2016年6月の記事一覧表:
河北・定州府
北京の南へ高速鉄道で約1時間。旧城内に多くの見どころを詰め込んだ古い町です。
『紫禁城の月』の見せ場の一つ、科挙試験の会場「貢院」も残っています!
記事の一覧表:
2016.6.1. 定州1、開元寺塔
2016.6.2. 定州2、貢院
2016.6.3. 定州3、文廟
2016.6.4. 定州4、清真寺、中国風モスク
2016.6.5. 定州5、明の城壁
2016年6月の記事一覧表:
河北・定州府
北京の南へ高速鉄道で約1時間。旧城内に多くの見どころを詰め込んだ古い町です。
『紫禁城の月』の見せ場の一つ、科挙試験の会場「貢院」も残っています!
記事の一覧表:
2016.6.1. 定州1、開元寺塔
2016.6.2. 定州2、貢院
2016.6.3. 定州3、文廟
2016.6.4. 定州4、清真寺、中国風モスク
2016.6.5. 定州5、明の城壁
文章中心のシリーズ:
陳廷敬と皇城相府、山西晋城
拙訳本『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!
1、炭鉱と製鉄で身を起こす
2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる
3、陳家興隆の歴史的背景
4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
5、わずか19歳で進士に
6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院
8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
10、陳廷敬以後の『皇城相府』
11、王岐山と陳廷敬
12、王岐山と張英
13、「号」に込められた意味
14、隠居返上
15、康熙帝、『湯座り』を勧める
16、李光地にも『湯座り』を勧める
17、李光地の病が湯治で完治
18、陳廷敬、病に伏す
19、陳廷敬の見送りには
20、『紫芸[阝千]』
21、高士奇の生い立ち
22、高士奇、南書房に入る
23、軍機処の前に南書房あり
24、高士奇、起居注官に任命される
25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺
26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由
27、高士奇と金の豆粒
28、高士奇の蓄財が悪評に
29、康熙帝、西渓山荘に滞在す
北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い
壮大なる一大産業「糞業」。クサくも切ない男たちの奮闘の物語。
1、世にも麗しき「飯櫃」
2、人口増加と「糞業」の発展
3、4億人口を支えたシステム
4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」
5、「糞道」制度の規範化
6、暴力集団化する糞夫ら
7、糞車改革の困難
8、北平市長、袁良登場
9、1500人の糞夫、役所前に整列
10、日本軍はさじを投げる
北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
「糞取り夫」から国家主席・劉少奇の盟友にまで登り詰めた男・時伝祥の生涯と過ぎ去りし時代を描く。
1、労働模範・時伝祥
2、糞覇の元での生活
3、都会の汚名を怖がらない
4、時伝祥、嫁を取る
5、花嫁が雄鶏と婚礼
6、解放直後の北京
7、農村の土地改革、始まる
8、糞業、ついに国有化
9、ボランティア精神
10、食糧生産に肥えで貢献
11、足の指切断の危機
胡同物語「雑居四合院」の人びと
2008年前後、オリンピック準備で沸き立つ北京。胡同に住む人々の人生と生活を描き出す。
1、胡同の長屋暮らし
2、小堂胡同の暮らし
3、住みついた経緯
4、四合院の公共化
5、唐山地震とせり出し小屋
6、番外編「心」
7、今も胡同に暮らす人とは
8、「うちがつぶれたら、トイレに住んでやる」
楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
長城をはさんだモンゴルとの飽くなき戦い。中国版・防人(さきもり)の悲哀とたくましき姿。
1、オルドスの真下
2、明の万暦年間の建物が多いわけ
3・アルタン、ハーンの位を継ぐ
4、土達を最前線に
5、英宗、大同城下に連行される
6、逃亡者の増加
7、フフホトと板昇
8、嘉靖帝の不信感
9、明代の戸籍制度
10、守城と屯田
11、関羽信仰の示すもの
佳県・白雲観と全真教の物語
道教・全真教の龍門派の総本山を訪ねたことを機に竜門派の軌跡を追う。
1、明の神宗の扁額を賜る
2、始祖・王重陽
3、全真庵と北七真
4、チンギス・ハーンと丘処機、そして朱元璋
5、龍門派の誕生
6、律宗と龍門派清初の中興
7、龍門丹法
8、各種縁日と参拝客の礼儀
9、道士の活動、そしてかの人も占いに
清の西陵
雍正帝の即位にまつわる康熙帝の皇子ら、ガチンコの皇位継承争い、西陵の軍事的な意味、モンゴルやチベットとの関係を探る。
1、騎馬民族の行動範囲
2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路
3、父親に顔向けできないからこそ、そして紫荊関の地の利
4、ゆっくりとモンゴル諸部を制圧(西陵の地図つき)
5、ガルダン・ハーン、ウランブトンの戦いで首都に肉薄
6、雍正年間にチベット直接支配
7、ばつの悪さと国防と
8、「西陵人」としての誇り
清の東陵
康熙帝、乾隆帝、西太后などのスター面子を多く抱える東陵。
権力争いに敗れた康熙帝の皇子の墓守り生活、墓守りの実態、西太后の死とともに連鎖倒産したアメリカのトルマリン鉱山の話など、小話をちょこちょこと・・・・。
1、順治帝の孝陵、見目麗しい童男童女が突き固める?
