いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2016年6月の記事一覧表

2016年06月30日 20時41分03秒 | 月別 記事の一覧表

2016年6月の記事一覧表:

河北・定州府
 北京の南へ高速鉄道で約1時間。旧城内に多くの見どころを詰め込んだ古い町です。
 『紫禁城の月』の見せ場の一つ、科挙試験の会場「貢院」も残っています!

記事の一覧表:

2016.6.1.    定州1、開元寺塔
2016.6.2.    定州2、貢院
2016.6.3.    定州3、文廟
2016.6.4.    定州4、清真寺、中国風モスク
2016.6.5.    定州5、明の城壁


文章中心の記事1

2016年06月12日 21時05分25秒 | カテゴリー別 記事の早アクセス表

文章中心のシリーズ:


陳廷敬と皇城相府、山西晋城
 拙訳本『紫禁城の月 --大清相国 清の宰相 陳廷敬』の歴史的背景を紹介するシリーズ。
 本書のサイド・ストーリーが盛りだくさん! 100倍、楽しんじゃいましょ!

    
    1、炭鉱と製鉄で身を起こす
    2、明末の動乱・王嘉胤の乱、始まる 
    3、陳家興隆の歴史的背景
    4、陳廷敬の両親・兄弟・本妻
    5、わずか19歳で進士に
      6、『紫禁城の月』の時代背景の理解に
    7、(写真中心)内城『斗築可居』 宗祠 容山公府と世徳院 
    8、(写真中心)内城御史府、河山楼と麒麟院
    9、『屯兵洞』、皇帝行列と外城 大学士第 点翰堂 内府 小姐院
    10、陳廷敬以後の『皇城相府』
    11、王岐山と陳廷敬
    12、王岐山と張英
    13、「号」に込められた意味
    14、隠居返上
    15、康熙帝、『湯座り』を勧める
    16、李光地にも『湯座り』を勧める
    17、李光地の病が湯治で完治
    18、陳廷敬、病に伏す
           19、陳廷敬の見送りには
           20、『紫芸[阝千]』
           21、高士奇の生い立ち
    22、高士奇、南書房に入る
    23、軍機処の前に南書房あり
    24、高士奇、起居注官に任命される
    25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺
    26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由
    27、高士奇と金の豆粒
    28、高士奇の蓄財が悪評に
           29、康熙帝、西渓山荘に滞在す
   

 



北京胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  
 壮大なる一大産業「糞業」。クサくも切ない男たちの奮闘の物語。

    1、世にも麗しき「飯櫃」  
    2、人口増加と「糞業」の発展
    3、4億人口を支えたシステム
    4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」
    5、「糞道」制度の規範化
    6、暴力集団化する糞夫ら
    7、糞車改革の困難
    8、北平市長、袁良登場
    9、1500人の糞夫、役所前に整列
    10、日本軍はさじを投げる


北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
 「糞取り夫」から国家主席・劉少奇の盟友にまで登り詰めた男・時伝祥の生涯と過ぎ去りし時代を描く。
  
    1、労働模範・時伝祥
    2、糞覇の元での生活
    3、都会の汚名を怖がらない
    4、時伝祥、嫁を取る
    5、花嫁が雄鶏と婚礼
    6、解放直後の北京
    7、農村の土地改革、始まる
    8、糞業、ついに国有化
    9、ボランティア精神
    10、食糧生産に肥えで貢献
    11、足の指切断の危機


胡同物語「雑居四合院」の人びと
 2008年前後、オリンピック準備で沸き立つ北京。胡同に住む人々の人生と生活を描き出す。

    1、胡同の長屋暮らし
    2、小堂胡同の暮らし
    3、住みついた経緯
    4、四合院の公共化
    5、唐山地震とせり出し小屋
    6、番外編「心」
    7、今も胡同に暮らす人とは
    8、「うちがつぶれたら、トイレに住んでやる」


楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
 長城をはさんだモンゴルとの飽くなき戦い。中国版・防人(さきもり)の悲哀とたくましき姿。

    1、オルドスの真下
    2、明の万暦年間の建物が多いわけ
    3・アルタン、ハーンの位を継ぐ
    4、土達を最前線に
    5、英宗、大同城下に連行される
    6、逃亡者の増加
    7、フフホトと板昇
    8、嘉靖帝の不信感
    9、明代の戸籍制度
    10、守城と屯田
    11、関羽信仰の示すもの


佳県・白雲観と全真教の物語
 道教・全真教の龍門派の総本山を訪ねたことを機に竜門派の軌跡を追う。
    
    1、明の神宗の扁額を賜る
    2、始祖・王重陽
    3、全真庵と北七真
    4、チンギス・ハーンと丘処機、そして朱元璋
    5、龍門派の誕生
    6、律宗と龍門派清初の中興
    7、龍門丹法
    8、各種縁日と参拝客の礼儀
    9、道士の活動、そしてかの人も占いに


