「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

朱舜水木像(しゅしゅんすいもくだ)@水戸徳川ミュージアム・水戸市見川

2022年09月30日 11時10分28秒 | 博物館
朱舜水木像(しゅしゅんすいもくだ)@水戸徳川ミュージアム・水戸市見川







「水戸徳川ミュージアム」の本館第1展示室の中央に朱舜水の木彫座像(高さ176㎝)が安置されている。
道服をつけ紗帽を被り、当時の中国の貴人の習わしで手の爪を細長く伸ばしている。現代日本も若い女性の爪美容が盛んだが、これほどまでに伸ばした人はいない、異様な長さだ。
髭、肌 のシミまで写実的に表現されており、その風貌がよく伝わってくる。

解説には木像(もくだ)とある。
光圀の命で描がかれた「舜水画像」をもとに五代藩主・良公(宗翰)の頃、長崎の名工・前田藤内 によって作られた木像。

朱舜水 (1600-1682) は中国の逝江省余姚出身。
明王朝が滅亡し、日本に亡命し 長崎に住むようになった古学・ 詩書に秀でた儒学者で 寛文5(1665)年 水戸徳川家 2代光圀に招かれ 江戸に迎えられた。
以後、17年間に渡り光圀の学問の師として、光圀に大陸の進んだ知識や情報を授けた。
水戸藩邸の庭園(現・小石川後楽園)は初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を二代光圀が改修し、朱舜水の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。
中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山も採り入れた中国的、儒教的な趣好が濃厚である。
没後、常陸太田市瑞龍町の水戸徳川家墓所に葬られたが、徳川家一族以外唯一の人物とされる。

物語『水戸黄門』に登場する渥美格之進のモデルといわれる安積 澹泊(あさか たんぱく・通称は覚兵衛)は3年の短い間だったが朱舜水の門下生だった。
澹泊は江戸駒込邸(現・東大農学部の敷地)に建てた「朱舜水祠堂」が火災に遭ったまま復旧していないのを残念がり、再建を願い出た。
10年後に願いが叶い水戸の八幡小路、今の北見町に建てられた堂内に安置された。



朱舜水祠堂・絵図



祠堂守を学者一族の青山氏が務めたが、明治維新で退廃の憂き目にあい、常陸太田瑞龍山の水戸家墓所に移され、現在は水戸徳川ミュージアムへと安住の地を得た。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― @常陽史料館(水戸市備前町)

2022年09月28日 18時02分20秒 | 博物館
日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― @常陽史料館(水戸市備前町)
9月27日~11月13日






「日本の仏像展 ―模刻・修復作品より― 」9月27日~11月13日

「東京藝術大学大学院文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室」の協力を得て、の日本の伝統的な木造彫刻の模刻・修復作品を紹介する稀な展覧会。
「模刻」と言っても、原寸大で現物と同様の彩色がなされているから素人目では見分けがつかない。







聖林寺十一面観音菩薩立像(模刻)
模刻とはいえ、国宝を目の当たりできる。



東京国立博物館日光菩薩像(模刻)



東京藝術大学月光菩薩像(模刻)



木造阿弥陀如来坐像(平安時代)



東大寺中性院弥勒菩薩立像(模刻)



平成25年に同研究室で修復を行った「神崎寺木造不動明王立像」(ケヤキ・平安時代)拝見は出来るが写真は不可なのでチラシを複写。



「東京藝術大学大学院文化財保存学専攻保存修復彫刻研究室・年報」や東大寺中性院弥勒菩薩立像(縮尺構造模型)、などの資料も展示されている。



常陽芸文学苑制作の2020年開催「常陸太田市文化財曝涼」、2021年開催「笠間市文化財曝涼」のVTRの放映もされており、県内の仏像についてより広く知ることが出来る。
*2022年の「常陸太田市文化財曝涼」は10月15日(土)・16日(日)
10時から15時まで(一部の公開場所は16時まで)

