いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2012年9月の記事一覧表

2012年09月30日 19時01分13秒 | 月別 記事の一覧表

2012年9月の記事一覧表:

 文革時代に黄土高原の農村に下放されたちしき青年が、里帰りする旅。時のいせいしゃ、かの人もこの付近に下放されていたとか:

2012.9.1.    里帰り1、30年変わらぬ風景
2012.9.2.    里帰り2、村にプレート贈呈
2012.9.3.    里帰り3、余興を披露


陕西省西安・佳県などへの旅 記事の一覧表

2012年09月16日 16時06分29秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

陕西省西安・佳県などへの旅

   陕西省の旅を写真中心に、気軽に。

記事の一覧表:

 西安のイスラム・ストリートのB級グルメリポート:
    西安回民街1、緑豆の涼粉炒め、河魚の丸揚げ
    西安回民街2、餅の蒸し菓子「鏡Gao」、グルテン串、糸切りモチ
    西安回民街3、牛筋のコラーゲンゼリー固め、揚げ餅とナン、吹き飴
    西安回民街4、おみやげアイテム「影絵」、「兵馬俑グッズ」とチェ・ゲバラ財布
    西安回民街5、羊の頭の丸ゆで、西羊市の賑わい
    西安回民街6、北院門どおり

 佳県で黄河の絶壁に浮かぶ天空の寺:
    佳県1・黄河にはりついた町
    佳県2・香炉寺
    佳県3・ドラマ『血色浪漫』に思いをはせる

 文革時代に黄土高原の農村に下放されたちしき青年が、里帰りする旅。時のいせいしゃ、かの人もこの付近に下放されていたとか:
    里帰り1、30年変わらぬ風景
    里帰り2、村にプレート贈呈
    里帰り3、余興を披露


里帰り3、余興を披露

2012年09月03日 15時35分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
さて。皆が集まったところで、まもなく演目が始まる。

   





ここで始まったのが、もう一人のちしき青年出身の李さんの余興。
なんと彼の今の職業は、マジシャンなのだ。


   


村に帰った記念に、村人に手品を披露ー。
プロということは、余興とはいえませんな。












この後、白眉だったのが、孫氏の元同僚のM氏の歌声。
M氏は前述のとおり、えんあんの要職を務められるが、見事な「信天遊」を歌われる。

「信天遊」は、民謡と韓国のパンソリを足して二で割ったような歌い方といったらいいだろうか。
陝西の伝統芸能である。

民謡ほどあっけらかんとした高音ではなく、もう少し湿っぽいが、パンソリよりはメロディアスだ。


M氏は、地元・陝北の綏徳の出身。
陝北では、「米脂の婆息、綏徳の漢」といい、米脂は美人の産地、綏徳は好漢の産地という。
綏徳の男は、男の中の男というわけだ。

そんな陝北の本場仕込みの歌は見事であった。

「信天遊」は、パンソリと同じように、年輪を重ねるほど人生の味わいが加わって心に響く。
若造のあっけらかんとした深みのない歌声は、まったく評価されない。
その意味でも60を過ぎたM氏の芸は、すばらしかった。

ちなみにM氏は、書道家としても評価が上がりつつあり、
数年後に迫った定年後は、書道三昧の日々を楽しみにしているという。


実はこの後、私も歌を歌わされましたー(がは)
日本人が来たなら日本の歌を歌え、M氏に凄まれ、ご自身も歌われる以上、
とてもお断りできないような雰囲気だったので、
やむなく童謡の「ふるさと」をうたいまいた。




村人総出。







農家の庭に鈴なりの人々ー。

   


農閑期ののんびりした村の暇つぶしには、楽しんでもらえたような感じでした。


   










   

  
   


私は北京から女性たちにネックレスやイヤリングなどのアクセサリーを持参。
バンバン配りまくりましたー。喜んでもらえたよう。



こちらはM氏の奥様。


   


   





みごとに「非戦闘員」構成が多い農村。

   

何しろ男女とも45歳くらいになると、働き口も限られてくる。
稼げる年数は限られてくるから、都会に出稼ぎに行かないわけにはいかんのだ。


   


   





   


   

    

わんころ。






   



会場は、そのままだらだらと、井戸端会議に移行。
日向ぼっこはどこでしても同じー。


 