清の西陵
 雍正帝の即位にまつわる康熙帝の皇子ら、ガチンコの皇位継承争い、西陵の軍事的な意味、モンゴルやチベットとの関係を探る。

    1、騎馬民族の行動範囲
    2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路
    3、父親に顔向けできないからこそ、そして紫荊関の地の利
    4、ゆっくりとモンゴル諸部を制圧(西陵の地図つき)
    5、ガルダン・ハーン、ウランブトンの戦いで首都に肉薄
    6、雍正年間にチベット直接支配
    7、ばつの悪さと国防と
    8、「西陵人」としての誇り


清の東陵
 康熙帝、乾隆帝、西太后などのスター面子を多く抱える東陵。
 権力争いに敗れた康熙帝の皇子の墓守り生活、墓守りの実態、西太后の死とともに連鎖倒産したアメリカのトルマリン鉱山の話など、小話をちょこちょこと・・・・。

    1、順治帝の孝陵、見目麗しい童男童女が突き固める?
    2、康熙帝の14皇子胤[ネ題]の東陵生活
    3、東陵の旗人は、実は皆、包衣 
    4、西太后の翡翠のスイカと孫殿英
    5、番外編・薊県の白塔寺と独楽寺


文章中心の記事2

2016年06月11日 12時51分16秒 | カテゴリー別 記事の早アクセス表

清代の轎(かご)のお話  
『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』の翻訳中に、本書にたびたび登場する轎のことが気になり、調べてみたシリーズ。
    1、正陽門前の大渋滞
    2、俸禄では養えない
    3、世襲の轎夫
    4、恭親王のやんちゃな轎夫らは。
    5、太平天国の楊秀清の轎は
    6、スピンオフ、明代・張居正


和[王申]少年物語
 国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。
    
    1、乾隆帝の初恋の相手に瓜二つ
    2、満州貴族としてはそこそこの家柄
    3、咸安宮官学へ
    4、包衣階級の成立と明代の宦官
        5、アイシンギョロ家と功臣らの関係
        6、咸安宮官学の教師陣は全員翰林
        7、ウラの満州語教師
        8、咸安宮官学、旗人社会の随一の名門校に
        9、八旗官学と世職幼学
        10、世職幼学から咸安宮官学に上がれる可能性
        11、康熙帝の公主たちのモンゴル生活

 


雲南・麗江の旅

 お気楽な旅日記の部分:

    麗江・大研城1、なぜ突然雲南か
    麗江・大研城2、バー天国じゃ
    麗江・束河1、ユースホステルに移動
    麗江・束河2、麗江は今や「艶遭之都」
    麗江・白沙1、あらたなフロンティア
    麗江・ログ湖1、モソ族の村へ
    麗江・ログ湖2、リゴに到着
    麗江・ログ湖3、ログ湖の有名人・ジャシについて
    


 歴史的背景、ナシ族のこと、チベットとの関わりなどを考察した部分:

    麗江・歴史1、ナシ族は羌より出づる、タングート族の西夏も羌
    麗江・歴史2、ナシ族、南遷の始まり
    麗江・歴史3、ナシ族、民族絶滅を逃れた日
    麗江・歴史4、憎しみを数千年持ち続けるということ
    麗江・歴史5、西に独立王国が存在した理由
    麗江・歴史6、熱帯の風土病怖さに
    麗江・歴史7、南詔王のナシ妃を唐の太守が凌辱
    麗江・歴史8、尤酋長、Tuotuo肉でもてなす
    麗江・歴史9、禾氏、故地を懐かしんで昆明と名付ける

中国ドラマ『北京愛情故事
 「愛情か、パンか」。北京で奮闘する地方の若者たちの甘くも切なく、切実な愛の形。

    1、北京砂漠で奮闘する80后の生き様  
    2、典型キャラ「鳳凰男」
    3、「鳳凰男」の手付金の「見切り発車」
    4、持ち家は信用の証
    5、愛とパンの交換





河北・定州府 記事の一覧表

2016年06月06日 19時25分46秒 | 河北・定州府

河北・定州府
 北京の南へ高速鉄道で約1時間。旧城内に多くの見どころを詰め込んだ古い町です。
 『紫禁城の月』の見せ場の一つ、科挙試験の会場「貢院」も残っています!

記事の一覧表:

    定州1、開元寺塔
    定州2、貢院
    定州3、文廟
    定州4、清真寺、中国風モスク
    定州5、明の城壁


定州5、明の城壁

2016年06月05日 15時13分40秒 | 河北・定州府

最後にやってきたのが、南側にある明の城壁である。


繁華街の商店街のような場所を抜けたところに、
その姿は忽然と現れた。








定州になぜこのような巨大な城壁が必要だったかというと、
モンゴルとの対立の中で、定州から目と鼻の先である太原なんかも
モンゴルの襲撃を受けて、略奪の対象になったことを考えなければならない。

まずもう一度、定州と西の太原あたり、そして北京との位置関係を
最初の記事の地図で確認しておきたい。


定州1、開元寺塔


次にフフホトあたりに本拠地をかまえていたモンゴルのアルタン・ハーンと明朝との関係、
太原やその周辺への侵入、略奪に関する過去記事ももう一度見ていただきたい。


楡林古城・明とモンゴルの攻防戦7、フフホトと板昇

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦8、嘉靖帝の不信感



そして太原あたりが陥落すると、
モンゴル族がそこから太行山を越えて北京まで一気に攻めてこようとすれば、
定州はもろにその通過の道筋にある。


飢えた兵士らが略奪のために攻め入ることも防がねばならないだろうし、
北京へ登らせぬよう、ここで水際で阻止もせねばならない。


・・・そんな役割があったのかと思われる。





  

