「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

「東慶寺・仏像展2017」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵

2017年04月14日 23時01分14秒 | 彫刻家 後藤清一
「東慶寺・仏像展2017」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵
2月4日~4月16日





「駆け込み寺」としてしられる東慶寺は女人救済の尼寺として明治に至るまでの600年間、縁切り寺法を守ってきた。

明治38年(1905)釈宗演(1859年-1919年)が住職となって、禅の道場に変わった。釈宗演の弟子にあたる鈴木大拙(1870年-1966年)は禅を世界的に広めた功労者として著名である。
昭和16年(1941)に住持した井上禅定は鈴木大拙の収集した仏教書や寺伝来の 離縁状など縁切り文書を収めた「松ヶ岡文庫」を寺内に創立した。

文庫はその後「松岡宝蔵」と拡充されて公開されているが、年に一度の特別展が2月4日~4月16日まで松岡宝蔵にて開催されている。




宝蔵の入り口。





「水月観音菩薩半跏像」

通常は「水月堂」に安置され通常は公開されず、申込みによる拝観のみ。
特別展の期間中は「松岡宝蔵」に出陳。
像高わずか34cmの観音さまだが、鎌倉一の美しい仏様と言われている。





通常の「水月堂」祭壇。
中央の円窓に鎌倉時代の「水月観音」。
左に「南無仏太子」(聖徳太子の二歳像)。
右に「誕生仏」(後藤清一作)
額は鈴木大拙の書。

今季の特別展では「松岡宝蔵」内に3体が別々に。



「南無仏太子」



後藤清一作「誕生仏」
昭和16年の作だが、微笑をたたえた童顔の面相は白鳳時代を思わせる。



新薬師寺の「香薬師如来立像」
何度か盗難にあい戻ったが、昭和18年に盗まれてから行方は分からない。
佐々木茂索が、「香薬師如来立像」の“石膏型”を所持していた。
現物から石膏型採りしたのか、ともかく本物と変わらぬ出来ばえで、それを基に復刻された像。



本堂前の「宝塔」と枝垂れ桜。



「本堂」



花に囲まれた誕生仏。
本年、4月8日の「灌仏会」花に囲まれた誕生仏(東慶寺のHPより)

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後藤清一さんのこと@『鸚鵡貝』創刊号 

2016年12月27日 16時52分16秒 | 彫刻家 後藤清一
後藤清一さんのこと@『鸚鵡貝』創刊号 






雑文集・『直しや雑記帳』が友人たちの援助で刊行されたのが(よこの会・1987年7月だが、それに先立つ1987年2月に同人誌『鸚鵡貝』創刊号が発刊された。

「日めくり俳句会」の仲間が中心になって「同人誌を作ろう」との話が持ち上がった。ジャンルは決めず好きなように使えるのが1人当たり10頁。
印刷経費の10ページ分を参加者が負担する、と言う取り決め。

表紙のデザインと絵、本文中のカットは画家の福地靖さんが、編集から印刷・刊行まで一切を大曽根克彦さん(当時タウン誌の編集長で、現在はフリーのライター)が無料奉仕でしてくれることになったので、経費の負担がメチャ安で出来ることになった。

小説・俳句・短歌・評伝・評論・絵画・随筆と内容豊富な総合誌で、サブタイトルには「文学と美術の小宇宙誌」と銘打った。









僕は彫刻家の後藤清一(1893-1984)さんの作品と人柄に魅入られていたので、書き残すにはいい機会と思えた。
勿論、作家の評伝を10ページで纏めるのは無理な話しなので、刊行ごとに連載すればと思い評伝「後藤清一さんのこと・其の壱」として書くことが出来た。

同人誌は3号まで、ともいわれる。
どの様な訳か記憶にないが二号には参加することなく、終わってしまった。

この資料を基に取材を重ね『後藤清一・ひとつの象徴と造型』として1990年に刊行できた。
後藤清一さんの生涯と作品を概観できる278頁の本としてまとめることが出来たのは『鸚鵡貝』創刊号のお蔭だ。



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後藤清一作『玉』が展示されています@茨城県近代美術館

2016年08月04日 10時17分04秒 | 彫刻家 後藤清一
後藤清一作『玉』が展示されています@茨城県近代美術館





茨城県近代美術館の特別展「乙女デザイン―大正イマジュリィの世界」が2階展示室で7月16 日~9月25 日まで開かれている。
大正ロマンの匂いと、「今日も三越、明日も三越」デパート等が文化を担った社会状況が良く判った。

