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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

安寺・持方(あでら・もちかた)@常陸太田市

2024年09月22日 17時33分18秒 | 
安寺・持方(あでら・もちかた)@常陸太田市



「にほんの里100選」に選ばれて建てられた持方集落の記念碑。

県北の男体山や武生山などの山々に囲まれた人里離れた山奥の村(旧安寺村・旧持方村)は現在・常陸太田市となり道路が整備され、容易に訪れることが出来るようになったが、茨城県で最後に電気が引かれた地域といわれるほどだ。
平家の落人伝説や藩主が巡視に来られた際にできたと思われる民話なども伝わる秘境の地だといえる。
民俗学者の柳田国男も取材に訪れた。

道路が整備されたとは言え、片側1車線で崖をぎりぎりに通る山道は容易ではない。この地に対して土地勘がある佐藤さんの運転だから、なんとかたどり着いたが、カーナビ・携帯なども圏外の恐れがありそうな山間の里である。

安寺・持方と並べて言うが、多少は離れており、安寺の集落は脇を通過しただけで持方の集落だけを訪ねた。



碑の反対側に、特産のコンニャクの畑があった。
コンニャク(蒟蒻)はサトイモ科の植物、あるいはその球茎から製造される食品。



腰掛石
水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が藩内巡視の折に腰を掛けて休まれた石。
神社などにある、さざれ石(小さな石が固まった石)なので運び込んだと思われる。



おそれ多くも腰かけてみた。

北方探検家・木村謙次の墓所@常陸太田市天下野

2024年09月20日 23時08分21秒 | 
北方探検家・木村謙次の墓所@常陸太田市天下野



北方探検家で儒学や医術を学び農政にも通じていた木村謙次(1752~1811)は常陸国久慈郡天下野村(現・常陸太田市天下野)で農家の4男として生まれた。

水戸在住の美術家・佐藤洋照さんは常陸太田市徳田(旧里美村)にアトリエを借りて、常陸太田と水戸を行き来している。
アトリエを訪問し作品を拝見したいと思っていたところ、9月19日に行きますが、ご一緒しませんか?行きたい所があればリストを挙げて下さい、とのこと。
幕末の水戸藩の北方探検家・木村謙二の出身地が近いので訪ねたいと伝えたら「生家はないが墓所は在るようです」とのことだ。



天下野(けがの)という集落を訪れ、住民の方に木村謙二の生家はと問えば係累は居ないが、墓地は在るとの答えだ。
「木村謙二の墓所200m➡」という案内板を見つけ辿ってみることに。
同じ案内板に何度も会うが、一向にそれらしいところはない。



村はずれの道辺に彼岸花も咲いていた。
暑い夏だったが、彼岸近くになれば季節の花が確かに咲くのは自然の理だ。



直ぐ近くと思っていたら、次は山道となり上り下りを繰り返してもそれらしきところが見当たらないので、だんだん不安になった。



かなり歩いてからやっとのことで墓地を探し出すことが出来た。
農村の墓地と言えども、これほど山の中というのは珍しい。



脇に案内板が建っていたが、旧水府村時代の物で文字もかすれて読めない。
歴史的にも重要な人物であり功績を伝える意味でも、常陸太田市は新しいものに作り変え、道案内板なども分かりやすい場所に増設すべきと思った。
集落への道路工事が進行中だったが、暫くかかりそう。
完成に時を同じくして道順や説明版の新設を願いたい。



墓地には歴代の墓碑銘があったが、謙二の係累の方は集落にお住まいではない。とのことだった。

*木村謙次は1752年(宝暦2年)に久慈郡天下野村(現在の常陸太田市)に生まれた。幼いころから読書に励み、16歳のときには水戸の学者立原翆軒について学問を学び、谷田部東壑について医術を修めた。その後、京都や水戸藩の名医について修業を積み、多くの学者と交友を重ねているうちに政治や社会の動きにも関心を持つようになった。
34歳のときに松島・仙台を旅したのち、奥羽地方や蝦夷地を何度も調査した。
1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げた。これは、当時の奥羽や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。
択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いた。
しかし、北方4島のロシアからの返還はなされないまま。
現在の日ロ関係を考えてみてもこの問題の解決は望めそうにないのは残念だ。
農政問題の改革を論じた書物も出版し、水府村一帯の特産である「しみこん」や「和紙」製造の方法を教えるなど数多くの功績も残している。
1811年(文化8年)に没した。