 城壁の麓の路地。






こちらは「きょうさんとう万歳」の文字が。
古い時代の流れですかねー。







こちらもただ今、絶賛大改装中。
とにかく定州の街全体が、巨大な資金を投入して、壮大なテーマパークに生まれ変わらせるべく、
一気に大改造を行っている最中、という印象である。




お堀の川。
これもこれからきれいに水も通して、整備していくんでしょうかねえ。


二重構造になっております。

城門を丸く囲んで、さらに城門を守るためだけに存在する甕城の門洞が先に続きます。


甕城については、こちらの記事の後半に出てくる絵を参照に。






こちらが甕城の城門。


甕城の中から城門を振り返った図。

さすがに上に楼閣までついていて、立派です。

















こちらは甕城の門洞。


近くの物見台に登ってみたところの図。









最後におまけですー(笑)。

城壁近くで地酒を売るお店を見つけました。







甕からの量り売りです。
渋いー!


これまでの経験から、こういう地元に密着した甕売りのお店には、偽物が少なく、
そして化粧箱も中間業者もいないから、思いっきり安い!・・・ということを確信しておりました。


お値段が安すぎて、もう感覚がマヒしてくるのですが、
1斤(500㏄)6元と12元という地元醸造の白酒(バイジウ)…確かともに40-60度くらいのアルコール数
・・・を買って帰りました。

お店のご主人は、1斤20元というのを指名して、
「これは自信作だ、とてもよいお酒だから、ぜひ試してほしい」
と言いました。

しかしかたや6元とか言われて、もう感覚がおかしくなってしまっている私は、
躊躇して結局買わずじまい・・・。

その後、ずっと後悔し続けるのでした(笑)。


・・・というのも、6元のお酒、悪くなかったからですー!
期待を裏切らない高品質でした。

北京ではちょっといい白酒なら100元近く出さないと手に入らないのは、
当たり前なのですから、その場の雰囲気というのは、恐ろしいものです(笑)。


しかしこの後悔が、この後行く山西省で再び地酒を爆買いすることにつながっていくのです(笑)。



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定州4、清真寺、中国風モスク

2016年06月04日 13時13分34秒 | 河北・定州府
定州の清真寺、モスクです。



















創建はいつのことか、正確な年代は不明ながら、
少なくとも元の至正8年(1348)には、再建された記録があるという。





  


通りに面する門楼のほか、敷地内のすべての門、建物は、
元代のレンガアーチ梁なし構造がそのまま残っているとのこと。
国内でも貴重な建物だそうだ。







この石碑二つはどうも、近代のものみたいですね。

『重修礼拝寺碑記]という元の至正8年(1348)付けの石碑は、
漢文で書かれた中国で最も古いイスラム教の石碑になるそうです。
ちゃんとチェックしてへんかったー。









 









扁額をアラビア語で書くというのは、独特ですね。




この日は、何かの集まりの日だったのか、
後ろの食堂のようなところで、大勢の人たちが食事をされていました。

このモスクが今でも地元の回族の人たちの生活の一部となっているというのは、素晴らしいですね。
元代の建築構造そのままの建物で・・・・。






関係ないですが、モスクのとなりの屋上。
なんだか心地よさげ。




表の通りに面した門楼を後ろから見た図。







敷地内には、専用の車もありました。




なんとナンバープレートなし!
「清真寺」だけで通じるんですかい!

奥に食堂もあったことを思うと、恐らく豚などを運んだ不浄の車で
食べ物を運んだりしないように、という配慮からも、専用車があるのかもしれないですねー。







お寺の近くの商店では、シシカバブセットが売っていましたー。
なんだか異国情緒ですねー。




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定州3、文廟

2016年06月03日 17時46分29秒 | 河北・定州府
次に文廟。















ここも貢院とセットで考えるべき場所ですな。
孔子や魁星を祭る学問の神様の廟。

科挙の試験の前、学政や試験官などが祭事に訪れ、
学生らが合格すれば、試験官らとともに、お礼参りに訪れる・・・。
文廟には大抵、府学、県学と言った学校もセットになり、敷地内にある。
---「前廟後学」。

定州の文廟は、中国北方で最も完全な状態で保存されている古跡だそうな。

唐の大中12年(858)創建。
千年以上にもわたって継続的に祭事活動が続けられてきた文廟は、全国でも珍しいという。




「ここで馬を下りろ」と書いていますね。

















入口の門は、[木霊]星門。
四柱三楼式。典型的な明代の様式なのだそうだ。















宋代、蘇東坡が1093-4年に半年だけ定州太守を勤めたことがあるという。
短っ!