1階の展示室1では「日本の近代美術と茨城の作家たち 春から夏へ②」と題し横山大観,小川芋銭,中村彝,辻永ほか茨城ゆかりの作家の作品を中心に,春から夏,そして夏から秋へと移り変わる季節を感じさせる作品などが展示されている。

あわせて昨年度に新たに収蔵した作品を展示されている。

後藤清一作の『母子』(ブロンズ・昭和12年)と



『老人頭部試作』(ブロンズ・昭和12年)




『玉』(乾漆・昭和19年)

の3点が展示されている。特に『玉』は像高62㎝の大作で、乾漆と言う技法が用いられており、展示される機会が少なかった、今回の寄贈を受けて観られることは嬉しい。
(写真は、昭和48年・1973年に県立美術博物館で開催された「後藤清一彫刻展」の図録からの複写で観づらいのは残念だが、是非とも現物を観てほしい。



展覧会開催時の後藤清一さん(昭和48年・1973年 80歳)


参考までに





『薫染』(木彫・1941年作)
李王家に買い上げられ戦前に海を渡った。
第二次大戦と朝鮮戦争により作品の存在を確かめることは出来なかったが、2005年に開館した韓国中央美術館に日本室に展示されていることが分かった。
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小川芋銭の「草汁庵」と記念館「雲魚亭」@牛久市城中町

2016年07月10日 01時22分00秒 | 彫刻家 後藤清一

小川芋銭の「草汁庵」と記念館「雲魚亭」@牛久市城中町





彫刻家・後藤清一は昭和9(1934)年5月、友人の森戸達雄、小野信夫、津川公冶と共に牛久在住の画家・小川芋銭を訪ねた。
先ず、自刻の「弥勒菩薩像」を芋銭に贈呈し、画室「草汁庵」に於いて良寛の書の一幅を観ながら、良寛論、書論へと話は及ぶ。
更には文人画を描く芋銭の画境が語られる。
昼食時と成り、頼んで有った船にご馳走を積んで牛久沼へ漕ぎ出した。
大師堂のある出島に着き、松籟を聞き景色を眺める。
再度、船を進め沼縁の料亭「湖月」で暫く寛ぐ。卓上には牛久特産の蓴菜と蒲焼、草汁庵から持参の料理を加えての昼の宴。
酒もほどほどに回って、釣りをしようと、釣り談義。
時間はあっという間に過ぎて、6時過ぎには草汁庵を辞した。

津川公冶著『画聖芋銭』(宮越太陽堂・昭和18年)「牛久沼上の一日」には詳しく述べられている。

この日の出来事は晩年になっても、「昨日の様に覚えている」と話したので、この地を一度は訪ねてみたいと思っていた。それから約40年、山本 哲士さんの案内で実現したが、話で聞いていた場に立てたことは大きな喜びであった。




入り口近くの「河童の碑」
芋銭の偉業を讃えるために昭和26年に友人「池田龍一」が中心となって建立。



雲魚亭入口付近の「改善一歩」道標。
1922年(大正11年)に城中青年会(矯風会)によって旧牛久村の主要な道沿いに立てられた道標。
芋銭は自分の進む道を良い方向に改めて進みなさいという意味の「改善一歩」という言葉を提案した。



木立の合間から牛久沼が望める。





母屋と記念館「雲魚亭」への道。


昭和12年、母屋の隣にアトリエ兼住居「雲魚亭」を建設。
『河童百図』の刊行準備の時期に病に倒れたため、ほぼ病室として使われ昭和13年に70年の生涯を閉じた。
現在は「小川芋銭記念館」として土・日のみ公開。



複製画や芋銭の愛用品が展示されている。



母屋(「草汁庵」)。
現在も芋銭のお孫さんが住居として使用しているとのことで非公開。
その中の一部屋が、画室として使用された「草汁庵」。

7月9日(土)催行の【Tabi-ぶら】番外編<アイツんとこに行ってみようか。to 牛久&石岡>の参加記録です。
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後藤清一さん遺愛の古瀬戸の壺