江戸では大黒屋光太夫(1751~1828)がロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆し『北槎聞略』としてまとめられた時と同じ頃だ。
木村謙二の再評価が望まれる。


シーボルト記念館(長崎紀行・其の6)

2024年05月31日 12時40分51秒 | 
シーボルト記念館(長崎紀行・其の6)





フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年 - 1866年)は、ドイツの医師・博物学者。
江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、科学的な総合調査にもとづきヨーロッパに日本を広く紹介した。
本館は、日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)の隣接地に長崎市が設置したもので、平成元年(1989)10月1日に開館した。
建物の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージした。





国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)。



アジサイは、世界で広く親しまれている日本産の落葉低木。
シーボルトは数ある植物の中でもアジサイを愛したようで、彼の著書『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』には、彼が日本で知り合った「オタキさん」という女性の名前からつけられたといわれる「Hydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されている。そのような縁で長崎市の花は「アジサイ」が選定されている。
今回の旅、市内のあちこちでアジサイを見ることが出来た。



シーボルトは江戸時代に長崎・出島のオランダ商館の医師として日本へやって来た。
日本人医師の育成をする傍ら、日本の風物や植物などを世界に広く紹介したことが知られている。シーボルトは医師でありながら、自然科学などの分野にも非常に高い関心があり、様々な功績を残している。
*シーボルトはオランダ人と思い込んでいたが、サザコーヒーの鈴木誉志男さんから「ドイツ人ですよ。当時の航海では多くの人命が失われ人手不足、ドイツ人も雇用されたのです」と御教授頂いた。





1階ホール・ロビーの大きな壁面に「狩野春湖」の「出島図」(水府明徳会・彰考館蔵)
掛け軸の原画を拡大してタイル絵として復元したらしい。
長崎まで来て、水戸に出会えたのは嬉しかった。











2階の
常設展示室では、シーボルトの生涯と功績を6つのコーナーに分けて展示されてある。



シーボルトが使用したと伝えられる「コーヒーカップと皿」
多分「伊万里焼」だろうと、鈴木誉志男さんからのアドバイス。
大量の伊万里焼がヨーロッパに輸出された。

原爆落下中心地碑(長崎紀行・其の3)

2024年05月29日 19時57分56秒 | 
原爆落下中心地碑(長崎紀行・其の3)



1945年8月9日11時02分。
アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪った。
原爆落下中心地標柱として(推定に基づく「爆心地」)に黒御影石の碑。
碑の高さ約6.5メートル(1956・昭和31)年設置。
訪問する修学旅行の生徒たち。



爆心地に掲示されてある1945年10月 林重男氏撮影パノラマ。
当時「音が無くなった世界」「色が無くなった世界」「人影が消えた街」と表現されていた灰色のがれきの街が延々と広がっている。







浦上天主堂遺壁
大正3年(1914年)に天主堂、大正14年(1925年)にその双塔を完成させ、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂は、原爆によりわずかな堂壁を残し崩れ落ちた。
この遺壁は、聖堂の南側の一部を爆心地に移築した。



浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)の写真が掲示されてある。



千羽鶴が掲揚されてある。
平和を願い、訪れる方々が持参するのだろう。



被爆当時の地層。
原爆落下中心地のこの辺りは川が流れ、川沿いに住宅が建っていた。
埋め立てられて緑地公園としたので、被爆当時の地層は現在地より5m位下となる。
破壊された家の瓦やレンガ、焼けた土や溶けたガラスなどが大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す資料として保存され、観ることが出来る。

園内には被爆当時の地層も残されており、約3000度の熱で壊された家の瓦やレンガのほか、焼け溶けたガラスなどが今も大量に埋没しているのを見ることが出来る。
記憶は遠ざかってしまっても、これを目の当たりにすれば原爆の悲惨さを思い起こす。

爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされ70年は草木も生えないだろうと言われたが、1ヶ月後には植物が次第に芽吹き始めたという。
爆心地も今はすっかり緑に囲まれ、かつての惨状は想像もつかない。
しかし、ウクライナ・パレスチナで核は隣り合わせ。
いつ何時、不測の事態が発生する可能性があるのを肝に命すべし、と改めて思う。


平和公園と平和祈念像(長崎紀行・其の2)

2024年05月27日 19時53分20秒 | 
平和公園と平和祈念像(長崎紀行・其の2)





長崎を訪れる人が必ず訪れる平和公園と平和祈念像。
原爆落下中心地公園北側の小高い丘にある。
悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられた。

平和への願いを象徴する平和祈念像。
高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 北村西望作。
像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。
毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされる。



「平和祈念像」に向かう道の両側には多くのモニュメントが建立されて在る。
園内は修学旅行の学生が多い。県内はもとより全国から来ているようだ。
赤いベストを被ったボランテアガイドが各々のグループに説明している。
中学時代にこの地を見聞するのは、とても良いことだと思う。



『長崎の鐘』に因む鐘のモニュメント。
長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録した随筆集。
「戦争を防ぎ、原子力を平和的に利用して頂きたい一念から」と執筆したが出版のめどが立たず、1949年に『長崎の鐘』として出版された。
同書をモチーフとした歌謡曲が同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。
1こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
  ■なぐさめはげまし 長崎の
  ■ああ 長崎の鐘が鳴る
2召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの 鎖に白き わが涙
*1番から4番まであるが、2番までを記載。 
私の小学校時代に大流行したので、1番とリフレインの部分は覚えている。
*「長崎の鐘」とは原子爆弾の投下により吹き飛ばされてしまったカトリック浦上教会(旧浦上天主堂)の「アンジェラスの鐘」のこと。





平和公園の敷地は「長崎刑務所浦上刑務支所跡(被爆遺構)」で塀や土台などが残されている。収監者の中には、朝鮮半島等で抗日運動を行い、治安維持法に違反したとして逮捕された活動家も存在した。 また、九州管内の死刑囚は全て当所に集められ、執行を待っていたとされる。


水戸の自宅から長崎駅まで、6時間半の時代となった(長崎紀行・其の1)

2024年05月27日 04時49分16秒 | 
水戸の自宅から長崎駅まで、6時間半の時代となった(長崎紀行・其の1)

2024年5月20日(月)
水戸駅まで自転車で、と思っていたが小雨がぱらついていたので徒歩で水戸駅南口に向かう。水戸駅行きのバスの始発は7時台で、6時は運行していない。
約2キロの距離なので、自宅を05:30に発ち~水戸駅南口に06:00には到着。
茨城空港までのシャトルバス(料金¥1100)の乗客は5人足らずだった。この程度しか乗らないのでは、運航のバス会社は採算に合わないだろう。
(旅行中のバス・飛行機など、ほぼ定刻だったのでその予定時間を記す)



水戸駅06:15発~ 茨城空港 06:55着(東関東高速使用で約32㌔)





茨城(07:35)~神戸(08:50) 





神戸(09:25)~長崎(10:40)



神戸~長崎の空路図。(上りと下りは別ルートなのは考えてみれば当然か)
瀬戸内海に沿って、山陽道の上を飛行している。
晴れならば見える地上の風景、曇り空で鮮明ではないが見飽きることなく眺めていた。(その様な乗客は珍しいだろう)



四国の上空?山地が連なり平野は少ない。
関東平野の風景が当たり前に思っていたが、日本では稀な地形と再認識した。



諫早湾の干拓の潮受け堤防。



長崎空港着。



長崎県営・空港発長崎駅行きリムジンバス(¥1200)。
乗客が多いから、次々と発車する。(駅までの距離は約40㌔)



12:00に長崎駅到着。
我が家を出発して6時間30分だった。
スマホのタイムラインによる計測では1148㌔m。
茨城空港発でなければ、新幹線利用や羽田からの飛行機を利用するにしても8~9時間以上は掛かるだろう。まさに「茨城空港万歳!」と叫びたくなる。
コロナの前は、韓国2泊3日の旅に行ったこともある。
コロナの蔓延が始まり「中国・西安」の旅を申し込みながら、中止になってしまった。
これから多くの海外便が復活し、或いは新規に乗り入れられることを期待する。