その際にその手で植えたと伝わる樹齢千年の槐(えんじゅ)の木、二本。
東側が鳳が舞うが如し、西側が神龍の如し、ということで「龍鳳双槐」というとのこと。


・・・・ううーん。
千年前は鳳と龍の見目麗しい姿だったのかもしれないけど、
今はお年を召しすぎていて、ただの木材の塊にしか見えません・・・(失礼)。
























ううーん。
お堂の塑像は、安っぽい張りぼてで、どうもありがたみがないですね。。。
ふう。。。


  



  


本堂の中庭にも、立派な大木が鎮座ましましておりましたが、
こちらは桑の木なのだそうな。



途中から別の中国人の一団が来て、
「お! 身が食べられるぞ!」
と大騒ぎを始める。

ベリー系のつぶつぶした果実がそこかしこに落ちており、
木にもたくさんなっている。

商品として育てられたものではないので、糖分が足りず、酸っぱくて大しておいしいものではなかったが
(食べてみた)
何しろただ、となれば、テンションが一気にマックスになったよう。





周辺で拾い集めるのはいいとして、







木に登って、揺らし始めた・・・・。

出たああああー!
何とかしてください、この人たち・・・・。




・・・・ところで、東側のお部屋に珍しいものがありました。




中山穆王・劉暢の墓から出土した玉衣だそうな。

前述のとおり、漢代には景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じて以後、
漢王室の中山王の系譜が、世襲で17代、329年続いた。

つまり定州の近くには、17人の漢の王様の墓がそこかしこにあり、
わらわらと出土したものと思われる。


実は、この日の日程には、定州市内にある「中山漢墓」も見学の予定だったが、
残念ながら、昼休みに職員がどこかへ昼食を食べに行ってしまったのか、
その後、しばらく待ったが、返ってくる様子もなく、あきらめた経緯があった。

この「中山漢墓」の主は、後漢の光武帝の皇后の出の皇子・劉焉・中山簡王だという。

この文廟にあった玉衣の主、中山穆王・劉暢は、劉焉の孫にあたるそうだ。


定州はこのように古い時代の文物が、豊富にあるんですねー。

この日は、市の中心部にある定州博物館も絶賛大改装中。
展示物を見ることができませんでした・・・。

こんな文廟の横部屋に、打ち捨てたように無造作に漢代の玉衣を展示するくらいですから、
その扱いの雑さから、漢代のこの程度のもん、どんだけ珍しくないねん、--という感覚が伝わってきます(笑)。

おそらく博物館には、古い時代の文物がわんさか収蔵されていると思われ、
定州はまたリベンジで訪れる価値のある場所だなあ、と実感しましたー。


・・・とにかく街中、どこもかしこも絶賛、大開発中でしたから・・・。
個人向けのタワーマンションはもちろん、博物館とその周辺の大広場、
市内のあちこちで伝統建築を模したテーマパーク風の商店街の建設もすごい規模です・・・。

確かに北京から高速鉄道で2時間ほどの距離になった今、
こうして日帰りか、週末二日で充分楽しみに来れる場所になったわけです。

誰がどんだけ投資しとんねん、とその規模にくらくらしまっさ・・・。



そんな生臭い話ばかりしている場合ではないですな(笑)。


えええー。

最後に文廟の横にある中山書院です。
こちらは入口だけ。入れませんでした。

文廟が中軸線が三ラインある構造になっており、真ん中の建築群が今さっき文廟として見学した部分。

中山書院は西側のラインになります。






前述のとおり、文廟には官学がセットで併設されていました。
中山書院の創建は宋代。
以後清末に至るまで続き、民国時代には職業学校に。
2015年に修復したということ。

・・・つまりは学校を追い出して、参観用の古跡とするべく整備したということですね。
中に入れてくれなかったのは、まだ整備中なのでしょうか・・・。





門番のおっちゃんの頭越しに中を少しだけ撮影しました。。。






文廟の東側には、大きな楼閣が見えますね。
これは3本中軸ラインのうちに、もっとも東側「文昌閣」でしょうかね(最初の見取り図参照」。
残念ながら、真ん中ラインのほかは、対外解放されていないようです。








文廟の外にも、何やら古めかしげな門構えもありました。。。







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定州2、貢院

2016年06月02日 17時21分42秒 | 河北・定州府
 



  


次に向かった場所は、定州貢院。


科挙の中でも童試を行った場所です。

ここで科挙の各段階の試験を簡単におさらいしておきますー。


童試:

 第一段階: 県試。 本籍の地元の県で受験する。
 第二段階: 府試。 県試を突破したら、県の上の行政機関である府城に赴いて受験する。
 第三段階: 院試。 府試に合格したら、同じく府の貢院において受験。

郷試: 省都で受験。

会試: 北京で受験。

殿試: 北京で受験。



・・・ということになりますが、この貢院でどの段階の試験が実施されたかというと、
府試と院試だったそうな。







清代には、各府にあった貢院ながら、今でも完全な様式を保ったまま、保存されている場所は少なく、
科挙の場を実際に見ることのできる、貴重な場所。

見ることができて、とても嬉しかったのですー。



乾隆4年(1789)創建。

府試は知府により采配され、院試は学政により采配された。

学政は、管轄地域内の科挙試験の採点の最終基準となる。
そのために読書人らの尊敬を集めることのできる学識豊かな人材が抜擢されるのが常であったという。

科挙の答案は、現代でいうところの小論文である。
採点の優劣には、どうしても個人の好みが出るというもの。

そこで新たな学政が決まると、その人の過去に書いた文章などが
あの手この手で掘り出され、あっという間に写本が現地の読書人の間に流布し、
その人の文章の好み、癖、傾向などが研究し尽くされたという。

その好みに迎合するような文章を書いた方が、
合格しやすいということなのである。


いやはや。壮絶なるは受験勉強なりー!
 