*関連講座として後藤道雄(茨城大学五浦美術文化研究所客員所員)氏による講座が開催される。
1「神崎寺の木造不動明王立像について」
日時:2022年10月16日㈰ 13:30~14:30
2「聖林寺十一面観音菩薩立像の光背について」
日時:2022年11月3日㈭ 13:30~14:30
(事前の申し込みが必要)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和ジャズ喫茶 2CV @笠間市笠間2305-1

2022年09月26日 09時37分34秒 | カフェ・喫茶
昭和ジャズ喫茶 2CV @笠間市笠間2305-1



ちょっと見た目では、ここは何?
年代物の貨車を利用した小さな喫茶室「昭和ジャズ喫茶 2CV」。



この日は、店主・江口修一さんが在店。
歌謡コーラスグループ「ロス・インディオス&シルビア」のメンバーだったが、7~8年前に縁があって笠間に移住。
地元(笠間)のメンバーと一緒にバンド活動をしている。
従って、店は奥様が運営しているので不在がち。
江口さんとはコンサートなどで度々顔を合わせたが、しみじみと話す機会がなかった。



店名の「2CV」はフランスの自動車メーカー「シトロエン」の車種の一つ。
愛車の「シトロエン」が店の前に駐車してある。





貨車を改造した狭い空間だが、床から天井まで「昭和レトロ」な本・ポスター・雑誌・置物などが壁面から天井まで埋め尽くされている。
全て江口さんのコレクションだ。
空間をうまく利用しているので狭くは感じない。
窓からは隣のソバ畑の白い花が見えるなど、田園風景に溢れる癒しの空間。











「からくり仕立ての目覚まし時計」コレクションブック片手の江口さんから説明を受けた。1940年代頃からのイギリス・アメリカ製などの品々で、それぞれに仕掛けが異なる。
凝った仕掛けの数々は動かして貰わないと、詳しいことが分からない。
感心して眺めるものばかりだった。

笠間の街はディープな魅力にあふれて、マニアックな店が沢山ある。
笠間焼の「回廊ギャラリー門」、レコードとオーデオの「信空館」、焼き鳥「鳥文」、稲田の酒蔵「磯蔵」等々数えきれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萩原嘉市コレクション「SPレコードと蓄音機によるコンサート」

2022年09月23日 22時17分39秒 | コンサート
萩原嘉市コレクション「SPレコードと蓄音機によるコンサート」
@茨城県近代美術館1Fカフェレストラン プティ・ポワル
9月23日15時開場 15時15開演






「蓄音機コンサートを楽しむ会」主催の「萩原嘉市コレクション・SPレコードと蓄音機によるコンサート」が茨城県近代美術館1Fカフェレストラン プティ・ポワルで開催された。
名演奏が刻まれた往時のS Pレコードを1932年にイギリスで製造された蓄音機で鑑賞するというもの。
この日の美術館は展示替えの休館日ということで、この企画が実現したのは幸運だった。







萩原嘉市(1934~2021)さんのコレクションを引き継いだ長男の篤さんの解説と司会で進められた。
直径75㎝・長さ3mの巨大なホーンとサボテンの棘や竹で作られた針を1枚ごとに取り換える丁寧な操作でノイズなどが殆ど感じられない。
レストランの広い空間を響き渡る音色にびっくり。







予約の定員40名の会場には「tabiぶら」のメンバーが大勢いた。
このような素晴らしい所で、久しぶりに再会出来たのは嬉しい。
柏市に在住の鈴木靖さんも応援に駆け付けた。



針は鉄でなく、竹製とサボテンの棘を使用する。
しかも、1枚ごとに針を交換する丁寧さ。



珈琲と焼き菓子が付いて会費が1200円とは申し訳ない。
主催された山本さん、有難うございました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラヨーちゃん『声低く語れ』《佐川一信追悼集》を読む。

2022年09月19日 21時57分54秒 | 本・雑誌
ブラヨーちゃん『声低く語れ』《佐川一信追悼集》を読む。
9月24日(土)17時から19時
@雑貨と珈琲の店「たけうち」2階ギャラリー
参加は無料ですが、飲み物代は各自でお支払い下さい。








