金沙江の上にかかる鉄橋を渡って南下すると、まもなくナシ族梅氏のがある。
梅氏は、吐蕃から金沙江を渡って最初のナシのであることもあり、古くから吐蕃と最も関係が深い。
吐蕃と南詔が対立していた時代には、梅氏が吐蕃の水先案内人を務め、南詔攻撃の先兵になったこともあれば、
吐蕃が、Er海エリア(南詔の本拠地)に軍隊を駐留させる際、その利益を山分けしたこともあった。
このように吐蕃から利益を得ることが多く、吐蕃との結束が固い梅氏は、
南詔の吐蕃離反に備えるように、という使者の命令に対し、力強い承諾を返したのであった。
次に吐蕃の使者は、さらに南下し、尤氏のも訪れた。
この時、尤氏の根拠地は、今の麗江・大研城ではなく、白沙---白沙岩脚院である。
麗江での在所の移り変わりは、また後述したい。
吐蕃の使者は、南詔の北上の備え、二千の兵を供出しろ、と命じた。
尤酋長は、吐蕃の使者を丁重にもてなし、母房の火のそばの最も尊貴なる位置に案内した。
大鍋一杯にTuotuo(陀の右が石x2)肉を煮る。
Tuotuo肉は、元々はイ族の料理というが、チベット族、ナシ族などの遊牧の習慣のある西の民族の間では、広く食べられているようだ。
最高級の肉は牛、その次に羊、ブタ、鶏、と客人のランクにより順番に下がる。
大鍋に水をたっぷりと張り、水から肉を煮ていく。
肉というのは、70度以上になると固くなり、その後、何時間も煮込むと再び柔らかくなる。
つまり火が通った瞬間か、何時間も煮込んだ後、のどちらか以外は、硬くなる。
そこでTuotuo肉は、火が通るか通らないか、のぎりぎりの瞬間を見極めて、肉を湯から引き揚げ、
手づかみでニンニクのみじん切りを溶かした水、塩、とうがらし粉などにつけて食べる、という素朴な料理だという。
火が通ったタイミングを見極めることが難しいため、Tuotuo肉は素人では作れないといわれる。
・・・・・こういった郷土料理を食べたよおお、と写真入りで紹介できればよいのですが、
何度もしつこく書いているように、財布事情が許さなくて、残念。
いずれ食べる機会があれば、ぜひリンクさせたいものでっす。
麗江古城。ワンころを激写するも、相手にしてもらえません。
吐蕃の使者を恭しく接待し、二千の兵の供出にも快く応じた尤酋長だが、
使者が帰ると、このことを南詔に知らせるべきか、考え始めた。
南詔が唐と袂を分かち、吐蕃に乗り換えたのは41年前。
元はといえば、尤氏から出した妃の仇を取るためである。
いわば、南詔は尤氏のために国の命運をかけて、仁義を切ってくれたともいえるわけで、
あれから半世紀近くたったとはいえ、尤氏一族が感情的に南詔に傾くのは自然の理である。
あれこれと考えた挙句、尤酋長はやはり南詔王・異牟尋に知らせることにした。
尤酋長は少数の伴の者とともに馬を三日三晩を駆け、Er海のほとりにやってきた。
南詔の宮廷に到着し、南詔王に吐蕃の使者に関する事実を話していると、
今度は吐蕃の使者が、南詔の宮廷に突然現れる。
王の異牟尋は、尤酋長が来ていることなどおくびにも出さず、吐蕃の使者を迎えた。
吐蕃側は南詔の離反の有無を探るため、その忠誠心を試しに来たのだ。
当時、吐蕃は北のウィグル(回糸乞)との戦いの最中であり、1万の兵を出せ、と使者は言った。
南詔王・異牟尋は、言葉の限りを尽くしてその無理を訴えた。
元から大して人口も壮丁もいない我が国に1万も兵を出せるわけがないことは、貴下もご存じのはず、
第一、唐が攻めてくるかもしれないのに、最前線にあるわが国の兵を空にするわけにはいかぬ、と。
右から左から、上から下から、とあらゆる角度から切々と理を説かれると、使者の方もそうかもしれないという気になってくる。
それでは、5000の兵で許そう、ということでようやく折り合いがつき、吐蕃の使者は帰って行った。
兵は、吐蕃の南に向けた最前線である鉄橋城に直ちに派遣することとなった。
どこをどう切り取っても絵になりますなああ。この町は。
吐蕃の使者が帰ると、異牟尋はすぐに命じた。
5000の兵を直ちに出発させると同時に、別部隊で3万の部隊を迂回させて鉄橋城を急襲する、と宣言した。
もうすでに吐蕃と袂を分かち、吐蕃勢力を金沙江の向こう側へ追い出す決心を固めたのである。
「尤酋長」
と、異牟尋は呼びかけた。
「鉄橋城まで、老君山の後ろから迂回する道を案内をしてくださらんか」
尤氏ナシ族はそのあたりの地理には詳しく、確かにうってつけの役であった。
