和[王申](満州語名ヘシェン)は、金銭に異様に執着したと伝えられる、
野史では、それを「家柄が悪く、小さい頃貧乏だったのでその反動」という。
しかし家柄が悪い、というのは当たっていない。
和[王申]は乾隆十五年(一七五0)に満州正紅旗に生まれる。
姓はニウフル氏、満州八大貴族として歴代数々の重臣や皇后を出し、深く政権と結びついてきた一族だ。
乾隆帝の生母もニウフル氏(の出ということになっている)、乾隆帝の二番目の皇后もニウフル氏である。
一族の始祖はヌルハチに従い、東北から北京入りした功臣・額爾都(オルト)。
曽祖父の尼雅哈納(ニヤハナ)は、軍功のため三等軽車都尉(さんとうけいしゃとい)の爵位の世襲を許された。
それ以来、和[王申]の先祖はずっと、この爵位を継承している。
爵位なので、実権はない。
俸禄は年間百六十両、大金ではないが、
当時の二品官の俸禄が百五十五両だったことを考えると、決して少ない額でもない。
和[王申]の父・常保(チャンボー)は、四代目継承者としてこの爵位を継いだ。
その上、軍人として軍功を重ね、正二品の福建副都統に就任する。
正二品官といえば、かなりの高官であり、俸禄・百五十五両以外にも、養廉銀・千両も受け取ることができる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
以上のように、和[王申]は満州貴族としてはかなり裕福で地位の高い家に生まれたと言えるだろう。
家柄は決して悪くない。
「小さい頃貧乏した」という話が広く伝わったのは、如何なる理由によるものか。
金銭への異常な執着心があったのは事実であり、
それが幼児体験が関係あるに違いない、という解釈らしい。
これには一理ある。
実は、和[王申]の家柄と父親の社会的地位は決して悪くなかったのだが、
両親を早くになくすという不幸があった。
和[王申]の生母は、河庫道員・嘉謨(ジャモ)の娘、
これまた家柄としては申し分ない。
河庫道員は四品の中堅ポストだが、実入りが多い。
清代、大河の治水には毎年八百万両という莫大な予算がかけられていた。
治水に関わる官職は何でも予算が豊富だったのである。
土木工事が絡むと関係者が潤うのは、現代も変わらない。
そんなエリート家庭同士の結婚だった和[王申]の両親であるが、
不幸にも生母は弟の和琳(満州名ヘリエン)を生むときに産後の肥立ちが悪くて他界する。
その後、父親は後添えとして吏部尚書・伍弥泰(オミタイ)の娘を輿入れさせた。
尚書といえば大臣クラス、今度はさらに家柄のいい所の娘をもらったのである。
最初の結婚のときより男も出世しているので、さらに条件が上がったのだろう。
若いまだ駆け出しの武官の頃は無冠で戦場を駆け回り、継いだ三等軽車都尉(さんとうけいしゃとい)も大した爵位でもない。
少し出世した後で取る嫁の実家の地位が違うのは、自然である。
---これが和[王申]兄弟にとっては、不幸の始まりだった。
後妻が低い家柄の女性なら、本妻の子供にも一目置いてくれようが、
さらに高い家柄の家から来たのだから、ろくな扱いはしなかっただろう。
史書にそんな事実は書いていないが、和[王申]の偏った性格を見れば、その幼児体験は大体想像がつくというものである。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
和[王申]の父は、武官として外地勤務が多く、年に数回も帰ってこれない。
その留守の間は、天下の吏部尚書・伍弥泰()(オミタイ)の娘である継母が家を采配していた。
その後この継母が男児を生んだため、わが子かわいさも手伝い、和[王申]兄弟への扱いは、余計に悪くなったに違いない。
悪いことに和[王申]九歳の年、父親が勤務先の福建で客死した。
さらなる不幸の追い討ちである。
それまではなさぬ仲の継母が家を預かっているとはいえ、父親の副都統としての俸禄は潤沢なものだったから、
和[王申]兄弟もあまり不自由はしなかっただろう。
それが父親の死後は、いくらかある荘園の小作代だけが収入となり、家計は悪化して行く。
継母は実家が吏部尚書まで務めた高官なので、時には実家に援助を求めることもできたろうが、それにも限りがある。
恐らく自分の娘直系の血縁者が不自由なく暮らす程度の援助はしたとしても、
「なさぬ仲」の和[王申]兄弟は、どうしても後回しになって行ったことだろう。
着るものも異母兄弟より粗末なものを与えられ、食べるものも差をつけられたに違いない。
そうなると、使われる召使いも和[王申]兄弟の担当になれば待遇が悪くなり、屋敷の中でも馬鹿にされて軽んじられる。
この幼い主人二人が、使用人からも軽んじられるようになり、異母兄弟からはいじめられる、というのは当然の流れである。
そんな状況を考えると、和[王申]は小さい頃かなりお金にひもじい思いをしたことが想像できる。
権力を握ってからの異常な金銭欲はこの幼児体験から来ているのではないだろうか。
これに対して、弟の和琳は天真爛漫なものである。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
と、泣きべそをかいていれば、基本的には兄が解決してくれる・・・・。
このために兄弟二人はまったく違う性格に育つ。
和[王申]が出世してからの軌跡を追っていくと、
兄があれだけ悪しざまに書かれ、恥も外聞もなく、富の収集に血眼になっているのに対し、
弟の方は、兄の七光りを受けて出世もさせてもらうし、豊かな立場につきつつも、
何か淡々と任務をこなしている。
兄とは違う印象--。
和琳は外部からの風当たりを兄が一身に引き受けてくれたために、心優しい穏やかな青年に育ったらしいのだ。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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野史では、それを「家柄が悪く、小さい頃貧乏だったのでその反動」という。