水戸市泉町の雑貨と珈琲の店「たけうち」の2階に「ギャラリー」が開設される。絵画・彫刻・写真などの展示のみならず、ミニコンサートや講演会など幅広いジャンルで利用できるレンタルホールとなるらしい。
会場の雰囲気や広さを多く方々に知って頂こうと『ブラヨーちゃん・番外編』として読書会を開くことにしました。







『声低く語れ 佐川一信追悼集』《2007年(平 9年)・佐川一信追悼集刊行会》 
元の水戸市長・佐川一信(1940-1995)さんが亡くなられてから10年を経てから編まれた追悼集で、執筆者83人のそれぞれの佐川感が605ページにわたって描かれてある。
写真も多く掲載されているからページをめくって眺めるだけでも良い。
読書会というより気軽なお話会で、時間内の出入り自由。
飲み物代は各自でお支払いください。

*佐川さんの著作には『市民からの出発』(水戸市民の会)、『ミネルヴァの梟が翔びたつ日―自主管理社会への模索』(毎日新聞社、1982年)、水戸発地方からの改革』などがある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵庫陶芸美術館@丹波篠山市今田町上立杭

2022年09月18日 18時20分31秒 | 
兵庫陶芸美術館@丹波篠山市今田町上立杭







陶磁器窯のうち中世から現在まで生産が続く 6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)を日本六古窯と称する。
兵庫県丹波篠山市の丹波焼の故郷「立杭」に「兵庫陶芸美術館」が開館したのは2002年で開館20周年を迎える。
今回の旅の締めくくりとして「兵庫陶芸美術館」を訪れた。

山あいに建てられているので「展示室」は少し複雑に構成されている。
エントランス棟3階からアプローチできる展示棟には、1階に2室、2階に2室、B1階に1室、合計5室の「展示室」がある。

丹波焼をはじめ、淡路のみん平焼、姫路の東山焼、豊岡の出石焼、三田の三田焼、篠山の王地山焼などの兵庫県産陶磁器を中心に、古陶磁から現代陶磁まで幅広く展示される。
個人コレクションの寄贈品も展示されている。















中世の古丹波から江戸期までの変遷を辿るのを楽しみにした。
常設展の会場で一通り観ることが出来たが、物足りなさを感じた。
丹波篠山ではあるが、中心からかなりの距離で、途中に楽しみもない。
敷地を含め展示空間も、魅力がなかったのはいささか残念だった。

一概に比較は出来ないが、笠間市芸術の森公園の「茨城県陶芸美術館」は環境や町との一体感など、数段優れているのではと見直した。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出石そば・但馬の小京都@豊岡市出石町

2022年09月17日 14時22分24秒 | 平和
出石そば・但馬の小京都@豊岡市出石町
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑬


「丹後半島を1周する旅」ではあるが、城崎温泉を含め「但馬の国」で、その中核をなす豊岡市のエリアは広い。
玄武洞をあとに、昼食は出石で蕎麦を食することに。



出石は城下町の面影を残す町並みと「出石焼」(陶器)、「皿蕎麦」が名物。
豊岡までは何度も来ているが、出石まで足を延ばす機会がなかった。





出石城跡
稲荷台、本丸、山里曲輪を段状に配した出石城跡。
室町時代には守護大名・山名一族の拠点となり、山名氏が滅びた後には小出氏が領主となり、出石城の築城とともに城下町が整備された。
出石藩は五万八千石の雄藩として、小出氏、松平氏、仙石氏と領主を変えながら、270年の歴史を経て明治に至った。

物見櫓などは再建されたものだが「野面積み」の石垣は玄武岩が使用されており、一番の見どころだった。
城下の街並みが一望できたのも良かった。



辰鼓楼
江戸時代後期様式の火の見櫓形の時計台は出石のシンボル。
時を告げる太鼓を打ったことから、この名がついたと伝えられる。





沢山の蕎麦屋が在るが、堀の傍に位置する「本陣鶴屋」に。







出石焼の小皿に盛りつけた皿そば。
出汁は出石焼の徳利に、蕎麦猪口も出石焼。
五枚一組を一人前とし、薬味と徳利に入ったつゆ。
薬味は玉子・とろろ・ねぎ・大根おろし・わさび。
カツオとコンブの濃厚なダシにこだわったつゆ。