2、康熙帝の14皇子胤[ネ題]の東陵生活
3、東陵の旗人は、実は皆、包衣
4、西太后の翡翠のスイカと孫殿英
5、番外編・薊県の白塔寺と独楽寺
清代の轎(かご)のお話
『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』の翻訳中に、本書にたびたび登場する轎のことが気になり、調べてみたシリーズ。
1、正陽門前の大渋滞
2、俸禄では養えない
3、世襲の轎夫
4、恭親王のやんちゃな轎夫らは。
5、太平天国の楊秀清の轎は
6、スピンオフ、明代・張居正
和[王申]少年物語
国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。
1、乾隆帝の初恋の相手に瓜二つ
2、満州貴族としてはそこそこの家柄
3、咸安宮官学へ
4、包衣階級の成立と明代の宦官
5、アイシンギョロ家と功臣らの関係
6、咸安宮官学の教師陣は全員翰林
7、ウラの満州語教師
8、咸安宮官学、旗人社会の随一の名門校に
9、八旗官学と世職幼学
10、世職幼学から咸安宮官学に上がれる可能性
11、康熙帝の公主たちのモンゴル生活
雲南・麗江の旅
お気楽な旅日記の部分:
麗江・大研城1、なぜ突然雲南か
麗江・大研城2、バー天国じゃ
麗江・束河1、ユースホステルに移動
麗江・束河2、麗江は今や「艶遭之都」
麗江・白沙1、あらたなフロンティア
麗江・ログ湖1、モソ族の村へ
麗江・ログ湖2、リゴに到着
麗江・ログ湖3、ログ湖の有名人・ジャシについて
歴史的背景、ナシ族のこと、チベットとの関わりなどを考察した部分:
麗江・歴史1、ナシ族は羌より出づる、タングート族の西夏も羌
麗江・歴史2、ナシ族、南遷の始まり
麗江・歴史3、ナシ族、民族絶滅を逃れた日
麗江・歴史4、憎しみを数千年持ち続けるということ
麗江・歴史5、西に独立王国が存在した理由
麗江・歴史6、熱帯の風土病怖さに
麗江・歴史7、南詔王のナシ妃を唐の太守が凌辱
麗江・歴史8、尤酋長、Tuotuo肉でもてなす
麗江・歴史9、禾氏、故地を懐かしんで昆明と名付ける
中国ドラマ『北京愛情故事』
「愛情か、パンか」。北京で奮闘する地方の若者たちの甘くも切なく、切実な愛の形。
1、北京砂漠で奮闘する80后の生き様
2、典型キャラ「鳳凰男」
3、「鳳凰男」の手付金の「見切り発車」
4、持ち家は信用の証
5、愛とパンの交換
河北・定州府
北京の南へ高速鉄道で約1時間。旧城内に多くの見どころを詰め込んだ古い町です。
『紫禁城の月』の見せ場の一つ、科挙試験の会場「貢院」も残っています!