こういうイベントには、横断幕は必須。
ちゃんと用意してきましたよー。










ちなみにこの村は、みごとに皆「窯洞(ヤオトン)」という黄土に横穴を繰り抜いた伝統住宅に住んでいる。
アーチ型の門構えがその特徴。
もうたくとうが、えんあんの革命基地で住んでいたのもそういうヤオトンだ。
今回は、すでに何度もえんあんに来たことのある人たちといっしょに来たがために、
あまりにもオーソドックスな観光地には、連れていってもらえず、あえなく断念。











手品で出したお花をもって。

左端の別嬪さんは、M氏の姪御さんだそうな。
陕西はエキゾチックな美人が多いと思う・・・・・・・。

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里帰り2、村にプレート贈呈

2012年09月02日 15時35分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅
孫氏、村人と話に花が咲く。












みごとに。若者は、まったくいませんな。
春節休みが、終わったところのこの時期、若者らは、すでにえんあんの町に働きに戻っているのだという。








    







さて。
孫氏とちしき青年の仲間たちはこの度、金のプレートを記念に作ってきたのだ。
それを村人らにプレゼントし、この村に自分たちの足跡も残した。

おもむろにそのプレートを持ち出す。





まずは皆で記念撮影。





書かれいている内容は。
「懐念何家村父老郷親(何家村のご老人と親しき人々を想う)」
1969年1月、6名の北京ちしき青年がここで労働にいそしんだことを記し、最後に6人の名前が記されている。




孫氏のほか、もう一人、今回の旅では、6人中2人が再訪。
残りの4人もプレートの制作費用は出したという。確か合計500元だったといっていた。

これない4人も村人への気持ちを託したというわけである。

なかなか粋な計らいではないか。


当時は、一つの村に大体4-6人程度の配属が一般的だったという。
写真を見てわかるだろうが、村人の人口規模などを見ても
(おそらくこの日は、歩ける村人は、全員出てきて、見物にきてまっす!)

外来人口で受け入れられるのが、せいぜいその程度の数だったことは、想像できる。
それ以上受け入れても、食べさせる能力に限界があるということだ。


ちしき青年らは、村の空き家を与えられて寝泊まりし、食事は各家庭の食卓に混ぜてもらい、
農民らとともに農作業に参加したという。



村の入り口でひとしきりおしゃべりやプレートのご披露が済んだところで、
今度は、少し高台にある村の書記の事務所兼自宅に行く。





村の書記は、村人ではなく、役人の系統から配属されてきて、数年ごとに変わる。
つまりここからさらに出世していく官僚さんだ。




一番左の人。まだ若い人ですな。


高台の書記のお宅もほかの農家と同様、家の前に大きな庭がある。
農作業などをする場所でもあり、村の集会所にもなっている。



女性たちと情報交換。








若いお母さんと子ども。

 
  

きびしい冬に風邪をひいては大変だから、もおおおもこもこに着込んでおりまっす。

   



帽子も必須。耳から風邪ひきますからな。

   

はいている靴もどうも手編みっぽい。母の愛。





左の人が、もう一人のちしき青年出身。
この村で2年を過ごした後は、西安の文工団に就職先を求め、西安で過ごしたそうだ。
そこで若者どうしの紹介で同じ北京出身の今のおくさんと知り合って結婚。

この時期のちしき青年らは、北京に戻るために、絶対に現地の人とは恋愛しないよう、心に誓っていた人が多い。
それは自分が北京に戻りたい時、相手が完全に外地の人であれば、北京戸籍の取得がかなり絶望的だからだ。

北京からのちしき青年であれば、戸籍が戻してもらえる可能性はまだ高い。

こうして北京出身のちしき青年同士が結婚し、とりあえずは西安で暮らし、北京に戻れるチャンスをうかがっていた。
先に戻ったのは、夫のほうである。

彼は道路掃除の枠が空いていたので、それに応募し、北京に戻ることができた。
本来ならあまり人がやりたがらない仕事だが、とにかく戸籍を取得し、戻ることが先決だ、と考えたのである。

そこから奥さんと子供を西安から呼びもどすには、何年もかかったという。
毎月の給与から少しでも多く西安の家族に会いに行くための旅費をねん出しつつ、
おくさんの北京の受け入れ先の職場を見つけるためにあちこちに運動する資金もいる。