こうして尤酋長の一行は、3万の部隊の進路を案内することになった。
老君山の山脈は、金沙江が鉤型に曲がったところから、少し北へ行った西側に、南北に向かって続く。
本来、道というのは川沿いに谷を行くのが最も歩きやすく、金沙江に沿って北上するのが、古来より綿々と人々に踏み固められてきた道だ。
南詔の3万部隊は、吐蕃や吐蕃の息のかかった梅氏ナシ族などに見つからないために、わざわざ山脈一つ西側に隔てたルートを行こうとしていた。
道中は険しい山道が続き、地理に詳しい者でなければ、自分がどこにいるのかもわからなくなる可能性がある。
その感覚は確かにこの旅でも実感できた。
麗江からログ湖へ行く道は、ひたすら山の中をぐるぐるとまわっていき、
どこで金沙江を超えたのだか、その必然性がどこにあるのか、どちらが東西南北なんだか、さっぱり見当もつかなくなる。
昔、馬や徒歩で旅した人々もさもありなん、である。
尤氏一行のおかげで、3万部隊は滞りなく、鉄橋から山を一つ隔てた密林の中までやってきた。
山の上から見ると、遥か下に金沙江の黄色く濁った荒波が流れ、その上に鉄橋がかかり、その向こうには鉄橋城が見えた。
「オフィシャル」に派遣された5000部隊の方は、すでに順調に行程を終え、
鉄橋城に到着、吐蕃側の駐屯部隊に迎え入れられ、鉄橋城内に宿泊していた。
3万部隊の一行は、老君山の西側の密林の中で夜になるのを待った。
草木も眠る丑三つ時、ようやく鉄橋城内の吐蕃兵が、死んだように眠りこけた頃を見計らい、
松明に火を煌煌と燃やし、鬨(とき)の声を挙げて、一気に鉄橋を渡り、鉄橋城に突撃していった。
城内で息を殺して、その瞬間を待っていた5000の南詔兵らは、その怒涛のような雄たけびを聞くと、
それ、とばかりに城門に殺到して、城門を開け、仲間らを招き入れてしまった。
あとはあっという間に吐蕃兵らを捕虜にし、鉄橋城の占領は完了した。
麗江古城。一見、ヨーロッパ中世の街並みのようにも見える。
梅氏は、吐蕃から金沙江を渡って最初のナシのであることもあり、古くから吐蕃と最も関係が深い。
吐蕃と南詔が対立していた時代には、梅氏が吐蕃の水先案内人を務め、南詔攻撃の先兵になったこともあれば、
吐蕃が、Er海エリア(南詔の本拠地)に軍隊を駐留させる際、その利益を山分けしたこともあった。
このように吐蕃から利益を得ることが多く、吐蕃との結束が固い梅氏は、
南詔の吐蕃離反に備えるように、という使者の命令に対し、力強い承諾を返したのであった。
次に吐蕃の使者は、さらに南下し、尤氏のも訪れた。
この時、尤氏の根拠地は、今の麗江・大研城ではなく、白沙---白沙岩脚院である。
麗江での在所の移り変わりは、また後述したい。
吐蕃の使者は、南詔の北上の備え、二千の兵を供出しろ、と命じた。
尤酋長は、吐蕃の使者を丁重にもてなし、母房の火のそばの最も尊貴なる位置に案内した。
大鍋一杯にTuotuo(陀の右が石x2)肉を煮る。
Tuotuo肉は、元々はイ族の料理というが、チベット族、ナシ族などの遊牧の習慣のある西の民族の間では、広く食べられているようだ。
最高級の肉は牛、その次に羊、ブタ、鶏、と客人のランクにより順番に下がる。
大鍋に水をたっぷりと張り、水から肉を煮ていく。
肉というのは、70度以上になると固くなり、その後、何時間も煮込むと再び柔らかくなる。
つまり火が通った瞬間か、何時間も煮込んだ後、のどちらか以外は、硬くなる。
そこでTuotuo肉は、火が通るか通らないか、のぎりぎりの瞬間を見極めて、肉を湯から引き揚げ、
手づかみでニンニクのみじん切りを溶かした水、塩、とうがらし粉などにつけて食べる、という素朴な料理だという。
火が通ったタイミングを見極めることが難しいため、Tuotuo肉は素人では作れないといわれる。
・・・・・こういった郷土料理を食べたよおお、と写真入りで紹介できればよいのですが、
何度もしつこく書いているように、財布事情が許さなくて、残念。
いずれ食べる機会があれば、ぜひリンクさせたいものでっす。
麗江古城。ワンころを激写するも、相手にしてもらえません。
吐蕃の使者を恭しく接待し、二千の兵の供出にも快く応じた尤酋長だが、
使者が帰ると、このことを南詔に知らせるべきか、考え始めた。
南詔が唐と袂を分かち、吐蕃に乗り換えたのは41年前。
元はといえば、尤氏から出した妃の仇を取るためである。
