いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦9、明代の戸籍制度

2012年08月09日 13時26分57秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
ここで一度、明朝の軍人集団とは、いったい如何なる人たちで構成されていたのか、という背景を押さえておこうと思う。

これまでの経緯を見ると、明の軍隊はアルタン・ハーンにやられ放題。
軍隊は何をしておるんじゃ、といいたくなるのは、私だけじゃないと思うが、いくらかその実情に迫るためでもある。

明朝の軍隊は、ほとんどが「軍戸」という世襲の家庭から出された兵たちで構成されていた。

明代、国民はいくつかの戸籍の種類に分類され、それぞれが世襲で固定され、
戸籍の種類をほかに変えることは、極めて難しかった。

史料によりカテゴライズの方法はさまざまだが、《明史》では、大きく「軍戸、民戸、匠戸、竈戸」の4つに分ける。

 ・軍戸: 軍役を担う一般の軍戸のほかにも校尉、力士、弓兵、舗兵の戸がある。

 ・民戸: 主に「民差」(所有する土地の広さに合わせた租税と徭役という義務)
  を課せられた一般の民戸のほかにも、儒戸、医戸、陰陽戸あり。

 ・匠戸: 主に「匠差」(職人技術を駆使した徭役)を課せられた。
  そのほかにも厨役(コック)、裁縫、馬、船の戸がある。

 ・竈戸:主に塩を焼く。塩は政府の専売、高く売りつけるため、
  産業を拡散させないようにする必要があったのだろう。

そのほかにも炭を焼く「柴炭戸」、茶を栽培する「茶戸」など、地方によってさまざまな「戸籍」があった。


「軍戸」が全国にどれくらいいたかというと、永楽年間で200万戸。

明初、全国の総人口は、1千万戸と概算していたというから、実に全人口の1/5も占める。
(前述の文章で明の人口は1億5000万人いたと書いたが、時代によって変動が激しく、統計もまちまち。)
5軒に1軒が「軍戸」だというのだから、実に巨大なる集団である。

軍戸に指定される経緯には、いくつかのルートがある。

 1、元代の「軍戸」から、そのまま継続している家系。

   元代の軍人も「軍戸」として世襲制であり、明はそれをそのまま引き継いだ。
   明は純粋な漢族による「民族王朝」でありながら、遊牧王朝にあまりにも似たようなことをする、
   とよくいわれるが、これもその表れの一つといえる。

   明の建国まもない洪武2年(1369)、「前朝の戸籍を変えるべからず」の令が施行された。
   つまり、元代の軍戸だった家系は、ほかの戸籍に変われなくなったのである。
   このような家系も相当数いたといわれる。

 2、「従征」: 統一戦争の兵士であり、平定した場所に守備に配属された兵士の家系。

 3、「帰附」: 敵側から降伏した人々。

 4、「滴(さんずいではなく、ごんべん)発」: 犯罪を犯したために兵となった人々。

 5、「役(つちへんに変える)集」: 明初の行われてからは、しばらくは施行しなかったが、
   のちに逃亡する軍士があまりにも多くなり、兵が不足した正徳年間に復活させた。

   民戸3戸の中から1戸を「正戸」として、軍役を担う。
   その他の2戸は「貼戸」(補助の意)として、正戸を助ける。
   軍役は世代交替とともに交替し、3戸が順繰りで負担する。


「軍戸」は、明代の社会の中で、どういう地位にあったのだろうか。
本来なら、「建国の功臣」ともいえる軍人の後裔もいるわけで、他の王朝の倣いでいけば、最も優遇されてしかるべき階級ではないのか。

明治維新を経た日本では、薩摩、長州の下級武士という主力階級が、未だに現代日本で社会の中枢を担うし、
中国でも共産軍の功臣とその家系が、社会の中枢にいる、というように。

ところが、明では最も皇帝に近い大臣クラスは、もちろん内閣入りしているから別として、
「軍戸」は、人々が最もなりたくない、最も娘を嫁がせたくない、
その家に絶対に生まれ変わりたくない家系となってしまうのである。

ではないが、ほぼそれに近いくらい、人々は「軍戸」にされることを恐れおののいた。

それはなぜか。
ほとんど「農奴」に近いくらい搾取がきついからである。
当初はそう意図していたわけではなかったが、結果的に次第にそうなっていってしまう。


軍戸の義務の内容を具体的に見ていこう。

「軍戸」からは、常に「一丁」(成人男子1人)を兵役に出す義務がある。
その赴任先である各地の「衛所」については、原籍の近くで配属されることはほとんどなく、遠隔地が意図的に選ばれた。

恐らくは、現地で赴任した場合、現地の民間人と結託して武装蜂起することを恐れたのだろう。

衛所に赴任する軍士は、「正軍」、または「旗軍」、「正丁」ともいうが、
そのほかにもう一人、一家の「人丁」(成人男子)の中から「余丁」を連れて行くことが義務付けられていた。