江戸時代から街並みが色濃く残っている。
丹波焼の里を訪ねる都合もあり、散策する時間が無かったのが残念。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出石そば・但馬の小京都@豊岡市出石町

2022年09月17日 14時18分16秒 | 
出石そば・但馬の小京都@豊岡市出石町
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑬


「丹後半島を1周する旅」ではあるが、城崎温泉を含め「但馬の国」で、その中核をなす豊岡市のエリアは広い。
玄武洞をあとに、昼食は出石で蕎麦を食することに。



出石は城下町の面影を残す町並みと「出石焼」(陶器)、「皿蕎麦」が名物。
豊岡までは何度も来ているが、出石まで足を延ばす機会がなかった。





出石城跡
稲荷台、本丸、山里曲輪を段状に配した出石城跡。
室町時代には守護大名・山名一族の拠点となり、山名氏が滅びた後には小出氏が領主となり、出石城の築城とともに城下町が整備された。
出石藩は五万八千石の雄藩として、小出氏、松平氏、仙石氏と領主を変えながら、270年の歴史を経て明治に至った。

物見櫓などは再建されたものだが「野面積み」の石垣は玄武岩が使用されており、一番の見どころだった。
城下の街並みが一望できたのも良かった。



辰鼓楼
江戸時代後期様式の火の見櫓形の時計台は出石のシンボル。
時を告げる太鼓を打ったことから、この名がついたと伝えられる。





沢山の蕎麦屋が在るが、堀の傍に位置する「本陣鶴屋」に。







出石焼の小皿に盛りつけた皿そば。
出汁は出石焼の徳利に、蕎麦猪口も出石焼。
五枚一組を一人前とし、薬味と徳利に入ったつゆ。
薬味は玉子・とろろ・ねぎ・大根おろし・わさび。
カツオとコンブの濃厚なダシにこだわったつゆ。



江戸時代から街並みが色濃く残っている。
丹波焼の里を訪ねる都合もあり、散策する時間が無かったのが残念。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄武洞公園@兵庫県豊岡市赤石1362

2022年09月16日 20時11分30秒 | 
玄武洞公園@兵庫県豊岡市赤石1362
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑫








国の天然記念物「玄武洞」。
160万年前の火山活動で流れ出したマグマが、冷えて固まる時に作り出した規則正しいきれいな割れ目(節理)が顕著で切り出しやすかったこともあり、これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残ったのが玄武洞。





「玄武」とは古代中国の神話で天の四方の方角を司る霊獣(別名、天之四霊・四獣・四象)の一つで、東の青龍 ・南の朱雀 ・西の白虎 ・北の玄武を指す 。
「玄武」は脚の長い亀に蛇が巻き付いた形であらわされる。
*火成岩の1種、英語名 basaltの「玄武岩」の日本語訳は、玄武洞にちなんで小藤文次郎が1884年(明治17年)に命名した。

ここで切り出された玄武岩は周辺地域で漬物石や石材として使用され、城崎温泉の大谿川護岸や豊岡の石積み、出石城の石垣などで見ることができる。







「青龍洞」
マグマが冷却した状態により割れ目(節理)の状況は異なる。
玄武洞に隣接する、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が玄武洞公園として整備されている。



白虎洞



玄武洞に隣接する、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が玄武洞公園として整備されている。

*大正15年(1931年)には、京都大学の松山基範博士が、玄武洞の石の磁性の方向が、今と反対の南を向くことを発見し、地球科学の新しい扉を開いた。
この件に関して、令和2(2020)年、千葉県市原市田淵にある地層は、一番新しい地磁気逆転の記録が世界で最もよく残っているとして、約77万4千年前から12万9千年前までの時代がラテン語で「千葉の時代」を意味する「チバニアン」と呼ばれることになった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