しかし家柄が悪い、というのは当たっていない。
和[王申]は乾隆十五年(一七五0)に満州正紅旗に生まれる。
姓はニウフル氏、満州八大貴族として歴代数々の重臣や皇后を出し、深く政権と結びついてきた一族だ。
乾隆帝の生母もニウフル氏(の出ということになっている)、乾隆帝の二番目の皇后もニウフル氏である。
一族の始祖はヌルハチに従い、東北から北京入りした功臣・額爾都(オルト)。
曽祖父の尼雅哈納(ニヤハナ)は、軍功のため三等軽車都尉(さんとうけいしゃとい)の爵位の世襲を許された。
それ以来、和[王申]の先祖はずっと、この爵位を継承している。
爵位なので、実権はない。
俸禄は年間百六十両、大金ではないが、
当時の二品官の俸禄が百五十五両だったことを考えると、決して少ない額でもない。
和[王申]の父・常保(チャンボー)は、四代目継承者としてこの爵位を継いだ。
その上、軍人として軍功を重ね、正二品の福建副都統に就任する。
正二品官といえば、かなりの高官であり、俸禄・百五十五両以外にも、養廉銀・千両も受け取ることができる。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
以上のように、和[王申]は満州貴族としてはかなり裕福で地位の高い家に生まれたと言えるだろう。
家柄は決して悪くない。
「小さい頃貧乏した」という話が広く伝わったのは、如何なる理由によるものか。
金銭への異常な執着心があったのは事実であり、
それが幼児体験が関係あるに違いない、という解釈らしい。
これには一理ある。
実は、和[王申]の家柄と父親の社会的地位は決して悪くなかったのだが、
両親を早くになくすという不幸があった。
和[王申]の生母は、河庫道員・嘉謨(ジャモ)の娘、
これまた家柄としては申し分ない。
河庫道員は四品の中堅ポストだが、実入りが多い。
清代、大河の治水には毎年八百万両という莫大な予算がかけられていた。
治水に関わる官職は何でも予算が豊富だったのである。
土木工事が絡むと関係者が潤うのは、現代も変わらない。
そんなエリート家庭同士の結婚だった和[王申]の両親であるが、
不幸にも生母は弟の和琳(満州名ヘリエン)を生むときに産後の肥立ちが悪くて他界する。
その後、父親は後添えとして吏部尚書・伍弥泰(オミタイ)の娘を輿入れさせた。
尚書といえば大臣クラス、今度はさらに家柄のいい所の娘をもらったのである。
最初の結婚のときより男も出世しているので、さらに条件が上がったのだろう。
若いまだ駆け出しの武官の頃は無冠で戦場を駆け回り、継いだ三等軽車都尉(さんとうけいしゃとい)も大した爵位でもない。
少し出世した後で取る嫁の実家の地位が違うのは、自然である。
---これが和[王申]兄弟にとっては、不幸の始まりだった。
後妻が低い家柄の女性なら、本妻の子供にも一目置いてくれようが、
さらに高い家柄の家から来たのだから、ろくな扱いはしなかっただろう。
史書にそんな事実は書いていないが、和[王申]の偏った性格を見れば、その幼児体験は大体想像がつくというものである。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
和[王申]の父は、武官として外地勤務が多く、年に数回も帰ってこれない。
その留守の間は、天下の吏部尚書・伍弥泰()(オミタイ)の娘である継母が家を采配していた。
その後この継母が男児を生んだため、わが子かわいさも手伝い、和[王申]兄弟への扱いは、余計に悪くなったに違いない。
悪いことに和[王申]九歳の年、父親が勤務先の福建で客死した。
さらなる不幸の追い討ちである。
それまではなさぬ仲の継母が家を預かっているとはいえ、父親の副都統としての俸禄は潤沢なものだったから、
和[王申]兄弟もあまり不自由はしなかっただろう。
それが父親の死後は、いくらかある荘園の小作代だけが収入となり、家計は悪化して行く。
継母は実家が吏部尚書まで務めた高官なので、時には実家に援助を求めることもできたろうが、それにも限りがある。
恐らく自分の娘直系の血縁者が不自由なく暮らす程度の援助はしたとしても、
「なさぬ仲」の和[王申]兄弟は、どうしても後回しになって行ったことだろう。
着るものも異母兄弟より粗末なものを与えられ、食べるものも差をつけられたに違いない。
そうなると、使われる召使いも和[王申]兄弟の担当になれば待遇が悪くなり、屋敷の中でも馬鹿にされて軽んじられる。
この幼い主人二人が、使用人からも軽んじられるようになり、異母兄弟からはいじめられる、というのは当然の流れである。
そんな状況を考えると、和[王申]は小さい頃かなりお金にひもじい思いをしたことが想像できる。
権力を握ってからの異常な金銭欲はこの幼児体験から来ているのではないだろうか。
これに対して、弟の和琳は天真爛漫なものである。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
と、泣きべそをかいていれば、基本的には兄が解決してくれる・・・・。
このために兄弟二人はまったく違う性格に育つ。
和[王申]が出世してからの軌跡を追っていくと、
兄があれだけ悪しざまに書かれ、恥も外聞もなく、富の収集に血眼になっているのに対し、
弟の方は、兄の七光りを受けて出世もさせてもらうし、豊かな立場につきつつも、
何か淡々と任務をこなしている。
兄とは違う印象--。
和琳は外部からの風当たりを兄が一身に引き受けてくれたために、心優しい穏やかな青年に育ったらしいのだ。
元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
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