 

 


  


  


  


ところで省府にある郷試の会場、首都北京の会試の会場となる貢院は皆、個室部屋仕様になっている。
個室と言っても屋根はあるが、一面は外に露出したままの、半分野外状態。

試験が二泊三日の長きに及ぶため、ふとんやら煮炊きの道具まで持ち込んでの半分キャンプ状態である。


しかし府レベルの貢院での試験は、試験が1日で終わることもあり、夜を越さなくてもよいため、大部屋仕様だったようだ。
個室は与えられず、巨大なホールに数百人、千人と収容して、一斉に受験する。

そのための会場が、この巨大な建築だったとのこと。


余談ながら、定州は直隷省の所属となり、直隷省の省府は京師(北京)なので、
定州の貢院で童試に及第すれば、次の会試の会場は北京の貢院になる・・・。



 


正面に足を踏ん張ってかまえるのは、魁星像。
ゆえにこの建物は、「魁閣号舎」というのだそうな。

創建当時はなかったが、道光14年(1834)の大修理の際に付け足されたもの。



魁星(かいせい)を日本語の辞書で検索すると、

1 北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第1星。
2 進士の試験に第1位の成績で及第した者。

と出てくる。


北斗七星の先端の星だった理由は、「北極星扱い」だったのでしょうかねー。
空の中で一番中心にあって動かないのは北極星ですが、単独で存在するから目印になりにくく、やや見つけにくい。

その近くにある北斗七星、
--その中でも最も中心に近くて、位置が変化しないひしゃくの先端の星が、
「世界は俺様を中心にまわっている」というまさに中華思想を体現する象徴になったのかと思われる(笑)。


したがって将来、宰相となりて国を動かす、宇宙を動かす可能性のある進士の首位は「魁星」なり--。


・・・・とゆうロジックなのかと思われる。


その存在を道教的発想で擬人化したのが、魁星像。


魁星像の特徴は以下のとおり:

 1、右手: 大きな筆を持つ。「朱筆」。
  皇帝が首位の名前を朱筆で印をつけることを象徴。
  = 状元

 2、左手: 墨を入れる升(ます)を持つ。

 3、右脚は、金鸡独立,脚の下に鰲(オオガメ)の足を踏みつける。
  「鰲頭を独占する」を意味する。

  --由来は、進士の首位・状元のみが、合格者発表の際、
    宮殿の前にある鰲(オオガメ)の石像の上に立つことができることより。


 4、左脚は、後ろに曲げられている。
  曲げた様子から「魁」の字の払いを表現。
  

魁星は、科挙を受験する受験生の守り神となり、
受験前には、多くの受験生が合格祈願のお参りに来たという・・・。


写真でば、遠めにあまりわかりませんが。。。
手に升を持っているのは、わかりますな・・・。


後ろ足の様子は、いろいろ服を着せられすぎていて、ようわからん・・・。
布、巻きつけすぎ・・・(汗)

こちらでは、神様の像や仏像に、余計な服を着せることがよくあり、
オリジナルの姿がまったくわからず、残念なことがよくありますが。。。。。

これもどうやらその類のようですな。。。


  





魁閣号舎の中は、みごとな大部屋でござる。


定州貢院の創建は、乾隆四年(公元1739年)。

定州の貢院ができるまで、受験生らは真定府まで応試に行っていたという。
真定府は現在の正定県、定州と石家庄の間、南隣の府ですな。

しかし当時は、道路が整備されていないなど、交通が不便で往来は困難を極めた。
そこで当時の知州・王大年が、現地の有力者に呼びかけ、数十人の寄付を得て、
定州貢院の建設が実現したとのこと。


宮崎市定の『科挙』に試験の手順が詳細に紹介されているが、
それを踏まえて、少し当時の様子を想像してみたい(笑)。


朝四時、暗いうちから点呼が始まる。

受験生らは、「考藍」(試験用のかご・後ろに写真あり)の中に文房具、簡単な携帯食、
--そして多くは尿瓶を持って、身体/荷物検査を受けた。

試験は夜明け過ぎから、最終は日が暮れて文字が見えなくなるまで、となるが、
その間に席を離れてよいのは、1回のみ。
外に出て簡単な食事をとり、用足しをしてよいことになっている。

しかしその際には、受験用紙を預け、書けたところまで捺印してもらったり、と
煩雑な手続きがあるため、ほとんどの受験生は、小便なら尿瓶を携帯して席を立つ煩わしさを避けた。


