いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楠(タブノキ)物語ダイジェスト

2017年04月29日 12時15分56秒 | 楠(タブノキ)物語

楠(タブノキ)物語は、全4回にまとめました。

楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠
楠(タブノキ)物語2、永楽帝の神木群
楠(タブノキ)物語3、ご神木の末路
楠(タブノキ)物語4、明代の楠木切り出しの惨状





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楠(タブノキ)物語4、明代の楠木切り出しの惨状

2017年04月23日 16時34分06秒 | 楠(タブノキ)物語
以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。

 
明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。
その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。

現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。
宣徳二年(一四二七)の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。
 
その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。

万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のように訴える。

「採運之夫、歴険而渡水、触瘴死者積屍遍野
(伐採と運搬の人夫は、危険な道のりを越えて川を渡っていくが、瘴気に当たり死体が野を覆う)」

「木夫就道、子婦啼哭。畏死貧生如赴湯火
(木こりに徴用される男子が出発しようとすると、女子供が泣いてすがりつく。
 死を恐れ、生を貪ること、煮えたぎる湯か火に追い立てられるが如し)」

「風嵐煙瘴地区、木夫一触、輒僵溝叡、屍流水塞、積骨成山。其偸生而回者、又皆黄胆臃腫之夫。
 (風・嵐・煙・瘴気の地区、木こりはその空気に触れた途端、谷は麻痺する。
 屍-しかばね-が流れて水をつまらせ、骨が積み上げられること山の如し。
 その生を偸み-ぬすみ-回りし者も、皆黄疸、腫れの夫となれり)」

「一県計木夫之死、約近千人。合省不下十万
(一県の木こりの死を計算すると千人近い。省全体を見ると、十万を下らない)」

と、楠木の切り出しに「大量殺戮」が伴う現象を綿々と書き綴っている。

たかが木の切り出しになぜ十万単位の人が死ななければならないのか。

それを「瘴気(しょうき)」のためと説明する。
触れるだけで病気を惹き起こす「悪い気」という概念として、主にマラリアを指した。
 
運よく生き長らえたとしても「皆黄胆臃腫之夫」、というところを見ると、
「黄胆(=黄疸-おうだん。眼球、皮膚が黄色くなる)」、
浮腫(むくみ)などは、典型的なマラリアの症状である。

木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。

その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。 

太平洋戦争中に日本軍がタイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。

工事を担ったのは、連合国軍捕虜三万人と現地住民十万人である。
それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、
強烈なマラリア蚊の問題を解決することができず、断念したという経緯がある。
 
それにも関わらず、日本軍は全長四百五十キロの道のりをわずか十六ヵ月の突貫工事で強引に完成させたため、
この期間中、マラリアのために実に十万人が命を落とした。
枕木一本に対し、人間一人が犠牲になっている計算となり、まさに「死の鉄道」と呼ばれたいわく付きの鉄道である。
戦後にはこのために捕虜虐待として、国際問題にもなった。
 
二十世紀初頭でもそれくらいマラリアの殺傷力はすさまじく、ジャングルに入った途端、数万人単位で人が死ぬことが有り得たことがわかる。
だからこそ人類はジャングルの奥に入ることを恐れ、畏怖してきたのである。

楠木伐採はその条理に触れる行いだった。

太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、
明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になったという数字もあながち荒唐無稽だとはいえないのである。

楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が
「子婦啼哭(女子供が泣いてすがった)」のも、
生きて返ってくる確率があまりにも低いことを土地の人々がよく知っていたためだ。

現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。
まさに人間の欲望のための壮絶な犠牲に肝も冷える思いがする。
  

このように楠木伐採は、明代ですでにここまで困難になっていた。
切り出しにおけるマラリア感染も然ることながら、
今度は山奥からの運び出しにも莫大な経費と歳月がかかる。

巨木の運搬には舗装された道路がなければ、
丸木の上を転がしつつ移動させていくことができない。

このため山岳地帯での道路建設がまず行われ、
道路が完成してから初めて巨木を降ろすことができるのである。

さらに長江をくだり、大運河から北上、北京に到着するには六年の歳月を要したという。

その費用は莫大なものとなり、天安門城楼の楠の柱は運賃だけで黄金九十万両かかったといわれる。
 

康煕年間、官僚を南に派遣し、楠木の伐採を行ったことがあったが、
前述の如きあまりに困難な作業、民の犠牲が伴ったために康熙帝はついにこれをあきらめたという経緯がある。