長崎駅の「長崎総合観光案内所」で市内地図を頂き、市電1日乗車券(¥1200)を購入。
この乗車券を長崎滞在中の4日間、毎日購入し利用した。
長崎の市電はかなりのエリアをカバーするから誠に便利だ。



2022年9月23日に長崎と佐賀の武雄温泉との間を結ぶ、西九州新幹線が開業した。
部分開業で完全に繋がってはいないので、乗客はすくないらしい。
長崎駅前広場などは整備中で暫く時間がかかりそうに思えた。

浜松町駅からスカイデッキで竹芝桟橋へ

2023年12月10日 23時10分30秒 | 
浜松町駅からスカイデッキで竹芝桟橋へ

浜松町駅から海側にあるゆりかもめ竹芝駅・竹芝ふ頭を結ぶ全長約500m3階建ての高さの歩行者デッキが最近開通した。
線路をまたいで浜松町駅と直結する工事が完了すればさらに便利になる。






旧芝離宮恩賜庭園を上から眺め、首都高の上を通過して東京ポートシティ竹芝オフィスタワーにつながり、竹芝桟橋のデッキに至る。





竹芝桟橋からレインボーブリッジとお台場方面。
宇宙船のような流線形の水上バスが通った。



勝鬨橋方面。



左の杜は浜離宮恩賜庭園



「ウォーターズ竹芝前」水上バス乗り場。



「ウォーターズ竹芝」はJR東日本四季劇場・アトレ竹芝・メズム東京、オートグラフ コレクションからなる複合施設。どれがどうなのかよく分からないが、小さな広場で連結されているらしい。


綱町三井倶楽部の庭園@東京都港区三田二丁目(旧芝三田綱町)

2023年12月09日 08時24分36秒 | 
綱町三井倶楽部の庭園@東京都港区三田二丁目(旧芝三田綱町)



大盃型噴水を中心に配した純英国風西洋庭園の設計は本館建物と同じジョサイア・コンドル博士による。



庭園内の古井戸は羅生門の鬼退治で有名な平安時代中期の武将渡辺綱の産湯の井戸といわれ、江戸時代から通称となっている綱町という地名もこの伝説にちなんだもの。



庭園案内図
敷地の9割を占める和洋並立の庭園は約6000坪。
上段に西洋庭園、崖線から下が和風庭園。







崖線の坂道の途中も多くの楓が紅葉している。













日本庭園は池を中心とした築山林泉回遊式庭園で、全国から取り寄せた多数の自然石が使われ、それらを適所に配置することで、随所に景観を異にする趣向を凝らし、見事な絶景を造り出している。大正時代作の庭園を代表する名園となっている。
近隣に高層の住居が建設され、場所によっては建物がみえるが、都会の中とは思えぬ静寂さだ。この日は我々2人だけで、この素晴らしい空間を独り占め、十二分に堪能した。

慶應義塾大学三田キャンパス@ 東京都港区三田2丁目

2023年12月07日 15時18分25秒 | 
慶應義塾大学三田キャンパス@ 東京都港区三田2丁目





前を通ったことはあるが、構内に初めて入ってみた。
銀杏並木の黄葉が美しい。



三田演説館(重要文化財)
福沢諭吉が1875年に建造した日本最初の演説会堂。





旧ノグチルーム脇の屋上庭園に設置されたイサム・ノグチの彫刻『無』
ここからの眺望は素晴らしい。





図書館旧館(福澤諭吉記念慶應義塾史展示館、カフェ八角塔)
入口ホールの階段上を飾る「Calamvs Gladio Fortior」(「ペンは剣よりも強し」の意のラテン語)が記されたステンドグラス。





2階には福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館が設置されている。



「旧島原藩邸中屋敷黒門」
三田の地はもと島原藩の中屋敷があったところで、1871年(明治4年)
前年に邸地約1万2千坪を貸し下げられ、翌5年には払い下げを受けた。