城崎温泉@兵庫県豊岡市

2022年09月16日 10時09分32秒 | 
城崎温泉@兵庫県豊岡市
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑪






丹後半島の山また山の道を抜けて広い川の流れに至ると、兵庫県豊岡市城崎の標識が有り、なんとか但馬の地に到着した。
ホテルにチェックイン前に城崎温泉を車から探訪することに。
開湯1300年の歴史を持つ城崎温泉は、平安時代から歌に詠まれ、文豪・志賀直哉をはじめ多くの文人に愛された湯治場だった。

1925年の北但馬地震で町は全焼するが『共存共栄』信念で新たな町造りをしたのが原点。
数箇所の源泉は一箇所にまとめられ、ブレンドされてから各旅館やホテル、共同浴場に配られる。
以前は各旅館にはお風呂場は無く、7箇所の共同浴場施設を宿泊客が巡った。



「御所の湯」共同浴場の一つだが、何処も大きく見事だ。(2010年3月に訪問時)
 


「城崎温泉絵図」(戦前)

今では『内湯』と呼ばれ、館内の温泉も多くなったが、主流は『外湯』と呼ばれるようになった共同浴場施設を巡るお客が街を散策している。
大阪からでも日帰りが出来る関西で有馬温泉に次ぐ人気の温泉街。
2010年3月に初めて訪れた時にも感じたが、若いカップルや家族連れなどが多く、活気が溢れた街だ。

街を流れる大谿川の両岸に立ち並ぶしだれ柳が印象的。
石橋や護岸の石垣などには地元産の玄武岩が使われている。
旅館の大方は個人経営の木造2階建てから3階建ての小規模の宿泊施設。
従って個人客が大勢を占める。

駐車場に入庫させて、ゆっくりと散策すればもっと多くを知ることが出来ただろうが、宿と商店が混在する雰囲気は普通の温泉街とはまるで異なる明るさ。



今夜のお宿「大江戸温泉物語 城崎温泉 きのさき」
町から少し離れているが、共同湯までのシャトルバスが発着している。
「大江戸温泉物語」系統のホテル、は3爺旅ではしばしば利用してきた。
温泉旅館事業を再生・運営などを手掛けているファンドの経営で、安価で気楽に宿泊できる。
夕食・朝食ともにバイキングスタイルで家族連れや仲間内の会合には最適だ。





外湯には出かけず内湯の温泉に入って7時から食事。
中・高校の同級生同士だが、その後は住んでいるエリアが異なれど、なにかと連絡を取り合っている仲間なので、話は尽きない。
歳のせいか酒量は大幅に減少して、酔うまでには飲めない。



城崎温泉では夏の間、毎日夜の9時から10分間、花火が打ち上げられる。
何処から打ち上げられるのか分からないが、広範囲から見ることが可能だ。
温泉組合によってなされるが『共栄共存』のおもてなしを実践している。





「城崎文芸館」 @豊岡市城崎町湯島357-1
志賀直哉が湯治のため城崎温泉を初めて訪れたのが1913年。
滞在中の出来事を書いた『城の崎にて』(1917年発刊)は、志賀作品を代表する短編として今なお多くの人に読み継がれている。
また、白樺派を中心に多くの文人墨客が訪れたことから、いつしか城崎温泉は「歴史と文学といで湯の街」として知られるようになった。
豊岡市立城崎文芸館は1996年に開館し、オープンから20周年を迎えた2016年秋に展示内容を大幅にリニューアルした。
温泉街を散策したかったが、城崎観光はここだけで念願の「玄武洞」に向かう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山陰ジオパークエリア

2022年09月14日 08時48分12秒 | 
山陰ジオパークエリア
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑩




「天橋立」から「伊根の舟屋群」を経て丹後半島を周遊し、豊岡市城之崎を目指す今回の旅は《国道178号線》を走る以外のルートはない。
この路線は海岸に並行する断崖を通る道は雨量によっては通行止め、或いは崖崩れ、落石注意などもある難コース。