数年後にようやく家族が北京でいっしょに暮らせるようになったのだという。




右の方は、孫氏がのちにえんあん文工団に職を得た際の元同僚のM氏。
今では、えんあん市の要職につかれている。
今回は、孫氏の里帰りのためにいろいろと手配してくれたという。








村人らが、どんどん集まってくる。







   


   





   


   


   







   


   


   





   

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里帰り1、30年変わらぬ風景

2012年09月01日 13時22分11秒 | 陕西省西安・佳県などへの旅

さて。

次はどこのデータをアップしていこうか、と物色していたら、
ある記事を読んで、おおお!と、思い出したことがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20121105/239069/

私が友人らの一団にくっついてこの旅に参加したのは、2011年の春節明けなのだが、
その時に話されていた内容を思い出したのである。

先日、「燕翼堂義塾」の記事にも書いたとおり、この旅は、
一団のメンバーの一人、画家の孫大立氏の下方先の里帰りに同行したものである。


北京出身の孫氏は、まさに文革の下方世代。
十代の後半にえんあん郊外、今では車で30-40分行ったところの何家村に下方された。

そこで2-3年を過ごした後、今度はえんあん文工団に美術係として職を求めて数年。

そのあたりですでに文革は終わり、知識青年らは、それぞれに伝手を求めたり、
運動をしたりして、何とか北京に職を求め、北京戸籍を取り戻して帰って行ったが、彼はそれでも帰れなかった。

今度は邯鄲(河北省、北京の南)に配属され、ついに最後まで北京戸籍をもらえず、外地戸籍のまま帰還。
90年代も後半になり、ようやく北京戸籍を取得した、というかくめい的な経歴の人である。


その孫氏が、30年以上ぶりに下方先に「里帰り」する、というのが、
今回の旅の大きな目的であった。
我々は、それに野次馬的に同行したということである。

その際、皆の会話の中に、今回のたいかいで新たにリーダーとなったしゅう氏も当時の北京ちしき青年の仲間であり、
彼が下方されていた村は、数kmしか離れていないところだった、という内容があり、皆で沸き立った記憶があった。


上記の記事には、これからのリーダーは、せんせい閥--つまり、内陸部に下方された経験をもつ世代がけん引する、というようなことが書かれており、
「おお。まさにあの村のような環境で青春時代を送った都会の青年ら」
と印象深かったのである。

そのせんせい閥が、青春をどういう場所で過ごしたのか。
村は違えど、おそらくよく似たようなものだろう。
この一群の写真が、その想像に少しでも役立つのではないか、と私は信じる。




北京からちしき青年らが帰ってくるということで、村人らが村の入り口に集まる。




孫氏。まずは記憶の確認。
あなたは、どこどこのばあさまの誰で、と自分が当時、知っていた人とつながりがあるかどうかを確認していく。











   


村人たちが、わさわさと集まってきます。





何家村は、かくめいの聖地えんあんからどうやっていくかというと、
まずはえんあん市内を出て、国道を一路北に進んでいく。
車で15-20分ほど走った後、国道からごく小さな道を西側に入っていく。

ここからがすごい。
山の谷間沿いの道は舗装なく、がたがたぼこぼこの壮絶な路面だ。
これを延々と谷間を縫うこと20分近く。
谷沿いにいくつかの村が現れるが、何家村は、そのいくつか目の村だった。


    


    

2月。河はまだ凍っている。










ちしき青年らが、この土地を離れ、30年以上がたった。
北京といわずとも、わずか20-30kmほど離れただけのえんあんは、ビルの建設ラッシュ真っ盛りだ。

石油・石炭などの地下資源景気で、陝西では大量の成金がマンションを買いあさり、高級ジープを乗り回す。

そんな下界の喧騒から、この村は完全に無縁だ。
唯一、変わったことといえば、若者らが都会に出ていき、村には婦女子・老人・子供・障碍者しか残っていないことだけだ。

村の風景は、おそらく孫氏らがここにいた時と何らかわらないだろう。














鶏たちに人間が飼料をやることはない。
鶏らはその辺を自分でかけまわり、勝手にわらや虫を食べて自力で生活する。
















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