こうしてナシ族禾氏を再び雅Long(龍+石)江流域まで押し戻した南詔王の皮羅閣は、
その帰り、金沙江を渡り、尤氏のに立ち寄った。
弱小な小集団でしかない尤氏が、強大な武力をもつ南詔の大軍に恭順の意を示さないで済むわけはない。
尤氏は、を挙げて南詔軍を歓迎し、心尽くしの接待をした。
そこで南詔王である父の伴をして来ていた王子の閣羅鳳が、尤氏ナシ詔王の王女・蘭命と互いに一目惚れをする。
政治的にも隣接する二つの勢力が婚姻により友好関係を築くことはまったく悪い話ではなく、
王女・蘭命の南詔王家への輿入りが決まった。
蘭命はその後、南詔の王子・鳳伽異を生み、円満な家庭を育んだ。
ところが後にこのナシ族の王女・蘭命が、南詔国の運命の分岐点を決定する張本人となる。
その話をするために、まずは唐と南詔の関係について、おさらいしておこう。
唐が西南交易ルートを守るため、南詔を支援して周辺部族を統一させたことは前述のとおりである。
ところがまもなく、唐としては、思惑がはずれることになる。
南詔は唐の支援を受けておきながら、さらに現在の昆明地区など、雲南全域を征服すべく、軍事的に拡大していったのだ。
これにより唐が雲南で最も重視する西南交易ルートの細い回廊まで犯し始め、唐としては飼い犬に手をかまれたような形となった。
少し勢力が伸びたところで、南詔としては欲に目がくらみ、打ち出の小づちである西南ルートに手を出したくなるのは、人の情の常というものだろう。
こうして唐と南詔はしだいに対立するようになる。
このように唐と南詔の関係がただでさえ険悪となっていたところに、その事件は起きた。
当時すでに王となっていた南詔の閣羅鳳が、ナシ族から娶った妃の蘭命を伴い、成都に向かっていた。
唐との会盟に参加するためである。
その道中、四川(唐の領土)のよう(女兆)州都督に立ち寄ったのだが、
そこで一行を出迎えた太守の張虎陀は、妃・蘭命の美しさに目がくらんでしまった。
自分は一地方官でしかないながらも、相手は属国の王でしかない。
宗主国側の人間として、驕りが出たのだろう。
張は王夫妻の酒に睡眠薬を入れて昏睡させた後、妃を凌辱する。
意識を取り戻してからすべてを悟った妃は、屈辱のあまり、金沙江に身を投げて自殺した。
愛妃を失った怒りに気が動転した閣羅鳳は、もはや会盟どころではなく、そのまま成都には向かわないでまっすぐ来た道を帰り、国元に戻った。
まもなく10万の兵を揃えると、そのままよう州を襲撃、太守を血祭りに上げて、妃の死の仇を取ったのである。
そしてそれを知った唐の朝廷が、今度は20万人の軍隊を派遣して、南詔を討伐しに来ることとなった。
・・・・と、この事件だけを見れば、妃を寝取られても泣き寝入りしなければならない小国の哀しみよ、
ジャイアンのように横暴な大国が小国いじめをして、なんとも不条理、とも思えるのだが、実際の背景は、そんなに簡単ではない。
以前から唐側は、もうとっくに腹に据えかねており、喧嘩のきっかけを探していただけ、ということになる。
20万の大軍が攻めてくると聞いて、さすがに南詔王は慌てた。
いくら怒りのために頭に血が上っていたとはいえ、大国・唐が本気で攻めてくれば、小国の南詔がひとたまりもないことは、さすがにわかった。
南詔に残されている道は、もう一つしかなかった。
それは唐から寝返り、吐蕃と同盟を結ぶことである。
こうして752年、南詔王の閣羅鳳は、吐蕃から東帝の号を冊封され、吐蕃の同盟国となった。
南詔と吐蕃の連合軍は、唐の20万の大軍を迎え撃ち、これを撃退した。
南詔が唐から離反し、吐蕃と同盟を組んだのは752年、
その2年後にかの安史の乱が起きる。
自力で乱を収拾できなかった唐が吐蕃に援軍を求め、