検査員の衙役(がえき)は、何か不正を発見すれば銀三両を褒賞としてもらえたため、
荷物検査は、苛烈をきわめたという。

マントウ、にくまんの餡の中まで、箸でつついて調べたらしい・・・・。

そんな作業をするため、入場の列は遅々として進まず、
全員が席につく頃には、夜も明け始める頃。


これは府での千人以下の試験だからこれで済むが、
省府での郷試や首都での会試となると、数万人規模となる。


たとえば、現在も南京で参観することのできる江南貢院は、
江蘇省、安徽省の二省の受験生を一度に集めるため、2万644部屋を備えた。
したがって全員の検査を終えて、部屋に収容するだけのために丸々1日をかける。

収容作業の日はただ独房の中で過ごし、一夜明けて翌日の朝からようやく試験が始まるというのだから、
すさまじーー。




なぜか、かわいらしい色の小さな机。
これは聞いたわけではないが、恐らく以前は幼稚園になっていたのかいな、と想像する。
こういう歴史的な建造物を学校として利用することは、よく行われている。




これが「考藍」ですなー。





出たあー。カンニングチョッキー!
















入口の上には、中二階が作られている。
外は魁星像さま。

ここは監視台だったのではないかと想像できる。






「応殿試挙人」とあるので、どうやら殿試の答案用紙のようですな。
赤字で「第二甲第46名」と書いてあります。

合格者は、第一甲(頭甲)、第二甲、第三甲に分けられる。

第一甲は、状元、榜眼、探花の三人だけ。
その他を上から、第二と第三に分ける。
第二甲は、「進士出身」の称号をもらえ、第三甲は「同進士出身」の称号をもらう。

・・・この人は、第二甲の46番目、上の3人を入れると49番目合格だったことがわかりますな。



答案用紙は事前に製本されたマス目入りの冊子を買い入れておき、
そのマス目に沿って書き入れていくのだが、
執筆には、いくつか決まりがあった。

この答案を見てもわかるように、時々二文字ほど上から飛び出している。
それが「皇上」、「制策」などの文字であり、その文字が出てきた時は、
必ず行の最初に持ってきて、上2文字飛び出させて突出させなければならない。

その際、前の行の残ったマス目は、空白にするのだが、
優れた答案では、マス目の空白がないよう、ちょうどぴったりの字数になっており、
空白が見られないという。

・・・・もうこうなったら、ほとんど曲芸ですな・・・。

さすが数億人の中から選ばれる人材じゃ・・・。
素晴らしすぎる・・・。





こちらは、下書きでしょうかねー。
話によると、試験ではもちろんいきなりぶっつけ本番で完璧に書けるわけはないので、
下書き用の紙もいくらか持ち込むのだが、その下書き用紙も提出しなければならなかったという。
下書きの様子を見て、カンニングしていないこと、その場で推敲に苦労したことがわからなければならないというわけである。

あるいは添削か・・・。
採点された答案は、次回のために
評論とともに、受験生の元に返されたというから・・・。







こちらは『大清会典』に収められている、いつかの年の合格者名簿ですな。
どうやら進士の名簿・・・。

というのは、出身地が全国いろいろなところになっているから。

しかしほとんどが福建、浙江、江南。。。。
南方沿岸地区ばっかりですな。


今と同じく、富裕な地域は変わらんのですなー。









ええー。

こちらは「進士」と「状元」の二つの扁額。
本人が作って、家に飾ったものでしょうかねー。


ところで調べていたら、科挙合格者の扁額に関して、
なんと北京と上海の両方に博物館まであることを発見。

初めて知ったわー。

北京科挙扁額博物館
上海翰林扁額博物館



ところで敷地は、南から北に向かって、
影壁、大門、二門、魁閣号舍、大堂、二堂、後楼
という順番に建物が並んでいる。



 




試験場である魁閣号舎を出て、さらに奥に行くと、大堂が現れる。

主に学政などの「外簾官」が仕事を行ったところという。












試験会場の後ろ側。

奥に見えるのが、学政のための大堂。


学政がその地域の学風を決定する重要な要因になったことは前述のとおりである。
通常は当然、進士の出身にして、京官、翰林院侍読などの地位にある人がなる。

進士でも三甲なら、中央機関の北京勤務ではなく、地方の知県からキャリアをスタートさせていき、
しばらくはドサ周りを続ける。

その中で何か優秀な成績を残せば、中央に呼び戻してもらえることもあるが、
一生ドサ周りだけで終わる人も多い。

第一甲の状元以下3人は無条件で中央残留、まずは翰林院に入る。
第二甲は見習い3年後の散館試験で成績によっては、そのまま地方のドサ周りに回される(笑)。

・・・・というように、進士の出身にして、京官、翰林院侍読であるというのは、生半可な実力ではなく、
本人の実力も文句なしに士琳の崇拝を集める人物である。
特に直隷、江蘇、安徽、江西、浙江などの経済先進地域では、士大夫らもとりわけ口うるさい故、
信服させるに足る人材を送り込むのが常である。
定州に送り込まれてくるのは、直隷省学政ということになる。


学政の任期は3年。

赴任して最初の年にまず「歳試」を行う。
これはすでに童試に合格した者に対して、3年に一度、確認の学力テストを行うもの。
童試に合格すると、「生員」の称号を与えられるが、
それは社会で一定の尊敬を集めることを意味する。