このために康煕年間に建てられた宮殿は満洲黄松で代用し、外だけ楠木でくるんで面目を保った。
 
康煕年間はまだ建国まもなく、
異民族である満州族統治者が中原の民を疲弊させるのは、危険だったこともあるだろう。

内輪のいじめとよそ者によるいじめは、本質的に違うのだ。


  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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楠(タブノキ)物語3、ご神木の末路

2017年04月13日 14時56分19秒 | 楠(タブノキ)物語
この御「神木」は、後に乾隆帝にも関係してくる。

くだんのご神木は、明朝が滅亡し、時代が清朝になると、「鎮城之宝」の信仰は受け継がれず放置され、「皇木場」は荒れ放題となった。

乾隆二十三年(一七五八)、乾隆帝が自ら皇木場の視察に訪れ、『神木謡』を詠む。 
乾隆帝が皇木場を訪れたきっかけについては、二つの説がある。

一つの説は次のようなもの。
乾隆帝が生れ落ちて三日目、雍和宮の五百羅漢山の前で金糸楠木の桶で湯浴みをした。
この桶は「洗三盆」、「魚竜盆」と呼ばれる。
その縁で乾隆帝の夢枕に「神木」の精が立ち、長年雨風に曝され、体が痛むと訴えたために視察に訪れた、と。
 
もう一つの説は、皇木場の近く「大北窯」にレンガ焼きの窯があり、毎日もくもくと煙が上がっていた。
皇木場の近くに火気があるのはよろしくない、と上奏した人がおり、乾隆帝がこれを聞き入れ、視察に訪れたというものである。

「大北窯(ダーベイヤオ)は今も地名として残る。
国貿ビルの立つ一等地、皇木場とは目と鼻の先である。

一見、取りとめもない二つの説をどう受け止めるか。
こういう「夢枕」だの、「奇跡」だの、「瑞兆」だのと言った話は、いくらか深読みしてその狙いを探る必要がある。
話を作った当人はそんなものは事実だと信じてもいないわけで、何がしかの「忖度」があり、「目的」があり、「得する」人がいるはずである。
 
楠木の桶の話のポイントは、「雍和宮」ではないか、と作者は見る。
乾隆帝は、父帝の雍正帝が皇子の頃、そのお屋敷である雍親王府で生まれたことになっている。

新しい皇帝が即位すると、その生家を「潜龍府邸」として、別の役目を与えることは、清朝の習いとなっているが、
乾隆帝は父帝の屋敷を雍和宮と名づけてチベット仏教の寺とした。
 
ところが乾隆帝は雍和宮ではなく、承徳の「獅子園」で生まれたという伝説が、根強く流布しており、
乾隆帝は事あるごとにそれを否定している。

どうしても獅子園生まれだという噂を否定したい強い意志が働いているのである。
否定すればするほど、中国語でいう「越抹越黒(触れば触るほど黒くなる、申し開きすればするほど怪しい=藪蛇)」である。
 
どうやら人に知られたくない事情があるらしいが、現在出ている資料からそれ以上のことはわからない。 
一説には乾隆帝の生母は、承徳の貧しい農民の娘だともいう。

「獅子園」は、雍正帝の皇子時代の承徳の邸宅である。
避暑山荘の西北にあったが、乾隆帝はそこで生まれたという説が根強く流布していた。
つまりは、生母が旗人の娘たちの中から選抜された「秀女」でさえなく、土着の漢人農民だった可能性を指摘する。

「乾隆帝漢人説」はこのほかにも、江南の海寧・陳閣老の子などの説もあるが、
これは偉大なる皇帝が実は自分たちの血を引いていたと思い込みたい漢民族庶民の願いを多分に反映している部分があり、差し引いて考えなければならない。
 
真実はともかくとして、乾隆帝には自らの生地を雍和宮であると強調するデモンストレーションがいくらか見られる。
楠木の桶に関する話も一見、桶を主題に語りつつ、「雍和宮の五百羅漢山の前」と、場所をかなり詳しく指定している。
 
作者の私見は、まずは大北窯についての奏文が提出され、乾隆帝が楠木の神木について再認識、視察に行くついでに
自分に都合のよいエピソードを流布させたのではないか、というものである。