2014年03月18日 21時20分53秒 | 彫刻家 後藤清一
春一番が吹いて、春の彼岸に入る。

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後藤清一さん遺愛の古瀬戸の壺に藪椿。


3月18日気象庁は、関東地方に春一番が吹いたと発表した。
1951年の統計開始以来、3番目に遅い記録で昨年の関東地方の春一番は3月1日だった。立春から春分の間に初めて吹く強い風を気象庁では「春一番」として発表している。
もともとは漁師言葉らしいが、この風で草木の芽がほどけはじめ、春の本格的な訪れとなる。

我が家の椿も一気に咲いた。
一枝を伐り、彫刻家・後藤清一さん遺愛の古瀬戸の水注に。


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この飴釉の古瀬戸は後藤さんが茶葉の振出壺として愛用していたもの。
李朝の石製の火鉢に炭火を絶やさず、鉄瓶でお湯を沸かしお茶を愉しまれた。

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居間で寛がれる後藤さん(1961年頃68歳)

今日18日は春の彼岸の入りで、3月21日は彼岸のお中日。
「春分の日」と呼ばれる祝日で「季節の分かれ目で、昼と夜の長さが同じになる」といわれるが、「春の彼岸のお中日」のほうが馴染がよい感じがする。


後藤清一さんが91歳で亡くなったのは1984年(昭和59)4月11日。
今年で30年になるが、さほど昔の事にも思えない。
春の彼岸の頃は、何かと思い出すことが多い。



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得月亭@徳川ニュージアム

2013年04月04日 19時14分34秒 | 彫刻家 後藤清一
得月亭@徳川ニュージアム

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この地は徳川光圀の茶室「高枕亭」が在った。

水戸徳川家第2代藩主光圀が水戸に帰られた折、家臣・忍穂利重の梅香屋敷を訪ね「得月亭」で酒を酌み交わしたと伝えられる。
この屋敷の跡地を住まいとした常陽銀行の元頭取・亀山甚(1885~1974)は戦後間もない1949年頃に自宅敷地に京都から職人を招いて茶室を建築し、故事に倣って「得月亭」と名付けた。
水戸徳川家13代圀順公(とも交流のあった亀山は茶室開きに圀順公を茶室開きに招き「得月」二字の揮毫を依頼した。
亀山家は彫刻家・後藤清一に破風の扁額の刻字を依頼し制作したと伝えられる。

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2009年に茶室は遺族から博物館を運営する水府明徳会に寄贈され、二代光圀公の茶室「高枕亭」の跡地で九代斉昭公の茶園であった現在の徳川ミュージアムの南庭園に移築された。

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庭園・茶室への南門。

今年は開花後に寒さが戻ったので、茶室の周囲の桜が盛りであった。

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湧水「お茶の水」に倣った石製の井戸枠、かなり大きなもの。


庭園の先からは、偕楽園や水戸市内を望むことが出来る。

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博物館敷地内のガーデンテラス。


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上代香 後藤清一作 (木彫・1940年)

2012年07月31日 16時31分42秒 | 彫刻家 後藤清一

上代香 後藤清一作 (木彫・1940年)




後藤清一さん作の『薫染(くんぜ)』(木彫・1941年)が李王家の買い上げとなり、太平洋戦争前に海を渡った、
久しく行方が分からなかったが、最近になってソウルの「韓国国立中央博物館」に収蔵され、日本室に展示されていることが分かった。
昨年(2011年)11月ソウルに赴き『薫染』と対面することが出来た。
太平洋戦争や朝鮮戦争による戦火を潜り抜け、制作当初と変わらない姿を拝せたのは、作品の持つ生命力を感じた。



展示室中央の『薫染』の像は、日本室を代表する作品と思えた。

『上代香』(1940年)と題する作品は『薫染』と同じ桜の木で制作された。
縄文・弥生時代の土器や古墳時代の埴輪など、日本古来の文物に美しさを感じていた後藤さんは《埴輪》を現代の作品に移したいと考えておられたようだ。
『玉』(1944年・乾漆)は埴輪を思わせる女性像だが、ほぼ同じ姿だ。





両肘を張り腰に手を当て、髷を結った髪、刳り貫かれた眼は埴輪を甦らせたかのごとく微笑を含んでいる。

この作品も行方が分からなかったが、所在が確認された。
寸法は23×28.5×61・サクラ材に彫られ着色されている。
後藤さんの作品で木彫は稀、着色された作品はさらに少ない。