その勢いで一時期、都・長安を占拠されてしまうのは有名な話だが、
この時の吐蕃軍には、実は南詔の部隊も参加しており、ともに長安占拠に加わっていたという。
しかし南詔の同盟を受け入れた吐蕃は、最初の頃こそ南詔を兄弟国として扱ったが、まもなく主従関係に落とされる。
最初からして対等な関係ではなかったのだから、当然である。
南詔は唐の20万の大軍派遣の知らせにびびりまくり、吐蕃に泣き付いてきて同盟したのである。
吐蕃としては、最初からまったく買う必要もない喧嘩をいっしょに戦ってやったのだから、対等であるはずもない。
また国力にも大きな差があったこともいうまでもない。
南詔にとって計算外だったのは、吐蕃の搾取が唐とは比べ物にならないくらい苛烈なものになったことだ。
元々、唐が南詔と同盟を組む理由は、吐蕃防衛の前線となってほしいということであり、
吐蕃に征服されず、独立状態を保ってもらう以外には、特に求めていなかった。
唐としては西南交易ルートの安全が維持できれば、それでよかったのである。
しかし吐蕃はちがう。
風土からして、南詔の地味は豊かであり、吐蕃の領土はほとんどが不毛の大地だ。
持たざる国が、持てる国を支配すれば、終わりのない搾取が待っているに決まっている。
吐蕃は、南詔国内の各関所に兵を派遣して駐屯させ、重い税金をかけ、人民を延々と徭役に駆り立て続けた。
この頃、南詔と吐蕃に挟まれたナシ族の各は、南詔さえ吐蕃の属国となったからにはもちろん吐蕃に隷属した。
一方、唐も南詔をもう一度、自分の側に取り込む道を模索していた。
前回はちょいと懲らしめるために、締め上げたら、あまりにびびらせすぎて、吐蕃側に奔らせてしまった。
気つけ薬程度のつもりだったのが、効きすぎたことは、失策だったとも考えていた。
西南交易ルートは取り戻したいし、南詔にも以前のように吐蕃の障壁になってほしい。
南詔側がどうやら吐蕃の搾取に苦しんで、吐蕃から離れたがっているという話が伝わるにつれ、
唐側も南詔と吐蕃を引き離す工作を進めた。
壁に耳あり、障子に目あり。
いくら秘密裏に進めているつもりでも、南詔のそわそわした気分は、吐蕃側にいつの間にか、伝わっていた。
吐蕃は使者を南下させ、まずは南詔と吐蕃の間に挟まれたナシ族のどもを回った。
現在は吐蕃に隷属してはいるものの、二つの大きな勢力の間に挟まれたナシ族は、これまで常に時には北に、時には南に味方をしてきた民族だ。
南詔の動きについて、まずは彼らから探るのがふさわしい。
金沙江の上に吐蕃がかけた「鉄橋」があり、そのふもとに鉄橋城がある。
(現在の麗江市塔城、麗江から金沙江を西北に少し行ったところ。『歴史23、ナシ族の三大部族』の地図を参考とされたし。)
吐蕃の防衛システムの最前線である。
金沙江の流れは速く、この上に橋をかけるというのは、大変なことである。
馬幇(馬キャラバン)のところでも(後述)触れたいが、未だに河にかかっている橋は少なく、人や物資だけでなく、家畜までロープでスライドさせて渡らねばならないのだ。
それを唐代にすでに金沙江の上に鉄の橋をかけていたということが、どれだけ大変なことだったか、想像がつくというものである。
鉄橋は、吐蕃が金沙江以南、以西を支配するため、迅速に軍隊、物資を移動させるためにかけた、吐蕃の南方経営の生命線である。
麗江の古城。横丁に入ったところにあるかわいいお粥屋さん。
お粥屋さんの前には、なぜかワンころ。かわいい。
その帰り、金沙江を渡り、尤氏のに立ち寄った。
弱小な小集団でしかない尤氏が、強大な武力をもつ南詔の大軍に恭順の意を示さないで済むわけはない。
尤氏は、を挙げて南詔軍を歓迎し、心尽くしの接待をした。