乾隆五十三年(一七八八)の北京の歴史・地理をまとめた欽定『日下旧聞考』全百六十巻に『神木謡』の欄がある。
 
「 神木廠は、広渠門外二里余り、大木が地に横たわり、高きこと一人一騎を隠す可し。明初、宫殿の遺材也。その木には神ありと伝わる」
と、馬に乗っても隠れる高さであるこという。

さらに
「歳久しく風雨淋漓、すでに徐々に朽ちる矣(なり)。皮、腐爛するも、心(芯)は存ず。対面は猶(なお)相見ず」
と、清代にはすでにかなり損傷が激しかった様子がわかる。
それでもなお向かい側が見えないくらいだったという。
しかし騎馬して、とは書かれていないので、やはりかなり縮んでいたのだろうか。
 
次に『神木謡』の詩、七言二十五句が全文載っているが、これは省く。

乾隆帝は『神木謡』を石碑に彫りつけるよう命じる。
神木の西側に碑亭を建てて納めるとともに、
傷みの激しい神木の風化がそれ以上進まないように、七間続きの瓦屋根の建物ですっぽり覆ってやったという。
神木の長さは四丈(十三メートル余り)とも、六十尺(十八メートル余り)ともいう。
 
以前にも何度か書いているが、「一間」というのは、一般的な木材の長さで届く範囲を指す。
通常はせいぜい三、四メートルが限界であり、つまり「七間」は約二十から二十八メートルくらいの長さとなる。
神木は標準レベルの木材の七倍も長かったことになる。 

この神木には、さらに後日談がある。
清朝も滅亡する頃には乾隆帝が作った保護のための建物もすっかり崩れ落ち、碑亭も崩れ、再び神木と石碑は雨風に曝されつつ、傷み続けていた。

通恵河の河原は芦に覆い尽くされて荒れ放題となり、石碑は土がかぶり、ほとんど地下に埋もれた状態となり、顧みる人もなし。
河辺であることを考えると、土砂が流され、地下に埋もれることは、よくある現象だ。
 
その地に共産主義となってから、北京ピアノ工場が建てられた。
工場の職員らは、石碑から神木の由来を知るようになるが、巨大な神木はさらに傷み続けていた。
鼠と虫に冒され続け、年々一回りずつ小さくなってゆくのを見て、職員らは心を痛めた。

これ以上放置しておけば鼠と虫に喰われてなくなってしまう、と危機感を抱いた職員らは、
ある日、神木をノコギリで木材にし、迫力ある一枚板のテーブル二十個に変身させた。
表面にはピアノのニスを塗り、テーブルは鏡のように底光りした立派なものだったという。

その後、神木のテーブルは工場内で活用されていたが、後には文物担当部門が引き取りに来た。
某文化館の地下倉庫に眠っているという話は伝え聞くが、実際に見た人はいない。  

……以上が、首都の守り宝となった神木の末路である。


ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。
新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。
神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、石碑はそのまま安置されていた。

そのうちに文革が始まる。
文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、
工場の社員食堂の白菜倉庫の中に石碑を運び入れ、埋めて保護した。

八十年代以前の華北以北では、冬の野菜保存には地下倉庫の利用が一般的だった。 
東北出身の三十歳以上の人に聞けば、住まいが庭付きの一軒家でなくてもアパートであっても、
アパートの横の敷地に各家庭に地下野菜倉庫のための土地が割り当てられた、という話を聞くことができるだろう。

冬の食事は白菜、大根、にんじん、じゃがいもなどの長期保存が可能な野菜をひたすら食べるしかない。
冬の始めに支給を受けてから、一冬かけて食べるのだ。

地下倉庫の造りはごく原始的、地面を掘り、中を杭などで支え、落盤しないようにした四平方メートルから十平方メートル程度の空間である。
高さは人が立って活動できる程度、つまりは二メートル程度、地表からの深さは、凍結しないように半メートル程度である。

入り口からはしごで真下に直角に出入りする。
計画経済の時代は大人たちが夫婦それぞれの職場から数十キロから百キロを越える白菜を支給されるだけでなく、
小学生の分は子供自身が小学校で支給を受ける。
それらをすべて地下の野菜貯蔵倉庫に入れ、一冬かけて食べたのだという。