「余丁」は、赴任先で「正丁」の軍服などを稼ぎ出すための補助的労働をすることになる。
赴任先によっては、(遼東など)「余丁」を3丁から5丁連れてこい、と命じるところもあり、義務はなおのこときつい。

例えば、成化12年(1476)、陝西で徴兵された軍丁は、1万1千人。
配属先の衛所は福建、広東、広西、雲南、と地の果てとも言えるくらい遥か遠い地ばかりである。
逆にその年、陝西の各衛所には全国各地から6400人が配属されてきた。


赴任には妻子、果ては親兄弟までもを伴うことが奨励されている。
後述するが、赴任先での義務は、人手がなければ、とてもこなせるものではないからだ。
またどんなに苦しくても家族がいれば、逃亡にも少しは歯止めがかかるからである。


何しろ、一旦赴任したが最後、体が立たなくなるまで赴任先で過ごさなければならないのだ。
ほぼ一生である。

半数以上が妻子同伴で出かけたという。

「軍戸」の最初の義務は、この赴任先までの旅費を用意することである。
そのために原籍では、土地が支給されており、その土地で稼げ、ということになっていた。

しかし「正丁」が妻子を伴い、「余丁」も妻子を伴った場合、10人近い大所帯となる。
その旅費の用意は、「千里で(家の財産が)半廃、2千里で尽廃」といわれた。
つまり2千里以上離れたところに赴任させられたら、ほとんど数十年分の財産が一気に吹っ飛ぶということだ。

さらに兵部尚書の楊士奇(宣徳・正徳年間)はいう。
「軍士らは、互いに水土不服(土地の水と気候、環境が体に合わない)。
 南方人は、寒冷に倒れ、北方人は瘴癘(マラリア)に倒れる。
 七千里、八千里の遥か、路は遠く、旅費はかさみ、道中で死ぬ者、逃亡する者多し。
 衛にたどりつく者少なし」 

ただ一部には、貸すことで少しましな実入りになることも、ごくわずかではあるが、ないわけではなかった。


例えば、浙江杭州衛の屯軍は、省城に住んでいる場合、支給された屯田まで数百里も離れていることがあった。
この場合は、小作に貸したとしても、近距離だから小作料の取立てにもいける上、
江南の温暖な土地は生産量も高いので、小作料もほぼ取り立てることができただろう。

福建の福州衛でも屯軍の半数は市井に住み、郊外の屯地を小作に出した。
広東の潮州衛の屯丁は、自分で耕すことを嫌がり、人に貸す傾向が強かった。

これらの土地は、貸しだしても6石という「子粒」を支払ってもまだ充分に楽に暮らして行けるくらい
生産性の高い、ラッキーな土地である。

そういう場所では、逆に今度は、土地のあくどい有力者に言いがかりをつけられて
召し上げられないようにすることが主題となってくる。

これが次の要因である。つまり有力者による乗っ取りである。


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写真: 楡林

楡林の東の城門の上に登ってきました。
はるか向こうまで城壁が続いています。




城壁の上は、このように土がむき出した状態。
れんがはもうとっくにはげおちております。

    


西側に見渡す楡林市。
手前が城内の旧市街。それを保存したまま、その西側に近代的なビルのたつ新市街が広がっています。
保存と発展を一体にしたまさに理想的な都市づくりですねー。




はるか向こうにこれまで歩いてきたメイン道路が見えます。



こちらは「甕城」の中である。(「甕城」については、こちら

なんと「甕城」の中の土地ももったいない、とばかりに住み着いている人たちがいるのですなー。





こうして城壁に上る野次馬たちに上から家の中や生活を覗かれても、へっちゃらってことっすかねー。




その「家」の脇には、「甕城」の出入り口が。








城壁の上は、別に観光用に整備されているわけではない。
私たちが、頼まれもしないのに、勝手に上っているだけである。
したがって、落ちてもけがしても「自己責任」。
ところによってはこんな細い「綱渡り」のような道もある。




そういう「未整備」の状態が延々と続く。

    

そ、そしてついに陥没した部分が!
あいやー。この細く残っているれんがの部分を渡って向こうに行く運動神経はないー。
しかも斜めになっているし。。おデブな私が乗っかったら、そのまま横倒しになったらどうしよう。。
地元の人はそれでもがんがん進んでいますが。。。
写真でもはるか向こうに人影が見えますね。
君たちは、雑技団ですか。。。すごすぎ。。。

    

外側を覗くと、立派な陣容を見せていますなー。



楡林のこれだけすばらしい観光資源を見ると、おそらく数年以内に大規模な開発がありそうですな。
数年後に訪れてみたら、この城壁もぴかぴかの新しいれんがにくるまれて、
まるでディズニーランドのようなテーマパーク化してそう。。。
こういう西部劇のような荒涼とした雰囲気は、味わえなくなるのでしょうな。。。

こちらは城壁の外、はるか向こうに見える道観。





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