東京タワー@東京都港区芝公園

2023年12月04日 22時57分53秒 | 
東京タワー@東京都港区芝公園



「ナポリスタカ 神谷町店」でピッツァとパスタの昼食をとって、すぐ近くに在る「東京タワー」に行くことに。
1958年(昭和33年)に完成して以来65年が経過し、2012年に「東京スカイツリー」が出来て存在が薄れたと思えたが、やはり東京のシンボルだ。



永井坂の途中に「聖オルバン教会」(英国聖公会)の木造の礼拝堂が在った。
1879年から現在の場所で英語によるキリスト教礼拝が行われている数少ないお堂らしい。
1956年にチェコ系アメリカ人建築家、アントニン・レイモンドの設計により現在の礼拝堂が建築された。我が家のご近所「キリスト友会・水戸会堂」に通じるものがある。



1度だけもしかしたら2度、東京タワーを訪れたことが有るが、何十年も前のことで定かな記憶はない。
今でも土・日は入場するのに行列ができるようだが、この日は平日とあって並ばずに入場できた。



1961年ごろの東京タワー周辺(Wikipedia)
約60年前ですが、建物も少なかったし高層建築も無かった。







地上125メートル(海抜約150メートル)の展望台からの眺望。
周辺には高層ビルが林立し東京タワーより高いビルが出来たにも関わらず、高台に在るのと隣接地との空間があるので広範囲にわたって東京の都市空間を眺められるのが人気の秘密なのだろう。





展望台の一部を強化ガラスにして下が覗ける場所が数か所ある。
高所恐怖症だから、こわごわ覗いてみた。
真上から覗くと足下が不思議な形に見える。



ロープで吊るされて展望台のガラス掃除をする作業員。
一年中をかけて塗装や電球の交換など、多くのメンテナンスによってタワーは維持される。
全てのことは多くの人たちの支えがあるからこそと感じた。



とうふ会席料理「うかい」の前からの東京タワー。
この料理店からのタワーは迫力がある。
2018年の9月に同窓会の会場だったのでこの店を訪れた。

*東京タワーの創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計。
高さは333メートル海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である。
総工費約30億円、1年半と延べ21万9,335人の人員を要して完成した。
さしたる重機がない時代、とび職を含め多くの職人や技術者が結集して完成に至る物語はすでに伝説の世界で見るたびに感激する。「昭和」という時代の象徴でもある。

麻布台ヒルズ

2023年11月30日 16時53分29秒 | 
麻布台ヒルズ

11月24日にオープンした「麻布台ヒルズ」に行った。
未完の工区もあり、商業施設も年内~来春にかけてオープンするらしいので、見切り発車の感もする。
崖線と谷間の高低差に富んだ土地だから平坦な部分は少なく、道路もカーブして見通しがきかないが、そこが魅力ともいえる。











港区の麻布台1丁目・虎ノ門5丁目・六本木3丁目にまたがる広域に、オフィス、住宅(レジデンス)、ホテル、マーケットなどの商業施設、ギャラリーなどの文化施設、さらにはインターナショナルスクールや予防医療センターなども内包した多種多様な都市機能を、約8.1ヘクタールの敷地面積に複合・集結させて街を作り変えてしまった。
どんな街づくりなのか?何でも見てみようの野次馬根性で出かけた。
国際都市東京ならではの街作りで一般庶民とはあまりにもかけ離れ、格差社会の進行には歯止めがかからないのを改めて実感した。
全てが自分の生活感覚とは何倍もの差がある。
壁があるのを承知したうえで自分なりに楽しむのが好いのだ。









街区の割り振りや道路の新たな再構成など、行政では出来ないことを民間がやり遂げてしまったのは「森ビル」だから出来たのだろう。
住宅やオフィス、ホテルなどが主体で商業スペースは少ないようだが、地下や低層階に配置されてあるので街が連なっているように感じられる。
工事中から異様な鉄骨の組み方は何が出来るのかと興味を抱いた。
アクセスは東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」と日比谷線「神谷町」「六本木駅」となるが「神谷町」は駅直結となっている。



「麻布台ヒルズ」は近未来の都市作りの答えの一部なのだろうが、道路1本挟めば再開発に無縁だった住宅街も存在しているので心が安らいだ。
見学に行ったのは隣接のエリアがどうなったのかを知りたかったから。
新旧が併存し馴染んでこそ街の魅力が高まる。