携帯で撮影した写真では作品の素晴らしさを理解してもらうのは難しい。
僕も、白黒のはがき大の写真しか見ていなかった時は想像できなかった。

彫刻作品の良さを写真で映すには撮影の技術が重要だ。
写真家に撮影していただいてから、改めてご紹介したいと思っている。


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東慶寺・松ヶ岡宝蔵 @鎌倉市山ノ内1367

2012年04月14日 00時18分51秒 | 彫刻家 後藤清一
東慶寺・松ヶ岡宝蔵 @鎌倉市山ノ内1367




後藤清一作の「誕生仏」が「東慶寺仏像展2012」に展示されている話をUさんからお聞きした。
会期は4月8日(日)までとのことで北鎌倉に。



北鎌倉の駅、何ともレトロな駅舎ですね。
東慶寺は北鎌倉駅から、徒歩4分。







書院・内玄関。


東慶寺は花の寺として有名です。
それらを大切に使って、随所に花が活けられています。




枝垂れ桜ごしの本堂と水月堂。






後藤清一作「誕生仏」



通常は水月堂に安置されています。


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「東慶寺仏像展2012」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵

2012年03月28日 22時36分59秒 | 彫刻家 後藤清一
「東慶寺仏像展2012」@東慶寺・松ヶ岡宝蔵
4月8日(日)まで  開館時間:午前9時~午後3時半




北鎌倉・東慶寺
「縁切り寺」として有名な東慶寺は北鎌倉の駅から徒歩5分足らず。



中興の祖とされる釈宗演(1859年-1919年)が遷住となって、禅の道場に変わった。
釈宗演の弟子にあたる鈴木大拙(1870年-1966年)は禅を世界的に広めた功労者として著名である。
昭和16年(1941)に住持した井上禅定は鈴木大拙の収集した仏教書や寺伝来の 離縁状など縁切り文書を収めた「松ヶ岡文庫」を寺内に創立する。



昭和53年(1978 )には 松岡宝蔵を旧方丈跡に新築し、一般に公開するようになった。

東慶寺前住職・井上禅定、現住職・井上正道の親子二代にわたる境内整備によって、四季折々の花々が咲き競う「花の寺」として鎌倉を代表する寺となった。
更に、早朝座禅会・日曜座禅会・写經の会・香道の会・挿し花の会・月例茶会など多彩な催しが開かれる。
何れも、申し込めば参加できる開かれた集い。

お寺の存在意義は、生きている人たちの心のやすらぎ、或いは学びの場、癒しの場であろうが、それらを実践している稀な例で、多くの寺が見習っていただきたいと思う。

Uさんご夫妻が東慶寺の茶室「寒雲亭」の3月の茶会に出席された。
その際、松ヶ岡宝蔵の「東慶寺仏像展2012」を拝観され「後藤さんの誕生仏を拝見してきましたよ」と連絡を受けた。



「水月堂」に祀られている「水月観音菩薩半跏像」通常は公開されず、申込による拝観のみなのだが、特別に展示された。



水月堂内部、
中央の円窓に水月観音・左に南無仏太子(聖徳太子の二歳像)・右に誕生仏(後藤清一作)
額は鈴木大拙の書。
「水月観音菩薩半跏像」は像高わずか34cmの観音さまで、鎌倉一の美しい仏様と言われている。

幸いにも、僕は水月堂を何度かお詣りした。
今回の展覧会は水月堂の配置と同様に展示されているようだ。

会期は4月8日まで。
残り期間は少ないが、春の鎌倉・東慶寺を訪れたいと思っている。

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寺西恵然さんと後藤清一さん

2012年02月19日 22時06分52秒 | 彫刻家 後藤清一
寺西恵然さんと後藤清一さん

京都では、寺西諄信さんにお会いしたいと思っていた。
寺西諄信さんは、若き日の後藤清一さんが師事された浄土真宗の僧侶・寺西恵然さんの長男である。
この前お会いしたのは2007年11月、どうなさっているだろうか
寺西恵然さんと後藤清一さんとの交流のお話を伺いたく思うが、諄信さんの記憶も定かではなさそうだ。
1996年僕からの問い合わせに対して、次のような一文を寄せてくれたことがあるで、紹介しておきたい。


ふたり
 
明治に生まれ、大正デモクラシーの風潮に浴すや、やがて強まる軍部勢力下の昭和の初期を、茨城県水戸で過す二人の人物がいました。
 いささか大仰な語り口調に落ちましたが、筑波下ろしにも凍えぬ気骨と、太平洋の海鳴りにも押し潰されない強靭な心意気を膨らませ、しかも真摯な使命感にも似たこころ在を胸に、時には夜を徹して語らう若きふたりだったに違いないと思うからです。
 あまりにも、烈しい情熱ゆえに、至上の魂と世俗の情念に悶々と苦悩し、しかも高らかに謳うことを忘れず、時には仏法に耳を傾け、また時には芸術について、そして何より人間について、その深淵の極みまで赤裸々に洞察を培う二人だったに違いありません。
 その一人は、構造社展、文展、日展の日本の近・現代の美術を彫刻と共に生きた彫刻家の後藤清一氏であり、もう一人は、後に私の父となる西恩寺住職の寺西恵然でした。その時、後藤氏は明治二十六年の生まれの二十六歳、寺西は同二十五年生まれの二十七歳でした。二人は、文字通り血気盛ん、前途洋々たる青年だった訳です。
 今となっては、残念ながら、二人の機縁、尽きせぬ交友を詳らかにする由もないのですが、ただ一つはっきりしていることは、石川県生まれの父が、水戸に滞在していた事情です。
 父は、真宗大谷派東本願寺の布教師として常陸の教化布教のため、水戸真宗会堂々主を務めておりました。大正八年から昭和九年にかけての十五年のことでしたが、この間、「関東聖跡巡礼」、「原始真宗のあと」を著すなど真宗史の研究を続ける傍ら、関東一円の布教に東奔西走していたようです。
 不覚にも、真宗会堂がどのようなものであったのかは分かりませんが、何よりも教化布教の場であったとすれば、老若男女が三々五々自由に参集できる開かれた集会所でもあった訳です。後藤氏と父の親交が始まったのは、こうした祈りだったようです。
 そんな時、後藤氏の芸術家たるがゆえの苦悩にも似た烈しくも熱き心情、一方、法を説く父の宗教家としての諄々足る思いが、期せずして二人の意気高揚をいやが上にも
増して行くことになったのでしょう。各々志を異にしても、若き二人には言い尽くせぬ肝胆相照らすものがあったに違いありません。
 その後父は、東京九段の仏教会館々を経て、さらに輪番として京都の岡崎別院、富山の井波別院へと赴任することになるのですが、晩年の余生は、その任のもっとも長かった京都で過すこととになります。その京都に、後藤氏の来訪が数度はあったように憶えております。
 かつて、彫刻家ジャコメティが仏文学者の矢内原伊作氏をモデルに自分の肖像を制作した話題は広く知られたことでしたが、何故か、後藤氏のお姿からもまた矢内原伊作氏、否ジャコメティに通じるお顔だと強い印象を抱いたものです。以来、年々覚束ない足取りになる父に随行しては、日展の京都展を楽しみに、新春の市立美術館に赴くことになりました。
 作品の前の父は、ステッキを身体の支えにしたまま、かなりの時間そこにたちつくしておりました。その姿は、作品を鑑賞するというよりは後藤氏との再会を喜び、何かを語り掛けているようでもありました。はたして何を語り掛け、どんな思いに頷いていたのかは、もちろん私の耳に届くはずもありません。
 ところで、マッチ箱同然の拙宅には、後藤氏の手になる二十センチほどのブロンズの仏像の首が、幾星霜のなかに静かに輝いております。不思議な艶と香り、そして天女の奏でる妙なる音色までが幽かに伝わり、それはまるで極楽荘厳の世界を思わせるか如くの、崇高なブロンズであります。
 晩年、父は「穏やかな人」、「静かな人」といわれ、時には若いものからは「綺麗なお爺さん」とよばれたりもしておりました。後藤氏の作品の前に立つときの父の顔がやはりそうだったのです。それは極楽荘厳の前に立ち、作者後藤氏と語る至高の楽しみをこぼす表情だったのかもしれません。二人の心通わすが如きこんな情景に、年甲斐も無く私は、羨望にも似た思いをだいたりもしたものです。
 そんな父は昭和五十一年、八十四歳で他界し、後藤氏もまた五十九年、九十歳でその生涯を終えられました。いつしか、それから既に十三年が経とうとしております。
合掌。





寺西恵然さんが、かって赴任していた岡崎別院。



朝、ホテルを出る前に寺西諄信さんに連絡をしたところ、夕方6時にホテルのロビーで待ち合わせる約束が出来た。

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「新収蔵作品展」@水戸市立博物館

2011年12月14日 00時36分03秒 | 彫刻家 後藤清一
「新収蔵作品展」@水戸市立博物館
 12月3日~1月15日






木内克さんと後藤清一さんの作品が



水戸市立博物館では昨年度(本年3月まで)に収蔵した品々を展示している。
今回は、僕の敬愛する二人の彫刻家の作品が同時にしかも多数収蔵され、陳列されているのは嬉しいことだ。

木内克(1892-1984)と後藤清一(1893-1984)は水戸市下市に生を受けた幼馴染で、共に彫刻家としての道を歩んだ。
これほど沢山の作品が収蔵されたのは、遺族或いは収集家の寄贈によるものだろうか。
予算削減のあおりで購入予算がない時代、優品の寄贈は博物館や水戸市民にとっても、ありがたい。



木内さんは動的で、生命力にあふれた大らかな作品。
生前の木内さんに、一度お目にかかったことがある。
作品からは想像できない静かな方だった。









後藤さんは静的で、深い宗教観・哲学観に裏打ちされた作品。
後藤さんには数えきれないほどにお目にかかったが、ユーモアにあふれ謙虚で優しい方だった。
今回の収蔵品は、石膏原型が多くブロンズや木彫作品の基型といえるが、完成作と異なる、作者のぬくもりが伝わってくる。

先日、韓国国立中央博物館の『薫染』を拝見してきたばかり、感慨はひとしおだった。

水戸の風土に育まれたお二人は、作風は対照的だが、共に信じた道を貫き通した気骨の方だ。

是非とも、多くの人達に観てほしい。


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徳寿宮の石造殿 @大韓民国ソウル特別市

2011年12月12日 22時35分02秒 | 彫刻家 後藤清一

徳寿宮の石造殿 @大韓民国ソウル特別市




後藤清一作の『薫染』は李王家の買い上げとなり、徳寿宮の石造殿の李王家の美術館に収蔵された。
この美術館はイギリスの建築技師の設計による石造建築で、日本の明治・大正・昭和の美術品を収蔵し、陳列公開していた。

石造殿を確かめようと徳寿宮を訪ねた。
市庁舎の道路を挟んだ反対側、市の中心部だ。



大漢門 - 旧名「大安門」
現在のものは1907年完成の正門。
観光用の王宮守門将交代式(衛兵交代式)が行われていた。





門を入ると、王宮の一部が残っている。
小高い場所には、洋風の展望ラウンジもあった。
日本が植民地とした時代に、多くの建造物が破壊された。
申し訳ないと、心が痛む。












一番奥に位置する石造殿は改修中。
工事の囲いには、当時の写真等も掲示されていた。
完成はかなり先のことかもしれない。

ここに、『薫染』が収蔵・展示されていたのだと思うと感慨も深い。
作品の足跡を訪ねるのは、興味深いものがある。



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『薫染』後藤清一作 @韓国国立中央博物館3階 日本室

2011年12月12日 20時52分19秒 | 彫刻家 後藤清一
『薫染』後藤清一作 @韓国国立中央博物館3階 日本室



彫刻家・後藤清一の代表作の一つ『薫染』(1941年作)は李王家買い上げとなって、戦前に海を渡った。第二次大戦と朝鮮戦争により作品の存在を確かめることは出来なかったが、ブログの縁で2005年に開館した韓国中央美術館に保管され日本室に展示されていることが分かった。

作品が木彫であることや収蔵品の展示変えがあるから、いつでも観ることが出来るわけではない。
年内は展示されているとの情報だったので。拝見したいとソウルに向かった。



韓国国立中央博物館は南山と漢江に挟まれ竜山(ヨンサン)というエリアに聳え立っている。





3階はアジア館の311号は日本室。







部屋の中心に後藤清一作『薫染』


テレビドラマの韓流ブーム・K―POPの流行など過去に例がないほどに日韓交流が盛んになった。
韓国を訪れたら韓国国立中央博物館を訪れ、韓国の歴史を知り、さらに日本室を観てほしいと思う。
室内展示だけでなく、野外にもさまざまな文化遺物が展示されている。
石造物庭園、湖、滝などが織り成す美しい自然の風景も見どころだ。