先端となる「経が岬灯台」辺りは絶景ポイントが沢山ある。
ドライブ好きな友人2人が交代で、特にFさんは腕前に自信ありなので事なきを得たが、対向車が来たらどうなるの?或いはこのまま進めるの?的なところが何ヵ所も。ポイントごとに目的地をセットして、カーナビにお任せで走った。







「京丹後市立丹後古代の里資料館」
丹後地方には巨大古墳が点在し、出雲と並びヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったとも考えられ、遺跡や歴史ある神社が多数ある。
「京丹後」という地域名があるのを初めて知った。
この辺りは竹林が多い、なぜなのだろう。





玄武岩の柱状節理により形成された後ヶ浜海岸 の立岩。



山陰ジオパークエリア
近頃「ジオパーク」という言葉をよく聞く。
「ジオ(geo)」は、地球や大地という意味の接頭語で、ジオパークとは、科学的に見て特別に重要で貴重な、あるいは美しい地質遺産を含む一種の自然公園を指す。 地質や地形は、地球の歴史を物語っているだけでなく、人の暮らしや文化に直接結びついている。
この大地の営みをひとつの遺産として学び、楽しむのがジオパーク。
人気のテレビ番組『ブラタモリ』では地理学・地質学的な側面を掘り下げることが多くなって「ジオ(geo)」に興味津々。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊根浦舟屋群@京都府与謝郡伊根町

2022年09月13日 13時04分29秒 | 
伊根浦舟屋群@京都府与謝郡伊根町
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑨




伊根浦舟屋群
伊根湾は、外海との出入り口に浮かぶ青島が、天然の防波堤の役割を果たしている。
そのため、絶好の漁場として、古くから漁師街として栄えてきた。
そんな伊根湾には、今もおよそ230軒もの舟屋が建ち並んでいる。
海に面した1階部分が漁船のガレージ2階部分が物置や居住空間となっている伝統家屋。
その景観は、「伊根浦舟屋群」として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。





伊根湾めぐり遊覧船で、海上から伊根の舟屋を観賞する以外に方法はない。



カモメの餌が乗船場で売られている。
餌を目当てに、沢山のカモメが飛来する。







遊覧船の音声テープと乗組員の解説が同時に流れてくる。
全ての機能は海を主体、消防車でなく消防艇が使用されている。
造り酒屋「向井酒造」の蔵も在り、日本一海に近い酒蔵。
舟屋の多くは民宿として使われ、舟屋の機能はない。
漁船の大型化で波止場に係留されている。



湾内に幾つかの筏がみられるが、何れも養殖用の筏。
ブリ、マダイ、岩ガキなど、捕る漁業から育てる漁業に転換。
日本海とはいえ、天然物の漁獲量は減少している。





山が海に迫っている地形だから、道路を挟んで山側に1軒、海側に1軒しか家がない街並み。
しかし、生活感(生きている・使われている)を感じらる家並みが続いている。
国の重要伝統的建造物群保存地区として、動態保存がなされている努力は素晴らしいことだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天橋立・府中エリア

2022年09月12日 20時37分43秒 | 
天橋立・府中エリア
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑧




天橋立を一望するには、南側からの「文珠エリア」と北側からの「府中エリア」の二つの方法がある。



今回は、その両側から見ようというマニアックな企画をTさんが立てた。
文殊エリアから車で30分「阿蘇海」に沿って対岸に向かって走ると“府中エリア”に至る。
天橋立のもう一方の付け根の辺りの「民宿・川尻」が今夜の宿。
明日は成相山中腹にある傘松公園から絶景を楽しむ。







民宿から天橋立まで徒歩数分、翌朝に天橋立を散歩した。
宮津湾の海流と阿蘇海の海流がぶつかり、砂が徐々に堆積したことによって砂州が形成されたのが2200年頃かららしい。
阿蘇海を取り囲むように人が定住するようになり、たくさんの船が往来する丹後王国の中心地となった。