記事の一覧表:
定州1、開元寺塔
定州2、貢院
定州3、文廟
定州4、清真寺、中国風モスク
定州5、明の城壁
最後にやってきたのが、南側にある明の城壁である。
繁華街の商店街のような場所を抜けたところに、
その姿は忽然と現れた。
定州になぜこのような巨大な城壁が必要だったかというと、
モンゴルとの対立の中で、定州から目と鼻の先である太原なんかも
モンゴルの襲撃を受けて、略奪の対象になったことを考えなければならない。
まずもう一度、定州と西の太原あたり、そして北京との位置関係を
最初の記事の地図で確認しておきたい。
定州1、開元寺塔
次にフフホトあたりに本拠地をかまえていたモンゴルのアルタン・ハーンと明朝との関係、
太原やその周辺への侵入、略奪に関する過去記事ももう一度見ていただきたい。
楡林古城・明とモンゴルの攻防戦7、フフホトと板昇
そして太原あたりが陥落すると、
モンゴル族がそこから太行山を越えて北京まで一気に攻めてこようとすれば、
定州はもろにその通過の道筋にある。
飢えた兵士らが略奪のために攻め入ることも防がねばならないだろうし、
北京へ登らせぬよう、ここで水際で阻止もせねばならない。
・・・そんな役割があったのかと思われる。
城壁の麓の路地。
こちらは「きょうさんとう万歳」の文字が。
古い時代の流れですかねー。
こちらもただ今、絶賛大改装中。
とにかく定州の街全体が、巨大な資金を投入して、壮大なテーマパークに生まれ変わらせるべく、
一気に大改造を行っている最中、という印象である。
お堀の川。
これもこれからきれいに水も通して、整備していくんでしょうかねえ。
二重構造になっております。
城門を丸く囲んで、さらに城門を守るためだけに存在する甕城の門洞が先に続きます。
甕城については、こちらの記事の後半に出てくる絵を参照に。
こちらが甕城の城門。
甕城の中から城門を振り返った図。
さすがに上に楼閣までついていて、立派です。
こちらは甕城の門洞。
近くの物見台に登ってみたところの図。
最後におまけですー(笑)。
城壁近くで地酒を売るお店を見つけました。
甕からの量り売りです。
渋いー!
これまでの経験から、こういう地元に密着した甕売りのお店には、偽物が少なく、
そして化粧箱も中間業者もいないから、思いっきり安い!・・・ということを確信しておりました。
お値段が安すぎて、もう感覚がマヒしてくるのですが、
1斤(500㏄)6元と12元という地元醸造の白酒(バイジウ)…確かともに40-60度くらいのアルコール数
・・・を買って帰りました。
お店のご主人は、1斤20元というのを指名して、
「これは自信作だ、とてもよいお酒だから、ぜひ試してほしい」
と言いました。
しかしかたや6元とか言われて、もう感覚がおかしくなってしまっている私は、
躊躇して結局買わずじまい・・・。
その後、ずっと後悔し続けるのでした(笑)。
・・・というのも、6元のお酒、悪くなかったからですー!
期待を裏切らない高品質でした。
北京ではちょっといい白酒なら100元近く出さないと手に入らないのは、
当たり前なのですから、その場の雰囲気というのは、恐ろしいものです(笑)。
しかしこの後悔が、この後行く山西省で再び地酒を爆買いすることにつながっていくのです(笑)。
ぽちっと、押していただけると、
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さて。和[王申]の話の途中、突然なのですが、
先日、あんてぃーく倶楽部の遠足で行った河北定州の記事を差し挟みたいと思います。
忙しかった諸々の作業がようやく一段落ついたので、
やっと整理する時間もできました・・・。
さる5月末に河北省定州へのツアーがあり、参加いたしました。
マニアックかつ貴重な場所に連れて行ってくださる、あんてぃーく倶楽部主催者様、
いつもありがとうございますー!