生員以上に対し、平民はこれを敬う義務があり、集まりでは常に上席を譲り、
官吏は礼を持って接しなければならない。

何かの刑事事件にかかわった場合でも、官吏はこれを一存で逮捕することはできず、
教官の許可を受けなければならない。

生員は授業に出ることはなくとも、名義上は府学、県学の学生ということになっており、
その管轄は学校の教官という建前になっているのである。
つまりは何かの事件に巻き込まれた時にも、平民と比べると、理不尽な思いをすることが格段に少なくなることを意味する。



そのような地位に応えるためにも、合格当初の学力を維持していることを確認しなければ、
名誉と地位を授与した側として、責任が取れないということらしい。

三年に一度行われる「歳試」は、必ず受験しなければならず、
無断で欠席すれば、一度でも称号剥奪となる。

また理由を届け出て認められれば、欠席も許されるが、3度以上すれば同じく剥奪。

但し、生員になって30年以上たった人、70歳以上の人、会場に来れない持病を持った人は許される。
成績は5等に分けられ、最後の5等になった人は、称号をはく奪されて平民に戻された。


しかし道光年間以後、4等以下はほとんど出さない方針となったという。
それは苦労して手に入れた地位をはく奪されることに士大夫層が強く抵抗を示したためと思われる。
合格者を出すことが、社会に対する福利の一つでもあったのだろう・・・。

・・・確かに、生産活動にも従事せず、必死に机にかじりついてようやく得た地位を
3年ごとのテストで落とされるかと戦々恐々とせねばならぬとなれば、たまったものではない・・・・。






大堂


学政の仕事は、ひたすら試験答案の採点を組織していくことである。

赴任の最中、ひたすら地域内の各府を回り、試験を実施していく。

大堂はその学政の事務所となるところである。

前述のとおり、人にはそれぞれ文章の好みがある。
さらに自らの考え、思想を反映させた判断基準というものがあるものだろう。

そんなトップの方針を反映させるには、それぞれの府の現地の採点官では、
もちろん採点基準、思想の統一をすることができない。

したがって学政は、自ら雇った私設秘書である幕僚を採点の助手として雇い、
その集団とともに、旅から旅へ移動していくのである。

小規模な省なら、幕僚の数は5-6人、
江南の巨大省なら、10人を超すこともある。


大堂では、学政とその幕僚たちが、忙しく立ち働いていたのかしら・・・。








さて。

大堂を出た後は、その後ろには二堂があるはずである。
この窓の写真は、大堂のものです。。。。

当日はたぶん、大堂と同じような建物が並んでいるから、と特に注意して撮らなかった(涙)。


とにかく、二堂は「内簾官」らの仕事場になる。

つまりは学政が連れて歩くチームではなく、
元々、現地にいる事務員たちである。



試験には「謄写(とうしゃ)」という大作業がある。
つまりは受験生の筆跡がわからないように、まったく別の筆跡に写本する作業である。
受験生が数百人規模となれば、どれだけの謄写係が必要だったか、想像もできるというものである。




そして一番後ろにあるのが、後楼。


ここは、学政とそのチームも含めたすべての職員が、試験の期間中、寝泊りする宿舎となる。


・・・・それにしても、関係ないですが、背後のマンション群、すごいですね。。。。

定州にしても、最近でかけた河南、山西省にしても、あちこちにょきにょきとタワーマンション、絶賛建設中。
日本で報道されている空き部屋だらけとか、鬼城とかそんな報道との食い違いがハンパないねええー。

どう見てもこれがすべて空き部屋とも思えない。
少し違うロジックで物事が動いているような気もしますねー。



まあ。そんなことはどうでもええんですが(爆)







試験の期間前後、関係者はこの貢院の敷地内に「鎖院」される。
外部との連絡を絶ち、一切接触を断つことにより、不正の嫌疑を絶たなければいけないわけです。

試験後も謄写や採点の期間中、数十人の人間が密閉された空間で暮らさなければならないわけで、
そのためにこの三階建ての建物もあるというわけですね。


  








後楼のさらに後ろの空間









  

石碑にあるこの大きな穴のようなものは何なのか。。。
皆でいろいろああでもないこうでもない、と言い合いましたが、結論は出ません。。。。



  

















スピーカーまでこのようなおしゃれな形になっていて、なかなかやりますなああー。







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定州1、開元寺塔

2016年06月01日 13時06分50秒 | 河北・定州府

さて。和[王申]の話の途中、突然なのですが、
先日、あんてぃーく倶楽部の遠足で行った河北定州の記事を差し挟みたいと思います。

忙しかった諸々の作業がようやく一段落ついたので、
やっと整理する時間もできました・・・。


さる5月末に河北省定州へのツアーがあり、参加いたしました。
マニアックかつ貴重な場所に連れて行ってくださる、あんてぃーく倶楽部主催者様、
いつもありがとうございますー!



ええー。

では場所から確認ですねー。

 

北京から石家庄に向かう高速鉄道の路線にあります。
高速鉄道で2時間ほど。
便利になりました。

こんなところに街中にいろいろな古跡がコンパクトにまとまった町があるとは、
まったく知りませんでしたー。
つれてきてもらったおかげです・・・。



歴史的には、


春秋時代、斉の宰相・管仲が戎狄に備えてこの地に城を築いた。
その後、戦国時代の紀元前414年に中山国の首都・于顧となったことが、最初の大きな軌跡のようです。
中山国は、北方の少数民族・白狄族の作った国だそうな。

漢代は景帝がBC3年、皇子・劉勝を中山靖王に封じ、以後世襲で17代、329年続く。

北魏の天興3年(400)、「天下平定」の意をこめて「定州」の名を初めてつける。

宋代は北方戦線の最前線だったため、重要都市として、優れた武将を多く赴任させたという。











まず最初に向かったのは、町のシンボル、開元寺の塔。


塔が建てられたのは宋代ながら、

お寺はすでにかなり前の時代からあったとのこと。

開元寺の前身となる七帝寺は、北魏の太和年間(491年)の建立。
隋の開皇16年には、七帝寺を正解寺と改名。
唐の天即年間(904—907年)に正解寺を開元寺と改名。


塔の創建は、宋の真宗・咸平四年(1001年)。


宋の初年、開元寺の僧・会能が天竺に仏典を探す旅に出かけ、
仏舎利を手に入れて持ち帰ったことより、その仏舎利を納める仏塔を建立したものである。


完成は宋の仁宗・至和二年(1055年)。
あしかけ55年がかかった。


 

 塔の遠景




 


 

・・・とはいえ、仏舎利を納めるためだけに、55年もかけて塔を建てたわけではなさそうだ。

宋代、ここは遼との戦いの最前線。
定州の北は、契丹の遼と国境を接していた。

史料に
「天下十八道の中、惟(ただ)河北が最も重し」
「河北三十六州軍、惟(ただ)河北が最も重し」
ともいう。

塔は敵の動向を見張るための絶交の物見台となった。
このため「瞭敵塔」ともいう。




開元寺塔はすでに1000年もの間、その場所にそびえ立っており、
十数回の地震をも乗り越え、その姿を現在に残す。

ただ残念なことに、清の光绪十年(1884年)六月の地震で
塔体の東北部が、上から下までごっそりと崩れ落ちた。



 

 光緒年間に東北部分が上から下までみごとに崩れ落ちたままの写真。



1986年に本格的な修復を行い、現在に至るそう。


 

 最初の入口。



ところで宋代以来、塔は人々の遊覧の場として、常に多くの人を惹きつけてきたため、
歴史的に何度か「ドミノ倒し」の圧死事件が起きている。

明の穆宗・隆慶二年(1568年)正月十六日。
人々が塔に押し寄せていたところ、州守(調べたが、出てこない。。。恐らく州知事とか?)がやってくると誰かがデマを流し、
パニックとなった群衆が押し合いへし合い、階段でドミノ倒しが起き、圧死者二百三十七人を出した。


清の乾隆三十八年(1773年)五月五日、村民が大勢塔に登っているところへ、
州牧(州長官)が塔の入り口を封鎖したとのデマを誰かが流し、
パニックとなった民衆が出口に殺到。
圧死者三百人余り。


・・・・・圧死者200-300人って・・・。

私らが行った日は、そのほかの見学者はほとんどおらず、
もちろん2-300人も圧死できるような状態ではありませんでした。

今でこそ、塔から見渡せるだけでも高層ビルやマンションが立ち並び、
高いところへ登ることなど珍しくないのでしょうが、
昔の人の高所に対するあこがれというのは、現代人の想像を超えていたのでしょうなああ・・・。


 
 
 

 最初の階段を上がってすぐに表れる、やや西洋の教会を思わせるドーム。


 


ところで、開元寺塔は今、世界遺産への登録を申請中だという。
しかし1986年に行ったという修復工事は、当時の現代文明への崇拝からなのか、
完全に鉄筋コンクリートで固める現代工法なのだそう。

建築のことがあまりよくわからない私でも、
どうも無機質できれいすぎるなあ、と古代の息吹きのいの字も感じなかったのは、
そのせいかいな、と妙に納得してしまった・・・。


まあそれでもそのおかげで、今は倒壊の心配もせず、
突然の地震の襲撃におびえることもなく、安心して階段を踏みしめられたのですが・・・・。

ちなみに急な階段の連続だったこの塔登りのおかげで、
その後なんと一週間も下半身の筋肉痛でほとんど歩行できない状態になりんしたー!
体力不足が情けないのですが、きっと鍛えられたと思いますー!


 

 回廊の天井部分。


 

 窓から見える外の風景。



 

 各階に残る仏画。これは古いオリジナルなんでしょうね。


 



 

 天井の造作はどうもコンクリートの現代建築のような気がしますなあ。


 


 


 


 

 見学者が手で触れる場所は、ガラスで保護していました。

 


 

 おおー。 

 石碑の文字は、清華大学建築学科の教授・羅哲文先生の名前が!

 国民党が重慶にいた頃から、梁思成の元で弟子として、働いてきた人ですね。

 京都と奈良をアメリカの空襲から守ったのが、梁思成だったという事実を
 80年代の「奈良シルクロード博」のシンポジウムに招かれていた羅哲文先生が初めて明かし、
 日本側に事実が明らかになったとか・・・。

 
 梁思成本人はすでに亡くなって何年も経った後で・・・。



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