つまり地下倉庫の壁、天井、床に至るまで土の地がそのまま露出している状態である。
雨の少ない華北の地ならでは成立する施設だ。
 
工場の社員食堂用の地下倉庫であれば、家庭用に比べ、かなり大規模なものであったろう。
足元は地面が露出しているため、神木謡碑を埋めることは簡単だったはずである。
 
その後、革命派がピアノ工場に石碑を求めて突入してきた。
石碑をどこへやった、と工場中に聞きまわったが、誰一人としてありかを教えた人はいなかった。

――神木と石碑は、工場の宝だから。
と、当時を振り返って人々はいう。

工場の創立当時からともに歩んできた神木と石碑に人々は愛着を感じていた。
 
石碑が再び日の目を見たのは一九八五年になってからである。
星海ピアノ工場と名前を改めていた工場では、新たな設備投資のために作業場を立て替えることになり、
基礎工事のために石碑も掘り起こされた。

二千年には、石碑の保護のため、工場では三万元をかけて碑亭を建てるとともに、ガラスで覆い、保護した。

二00三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、
市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で星海ピアノ工場も通州(東郊外)に移転することとなった。
 
創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、というのが職員の願いであったが、
文物は元あった場所で保護するという原則に従い、工場のみが移転し、石碑はそこに残された。

星海の職員は石碑を懐かしみ、
通州の移転先でも等身大の石碑のレプリカと碑亭を作り、工場内に立てているという。
また神木をテーブルに加工した当時、余った木片を保管していた当事者が、後に工場にこれを寄付した。

木片は工場の資料館で見ることができる。
 

さて。

神木謡碑そのものは、どうなっているか。
新開発のビル郡に埋もれ、ぽつりと残されているらしい。

周囲は今北京で最もホットな一等地。
工場の移転後、土地の半分は分譲マンションの建設用地として売られ、石碑のある部分はまだ空き地のままだという。
マンションの敷地の一部に取り込まれてしまう日も遅からず来ることだろう。

……というのが、私が2008年オリンピック前後までフォローした神木碑に関する行方である。
さらなる後日談は、情報が入ればまたアップしていきたい。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
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楠(タブノキ)物語2、永楽帝の神木群

2017年03月27日 17時04分08秒 | 楠(タブノキ)物語
楠木はその後の時代になると、四川、雲南、貴州、湖南、湖北、広東、広西などの奥深い山奥に分け入らなければ得られなくなってくる。
しかも時代を下るに従い、数はますます減っていき、伐採が難しくなるのである。
 
明代になった頃には、すでに「崖窮し、叡絶し、人跡罕(まれ)に至る地」
(絶壁のかなた、山の奥のさらに奥、人間がほとんど踏み入ったことのない場所)にしか残らない。
 
それにも関わらず、否、だからこそか、皇室以下、民間に至るまでの楠木嗜好が激しさを増す。
 
永楽年間にさら地から紫禁城を打ち立てる時、永楽帝は楠木の大木の調達のため、格別な配慮をした。
紫禁城の大部分の宮殿は、楠木をふんだんに使って建てられた。
その後の歴史の中で焼失してしまった建物、清代に建てられたものもあるが、現在でも文淵閣、楽寿堂、太和殿が楠木造りである。
 

永楽帝は周知のとおり、紫禁城の創建者である。
甥の建文帝から皇位を簒奪し、都を南京から北京に移した。

永楽帝の楠木調達には、「神木」群の話が伝わる。
 
永楽四年(一四〇六)、永楽帝は工部尚書(云わば建設省大臣)の宋礼に命じ、
紫禁城と陵墓の建設のために必要な建材の調達を命じた。
 
これまで見てきたとおり、最も困難を極めたのが、柱となる楠の巨木の調達であり、
宋礼は四川省の大涼山(現在の沐川県)の近くで、巨大な金糸楠木の群集を発見したという知らせを受け、大いに喜び、伐採の監督に自ら出向いた。

ところがいざ伐採しようとした前日、にわかに大雨とともに雷が轟き、巨木群は忽然と姿を消したという。
宋礼が絶望のどん底にいる中、なんと翌日巨木が川に浮かび、長江の主流に向かって首尾よく流れているという知らせが入った。