いわば、南詔は尤氏のために国の命運をかけて、仁義を切ってくれたともいえるわけで、
あれから半世紀近くたったとはいえ、尤氏一族が感情的に南詔に傾くのは自然の理である。
あれこれと考えた挙句、尤酋長はやはり南詔王・異牟尋に知らせることにした。
尤酋長は少数の伴の者とともに馬を三日三晩を駆け、Er海のほとりにやってきた。
南詔の宮廷に到着し、南詔王に吐蕃の使者に関する事実を話していると、
今度は吐蕃の使者が、南詔の宮廷に突然現れる。
王の異牟尋は、尤酋長が来ていることなどおくびにも出さず、吐蕃の使者を迎えた。
吐蕃側は南詔の離反の有無を探るため、その忠誠心を試しに来たのだ。
当時、吐蕃は北のウィグル(回糸乞)との戦いの最中であり、1万の兵を出せ、と使者は言った。
南詔王・異牟尋は、言葉の限りを尽くしてその無理を訴えた。
元から大して人口も壮丁もいない我が国に1万も兵を出せるわけがないことは、貴下もご存じのはず、
第一、唐が攻めてくるかもしれないのに、最前線にあるわが国の兵を空にするわけにはいかぬ、と。
右から左から、上から下から、とあらゆる角度から切々と理を説かれると、使者の方もそうかもしれないという気になってくる。
それでは、5000の兵で許そう、ということでようやく折り合いがつき、吐蕃の使者は帰って行った。
兵は、吐蕃の南に向けた最前線である鉄橋城に直ちに派遣することとなった。
どこをどう切り取っても絵になりますなああ。この町は。
吐蕃の使者が帰ると、異牟尋はすぐに命じた。
5000の兵を直ちに出発させると同時に、別部隊で3万の部隊を迂回させて鉄橋城を急襲する、と宣言した。
もうすでに吐蕃と袂を分かち、吐蕃勢力を金沙江の向こう側へ追い出す決心を固めたのである。
「尤酋長」
と、異牟尋は呼びかけた。
「鉄橋城まで、老君山の後ろから迂回する道を案内をしてくださらんか」
尤氏ナシ族はそのあたりの地理には詳しく、確かにうってつけの役であった。
こうして尤酋長の一行は、3万の部隊の進路を案内することになった。
老君山の山脈は、金沙江が鉤型に曲がったところから、少し北へ行った西側に、南北に向かって続く。
本来、道というのは川沿いに谷を行くのが最も歩きやすく、金沙江に沿って北上するのが、古来より綿々と人々に踏み固められてきた道だ。
南詔の3万部隊は、吐蕃や吐蕃の息のかかった梅氏ナシ族などに見つからないために、わざわざ山脈一つ西側に隔てたルートを行こうとしていた。
道中は険しい山道が続き、地理に詳しい者でなければ、自分がどこにいるのかもわからなくなる可能性がある。
その感覚は確かにこの旅でも実感できた。
麗江からログ湖へ行く道は、ひたすら山の中をぐるぐるとまわっていき、
どこで金沙江を超えたのだか、その必然性がどこにあるのか、どちらが東西南北なんだか、さっぱり見当もつかなくなる。
昔、馬や徒歩で旅した人々もさもありなん、である。
尤氏一行のおかげで、3万部隊は滞りなく、鉄橋から山を一つ隔てた密林の中までやってきた。
山の上から見ると、遥か下に金沙江の黄色く濁った荒波が流れ、その上に鉄橋がかかり、その向こうには鉄橋城が見えた。
「オフィシャル」に派遣された5000部隊の方は、すでに順調に行程を終え、
鉄橋城に到着、吐蕃側の駐屯部隊に迎え入れられ、鉄橋城内に宿泊していた。
3万部隊の一行は、老君山の西側の密林の中で夜になるのを待った。
草木も眠る丑三つ時、ようやく鉄橋城内の吐蕃兵が、死んだように眠りこけた頃を見計らい、
松明に火を煌煌と燃やし、鬨(とき)の声を挙げて、一気に鉄橋を渡り、鉄橋城に突撃していった。
城内で息を殺して、その瞬間を待っていた5000の南詔兵らは、その怒涛のような雄たけびを聞くと、
それ、とばかりに城門に殺到して、城門を開け、仲間らを招き入れてしまった。
あとはあっという間に吐蕃兵らを捕虜にし、鉄橋城の占領は完了した。
麗江古城。一見、ヨーロッパ中世の街並みのようにも見える。
風土や民族性と関係あるのかな?
西洋文化の影響、もしくは草原の民のダンディズムであり、
南方にそういう文化はないように思います。
麗江は、スノッビーな都会の若者の集まる場所でもあり、
ヨーロッパにおけるイビサ島かしら、と私は思っています。
ですから大きな犬は、都会に疲れました、というスタイルを気取る北京、上海、広東あたりから移住してきたプチブルが飼っているケースの方が多いのではないかと思います。