そこで南詔王である父の伴をして来ていた王子の閣羅鳳が、尤氏ナシ詔王の王女・蘭命と互いに一目惚れをする。
政治的にも隣接する二つの勢力が婚姻により友好関係を築くことはまったく悪い話ではなく、
王女・蘭命の南詔王家への輿入りが決まった。
蘭命はその後、南詔の王子・鳳伽異を生み、円満な家庭を育んだ。
ところが後にこのナシ族の王女・蘭命が、南詔国の運命の分岐点を決定する張本人となる。
その話をするために、まずは唐と南詔の関係について、おさらいしておこう。
唐が西南交易ルートを守るため、南詔を支援して周辺部族を統一させたことは前述のとおりである。
ところがまもなく、唐としては、思惑がはずれることになる。
南詔は唐の支援を受けておきながら、さらに現在の昆明地区など、雲南全域を征服すべく、軍事的に拡大していったのだ。
これにより唐が雲南で最も重視する西南交易ルートの細い回廊まで犯し始め、唐としては飼い犬に手をかまれたような形となった。
少し勢力が伸びたところで、南詔としては欲に目がくらみ、打ち出の小づちである西南ルートに手を出したくなるのは、人の情の常というものだろう。
こうして唐と南詔はしだいに対立するようになる。
このように唐と南詔の関係がただでさえ険悪となっていたところに、その事件は起きた。
当時すでに王となっていた南詔の閣羅鳳が、ナシ族から娶った妃の蘭命を伴い、成都に向かっていた。
唐との会盟に参加するためである。
その道中、四川(唐の領土)のよう(女兆)州都督に立ち寄ったのだが、
そこで一行を出迎えた太守の張虎陀は、妃・蘭命の美しさに目がくらんでしまった。
自分は一地方官でしかないながらも、相手は属国の王でしかない。
宗主国側の人間として、驕りが出たのだろう。
張は王夫妻の酒に睡眠薬を入れて昏睡させた後、妃を凌辱する。
意識を取り戻してからすべてを悟った妃は、屈辱のあまり、金沙江に身を投げて自殺した。
愛妃を失った怒りに気が動転した閣羅鳳は、もはや会盟どころではなく、そのまま成都には向かわないでまっすぐ来た道を帰り、国元に戻った。
まもなく10万の兵を揃えると、そのままよう州を襲撃、太守を血祭りに上げて、妃の死の仇を取ったのである。
そしてそれを知った唐の朝廷が、今度は20万人の軍隊を派遣して、南詔を討伐しに来ることとなった。
・・・・と、この事件だけを見れば、妃を寝取られても泣き寝入りしなければならない小国の哀しみよ、
ジャイアンのように横暴な大国が小国いじめをして、なんとも不条理、とも思えるのだが、実際の背景は、そんなに簡単ではない。
以前から唐側は、もうとっくに腹に据えかねており、喧嘩のきっかけを探していただけ、ということになる。
20万の大軍が攻めてくると聞いて、さすがに南詔王は慌てた。
いくら怒りのために頭に血が上っていたとはいえ、大国・唐が本気で攻めてくれば、小国の南詔がひとたまりもないことは、さすがにわかった。
南詔に残されている道は、もう一つしかなかった。
それは唐から寝返り、吐蕃と同盟を結ぶことである。
こうして752年、南詔王の閣羅鳳は、吐蕃から東帝の号を冊封され、吐蕃の同盟国となった。
南詔と吐蕃の連合軍は、唐の20万の大軍を迎え撃ち、これを撃退した。
南詔が唐から離反し、吐蕃と同盟を組んだのは752年、
その2年後にかの安史の乱が起きる。
自力で乱を収拾できなかった唐が吐蕃に援軍を求め、
その勢いで一時期、都・長安を占拠されてしまうのは有名な話だが、
この時の吐蕃軍には、実は南詔の部隊も参加しており、ともに長安占拠に加わっていたという。
しかし南詔の同盟を受け入れた吐蕃は、最初の頃こそ南詔を兄弟国として扱ったが、まもなく主従関係に落とされる。
最初からして対等な関係ではなかったのだから、当然である。
