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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語5、 アイシンギョロ家と功臣らの関係

2016年05月05日 09時37分42秒 | 和珅少年物語
和[王申]の通った咸安宮官学が、元は包衣専門の学校だったことからまた脱線したが・・・。

本題に戻ると。

咸安宮官学建てられたのは、内務府包衣子弟の教育の強化のためであった。

これまで見てきたように皇帝一家の「奴隷」である包衣身分の集団は、
一見底辺の下層民のように見えて、実は皇帝が最も信頼する「内輪」の扱いを受けてもいる。


康煕二十五年(1686)、内務府包衣子弟のために景山官学が作られる。
このときの学校設立の目的は、元々、満州語も漢語もある程度の基礎がある彼らをさらに磨き上げて、
翻訳人員を養成することだったと思われる。
定員三百六十六名で代々続いた。


皇帝一家のアイシンギョロ家にとって、皇族や建国の功臣というのは、
重要な一族であり、婚戚でもありながら、同時に油断できない相手でもあった。

ヌルハチのアイシンギョロの一族が取った天下は、
当然のことながら、満州族全体の貢献がなければ、取れなかったものであり、
有力な功臣の一族は常に

「もっと取り分をよこせ」
「誰のおかげで天下が取れたと思っているんだ」

という圧力をかけてやまぬ。


康熙帝の皇子らの間で勃発したガチンコの後継者争いも実はそれぞれに有力な功臣一族の勢力争いが背景にある。
皇太子の生母の実家が索尼(ソニン)の一族、皇長子の生母の実家が明珠(ミンジュ)の一族をそれぞれに背負っており、
一族の血を汲む皇子を皇帝につけんがために血眼になった。

康熙帝の時代はまだ建国も間もなく、そんな有力功臣らの強い突き上げを無視するわけに行かず、
それぞれの一族の娘を後宮に迎えたのである。

しかし時代が下り、皇権の強化が進むと、
もはや有力功臣一族から娘を皇后や妃に選ぶことはむしろ避けられるようになる。

それと同じ流れで皇帝にとって、有力功臣らや皇族は、手放しに安心できる相手ではなかった。

このため、

 宗学:   皇族の子弟のための学校
 覚羅学:  ヌルハチ以前に分派した親戚の子弟のための学校
 八旗官学: 八旗子弟のための学校

が次々に整備されていく中、
それでも別途に包衣子弟のための教育機関も欠かせなかったのである。

なぜなら、皇帝一家にとっては包衣の方が、功臣や皇族たちよりも安心できる相手だったからである。




元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


すでに康熙年間に設立されていた内務府包衣子弟のための学校・景山官学から、
雍正帝はさらに発展させて行こうとする。

雍正六年(一七二八)の上諭では、

 「咸安宮内の部屋に今、空きがある。
  景山官学の学生の勉強にはどうも身が入っていない。
  内府(内務府)下の幼童と官学生の中で、俊秀なる者五、六十名、または百余名を選び出し、
  翰林などを派遣し、咸安宮に住みこんで教授せよ。
  かの場所は部屋も多く、弓を射る場所もある。校舎と住居は爾(なんじ)らが手配して修理し、住まわせよ。」

と、内務府大臣に命じる。

内務府大臣は、歴代皇帝の最も信頼できる人物のみが就任する。
多くは皇族、皇子、包衣、寵臣であった。

景山官学のレベルに雍正帝は不満を持ったらしい。

ここで注目すべきは、八旗のためのほかの学校--八旗官学も宗学も
はっきり言ってあまり程度の高い学生ばかりではない点は同じであるにも関わらず、
なぜ内務府包衣だけ選抜して、さらにレベルの高い人材を育成しようとしたか、ということである。
 
宗学と覚羅学については、教育の目的は人材育成というよりは、
思想教育、---悪く言えば洗脳であったと思われる。

一族の長となった皇帝に忠誠を誓い、
一丸となって政権を盛り立てていくことが、結局は自分のためにもなる--、
その点をしっかりと叩き込むことができ、皇族として恥ずかしくない常識を持ってくれれば良かった。

が、皇位に近いだけに、あまり立派な人材に育って皇位を脅かすような逸材になってもらっても困る。
--それが雍正帝の本音であったろう。
 
八旗官学の八旗子弟にしても、包衣ほど使いやすくはない。
「他人様の子」として、多少の遠慮は伴う。

その点、本当に人材として育ってくれたら、思う存分活用できる位置にあったのが、包衣らであったといえる。



  

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。


雍正帝が当時おかれた立ち位置も考慮する必要がある・・・。

即位の正統性に大いに疑問があり、
皇族らから非難轟々の大合唱だったこと。

兄弟も親戚もすべて敵---。
血のつながった身内にほとんど信頼できる仲間がいなかったこと。

---そうした状況が、包衣人材の育成に気持ちを傾斜させていったかと思われる。

つまりは二つのポイントがある:

 1、信頼できる包衣という集団の中からの優れた人材の育成
 2、秘密主義を徹底する。
   --他の勢力に干渉させない、感知させない。


そんな熟慮の末に咸安宮という場所が選ばれた。

咸安宮は紫禁城の中にあり、禁中に学校を作るのは異例である。
内務府の各機関が集まる一帯ではあるが、皇帝の甥らが通う宗学でさえ禁中にはない。


それこそ雍正帝としては、逆に皇族こそ信用できない輩、決して身の辺に置きたくない連中だったのである。

咸安宮官学は、自分の目の届くところに設置し、自らもしっかりと監督したいという意気込みの現われではないだろうか。


もっと具体的にその位置をいうと、雍正年間に創立されたときは、紫禁城の西北角にあった(現在は寿安宮と呼ばれる)。
皇帝の住まい、養心殿の西北方向、歩いて数百歩ほど歩けばたどり着く距離である。

斜め向かいには、チベット密教を祭った雨花閣がある。
この界隈は現在一般開放されていないが、
近くの太極殿などから屋根越しに雨花閣の屋根に乗るグロテスクな爬虫類を連想させるモチーフをわずかに見ることができる。

その後、乾隆十六年(一七五一)、乾隆帝が太后(乾隆帝の生母)の六十歳の誕生日の記念式典を行う場所とするため、
改修工事が行われることになり、寿安宮(如何にも高齢女性の長寿を願う命名・・・・)と改名され、学校は西華門内に移転した。


 

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。



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