展覧会が開催されている。


築80年以上を経過した旧上岡小学校を廻った後のクナッパー邸。
日本の風土には、やはり木材建築がふさわしいと思った。
手を入れ、部分的に補修すれば済み続けるけることが出来る。
鉄筋コンクリートのもろさ、今回の大震災で多くを学んだ。

地震大国の日本は木造がふさわしい。


「慈久庵 」(じきゆうあん)常陸太田市天下野町2162

2012年08月21日 00時25分23秒 | 人間
「慈久庵 」(じきゆうあん)常陸太田市天下野町2162 
営業時間11:30~14:30  水曜・木曜定休 


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旧水府村(常陸太田市)は蕎麦の名産地として知られる。
古くは葉タバコの産地で、葉タバコ収穫後の裏作として蕎麦が栽培された。と聞いたことがある。茨城県の北部は山が多く、肥沃な土地ではない。
そんな土地の作物として適したのが、コンニャクイモ、葉タバコ、蕎麦などのようだ。
それらは地元で消費される以上に生産できるので、国内の各地に移出された。
信州蕎麦の一部は茨城産の時代も有ったらしい。

水府村出身の小川宣夫さんは東京の荻窪の「本むら庵」で修業する。
独立し、阿佐ヶ谷に「慈久庵(じきゆうあん)」を開業した。
故郷「水府」産のそば粉を使用し評判を得た・
2002年02月に水府村に移転し「慈久庵」を再開した。

繁盛しているのに、あえて出身地に戻る決心をしたのは、旧水府村の村長をしていた同級生の勧誘もあったが、里山を守りたいとの願いから強かったからだ。
当初は農家から蕎麦を仕入れていたが、自分で栽培しようとの気持ちは強かった。
現在地に開業した当時店を訪ねたが、隣接した畑に天ぷら用の野菜などを栽培していたが、「その内、ソバの栽培までしてみたい」と云う張り紙が在ったように覚えている。
そのご、7月に草を刈り8月に畑を焼き、その後に種を蒔く、「焼き畑農業」を習得。近隣の生産協力農家が約30軒に達した。
「水府秋蕎麦」国内に移出できる様になった。

店内の低温倉庫にモミで保存し、毎日、自家製粉する。
石臼で粗挽きするが、粗挽き粉はまとまりが悪く技術を要する。
蕎麦粉95に対して、つなぎの小麦が5.
伸ばしに熟練の技術が必要とされる。

そばつゆは、カツオの本枯れ節とみりん醬油の返し。それを寝かせる。

蕎麦粉を捏ね・延ばし・切り・茹で・配膳まですべて一人でこなす。
どれ一つとしておろそかにできないから、との信念だ。

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割り箸も、口にあたる部分を一本づつ、小判形に削りなおす。

それだけ手間を掛けるので週に2日(水・木)は休日。
営業時間は11:30~14:00まで。
予約も取らない。


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辺鄙な場所での短時間の営業にも関わらず、開店前からお客は並ぶ。
久し振りに訪ねた日も開店前の11:25に到着したが先客が3組。
一組(テーブル)毎に順次供される。
お水はセルフサービスだが、そんなことは気にならない。
この水が柔らかく美味しい。
水府は水の里、鉱泉があちこちから湧き出している。
常日頃、如何にまずい水を飲んでいるのだろう。



慈久庵コース(4品・5品・7品がある)。
こんにゃく・そばがき・せいろ・デザートを選択。

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こんにゃくの刺身は生玉だろうが、今まで食べたものより柔らかめで、ゼリーのような食感、地元産のワサビが香りが良い。
醬油次も昔ながらガラス製。

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蕎麦掻も、今までにない食感。通常は捏ねてフワットした感じ、或いは餅のようであるとか、店や作り手によって異なるが、ここは糊状で柔らか目。
葱と味噌が付いてくるが、何もつけなくても充分。

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麺は薄く細く、ツヤツヤして喉越しが良い。
殻の黒いツブツブがそば粉に程よく混じっている。
殻まで粗挽きされた蕎麦粉は香りも強い。