元伊勢籠神社
伊勢神宮に奉られる天照大神、豊受大神がこの地から伊勢に移されたという故事から元伊勢と呼ばれる古社。
奈良時代に丹後の国の一の宮となり、平安時代の「延喜式」には名神大社となり、山陰道唯一の大社であり、最高の社格と由緒を誇る。





丹後国分寺跡
天橋立で仕切られた内海である阿蘇海の北岸の高台に位置する。
聖武天皇の詔で創建された国分寺古代国分寺(創建期)の所在は詳らかでないが、南北朝時代に再興された金堂・塔・中門の礎石群が現在も遺存している。









ケーブルカー・リフト「府中駅」
成相山中腹にある「傘松公園」は天橋立を北側から一望できる展望所。
ここからの眺めは、天橋立が昇り龍のように見えることから「昇龍観」と呼ばれる。
天橋立を股の間からのぞくと天地が逆転したように見える「股のぞき」発祥の地としても有名。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天橋立@京都府宮津市

2022年09月11日 14時59分00秒 | 
天橋立@京都府宮津市
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑦





今回の旅の目的の一つが「天橋立」
「天橋立」は宮城県の「松島」・広島県の「宮島」とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつ。
京都府北部日本海の宮津湾に位置し、幅20~170m・全長約3.6kmの砂州に約5000本もの松が生い茂る珍しい地形で、何千年もの歳月をかけて自然がつくりだした神秘の造形。
横から見れば松林だが、俯瞰することで全体像が明らかになる。
*文珠エリア・文珠山山上にあり、天橋立を南側から一望できる。
*府中エリア・成相山中腹にある傘松公園、天橋立を北側から一望できる。
今回はその両方から眺めてみよう、との贅沢な企画だ。



雪舟筆・紙本墨画淡彩・89.5×169.5cm・室町時代(1501〜1506)
天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。
雪舟(1420ー1506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。





同行2人の「股のぞき」図。



展望台への上り下りはリフトとケーブルカーがある。
どちらを使っても料金は同じだがリフトは常時動いている。
雨でも降らなければリフトからの眺めは素晴らしい。









雪舟が描いた『天橋立図』にもある智恩寺は文殊菩薩の霊場。
宝塔は国の重要文化財。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤れんが博物館@舞鶴市字浜2011番地

2022年09月10日 11時19分37秒 | 
赤れんが博物館@舞鶴市字浜2011番地
「三爺の旅・丹後半島1周」其の⑥




「赤れんが博物館」
1993年11月に開館した「煉瓦(れんが)」の博物館。
建物は1903年(明治36年)に竣工した旧日本海軍の兵器廠魚形水雷庫を改装したもので、鉄骨構造であることや煉瓦の積み方がフランス積みであることなど、舞鶴の煉瓦建築物のなかでもユニークな存在である。
「舞鶴引揚記念館」との2館共通観覧券が¥600。



舞鶴は日本海における海上自衛隊の最重要拠点。
1889(明治22)年、湾口が狭く・防御に適し・湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に鎮守府を設置する事になり、1901(明治34)に帝国海軍の舞鶴鎮守府が開府してから現在も軍港として利用されてきた。
市内の複数個所に艦船・航空機など多目的な基地が多数存在する。
(この写真の場所は規模も艦船も小さい)







「煉瓦(れんが)」の歴史的な考察や、世界の歴史的建造物で使用された様々な煉瓦の現物や写真が展示されている。









世界の著名な煉瓦建造物の紹介、およびホフマン式輪窯を再現したコーナーで煉瓦の製法が紹介されている。
レンガについて様々な視点からの収集・展示を行っている博物館。



2階の天井は鉄骨構造がむき出し。
現存する鉄骨構造の煉瓦建築物としては日本最古級とされている。

*市内には1901(明治34)年に旧海軍舞鶴鎮守府が開かれたころ海軍が建設した多くの煉瓦建造物が残っている。
先を急ぐので、この辺りしか見ることが出来なかった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする