いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の東陵 記事の一覧表

2016年04月19日 15時43分04秒 | 北京郊外・清の東陵

清の東陵
 康熙帝、乾隆帝、西太后などのスター面子を多く抱える東陵。
 権力争いに敗れた康熙帝の皇子の墓守り生活、墓守りの実態、西太后の死とともに連鎖倒産したアメリカのトルマリン鉱山の話など、小話をちょこちょこと・・・・。

記事の一覧表:

    1、順治帝の孝陵、見目麗しい童男童女が突き固める?
    2、康熙帝の14皇子胤[ネ題]の東陵生活
    3、東陵の旗人は、実は皆、包衣 
    4、西太后の翡翠のスイカと孫殿英
    5、番外編・薊県の白塔寺と独楽寺


清の東陵5、番外編・薊県の白塔寺と独楽寺

2016年04月05日 19時19分04秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。

道中、一本道なので、薊県の独楽寺と白塔寺にも行きました。
まずは最初の地図でもう一度、位置を確認しておきます。



東陵に向かう途中になるんですねー。




今回は、鼓楼、文廟などには行けませんでしたが、
これも次回のお楽しみということですな。


 

 朝8時前に薊県に到着。
 何しろ、朝6時出発でしたからねー。道中、スムーズに到着しました。

 


 

 朝の通りは、さわやか。
 独楽寺もまだ開いていません。

 


 お店が一部、開いていたので、ひやかしに行きます。

 


 


 

 クッキー屋さん。紫いものクッキー、おいしそうですね。
 こちらでは、市場でもよく紫いもが売っていて、この派手な色を見ても、そんなに不気味には感じません。
 
 
 

 独楽寺がまだ開いていないので、まずは白塔寺に行きます。
 両方とも今では、貴重な遼代の建物。白塔寺はもともと、独楽寺の一部だったとのこと。

 これから歩いて行く小道は、すべて独楽寺の伽藍の中だったということですねー。
 けっこう巨大な敷地だったということですね・・・。


 

 小道の中に入って行くと、一昔の北京の胡同を行くようですねー。懐かしい・・・・。


 

 お! 出ました! 省エネ型湯沸かし器!
 これ便利なんですよー。

 真ん中がドーナツ型に空いていて、そこに燃えるものを何でも入れて燃やせばいいんですが、
 周囲からぐるりと、すべての熱源を無駄なく吸収できるので、少ない燃料ですぐにお湯がわくんですー!

 東日本の震災の直後、これをたくさん被災地に送ったら、絶対役にたつ! と思ったものです。


 


 

 こちらは、これから建て替える家。それにしても敷地が巨大だ!


 

 お! 白塔が見えてきましたよー!

 
 


 


 


 

 白塔寺が、独楽寺と一体だったということを1932年に建築家の梁思成がお墨付きを出した、と書いていますね。
 京都をアメリカから守ってくれたけど、北京を守ることができなかった、といわれる人です・・・。
 10代初めまで日本で育った、日本とも縁の深い人ですね。

 
 

 


  白塔寺の入口

  


  
  白塔寺の入口には、占いのお店がありますね。
  さすが、ニーズに応えているというか・・・。

  お寺の中にも、妙齢の美しい娘さんが、何かを思いつめたように熱心にお参りしていました。
  こちらのお参りは、両ひざをついて、頭まで地面につけますからね。
  やはり何か強い思いがあるのでしょうな。

  そんな人には、出口を出たところに、ちょうど悩める人を導く店構え・・・。

  

  
  

  入ったところ。境内。


  


  さああー。
  いよいよ塔ですー。

  

  説明に「インドのストゥーパと中国の伝統建築様式を融合させた、国内で現存する塔の中ではめずらしい様式」
  とありました。

  私は普段、明清代が専門なので、その時代のものと比べると、
  まさに南アジアの匂いがプンプンして、中国に染まっていないー! と感じます。

  

  「諸法因縁生 我説是因縁」(諸法、縁のために起き、 これこそ因縁なり) ・・・ですかね。


  

  各伽藍の名前が載っているので、一応チェック


  


  

  石碑は、何も書いていないように思えるが・・・?
  文革の時に削られてしまったとか? 謎です。
  

  


  


  


  


  


  

  
  


  


  


  

  
  


  


  


  


  

  塔の裏は、「塔後胡同」ですって。





白塔寺を見終わった頃には、そろそろ独楽寺も開く時間となったので、
再び、独楽寺の前まで戻ります。

 


 

 きっぶ売り場も「清代の民居」だそうな。


 


 

 お!
 来る前にちらりと見た百度百科で、和[王申]の墓の前に
 あった狛犬のペアが、独楽寺に移された、と書いてあったので、どれかと思っていたら、
 これだったのね!

 和[王申]のものなら、数百年はたっているはずで、え、えらいきれいすぎはしないかい??

 しかも誰や。目ん玉に赤いペンキを塗った阿呆は。

 独楽寺の中には、ほかにも何対かの狛犬がいるので、一応、すべて写真は撮ってきたが、
 一番可能性が低く思えたこの一対でしたかー。

 和[王申]の墓は、元々、薊県に建てられていたそう。
 しかし墓に入る前に罪を得て死刑になったので、そんな立派な墓に入ることは許されず、今は昌平の小さな土饅頭に埋葬されている。
 
 薊県の巨大な墓の跡は、今はダム湖の下に沈んでいるそうだ。


 


 

 独楽寺も白塔寺と同じで、創建は遼代。
 お寺自体は隋代から続くとのこと。

 

 この山門の看板は、明代の厳崇の文字だそう。
 厳崇といえば、時代劇のドラマでは、悪役で登場することも多い宰相だが、いずれまた詳しく知りたい人物やわー。


 

 見取り図があったので、とりあえず、押さえておきまひょ。


 

 山門の壁画
 なかなかみごとですが、これは清代のものだそう。

 山門と観音殿(巨大観音様のいる本殿)は、遼代のもの、その他の建築は明清代のもの。

 ぎゃああ。
 今、説明を見たら、山門の金剛力士像は、遼代のオリジナルですって。
 わたしったら、なぜ写真を撮らなかったんだろう?? 

 うううー。

 中国では、古い金剛力士像が残っているところが少なく(特に北京周辺は)、
 今、作りました、といわんばかりのけばけばしい科学塗料で塗装した軽薄で安っぽい新品をおいているお寺がほとんど。

 だから入口の金剛さんには、あまり興味を示さなくていい、と頭にすりこまれていたのがいかんかった・・・。

 ちらりと見た時、色が渋いなああ、とは思ったものの、まさか遼代のオリジナルとは・・・。

 ・・・・また今度、訪れる時の楽しみにとっておきましょう・・・。





 ・・・・とあきらめの境地だったのですが、この記事を出してから、なんと当日ごいっしょした会員の方が
 ご自分が撮影されていたお写真をくださいました(涙)!

 ありがとうございます!



 


 


 こうして改めて見ると、やっぱり渋いですねー。
 節くれだった腕といい、まんまるな乳首といい、なんだかえらい個性的・・・・。



 

 こちらが観音殿。

 残念ながら、中は撮影禁止。巨大な観音像はみごとの一言。

 
 

 せめてネットでみつけた画像を一枚。

 出典 は、掲示板。
 おそらく貼った人もどこかから引っ張ってきたものなんだろうけど・・・。 


 そう。
 こんな感じで、見上げるような巨大さ。

 上に階段で上がることもでき、窓からは、ちょうどお顔が見えるようになっているのだと思う・・。


 


 


 


 


 
 
 扁額は、咸豊帝(西太后のだんな)の筆によるものだそう。
 敷地内に行宮があるから、乾隆以降の皇帝は、お墓詣りのたびにここに立ち寄ったということですな。 


 前述の建築家・梁思成は、独楽寺を見て、「濃厚な唐風建築の特徴がある」といい、当初は唐代の創建なのではないか、と考えたという。
 その後、敷地内の最も時代の早い石碑が遼代のものであり、そこに建築物を「再建」したとあるため、現存するものは遼代と判明した。

 しかし確かに建築様式は、唐代のものを踏襲しているのかもしれない。

 伊勢神宮の式年遷宮ではないが、人々の記憶のあるうちに、まったく同じものを建てると、その姿形は、そのまま伝わるということがある。

 うろ覚えだが、確か司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズに、「なぜ東大寺には雨どいがない」という内容があり、
 歴史上、何度も焼け落ちて再建されたのに、いまだに雨どいがない理由について、東大寺のお坊さんが「昔からそうだったから」と答えたとか。

 中国の伝統建築には雨どいがなく、その後、日本で独自に加えたものなのだそうだが、
 東大寺は中国から帰ってきた僧侶が大陸の様式を忠実に再現した初期の建築物であり、すでにその存在自体が権威になってしまった。
 だからオリジナルが何度焼け落ちても、人々の記憶が残っているうちに再建を繰り返し、
 善きも悪きもすべて含めて、改善を加えることなく、様式がそっくりそのまま受け継がれたらしい。

 ・・・そういうことが、この独楽寺の本殿にも言えるのかもしれない・・・。

 

 右側に乾隆帝の行宮が見えます。


 

 なんだか迫力あるたたずまいの木だと思ったら、千年を超す樹齢ですってー。
 すごいー。


 





巨大な観音様の後ろには、韋駄天さまを祭った亭があります。

  

 
  


  


  

  後ろから見た図。

  
建物と韋駄天像は、ともに明代のもの。

明代、行脚僧にとって、境内内の韋駄天像のポーズは、一つの暗号になっていたという。
像が合掌をしていれば、行脚僧の滞在を歓迎するという意味であり、何日でもただ食いただ泊まりをしてよかった。
逆に像が棍棒をむんずと持って、仁王立ちになっていれば、「来るな」という意味だそうだ。

北京周辺でオリジナルの仏像や塑像が残っているところは、きわめて珍しい。

大躍進の時、派手に溶解炉に放り込み、鉄(銅もすべていっしょくたに)の塊にされてしまったのだと聞いた。

こうしてたまに古いオリジナルに出くわすことができると、やはり感動する・・・・。
  
文物保護の面でも、梁思成の貢献があるという。
1966年、文化大革命が勃発すると、各地の寺院が破壊を受けた。
梁思成は、危険を冒して薊県にやってくると、現状を調査。
観音殿に避雷針をつけ、窓を設置すべし、と国家文化部から9000元の予算を取ることに成功した。

1976年に起きた唐山の大地震の際は、観音殿の壁の一部が崩れ落ちたが、
建物の柱はびくともせず、観音様もまったく無傷だった。

縦に高くそびえる巨大な観音像と、それを取り囲むように立つ、同じく高層の観音殿が、歴代の大地震にも耐え、
びくともしなかったことに、改めて注目が集まった。
以来、それが新たな研究課題となっているのだという。


  

  報恩殿


  

  この時点では、どの狛犬が和[王申]の墓にあったものがわからぬので、とりあえずすべての狛犬を撮っておいたのよ。

  「報恩院」の扁額は、咸豊帝(西太后のだんな。何度も強調してごめんよ。でも事実だし、それがわかりやすいんだよ)の筆によるものだそうだ。
  ・・・しかしなんだかぴかぴか過ぎないかい???

  たとえ、分厚く塗り込めた塗料の下には、本物のオリジナルがあるのだとしても、
  こういう風情を台無しにした修復の仕方は、やっぱりしらけるわー。


  


  

  この歯の欠け具合といい、鼻のもげ具合といい、打倒された汚職官僚の末路を如何にも現しておらんかね??
  ・・・などと、勝手に妄想しつつ・・・。

  しかしどうやらはずれなようですね。表玄関の二頭が正解。
  こちらの鼻もげは、無駄ということ???


  

  三世仏殿

  

  石碑があると、反射的に写真を撮ってしまうが、どうも様子がおかしい。
  石碑が立派すぎるのだ。

  奥の仏殿を覗いて見ると、遼代や明代の渋いオリジナルを見た目には、久しぶりに安っぽいけばけばしい仏像が異様さを持って目に飛び込んできた。
  
  どうやらつい最近、人々がお布施を出し合って、新たに仏像を寄付し、それを記念する石碑のようだ。
  ケバい仏像さんたちは、撮る価値ないので、残念ながら、証拠写真なし(爆)



最後に、ずっと気になっていた乾隆帝の行宮の方へどんどん行きまひょ。


  


  


  


  

  当初は、この狛犬セットが本命だと思ってましたよ!
  しかし残念ながら、これもはずれ。

  …確かに言われて見ると、国家予算10年分以上を溜めこんでいた和[王申]さまの陵墓の前に置かれる狛犬としては、
  ちいと小さすぎるんですな。

  まあ。いいでしょう。
  久しぶりに狛犬をたくさん撮った、というのも・・・。


  


  私たちが東陵に行くのに、薊県に立ち寄ったのと同じように、
  清の皇帝たちも、東陵に行く途中の宿泊所として、この伽藍の中に行宮を作ったということである。

  乾隆18年(1753年)創建。
  天津地区で現存する唯一の行宮でもある。
  残っていたのは、この正殿のみだったが、現在は回廊十四間分も復元。

  


  


  碑文は、乾隆帝が王羲之や顔真卿などの歴代の名書家の文字を真似て書いたもの。
  石碑は、清代のオリジナル。それを壁の中に塗り込めて回廊にしている。

  壁に塗り込める、という形式は、恐らく乾隆帝がやったものではなく、現代の文物局の人のアイデアなんだと思う(笑)。


  乾隆帝本人の自作の詩は、ごく少ないが、いくらか混ざっているらしい。

  中国語ブログ 一蓑居的博客 さんが、その解読を試みている。

  しかし中国の知識人にも、すーっとすぐに解読できるものではないらしく、いろいろとあーでもないこーでもない、
  現場で同行者が間違った解釈をしていた、ネットで調べたら、唯一出てきたブログもあまり解説していない、とぶつぶつ言いながらの試み。


ぎゃあああ。

すみません。予約機能にセットしたまま、この数日のうちに訳そうと思っていたら、
時間切れで訳さないまま、アップされてしまいました・・・。
  
今、時間が取れないので、このまま中国語のままにしてしまいます。。。。
また時間が取れたら、訳します。
最新記事でお知らせを出しますので、あしからずー。
  
  
  緑雲紅雨日逡巡 绿云,比喻树叶茂盛;红雨,比喻落花,或特指桃花,
          李贺《将进酒》诗有“况是青春日将暮,桃花乱落如红雨”。
          树叶长得茂盛,落花如雨乱飞时,正是阳春四月间。
          逡巡,有两义,一是迟疑徘徊,欲行又止;一是顷刻,不一会意。
          这里应是后义,说每天都变得很快。——绿树如云,落花如雨的季节,每天都有变化。


  又見楊花点玉津 玉津,玉津园,北宋京城汴梁南门外的名园,园内外遍植杨柳。
          杨花,也即柳絮,古时柳树也叫杨树。——又看到杨花柳絮点点飘飞到玉津园的时候了。
          两句写春天景象:如云的绿树,如雨的落花,空中飞舞着柳絮杨花。
          绿的、红的、白的颜色,以鲜艳的色彩绘出春天美景。

  未谱豳风歌七月 豳风,《诗经》里十五《国风》(民歌)之一。
          豳,古地名,今陕西彬县、旬邑一带。《豳风》中最长的一首诗叫《七月》。
          诗中开头和反复用以起兴的句子是“七月流火,九月授衣”。
          秋天(七月)开始了,天气转凉了。气温正和春末差不多。——不是唱《豳风》中《七月》歌的季节。

  却看北地殿三春 三春,春天分孟春、仲春、季春三月。殿,在最后。
          这里指春末。——眼前看到的是北方佛庙里的暮春景象。



  纷如道韫诗中雪 道韫,谢道韫,晋代著名的才女,著名能臣谢安的侄女。
          一次下雪,谢安问,“白雪纷纷何所似?”谢安的侄子谢朗说,“散盐空中差可拟?”
          道韫说,“未若柳絮因风起。”谢安听了非常高兴。后人就称谢道韫为“咏絮才”。
          ——纷纷飘飞的是谢道韫诗中比喻雪的柳絮。

  污比元规扇上尘 “元规尘”,也是个典故,
          《世说新语》《轻詆》:“庾公(亮)权重,足倾王公(导)。
          庾在石城,王在冶城。坐大风扬尘,王以扇拂尘,曰:‘元规尘污人。’”
          元规,庾亮的字。比喻人的声势逼人。诗句意——它的污浊烦人,犹如元规掀起的尘土。

两句写杨花漫天飞舞的特点,也写了它带给人们的感受——烦恼。


  每对清和赋云汉 清和,天气清明和暖,暮春初夏天气,多指四月,即诗中所写时间。
          云汉,天河。——每当晴朗的夜晚,仰视天河赋诗。

  长空宛转越愁人 看天河,自然要想到牛郎织女的故事,他们是到七月七日才渡鹊桥相会的呀。
          ——看万里长空蜿蜒曲折的银河,真为等待跨越的牛郎织女发愁啊!

写对夜空的想象,对时间的感慨。

全诗以杨花(柳絮)为中心,写出春天的美好景致,温暖宜人的天气,又有一点“镇日惹飞絮”的烦恼。由白天写到夜晚,想到牛郎织女的盼望相会,表达了对他们的同情。做为皇帝,能有这样的人情味,倒也难能可贵。最后两句,如果从皇帝身份角度去考虑,也可说是对治理国家艰难的感叹。清和,可指政治清明天下太平。——每当要做使国家太平繁荣的文章,想到长路漫漫,欲达到目的可就太难了!


  


  


  





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清の東陵4、西太后の翡翠のスイカと孫殿英

2016年04月04日 16時40分53秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。


後に詳しく書きたいと思うが、西太后の墓は、1928年、軍閥の孫殿英の部隊により、大規模な盗掘の被害に遭う。
その時に盗まれた物の中で、最も世間の話題になったのが、
「翡翠(ヒスイ)のスイカ」一対と言われる。

1928年、軍閥の孫殿英が、白昼堂々と爆薬でぶっ飛ばして東稜を盗掘したというニュースが世間に知れ渡った時、
(ここまで堂々とやると、果たして盗掘というのでしょうか・・・)
あの翡翠(ヒスイ)のスイカはどうなった、と騒然となったという・・・。

それは西太后が最も愛したと言われる対になった翡翠のスイカの置き物。

・・・故宮博物館の宝物として有名な、白菜の翡翠の置き物のスイカ版である。
石の色の違いで皮の緑、果肉の赤と種の黒が表現されていると思われる。

…「思われる」と表現するのは、結局、誰も見たことがないからだ。
西太后が亡くなった時に棺桶の中に一緒に入れられ、埋葬されたと言われる。
だから孫殿英の盗掘と聞き、世間の人々が一番に気になったのが、その存在だったのである。

結局、誰も目にしたことがないので、そんなものは、噂だけで実際には存在しなかったのではないか、とも言われるようになったが、
確かな記録がある。

西太后に寵愛されて富貴の極みまで上り詰めた宦官の李蓮英に、甥がいる。
宦官は子孫を残せないので、甥などを養子にもらって跡目を継がせるのが一般的だが、
この甥・李成武は、叔父の李蓮英とともに、西太后の葬式を執り仕切り、葬儀にも参列した。

特に西太后から最も信頼を受けた身として、宝物の極秘の埋葬を受け持ち、李成武は後にそれを詳しく随筆集『愛月軒筆記』に記した。
そこには、すべての副葬品とその価値が一つ一つ、詳しく羅列されている。


この『愛月軒筆記』はやがて北京の骨董市場で写本が出回るようになり、
孫殿英もそれを目にし、その目録の目も眩むような豪華さに突き動かされて盗掘を敢行したのではないか、とも言われている。


ところで科学的に見て、所謂ビルマ翡翠でスイカの色の組み合わせがあり得るのか、というと、
どうも有り得ないということらしい。


そもそも「翡翠」という二文字は、中国では春秋戦国時代より使われては来たが、
それは所謂、硬度の高いビルマ翡翠ではなく、硬度の低い軟玉を指していた。

--所謂、ビルマ翡翠を指して「翡翠」と表現した最初の例は、康熙54年(1715)からだが、西太后は特に翡翠を愛したと言われる。


伝統的中国の審美眼からすると、玉のしっとりと潤いを感じさせる肌の質感が好まれ、
ビルマ翡翠のような冷たいあっけらかんとした輝きは、下品だとしてあまり好まれて来なかった。
その「美」に対する好みが、時代とともに、変わって来たということなのだろうか。


 

 西太后の陵墓・定東陵


 


 

 お堀に水がちゃんと張ってあります。
 康熙帝の景陵には、なかったけど・・・・。

 西太后といえば、「放生」が有名。
 功徳を積むために、捕らわれた生き物を放ってやる、というあれですね。

 自分の誕生日には、市場という市場から、魚を買い上げさせ、川に放流してあげたとか・・・。


 


 


西太后の「スイカ」は、ビルマ翡翠ではなく、「碧璽(へきじ、Bi4xi3、トルマリン)」だったのではないか、と言われている。

義和団の乱後の八ヶ国連合軍の侵攻を受けて西太后が西安に逃げた翌年の1902年から本人が亡くなる1908年までの間の6年間、
西太后は、ほとんど毎年のように宮廷造弁処の官僚をアメリカのサンディエゴに派遣し、
数トンにも及ぶさまざまな色のトルマリンを買い付けさせていたという。

す、数トンですか・・・・。
見事な爆買い・・・。

特にピンクのトルマリンの占める割合が大きかったという。


  

出典
このトルマリンなどは、あと少しでスイカじゃん、と思ってしまう・・・。


サンディエゴ郡ヒマラヤ鉱山から採れるトルマリンのほとんどが、ティファニー社の鑑定を経て
次から次へと中国に輸出されて行った。

1911年に清朝が滅亡するまで、累計輸入量は120トンにも及んだという・・・。

・・・あ、あまりの単位に、想像も尽きませんが・・・・。
120トンって、じゃがいもじゃないんだから、って感じです・・・・。


清朝皇室という大口顧客を失ったヒマラヤ鉱山は、あえなく連鎖倒産・・・。
それ以後、トルマリンが採掘されないまま、月日が過ぎ、
最近になってようやく小規模な採掘が再開されたという・・・・。

トルマリンの歴史と知識


によると、

「1500年代にブラジルのどこかで、スペインの征服者は、明るく輝く宝石をエメラルドと混同しました。
科学者連中が1800年代の異なる鉱物種としてトルマリンを認識するまで、彼の混乱は続きました。」

「なぜ人々がそう簡単にトルマリンを他の宝石で混同するのか理解するのは簡単です:
トルマリンの見事な色の範囲と一致する宝石は非常に少ないからです。
豊富なレッドからパステルピンクとピーチ色、強烈なエメラルドグリーンから鮮やかなイエローと濃いブルーと、
この宝石の色の範囲の幅は、他の追随を許しません。

人々は、おそらく何世紀にもわたって宝石としてトルマリンを使用してきましたが、現代鉱物学の発展まで、
その彩色法に基づいていくつかの他の石(ルビー、サファイア、エメラルドなど)と同一視しました。」


・・・とトルマリンには、さまざまな宝石との混同が世界的に続いてきた歴史があるそうだから
中国で「翡翠」と呼ばれたのも、ごく自然な混同だったのかもしれない。

それにしても清朝の滅亡により、はるか海の向こうのアメリカ大陸の鉱山が連鎖倒産とは・・・、
現代でも笑えない話ですな。


西太后の定東陵








1928年の孫殿英の白昼堂々のハッパを使ったド派手盗掘は、世間を騒然とさせた。

世間の批判の高まりに突き動かされるように、蒋介石は特別軍事法廷を設立せざるを得なくなる。
しかし孫殿英は、罪を逃れるため、戦利品の中から逸品を選び出して、各重要人物に賄賂として贈り始めた。
蒋介石には九龍宝剣を送り、もう一本は軍政部長の何応欽に、「翡翠スイカ」は宋子文に贈った。
また蒋介石の妻・宋美齢には西太后の口の中に入れられていたという、最も価値の高いかの「夜明珠」を贈った。

これにより、この事件はうやむやにされてしまう・・・・。
うううー。
目が点だ・・・・。

翡翠スイカを宋子文に贈ったというのは、元・国民党軍統局北方区の区長・文強が
1979年の回想録で、1943年に太行山で孫殿英と交わした会話から来ている。
「西太后の枕は、翡翠スイカだった。それを宋子文に贈った。」

なんと翡翠スイカは、枕だったのだという。
枕サイズのトルマリンですか・・・・。

そ、それは確かにすごい圧巻でしょうな・・・。

もちろん宋子文は、贈られたとは認めないだろうし、
翡翠スイカは2つあったはずだから、もう一つがどこに行ったのか、誰も知らない。




















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清の東陵3、東陵の旗人は、実は皆、包衣 

2016年04月03日 16時27分59秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。

前回までの二十三太王の花会の話は、風水壁(陵区を囲っている塀。民間人の立ち入りを禁止)の外、
つまりは、漢族の「外界」の話である。

風水壁の内側には、広大な陵区に旗人だけの別世界が広がっていた。


清代、東陵には他の陵区と同じく、5つの機関が設けられている。

  内務府: 日常の掃除と見張り。
  礼部:  祭事の儀式を執り行い、それに伴う準備作業を受け持つ。
  兵部:  陵墓の周辺の警護を担う。
  工部:  陵墓の建物やインフラの修繕、維持を担う。
  緑営:  陵区の外の警護を担う。漢人の傭兵部隊。

清末、光緒末年の記録では、
東陵内務府に1100人、兵部1200人、礼部1600人、工部4-500人、緑営3157人、合計8500人ほどが、登録されている。
緑営が漢人の傭兵部隊であるほか、残りの人員は全員、旗属ということになる。

東稜の設立当初から新しい陵墓ができるたびに順次、紫禁城や各王府から東稜に派遣された人々と言われる。
兵部帰属の旗人は、正当な満洲八旗の人々が多いが、
それ以外の内務府や礼部の人員は、旗人ではあるが、包衣の人々が中心だという。

包衣に関しては、
   清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

の中の「十五子)胤[ネ寓]の場合」と「十七子・胤礼の場合」を参照にされたし。
(めっさ長い記事です。康熙帝の20人以上いる皇子らの軌跡を延々と書き連ねているので、
 途中はとばして、後ろの方にある記述にたどりついてください。)


つまりは、漢人の家内奴隷である。

清の東陵に派遣されてきた八旗の人々は、
八旗は八旗でも、実はその中でももっとも身分の低い「包衣(満州語:ボオイ)の人々だった、という話。




 

 康熙帝・景陵
 
 
 


 


 

 康熙帝・景陵の隆恩殿(本殿)を西側から見た図。
 五彩はだいぶはがれていますが、こういうさびれた感じもなかなかよい・・・。


「包衣」とは、元々は満洲にいた頃、定期的に行っていた「人さらい」活動で拉致してきた漢人か、
戦争捕虜を各家庭に分配した人々である。

まだ東北の原野にいた頃の満洲族の史料を見ていると、
定期的に「奴隷狩り」のために出動している様子が伺える。

狩りや放牧を誇りとする騎馬民族は、農業を一段下の職業と見て嫌悪し、自ら手を染めたがらない。
しかし農業の生産力の高さ、安定は魅力的なので、
万里の長城を超えたり、鴨緑江を渡ったりして、定期的に漢族や朝鮮族をさらってくる伝統(?)があったようだ。

そのうちに満州族が天下を取り、奴隷もろとも北京に出て来ると、
主人筋の生活の向上に合わせて奴隷らの待遇も上がり、被支配階級である民間の漢人と比べると、一段高い特権階級となって行った。
また権力の近くにいるから、実入りのよい、富を蓄積できる地位につける機会も多くなる。

前述の「紅楼夢」の作者・曹雪芹の家は包衣から出世した代表的な例といえるし、
乾隆帝の晩年、寵愛を受けた和[王申]の舅の英廉は、包衣出身の高官である。
貧乏旗人だった和[王申]をむしろ英廉の方が見込んで、娘の婿がねとしてスカウトした形だ。



このように包衣は、中国の社会全体で見ると、対外的には統治集団の中にあり、出世のチャンスも多く転がっているが、
八旗集団の中では、やはりあくまでも「家内奴隷」の身分である。

その立場からご主人様が死ねば、その墓守りもこの集団の中から人が派遣された。
東陵の墓守り旗人らは、紫禁城や各王府の内務府から派遣されていた。
--内務府は、各家庭の諸々を取り仕切る部署。奴隷の所属もここになる。

包衣は先祖由来の漢姓を個人的に伝えることは許されたが、
公けの場では、あくまでも満姓――つまりは、主人家の姓を名乗ることしか許されなかった。

そこで現在の東稜の墓守り旗人の後裔の人々の中には、特殊な現象が見られる。
それは自身を正規の旗人だと代々伝承し、包衣という漢人出身の奴隷階級だったという事実がまったく伝承されていないという点である。

社会記憶と利益ニーズ影響下の族群認同——清東陵・守陵人を例として(中国語)
・・・・には、2008年ごろに現地の墓守り人の後裔という村民に聞き取り調査をした様子が紹介されているが、
ほとんどの村民が、包衣という階級の存在さえ知らず、どうやらご先祖様からそういう伝承は聞かされていないようだ。

景区のある村民70歳は、自らを正黄旗所属、今の姓は金、清代の姓はアイシンギョロだったと胸を張る。
――つまりは、清朝滅亡後は、主人家の姓をそのままつけたわけである。
清代もそうするように強制されていたわけだから、もちろん間違いではない。

奴隷階級だった、というあまり名誉ではない要素は、
子孫には恣意的に伝えていないらしいことが見て取れる。
「集体失憶(集団記憶喪失)」、――と上文では言う(笑)。

 

 本殿の後ろに陵墓の土饅頭に続く宮殿があるのだが、
 景陵のそれは、未開放。

 うらめしく、外から眺めるだけです。
 道理で観光客も少ないわけだ・・・。


 


 

 景陵の入口では、記念写真用のお馬さんも待機。

 足が短くて、ずんぐりむっくり、がちむちな典型的なモンゴル馬ですなあ。



東陵に派遣された包衣の人々。
当初はいくら奴隷身分とはいえ、行かなくていい同僚もいるわけで、やはり都から何日の行程もかかるような田舎に追いやられる身としては、
「左遷」か、「都落ち」のような気分にもなり、忸怩たる思いだったろうことは想像に難くない。
しかし来てみれば、これはこれでなかなか気楽な生活である。
生涯、俸禄を保証され、出費も少なければ、仕事も少ない――。


現地では、
「窮八旗、富内府、挨打受罵是礼部」
(貧乏八旗、豊かな内府、ぶたれて罵られるは礼部)
という言葉があるそうだ。

つまり防衛の担い手であり、正規の満洲八旗出身者(包衣ではなく)が務めていた兵部の勤めは、
俸禄だけを見ると、内務府勤務者より高いのだが、俸禄以外の収入はなく、結果的に貧乏。

これに対して、内務府の職員は俸禄こそ兵部の八旗兵より低いが、都の皇族と接触する機会が多いので、
お祝儀などの臨時収入が多く、実はけっこう実入りがよかった――。

礼部は、実際の儀式の執り行いや準備と言った現場を担当するので、
現場での行儀作法、事前の手配に不行き届きがある、と常に叱り飛ばされてばかりでなかなか苦しい宮仕え――。

・・・という意味であるらしい。


前文によると、村民の沈婆さん83歳は、祖父は裕陵の門番だった、
気楽なお勤めなので、毎食おかずは四皿、三食とも酒を飲み、雑穀は口にしなかった、と証言している。

この時代の華北の農民といえば、ヒエやアワ、韃靼(だったん)ソバなどの雑穀が多かったわけだが、
八旗の俸禄には白米の現物支給もあり、南方から運んでくる銀シャリしか口にしなかったというわけである。
陵墓の周辺だけ、周囲の農村とは隔絶された生活があったという一端を垣間見ることができる。

そんな恵まれた生活を200年以上も送ってきた東陵の旗人たちだが、
清朝滅亡後は、反満の機運が社会に充満し、満州族出身だったということを隠して漢姓を名乗ることになる。

中華人民共和国の成立当時、戸籍調査で自らを満州族と名乗りを上げる住民はわずか20%しかおらず、
元皇族の一人が、堂々と満族を名乗ろうと呼びかけたにも関わらず、名乗りを上げる人は少なかったという。

しかし少数民族に対する優遇政策が次々と打ち出されると
(大学受験の際、点数での優遇、一人っ子政策の中、少数民族は2人まで生んでもよい、など)
徐々に満族で戸籍を登録する人が増えて来るようになる。


  

  西太后の陵墓・定東陵へき道

  
  



  んまああ!
  野放図に成長してしまった松だこと!
  
  いくら支えを当てても、おっつかないくらい自由に育ってしまった感じがすごすぎる!

  


  ええ。記念撮影したくなるのもわかりますよ。
  わたしだって、こんなに自由に生きれるなら、生きたいもの・・・・。

  こんな偏った成長の仕方したら、いつか体を支えきれなくなる、とか、なーーんにも後先のこと考えず、生きれるなら・・・。  

  



  

  ゴミ箱もこの溶け込み様!
  さすが世界遺産!


村民らのなだれを打ったような満州族への「集団移籍」に決定的となったのが、1984年頃に起きた少数民族郷の申請に伴う動きだった。
1984年、東陵満族郷が成立したが、その際、申請のためには住人の一定比率以上の少数民族比率が求められた。
満族戸籍の比率が、ある一定以上の比率に達しないと、申請の資格さえ満たせない。
そこで地元の政府が、住民に戸籍の満族への変更を奨励したというのである。

実際、大部分の住民に関しては、あながち虚偽でもない。
旗人だった住民らは、清朝滅亡後も多くがその地に残って生活しており、
ただ外から入ってきた漢族との通婚が盛んになった。

清代は、満漢間の通婚はあまり多くなかった。
西陵でもそうだが、陵区は元いた周辺の漢人住民を他地へ移転させ、
「風水壁」という壁で周囲を囲み、その内と外とでは、完全に隔離された二つの世界が存在していた。
普段から互いの交流は多くなく、自然と通婚も多くはなかった。

しかし清朝が滅亡してすでに70年近くが経っていた80年代は、もちろん圧倒的多数の漢族との通婚が進んでいた。

住民のほとんどが、どこかしらたどれば、満族のご先祖様にたどりつくことも事実だった。
例えば、四人の祖父母のうち、誰か一人でも満族がいれば、これを機に満族に戸籍を変更する、と言った具合。
この結果、今では「満族郷」と名のつく郷の住民80%以上が、満族戸籍になっている、ということになった。


しかし中には、さらにいい加減な例もある。

例えば、裕陵の神道のほとりにある復興村。
裕陵からの距離はわずか2㎞しかないが、この村が成立したのは実は1930年代。
日本軍の占領時代、住民の集中管理のために東陵の後龍山地区から移転させられて来た、純粋な漢族の村である。
しかし今では「復興満族村」と名乗っており、住民の戸籍は80%が満族という。

・・・・もうこうなると、少し説明に苦しむ。

さらに1999年、東陵を世界文化遺産に申請するため、地元政府が復興村の周囲を昔風の囲いで囲む計画を立てた。
東陵周辺の八旗村は、裕陵の内務府、礼部--という風に、衙門(がもん、役所の建物)を中心に、
その所属職員とその家族が周辺に暮らし、その地域を壁で囲い、門を立てて出入りを制限させていた。

しかし清朝滅亡後は、次第に取り壊され、90年代のこの時点では、ほとんどの村で現存していなかった。
復興村に白羽の矢が立った理由は、景観地区の中心からやや離れており、工事物資の運搬に便利、
観光業の邪魔にならない、という極めて実質的なもの。

今でも多くの人が、村を囲む塀を見に訪れるという・・・。


・・・しかし現地の人たちは皆、知っている・・・。
――それが「じあーだ」(仮的、にせもの)だということを・・・(笑)。


  

  西太后の陵墓・定東陵

  
  


  

  西太后の陵墓であることを書いた石碑。

  真ん中の文字が、点とまるがついているから満州語だと思う。・・・たぶん。
  ということは、一番右がモンゴル語ですかいな。

  一番が満州語じゃないんだー。 
  それとも、真ん中が最も重要だから、真ん中が満州語でええんかいな??



  石碑が乗ったカメを贔屓(bi4xi4)=ひいき というそうだが、その語源をちゃんと押さえていなかった。
  前から気になっていたので、いいかげんまじめに調べてみた(笑)。

  Wikipedia によると、
  
  「中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。
   重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。

   日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、
   その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。

   「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。
   「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。

   「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった。
   また「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する。」

  ですってー。


  


  贔屓さんの巨大なあたま(笑)。

 
  

  贔屓さんのお尻(笑)。


 
  以下は、西太后の石碑の贔屓さんが泳いでいる海の石彫刻の四つ端に刻まれた四つのレリーフ。
  なんかの意味があるそうだが、聞き忘れた。

  そのうち、判明したら、補充しまーす。
  
  

  

  

  




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清の東陵2、康熙帝の14皇子胤[ネ題]の東陵生活

2016年04月02日 16時21分56秒 | 北京郊外・清の東陵
あんてぃーく倶楽部 による清の東陵への遠足、続きです。

亡き康熙帝の葬儀を荘厳極まりない規模で終えた雍正帝は、
兄弟の中でも最大のライバル、康熙帝の大本命と言われていた第14皇子・胤[ネ題]に
東陵に残り、父帝の霊魂を守るように命じる。

堂々たる鎮西大将軍から、いきなり墓守りの下っ端役人にまで落とされたのである。

胤[ネ題]については、

   清の西陵2、西陵と雍正帝の兄弟争い、康熙帝の皇子らのそれぞれの末路

の中の「十四子)胤[ネ題]場合」を参照にされたし。
(めっさ長い記事です。康熙帝の20人以上いる皇子らの軌跡を延々と書き連ねているので、
 途中はとばして、後ろの方にある記述にたどりついてください。)


を参考にされたし。


実質的には、完全な流刑生活である。
東陵での滞在当初は、湯泉行宮(東陵の東)に住んでいたが、
後には、南側の馬庄村にある関帝廟に滞在するようになった。




胤[ネ題]は東陵の界隈で三年の「島流し」生活を送っている。

雍正2年(1724)、雍正帝は、胤[ネ題]が、こっそり頻繁に北京に戻り、
胤[ネ異]らと何か相談していると知り、胤[ネ題]の家族もごっそりと東陵に軟禁するように命じた。
さらには、元々の「郡王」の爵位をはく奪し、格下の爵位「固山貝子(グサン・ベイゼ)」に変更した。

東陵での「流刑」生活の当初、胤[ネ題]は、大酒を煽ってふて腐れるだけの日々だったが、
ある時、廟近くから賑やかな声が聞こえたので、外に見に行った。

そこには、獅子舞の練習をする村の若衆の集団。
「花会」のための練習をしているという。

「花会」、別名「香会」。
中国北方で盛んだった、寺院の縁日や祭日に曲芸を披露して捧げる行事だそうだ。

その演目は多種多彩:

  ● 龍灯: いわゆる「長崎くんち」、ドラゴンダンス。
        長い龍の胴体の途中に棒をつけ、集団で龍がうねり踊る様子を再現するもの。


  ● 少林: これはわかりやすいですな。少林寺拳法の演舞。

  ● 中幡: 竿が中央に通った巨大かつ重い旗を使って、体を張った芸をする。


    

    写真: 中国語ブログ: 老房的博客 より 


  ● 獅子舞: ご存じの獅子舞。

  ● 高[足尭]: いわゆる竹馬ですな。 1m以上もある竹馬を履いたまま、踊ったり、走ったり、さまざまな芸をする。

  ● 旱船: 船の形をしたぬいぐるみを着て、横に笛吹きなどのはやし役がつき、二人で歌いながら掛け合い漫才のように応酬する。

    

    船の役は、男性が女装することも多い。
    写真: ニュース記事 より


花会の特徴は、日本の祭りと同じで、各町内会、力のある企業の社員同好会などが主体となり、
本業の余暇に練習を重ねて晴れ舞台で披露する、という「素人芸」の集団であることだ。

当初は、徒然なるままにただその練習を眺めたり、興が乗ると、自分も練習の輪の中に入って興じたりする程度だったが、
そのうち、側近の一人が「これは軍事演習にもなる」と、物騒なことを耳打ちした。

花会の演目は、どれも体を張った肉体芸ばかりだ。
花会の練習、という名目で屈強な壮丁(成人男子)を集めて肉体を鍛えさせても、立派な大義名分が立つというわけだ。

雍正帝から危険視され、疎まれ、すでに島流しになった今となっては、
もはや圧倒的な実力の差は歴然。

事態を挽回しようにも、現実的には手も足も出ない。

いつ刺客を差し向けられて殺されるかもわからないし、
万が一、時が熟して挽回のチャンスが訪れたとしても、手中にまったく武力勢力がないままでは、身動きもとれない。
・・・と思ったのか。

胤[ネ題]は俄然、やる気を出した。




胤[ネ題]はある日、知州の雷之楡、東陵総管内務府大臣の黄殿邦、馬蘭鎮総兵の範時訳などの現地の高官、
ならびに地元の名士、素封家、豪商を内務府に集めて提案した。

花会を「皇会」と称して、盛り上げて行きたい、と。

つまり皇族の主催する花会・・・。
現代でいえば、競馬の天皇杯のようなものでしょうか?(例がおかしい???)

胤[ネ題]は、今は島流しのような身分とはいえ、数年前までは、康熙帝の覚えめでたき飛ぶ鳥落とす勢いだった皇子。
地方の片田舎の官僚や商人が、その提案に逆らえるはずもなく、皆曖昧な表情をしている間に事はどんどんと決まって行った。

まずは皇子が滞在する関帝廟のある南新城村で11演目の花会を結成することにした。
皇子自らが会の「会頭」になると宣言。
「会旗」も自らが采配して、制作にあたった。

旗の長さは5mもあり、皇帝一家の象徴である黄色の布に
「東陵南新城引善普済老会」と楷書で自ら大きく書き、落款は「固山貝子二十三太王」。

胤[ネ題]は、夭折した兄弟も含めると、第23皇子となるので、そう呼ばれていた。


花会の準備は、伝統的なしきたりに従い、各豪商が一つずつ演目の割り当てを受け、
メンバーの日頃の訓練の世話役として、場所、休憩時間の差し入れ、道具、晴れ舞台の衣装などを用意することになっており、なかなかの出費となる。

二十三太王は、いうことを聞かない隊員の処罰のため、印籠のごとく、「戒尺」を各会頭に渡した。
たぶん、禅寺で座禅が乱れると、後ろからばしっ、と叩かれる、ああいう平たい板のようなものなのかな、と推測するが・・・。
少しは彫刻や彩色が施してあり、二十三太王のお墨付きとわかるような文字や落款もあるのだろう・・・。


ここまで大仰になってくると、割り当てられた地元の名士らも力を入れないわけにいかず、
それぞれの演目がなかなかの仕上がりとなった。

最初のお披露目の場は、旧1月15日、新年最初の満月を祝う「元宵節」の縁日にて。
演技者は総勢500人余り、壮観な図だろう。
それを皮切りに、同月の27、28日にもう一度、南新城で披露した後は、さらに大きな町である馬蘭峪、遵化城にも出かけて披露した。

これに勢いを得た二十三太王の「皇会」は、各地の「縁日荒らし」に乗り込んで行く--。


  


  

 康熙帝・景陵の隆恩殿(本殿)の内部。




東陵界隈で有名な縁日といえば、景忠山の廟会。
毎年旧4月18日に開かれ、順治帝も康熙帝も座禅に訪れたことがあると言われる古刹。
東陵から東に100里、年に一度の縁日には、大勢の人々で山が埋まるといわれる賑わいとなる。

ここは、今に至るまで、名古刹として残っているようですな。

 中国語ブログ 河北遷西景忠山
 写真を見るかぎり、かなり山の上にありそう・・・。

 

 

そのほかにも、龍山廟会、挟山寺廟会
(調べたが、名前が平凡すぎて全国あちこちの検索結果が出てきて、結局はっきりせず。
 要するに500人の演技者をぞろぞろ連れて参加しに行ける程度の近隣の縁日かと思われる。また調べがつく日が来るのを期待して。
 今のところは、不明のまま、保留っす)

などの縁日に乗り込んで行った。

花会の行列が、遵化城を通過する時は、五品の州官に至るまですべて出迎えに出た。
何しろ今上皇帝の弟君が、会頭になり、率いて行くのだ。
権力闘争の内部事情がどうあれ、庶民としては、おろそかにするわけにはいかない。


ある時、花会が遵化城を通過するのに、知州の雷之楡は、二十三太王が諸用で今日は来ていないと聞き、
椅子に座ったまま、ぴくりと動こうともしなかった。

知州が自ら迎えに出てきていないことに、会頭が気づいた。
二十三太王がいなくなると、途端に軽んじられたことを悟り、かっとなった頭(かしら)は、
「ふん。小役人め。庶民をなめやがって」
と悪態をついたかと思うと、全隊員に楽器の演奏をやめ、旗の芸もやめるように命じた。

知州府の前でぴたりととまって、数百人の隊列がぴくりとも動かず、やかましいくらいの大音響だった楽器の演奏もぴたりととまり、
突然、しいいんと不気味な静けさが訪れた。

様子の異変を訝しく思って、表に様子を見に来た役人が、はっと事態を呑みこむと、
泡を食って知州の元に駆けこんで大事を告げた。

知州が飛び出して行った頃には、隊列はすでに出発し、先に進んでいた。
知州は馬に飛び乗ると、列の先頭まで必死に駆けて行き、二十三太王が自ら書いたという旗の前に跪くと、
三跪九叩を繰り返して、「王爺(王さま)お許しください。王爺(王さま)お許しください。」と繰り返した。

さらには、会に20両の寄付をして、会頭の機嫌がようやく直り、事なきを得たという。


二十三太王は、足掛け3年を東陵で過ごしたが、
その後、さらに警戒心を強めた雍正帝に紫禁城の裏・景山に軟禁されることとなり、
東陵皇会のテッパンの会頭は去って行ってしまった。

それ以後、往年の勢いを取り戻すことはなかったが、その名声、芸の腕の高さは今に引き継がれているという・・・。


 

 

 康熙帝・景陵の隆恩殿(本殿)

 どういう来歴のものかは、わからないが、少し大仰な椅子が三つ並んでいる。
 いつか、「ああ。こういうものだったのか」と調べがつく日も来るかもしれないので、
 とりあえず撮影しておこう。古いものなのかなああ・・。それとも新しいものだろうか・・・。

 

 


 巨大な柱。

 こ、この修復の仕方には、何か意図があるのだろうか・・・・。
 背の届くところまでは、金の塗料を塗り、その上は放置プレイ・・・・。

 
 


 



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清の東陵1、順治帝の孝陵、見目麗しい童男童女が突き固める?

2016年04月01日 15時36分32秒 | 北京郊外・清の東陵
 あんてぃーく倶楽部 の主催で、
清の東陵への遠足があり、それに参加してまいりましたー。


まずは場所の確認です。



(百度地図より)

北京より東に125㎞。

西陵との位置関係も上記のとおり。





今回、回ったのは、

  定東陵:   西太后の陵墓
  裕陵妃園陵: 香妃墓がある
  裕陵:    乾隆帝の陵墓
  景陵:    康熙帝の陵墓


景区内を走るオープンカー・スタイルの電気自動車を活用しつつまわっても、
別の参加者さんの万歩計の数字は、1万3千歩ー!

4か所回ったところで撃沈ー。
残りは、また次回の楽しみということになります。



さて。東陵に関する概要的なものに触れると--。

伝統的な風水の思想によって建てられた東陵は、中原に入って最初の皇帝・順治帝の孝陵が、中軸線上に。
他の陵墓は、孝陵を中心として、左右に翼を広げるようにして展開する。

孝陵の左が康熙帝の景陵、さらにその左に同治帝の恵陵。
孝陵の右は乾隆帝の裕陵、さらにその左に咸豊帝の定陵。
「居中為尊」、「長幼有序」――だそうである。

1933-1945年まで、東陵は日本軍の占領下に置かれた。
当時、満洲国の皇帝になっていた溥儀の先祖の墓を守る、という大義名分があったらしい。

1928年、軍閥の孫殿英が東陵を暴いたと知った時、
当時天津で暮らしていた溥儀の元にその知らせが届くと、彼は号泣したといわれるのだから、
占領の是非如何、という歴史の善悪の審判は別においておいて、
少なくとも陵区内の秩序が守られ、さらなる盗掘が行われないように見張る軍隊が駐留したことは、
当時の時代背景としては、ある程度の必然の結果だったのかもしれない。


当時、すでに地元の墓守り人の後裔らが清朝滅亡で生活に窮乏し、陵区内の木を伐採して現金に換えていたために、
景観が損なわれていたが、木を植え直し、荒れ果てていた各陵墓を修繕した。

日本の敗戦に伴い、その管轄権はそのまま共産党に移って現在に至る。


 

 康熙帝の陵墓・景陵の前の神道の石像。


 

 景陵。


 

青空がまぶしいー!
郊外に出ると、なんと言っても、これが喜びですなー!


 


 


 


順治年間、この場所を陵墓に勧めたのは、
恐らくほとんどは明末からの伝統が大して失われることなく、継承されてきた欽天監の官僚たちである。

この地は明の永楽帝も当初、陵墓の候補地として選んだ場所だという。
その後、今の『明の十三陵』がある昌平の方が近いので、この地を選ばなかったという経緯がある。
それくらい風水的に理想的な場所として、際立っていたということだろう。

三方の山が「五羽の鳳凰」が羽根を広げたよう、というらしい。
頭もあれば嘴もあり、尻尾も翼も見事に表現されている、と・・・。
そう言われて見ると、確かに何だか優雅に見えてくるかしら・・・・。


 

 オーブン式電気自動車で景区内をドライブ。
 降りたくなくなるくらい心地いいです・・・。


 




今回、残念ながら、順治帝の孝陵には、時間とスタミナ切れ(爆)でいけなかったが、
孝陵に関しては、印象深いエピソードが残っている。


順治帝が母后・孝庄皇太后を伴い、父帝ホンタイジの陵墓を瀋陽に参拝に行った際、
道中、通州で大運河の補修を行っており、童男童女らが歌を歌いながら、堤防の修復作業などを行っていた。

作業員にしてはあまりにも幼く、しかもとても戦力となるとは思えない童女も同じくらいの数混じっていることに
順治帝が違和感を覚えてわけを聞いた。

すると、童男童女の歌声は、生命力と吉祥にあふれている、
特にその澄んだ歌声を堤防の中に閉じ込めるように歌いながら作業をすれば、
堅牢なものになるのだ、という答えが返ってきた。

その言葉にいたく感動した順治帝は、自分の陵墓を作る時も
同じように童男童女の歌声で土台を突き固めてもらいたいものだ、そうすれば未来永劫に強固な土台となるだろう、と言った--。


それから数年後、予想だにしなかったことに、順治帝が若くしてなくなり、その陵墓はなお建設の計画の途中、
まだ更地のままだった。

そこで母・孝庄皇太后は、息子の生前の言葉どおり、遵化州の行政区内で童男童女を集めるよう命じた。
その結果、天真爛漫で生命力に溢れた、見目麗しく、スタイルがよい(どんなんや!)童男童女を9981ペアを選び出した。
5-6回の選抜作業を経て、数百ペアが選び出された。

工事監督は、その男女のペアを背の高さ、体格、声の高低ごとに分け、一組9ペア、合計9組ごとに編成。
さらに各組から一人、見目麗しく、涼やかな佇まいで声の美しいリーダーを選び出した。

地面を突き固める作業は、リーダーがそのための歌を一節歌い、隊員がそのあとに続きながら歌うということを繰り返し、
本殿から地下宮殿に至るまでつき固めて行ったという・・・。


孝陵以外にも東陵では、この方法で童男童女を使って工事された陵墓も多いとか・・・・。


想像しただけでも、壮観な絵図だろうと思う。
恐らく若い男女にとっては、たとえ無給で駆り出される使役の類であったとしても、
突然降って湧いたような巨大な合コンパーティー(歌垣かいな?)の気分だったのだろうし、
選ばれた美男美女らの発する異性に向けたビームなんだか、フェロモンなんだか、秋波なんだか、そのエネルギー量は圧倒的だっただろう。

それを建築物の中に封じ込めれば、さぞ未来永劫に堅牢なものになるに違いない、という願いというか、迷信は、
気持ちがわからないでもない、微笑ましいものだ。

若い男女らにとっても、普段は隣村の若者と知り合うことさえ難しいような交通・社会環境の中で、
眩暈もするほどのうきうきわくわくのイベントだったに違いない。

皇帝さま、なかなか粋な計らいだと思う(笑)・・・・。


・・・ところで、中国は伝統的に男女ともに、外見が出世の重要なスペックになってくる社会だと感じる。
中国に限らず、格差が大きく、権力者の旨みが強い社会では、
弁才と見目麗しい佇まいが、数少ない勝ち組に入るための強力な切符となるという。

オバマ大統領が、どこぞの指導者は、髪の毛を染めているが、自分はしない、と
皮肉ったそうだが、美男美女の威力が大きい特徴は、
今の社会にも生き続けているのかもしれない、と時々思う。



 

 康熙帝・景陵の前のお堀。
 水が入っていません。完全なるメンテの手抜き(笑)。
 裕陵や定東陵のお堀には、水が張ってありましたからねー。 

 景陵は、地下宮殿も開放されておらず、裏の土饅頭の上に登る部分も開放されていない。

 正面の隆恩殿に入るほか、見どころがないので、
 裕陵や定東陵と比べると、人も少ない。

 お土産屋さんは閉まっているし、あちこちで見られる孔雀(生きている本物!)とのツーショットが撮れる写真屋さんも
 造花をあしらった白いブランコだけを打ち捨てて無人・無禽(笑)。

  
 


 


 

 宮殿の前の石彫。
 龍が皇帝を、鳳凰が皇后を現すから、
 皇帝と皇后が眠っている、ということを表しているのだと思う・・・。

 両側が階段になっていて、お輿をかつぐ轎夫が両側を通り、
 お輿はこの彫刻の中空を通って行く演出になっておる。



清の西陵篇でもずっと見て来たが、
雍正帝の即位には、多すぎる兄弟からさまざまな圧力がかかり、暴風雨の中でその治世が始まった。

雍正帝は、兄弟らを亡き父帝の葬儀に集中させることで、余計な陰謀をたくらむ時間と労力をそぎ落とそうと考えた。

そのために、世にも壮大な葬儀を計画し、兄弟らをそれぞれその中に巻き込んで行く。
服喪期間三年の間は、肉食を絶ち、喪服着用を求めるほか、葬儀の執り行いにも空前絶後の費用をかけ、一切惜しむことがなかった。


--雍正帝はケチ
というイメージが強いが、彼にしては珍しい大盤振る舞いは、自らの地位の安定のため、必要な予算と見極めたのだろう。


 


  

 康熙帝・景陵



康熙帝は、清朝の皇帝の中で最初に土葬された皇帝でもある。
順治帝以前、満州族の風習では、遺体はすべて火葬されていた。

森林の中で狩りをして生活していた満州族にとって、遺体は持ち運べないし、
置いていくには、心が痛んだ。

このあたりは、馬車の上に乗せて、死体をいつの間にか振り落すというモンゴル人の習慣や、
禿鷹に食わせるというチベット族の天葬の習慣とも違う。

大針葉樹林の中で暮らしていた彼らには、火葬をするための木材がたっぷりあった。
そして火葬しなければ、浅い地層なら掘り返して食べてしまうオオカミのような動物が、森にはたくさんおり、
オオカミに食い散らされることを納得できなかったのもあるのだろう。


--皇帝として、初めて土葬される遺体として、
巨大な棺桶は、二万人の官僚と役夫がその護送に同伴した。

二万人ともなると、行列があまりにも長くなりすぎてしまう、と、ニ路に分けて向かうという規模の陣容である。
一路は、雍正帝自らが父の棺を擁して進み、もう一路は皇后が先頭に立って進んだ。

北京から東陵まで道中300里あまり、沿路には弔いの儀式を行うための場所を5ヶ所設けた。
柵でまるく囲んで入口に[方生]門(天幕を張って作った行宮の入口の両脇に旗を立てて、門に見立てたもの)を立て、
敷地内には、黄幔城(皇帝の寝室となる天幕)と棺を臨時の安置する芦殿を設ける。

朝晩に行列を組んで儀礼を行う。

道中、どこかの門をくぐること、橋を渡ることがあれば、
まずは大臣が進み出て酒を祭り、紙銭を燃やしてから進んで行った。

重厚な棺は、60班、合計7960人が交替しながら運び、
道中、百里以内の文武百官が皆、哀悼に駆けつける、という賑やか極まりない陣営のまま、東陵に到着した。




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