ええー。
では場所から確認ですねー。
北京から石家庄に向かう高速鉄道の路線にあります。
高速鉄道で2時間ほど。
便利になりました。
こんなところに街中にいろいろな古跡がコンパクトにまとまった町があるとは、
まったく知りませんでしたー。
つれてきてもらったおかげです・・・。
歴史的には、
春秋時代、斉の宰相・管仲が戎狄に備えてこの地に城を築いた。
その後、戦国時代の紀元前414年に中山国の首都・于顧となったことが、最初の大きな軌跡のようです。
中山国は、北方の少数民族・白狄族の作った国だそうな。
漢代は景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じ、以後世襲で17代、329年続く。
北魏の天興3年(400)、「天下平定」の意をこめて「定州」の名を初めてつける。
宋代は北方戦線の最前線だったため、重要都市として、優れた武将を多く赴任させたという。
まず最初に向かったのは、町のシンボル、開元寺の塔。
塔が建てられたのは宋代ながら、
お寺はすでにかなり前の時代からあったとのこと。
開元寺の前身となる七帝寺は、北魏の太和年間(491年)の建立。
隋の開皇16年には、七帝寺を正解寺と改名。
唐の天即年間(904—907年)に正解寺を開元寺と改名。
塔の創建は、宋の真宗・咸平四年(1001年)。
宋の初年、開元寺の僧・会能が天竺に仏典を探す旅に出かけ、
仏舎利を手に入れて持ち帰ったことより、その仏舎利を納める仏塔を建立したものである。
完成は宋の仁宗・至和二年(1055年)。
あしかけ55年がかかった。
塔の遠景
・・・とはいえ、仏舎利を納めるためだけに、55年もかけて塔を建てたわけではなさそうだ。
宋代、ここは遼との戦いの最前線。
定州の北は、契丹の遼と国境を接していた。
史料に
「天下十八道の中、惟(ただ)河北が最も重し」
「河北三十六州軍、惟(ただ)河北が最も重し」
ともいう。
塔は敵の動向を見張るための絶交の物見台となった。
このため「瞭敵塔」ともいう。
開元寺塔はすでに1000年もの間、その場所にそびえ立っており、
十数回の地震をも乗り越え、その姿を現在に残す。
ただ残念なことに、清の光绪十年(1884年)六月の地震で
塔体の東北部が、上から下までごっそりと崩れ落ちた。
光緒年間に東北部分が上から下までみごとに崩れ落ちたままの写真。
1986年に本格的な修復を行い、現在に至るそう。
最初の入口。
ところで宋代以来、塔は人々の遊覧の場として、常に多くの人を惹きつけてきたため、
歴史的に何度か「ドミノ倒し」の圧死事件が起きている。
明の穆宗・隆慶二年(1568年)正月十六日。
人々が塔に押し寄せていたところ、州守(調べたが、出てこない。。。恐らく州知事とか?)がやってくると誰かがデマを流し、
パニックとなった群衆が押し合いへし合い、階段でドミノ倒しが起き、圧死者二百三十七人を出した。
清の乾隆三十八年(1773年)五月五日、村民が大勢塔に登っているところへ、
州牧(州長官)が塔の入り口を封鎖したとのデマを誰かが流し、
パニックとなった民衆が出口に殺到。
圧死者三百人余り。
・・・・・圧死者200-300人って・・・。
私らが行った日は、そのほかの見学者はほとんどおらず、
もちろん2-300人も圧死できるような状態ではありませんでした。
今でこそ、塔から見渡せるだけでも高層ビルやマンションが立ち並び、
高いところへ登ることなど珍しくないのでしょうが、
昔の人の高所に対するあこがれというのは、現代人の想像を超えていたのでしょうなああ・・・。
最初の階段を上がってすぐに表れる、やや西洋の教会を思わせるドーム。
ところで、開元寺塔は今、世界遺産への登録を申請中だという。
しかし1986年に行ったという修復工事は、当時の現代文明への崇拝からなのか、
完全に鉄筋コンクリートで固める現代工法なのだそう。
建築のことがあまりよくわからない私でも、
どうも無機質できれいすぎるなあ、と古代の息吹きのいの字も感じなかったのは、
そのせいかいな、と妙に納得してしまった・・・。
まあそれでもそのおかげで、今は倒壊の心配もせず、
突然の地震の襲撃におびえることもなく、安心して階段を踏みしめられたのですが・・・・。
ちなみに急な階段の連続だったこの塔登りのおかげで、
その後なんと一週間も下半身の筋肉痛でほとんど歩行できない状態になりんしたー!
体力不足が情けないのですが、きっと鍛えられたと思いますー!
回廊の天井部分。
窓から見える外の風景。
各階に残る仏画。これは古いオリジナルなんでしょうね。
天井の造作はどうもコンクリートの現代建築のような気がしますなあ。
見学者が手で触れる場所は、ガラスで保護していました。
おおー。
石碑の文字は、清華大学建築学科の教授・羅哲文先生の名前が!
国民党が重慶にいた頃から、梁思成の元で弟子として、働いてきた人ですね。
京都と奈良をアメリカの空襲から守ったのが、梁思成だったという事実を
80年代の「奈良シルクロード博」のシンポジウムに招かれていた羅哲文先生が初めて明かし、
日本側に事実が明らかになったとか・・・。
梁思成本人はすでに亡くなって何年も経った後で・・・。
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