日本室の展示品はこれまでの日韓関係を反映して、質量とも少ないのは残念ではあった。



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韓国国立中央博物館 @ソウル特別市龍山区

2011年12月04日 21時35分26秒 | 彫刻家 後藤清一
韓国国立中央博物館 @ソウル特別市龍山区








後藤清一作の「薫染」(くんぜ-1941年・木彫)が韓国国立中央博物館の日本展示室で公開されていので、観に行きたいと思っている。

新・韓国国立中央博物館は2005年10月28日 に 開館したが、そこに至るまでに幾多の変遷があった。

Wikipediaに依れば、
1908年9月 - 昌慶宮に朝鮮皇室博物館が設立される。
1915年12月1日 - 朝鮮総督府博物館となる。
1938年3月 - 徳寿宮の石造殿周辺に李王家の美術館を設立
(1969年5月に国立博物館に統合される)。
1945年12月3日 - 朝鮮総督府から業務を引き継ぎ、国立博物館となる。
1950年~1953年 - 朝鮮戦争に伴い釜山へ避難。
1953年 - 景福宮に移転。
11月 - 徳寿宮の石造殿に再移転。
1972年7月19日 - 景福宮に再移転し、国立中央博物館と改称。
1986年8月21日 - 旧中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)に移転開館。
1996年 - 光化門付近に移転。
2005年10月28日 - 龍山区の龍山基地から米軍が移動した跡地に移転。


後藤清一作の「母と子・誕生」(1929・昭和4年)と「薫染」(1941・昭和16年)が李王家の買い上げとなってソウル渡った。
李王家は明治43年に日本に併合されて以降も朝鮮総督府の管理の下で存続し、歳費を支給されていた。
植民地政策の一環として進めた『文化政策』の手段として、日本の明治・大正・昭和の美術品を李王家は収蔵し、展示公開した。
日本本土に近現代美術を見せる美術館がない時代、植民地ソウルに在った、というのは皮肉なことだ。

第二次大戦・朝鮮戦争の戦火を潜り抜けて「薫染」現存していたことに驚いたし、嬉しくもあった。
「母と子」に関しての情報はないが、確認したいと思っている。


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彫刻の時間 ?継承と展開?

2011年10月22日 23時38分14秒 | 彫刻家 後藤清一
彫刻の時間 ?継承と展開?
10月7日~11月6日@東京藝術大学大学美術館




僕の尊敬する彫刻家の後藤清一(1893-1984)さんは水戸市本町に生まれ、東京美術学校の[牙彫科](象牙を素材とした彫刻)で学んだ。
東京美術学校では高村光雲の木彫やロダン以来の近代彫刻に学んだ。
当時、彫刻と云えば牙彫と云うほどに盛行していた。

その後、木彫や塑像さらにブロンズと技法は多岐にわたった。
生涯を通した作品のテーマは、東洋古代美術を構想の因とし、自己の信仰と思索の象徴とした仏像などが多い。
代表作の一つともいえる「薫染」(1941年・木彫)は、1938年に続き、再度の李王家買い上げとなった、
その後、行方が分らなかったが、第二次大戦や朝鮮戦争の戦火に耐えて、ソウルの「韓国中央博物館」の日本室に展示されていることが最近分かった。
この像にお会いする為に、ソウルに行きたいと思っているが、実現していない。


東京美術学校・現在の東京藝術大学美術学部の彫刻科が企画した「彫刻の時間 ?継承と展開?」と題する展覧会が開催されている。

後藤さんの理解の助けになるかもしれない。と思って同展の会場に足を運んだ、

一つは、藝大コレクションの名品を展示。
飛鳥・白鳳の仏像から、近・現代の彫刻まで、日本彫刻の歴史を一望できる彫刻が出品されていた。
飛鳥・白鳳の仏像が魅力的だったが、特に『興福寺十大弟子像心木』は破損像の心木で、表からは分からない内部構造が見られたのが良かった。
これぞ、芸大ならではの資料展示品だ。

もう一つの柱は、名誉教授、現職教員の展示。
今回の目玉として、橋本平八の作品17点と、平櫛田中の作品29点が展示されていた。
平櫛田中の作品群は、これぞ木彫と云える力強い作ばかり、平櫛田中の素晴らしさを思い知らされた。
後藤清一さんの木彫作品とは異なる系譜と感じた。

現職教員の展示室は。
空間を意識的に使い、現代の彫刻のあり様や個々の彫刻観の違いを提示するというものだが、現代の彫刻の空しさを感じた。

古いものが、古い時代のものが良い。
ということではないし、新しいものと古いものを比べるべきではないと思うが、
大作で広い空間を占めながら、ピンとこないのは現代美術の宿命なのか。


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