袋田の滝 山方宿芋煮会と袋田の滝(その弐) 2023年11月19日(日曜日)

2023年11月21日 22時30分58秒 | 
袋田の滝
山方宿芋煮会と袋田の滝(その弐)
2023年11月19日(日曜日)






袋田の滝

日本三名瀑のひとつに数えられる「袋田の滝」は高さ120m・幅73m、流れが大岩壁を四段に落下することから、別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれる。
西行法師は「花もみち 経緯にして 山姫の 錦織出す 袋田の瀧」と詠い、その魅力を称えたとされる。
私の小学校時代の遠足の定番だった。
当時は観瀑トンネルがなかったので、滝川沿いの崖の道を滝まで進んだ。
観爆台も無かったから滝の上の方まで見られなかった。





1979年12月に完成した観瀑トンネルは老朽化したため、フルカラーLED照明を用いたリニューアル工事が2023年4月に完成した。
長さ276メートルのトンネルは、まるでタイムトンネルのよう。





トンネルの中ほどに「胎内観音像」が安置されてある。
1979年のトンネル開通時に開眼した観音像で水戸出身の彫刻家・後藤清一の作だ。トンネル(洞窟)は、母の胎内を表すともいわれる。
胎内観音にお参りすることで、安産・子育てに良きものをもたらすでしょう。









滝を下から見上げる第一観瀑台と上から見下ろす第二観瀑台の2つの観瀑台から角度の違う眺めを楽しめる。
「大子来人~ダイゴライト~」と称する袋田の滝ライトアップもなされるようだが、夜間でないので、残念ながら見られなかった。





滝川の対岸へと渡る吊り橋への通路もあり、吊り橋の先には渓流散策コースがのびている。
瀧見茶屋には平安時代に西行法師が訪れて歌を詠んだという展望台が在る。
ここを含め絶景に見惚れて写真を撮り忘れた処が沢山あった。



荏胡麻(えごま)入りのラーメン。
帰途は国道118号線沿いの奥久慈の玄関口にある『道の駅常陸大宮~かわプラザ~』に、清流久慈川のほとりに位置する道の駅。
フードコートでは、地元の食材を使ったジェラートやソフトクリーム、スムージーなどの他、パンやプリンも販売する『ジェラート&スムージー』や、常陸秋そばや鮎塩焼き定食などが味わえる。
“えごま”を併設の加工施設で絞った、国産100%のえごま油が特産品。

「ゆりかもめ」1日乗車券で豊洲市場に

2023年10月15日 14時54分50秒 | 
「ゆりかもめ」1日乗車券で豊洲市場に







1995年開業の「ゆりかもめ」の1日乗車券を購入して、豊洲市場・東京ビッグサイト・お台場など沿線を巡った。



芝浦からお台場を繋ぐレインボーブリッジ。
芝浦側からのアプローチはループ橋となっている。



豊洲市場全体の模型。
2018(平成30)年10月に築地から移転した豊洲市場。
移転の際しては何かと問題があり、話題を呼んだが今では存在が完全に定着した。
築地市場の跡地の利用は未定らしいが、場外市場は観光地としてにぎわっている。



訪問したのは午後なので朝の競りは終了し閑散とした状態。
活気のある早朝に来たかった。



観光客のお目当ては、お寿司。沢山の鮨屋が軒を並べている。



業務用の長靴や包丁などの道具類、乾物など食材の店舗もある。
関連する用品は全て賄えるのだろう。





豊洲市場の6街区、水産仲卸売場棟の屋上の緑化広場。
晴海・芝浦方面が一望に望めた。
東京タワーも見えるのだが、周りの高層ビルに埋もれている。





東京ビッグサイト駅から歩いてすぐの場所にコンベンションセンター(東京ビッグサイト)。
逆ピラミッド型の建物をこの目で確かめて見たかった。





お台場を望む展望デッキ。
ここからの眺めは沿線で一番だろう。
平日ということもあるのだろうが、ほぼすべてが外国人だった。



新橋から銀座まで散策。
ライオンビヤホールで軽く喉しめし。

ぴょんぴょん舎・盛岡駅前店@盛岡駅前通9-3 ジャーランビル 1F~3F

2023年09月19日 19時00分27秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その参
ぴょんぴょん舎・盛岡駅前店@盛岡駅前通9-3 ジャーランビル 1F~3F






ぴょんぴょん舎 盛岡駅前店
盛岡冷麺の名を全国に広めるきっかけとなったお店とのことで、郊外の本店は広い敷地らしい。駅から数分のビル1階から3階まで洗練された空間だ。
焼肉と冷麵というより、カフェ・レストランというお洒落な感じ。
観光客ばかりでなく、地元の人たちも多いように感じた。





盛岡は光原社なども在り、民芸品・工芸品のレベルの高い街であるがこの店の絵画や什器備品や壺などは何気なく飾られているが存在感がある。







メニューには多くが並ぶ。
焼肉+冷麺というのがスタンダードなコースらしいが、近ごろは胃袋が小さくなりたくさん食べられないので冷麺だけを注文。
麺はコシの強い中太麺でモチモチの食感。
スープは牛肉や牛骨に鶏ガラを加えた旨味たっぷり。
キムチは冷麺専用で、爽やかな酸味と辛味が特徴だとか。



東北新幹線盛岡駅は(東北本線・山田線・秋田新幹線・田沢湖線・銀河鉄道線)のターミナル駅ということもあり駅舎も大きいし、駅前広場を取り巻くホテルやレストランも多い。盛岡市の人口は28万人で水戸市とほぼ同じなのに、街の規模と活気は水戸市の何倍もある。年間を通しての観光客は比べようもないほどに多い感じだ。
岩手県の人口は120万人で盛岡市は約1/4を占め。
茨城県の人口は280万人で水戸市は1/10で、県都としての存在感が薄いのが甚だ残念だ。

盛岡の街をブラよーちゃん その弐 「一ノ倉邸」@盛岡市安倍館町19-64

2023年09月18日 23時01分13秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その弐
「一ノ倉邸」@盛岡市安倍館町19-64






観光案内所で頂いた地図によれば岩手大学の西側、北上川の上流に「一ノ倉邸」という明治時代に作られた庭と建物があると記されてある。
すぐ近くと思って向かったが、目的地と思われる辺りで人たちに聞いても分からず、右往左往したのちにやっと行き着くことが出来た。







この庭園と建物は、明治後期に盛岡市出身の政治家 阿部 浩により造られた由緒と歴史のあるもの。その後、一ノ倉氏に譲渡され、市民からの保存要望を受け、平成4年に盛岡市が取得した。



この施設は盛岡市の所有だが管理運営などは外郭団体とボランティアに委ねられている。一ノ倉邸管理保存委員会の初代会長 西郷和子さんが平成4年から30年もの間、仲間と一緒にこの一ノ倉邸を守り続けてきた。
ここを憩いの場として多くの市民が訪れたらしい。その方が亡くなってから役目を引き継いでいる若い女性が案内してくださった。
背景の品々は西郷和子さんのコレクションで没後に寄贈された。





廊下に掲げられてあった絵画作品。
これも、西郷コレクションだったとのこと。
僕も好みの作で、観たことのあるように思うが、誰の作かは不明。
分かる方がおられたら、ご教授願いたい。

猛暑の中、汗まみれで自転車をこぎ続けた甲斐があり、市民に愛される憩いの場に来ることが出来た。
地方公共団体の施設は規模の大きさや人数の多寡でない、真に愛される施設であることが大切だ。
〈開館時間〉 10:00〜16:00〈 休館日 〉 月・火





市内に戻って盛岡城址や岩手銀行赤レンガ館などを見学。
ニューヨーク・タイムズ紙が発表した「2023年に行くべき52カ所」に盛岡市が選出された理由は「歴史的な和洋折衷の建築が残る街並み」「中心市街地を流れる川や城跡公園などの自然」「書店や珈琲、喫茶店文化が根付く町」であることなどを挙げ、「歩いて回れる珠玉の街」と表現した。
4キロ四方にほぼ街が入る、まさにコンパクトシティーで従来の商店街がおよそ8割は残っているように感じた。
新幹線で上野~盛岡間は約2時間10分~50分、 距離は535.3キロ。