蕎麦ツユは濃厚で辛めだが、さほど辛くはない。

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デザートは「柿のうんてろ」=熟した柿のシャーベット。

注文取り、配膳、会計など全ての接客を一人で仕切るから時間はかかるが、さほど気になる間合いではない。

有名店にありがちな慇懃な対応でなく。愛想が悪いわけでなく、あくまでも自然体。

凄いことを凄いと見せず思わせずの名人芸の蕎麦屋さんだと再認識した。

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(行く前に観た慈久庵のHP,[ 2009年7月19日放送 テレビ東京 日曜ビッグバラエティ 真のプロ列伝・ http://www.jikyuan.co.jp/)を参考にしてあります。


山本寛斎さん、

2012年03月10日 23時05分14秒 | 人間
山本寛斎さん、

コシノジュンコさんのアトリエで働き始めて間もなく「この人が、加わることになりました、宜しく」とジュンコさんに伴われ青年が現れた。
長身で精悍な顔つき、声が大きく元気がいい。
「高橋さん、カッテングは教わりますが、デザインは僕が教えますから」が挨拶代りの会話だった。
やまもと寛斎と名乗り、岐阜の出身で日本大学英文科を中退したとのことだ。
名前からして奇抜だが、真っ赤なジーパンを穿き、自信たっぷりで派手な雰囲気を漂わせていた。

当時、ズボンの類を「パッチ」とも呼んでいた。
セツ・モードセミナーの長沢節先生着用する、前中心に縫い目のある細身のズボンに由来するのか、或いは、江戸時代からの職人の股引からか?
とにかく、真っ赤なジーパン姿は「赤パッチ」と呼ばれることになった。

僕のアパートは中央線の大久保。
彼も同じ中央線の阿佐ヶ谷、帰り途、僕のアパートに立ち寄った事もあった。僕も阿佐ヶ谷に行き、商店街の食堂で飯を食ったこともあった。
お互いに貧乏だし、ましなものは食べられない時代だった。

高田賢三さんがパリに発つ頃で、防衛庁の辺にアトリエが在ったのか、通りがかりに目礼をすると、挨拶を返してくれたことはいい思い出、賢三さんは既に、かなり名が知られていた。

浜野安宏さんも近くに住んでおられた。
浜野さんは日本大学芸術学部在学中から「造像団」というデザイン・プロジュース組織を立ち上げていた。
堂々たる風貌でカリスマ性があったから、多くの人が彼の周りに集まった。

寛斎さんも「造像団」に関係していたのかもしれない。
日大を中退しデザイナーを目指しアトリエに来たのは、浜野さんの紹介と思った。
僕はピンチヒッターと言う感じで、数か月しか在籍しなかったから、詳しいことは分からない。

寛斎さんはその後、第21回「装苑賞」を受賞しデザイナーとして認められ、
1971年(昭和46年)に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。
同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。その時の演出であったか、自らが歌舞伎の黒子の姿で登場し進行してゆくスタイルは、斬新でかつ日本的だった。
1993年「ハロー!! ロシア」をロシア・モスクワ 赤の広場で開催する等、毎年大きなイベントを開催しプロジューサーとしての活躍が目立つ。
現在は、テレビタレントとして出演している。

世界的に活躍しているが、そこに至るまでの過程などが放送されたり週刊誌に掲載されたりすることがある。

結婚に至る物語は、ダスティン・ホフマンの映画『卒業』と同様だったとの記事を読んだことがあった。

また、幼い娘を連れてアジア?外国を旅した写真集の様なものを観た記憶がある。かなりの冒険旅行で、その娘さんが女優の山本未来なのか?

少年時代を語ったテレビ番組によれば、
両親が離婚し、伯父を頼り2人の弟を連れ高知県に行く引き受けを断られ、児童相談所に収容されたが脱走。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。恵まれた幼少期ではなかった。
父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。
そのうちに中学の友人から制服の直しを受けるため、ミシンを踏み始めた。
中学時代からミシンを踏んだり縫製の経験もあったのだ。

少しの間、同じ職場で働いただけ、派手で明るく何の悩みもなさそうな印象であったが、かなりの苦労をしていたことを知った。

時々、テレビ等で活躍している姿を見ると、コシノジュンコのアトリエに入社した時から、彼の頭の中には世界で活躍したいとの大きな夢を抱いていたのだろう。

50年に近い昔の、ほんのわずかな一コマ。
防衛庁跡地はミッドタウンとなり、かっての住宅街は大幅に変貌した。

朝のテレビ小説「カーネーション」を見ていると、いろいろなことを思い出す。