南詔は唐の20万の大軍派遣の知らせにびびりまくり、吐蕃に泣き付いてきて同盟したのである。
吐蕃としては、最初からまったく買う必要もない喧嘩をいっしょに戦ってやったのだから、対等であるはずもない。
また国力にも大きな差があったこともいうまでもない。
南詔にとって計算外だったのは、吐蕃の搾取が唐とは比べ物にならないくらい苛烈なものになったことだ。
元々、唐が南詔と同盟を組む理由は、吐蕃防衛の前線となってほしいということであり、
吐蕃に征服されず、独立状態を保ってもらう以外には、特に求めていなかった。
唐としては西南交易ルートの安全が維持できれば、それでよかったのである。
しかし吐蕃はちがう。
風土からして、南詔の地味は豊かであり、吐蕃の領土はほとんどが不毛の大地だ。
持たざる国が、持てる国を支配すれば、終わりのない搾取が待っているに決まっている。
吐蕃は、南詔国内の各関所に兵を派遣して駐屯させ、重い税金をかけ、人民を延々と徭役に駆り立て続けた。
この頃、南詔と吐蕃に挟まれたナシ族の各は、南詔さえ吐蕃の属国となったからにはもちろん吐蕃に隷属した。
一方、唐も南詔をもう一度、自分の側に取り込む道を模索していた。
前回はちょいと懲らしめるために、締め上げたら、あまりにびびらせすぎて、吐蕃側に奔らせてしまった。
気つけ薬程度のつもりだったのが、効きすぎたことは、失策だったとも考えていた。
西南交易ルートは取り戻したいし、南詔にも以前のように吐蕃の障壁になってほしい。
南詔側がどうやら吐蕃の搾取に苦しんで、吐蕃から離れたがっているという話が伝わるにつれ、
唐側も南詔と吐蕃を引き離す工作を進めた。
壁に耳あり、障子に目あり。
いくら秘密裏に進めているつもりでも、南詔のそわそわした気分は、吐蕃側にいつの間にか、伝わっていた。
吐蕃は使者を南下させ、まずは南詔と吐蕃の間に挟まれたナシ族のどもを回った。
現在は吐蕃に隷属してはいるものの、二つの大きな勢力の間に挟まれたナシ族は、これまで常に時には北に、時には南に味方をしてきた民族だ。
南詔の動きについて、まずは彼らから探るのがふさわしい。
金沙江の上に吐蕃がかけた「鉄橋」があり、そのふもとに鉄橋城がある。
(現在の麗江市塔城、麗江から金沙江を西北に少し行ったところ。『歴史23、ナシ族の三大部族』の地図を参考とされたし。)
吐蕃の防衛システムの最前線である。
金沙江の流れは速く、この上に橋をかけるというのは、大変なことである。
馬幇(馬キャラバン)のところでも(後述)触れたいが、未だに河にかかっている橋は少なく、人や物資だけでなく、家畜までロープでスライドさせて渡らねばならないのだ。
それを唐代にすでに金沙江の上に鉄の橋をかけていたということが、どれだけ大変なことだったか、想像がつくというものである。
鉄橋は、吐蕃が金沙江以南、以西を支配するため、迅速に軍隊、物資を移動させるためにかけた、吐蕃の南方経営の生命線である。
麗江の古城。横丁に入ったところにあるかわいいお粥屋さん。
お粥屋さんの前には、なぜかワンころ。かわいい。
先日「漢・武帝」の本を読んで勉強しましたが、「唐」になったので、唐のなんかを読んでみようかな。「安史の乱」のころを書いた本がいいのかな。。。。
(自慢話:私、日本の作家が書いた中国歴史小説はたくさん所持してるんですよ。本棚を眺めると出てくるかもしれない。残念ながら研究書までは持っていませんので、今度図書館から借りてこようと思います。)
「新唐書」に出ていたのですね!
そこまで裏を取っていないまま書いていたので、興味深いです。
確かに唐を舞台にした日本の歴史小説は多いので、
もしかしたら、出てくるかもしれませんね。
また新しい発見があったら、教えてください。