木の伐採から川までの運び出しには、大規模な人海作戦による困難な作業が伴う。
それが労苦なく完了したというのだから、「奇跡だ」とばかりに喜び、朝廷に上奏した。
 
永楽帝はこれを聞いてことのほか喜び、
「瑞兆なり。天が我れを助けた也」と賞賛した。

この金糸楠木の一群を「神木」と称し、
山は「神木山」と呼び、神祠を建てた上、毎年祭事を欠かさず、神に感謝したという。

金糸楠木の一群のために、その後引き続き川までの道路工事が行われ、川底を浚(さら)って木材の流し出しが可能なように整備された上、
支流から長江まで運び出し、沿海部で大運河に沿って北京まで運ばれた。


大木が忽然と消えて、次の日に川に浮かんでいた・・・・。
――そんなアホな、と思うが、その当たりは政治である。
 
昔から統治者に阿(おもね)りたい人が「瑞兆」と称して、荒唐無稽な「奇跡」を報告するのは、よく行われてきたことで、
要するに天下泰平だとほめそやすことが目的のおべっか、--「忖度」である。

永楽帝だって本気で信じちゃあいない。
 
本当かどうかなぞはどうでもよいのだが、この時期の永楽帝はあまりにも「瑞兆」を必要としていたのである。
それを察した追従者の助け舟といっていい。

皇帝はその当時、四面楚歌の苦しい立場にあった。
正統な皇位継承者である甥の建文帝を殺し、皇位を簒奪して皇帝になったため、小うるさい大臣ら、儒者らに責め立てられていた。
社会的な影響力を持った連中を殺してもさらに評判が落ちる、というアリ地獄の中で苦しんでいた時期である。
北京への遷都も南京では反対勢力の声が強すぎて、居られなかったという事情もある。

もちろん北京が元から自分の本拠地でもあり、
さらにはまだ強い勢力を誇るモンゴルに睨みを利かせる必要があるなどの諸々のほかの理由もあったとしても。
 
そんな中での「瑞兆」である。

自分が皇帝になったことを
「天が味方した」と天下に知らしめる絶好の機会ととらえ、プロパガンダに活用したとしても不思議はない。
 

この「神木」群は、北京まで運ばれ、紫禁城や陵墓の建設に当てられた。

皇帝一人を納める陵墓一つだけでも柱一万本が必要だったといわれる。
いわんや紫禁城を、である。

膨大な木材が北京に運ばれた。

大運河の終点は、北京の東郊外である通州、そこからさらに小型の運河・通恵河に沿って、北京城外まで運ばれる。
木材置き場には、この通恵河に沿った郊外の地が選ばれ、「皇木場」と名づけられた。
今でも同音の「黄木場」の地名で残る。

共産党政権になってから、人民の土地に「皇」の字はけしからんということで「黄」に変えられたのだという。
今では開発真っ盛りのCBD地区、国貿からやや東南に行った川沿いになる。

数年前に付属ビルが燃えさかり話題になった中央テレビの新ビル「大トランクス」も目と鼻の先、
今北京で値上がりが最も激しい一等地である。
 
その後、紫禁城や一連の首都建設が終わった時、
永楽帝は「皇木場」に神木群の中でも特別に立派な一本を残し、首都の「鎮城之宝」とした。

明代、北京に陰陽五行説に従った「鎮城之宝」をそれぞれ城の東西南北、中の五箇所に配し、城の守りとした。

楠木の「神木」は、その東の守りとなる。
 
東は五行の水、金、木、火、土の中の「木」に対応、北京城の東郊外「皇木場」の神木が北京城の東のお守り。
西は同じく「金」に対応、やはり城の西郊外の万寿寺に「華厳大鐘」を置いた。
今でも残る所謂、大鐘寺の「永楽大鐘」、重さ四十六トン、まさに城の「おもり」にふさわしい。

「永楽大鐘」は、製造当初は宮中にかけられていたが、
明の万暦年間に西郊外の万寿寺に置かれた後、清の雍正年間に東北郊外となる今の大鐘寺に移設された。
それ以来数百年変わらず、今も大鐘寺の鐘楼にかかっている。

次に南は「火」に対応、南郊外・良郷の呉天塔の赤土。
北は「水」に対応、昆明湖(今は颐和園)。
中は「土」に対応、紫禁城の後ろにある煤山(景山)となっている。

--この「鎮城之宝」という言い方は、清代になるといわれなくなる。

2つの王朝は、同じく北京に首都を置いていたのに、なぜだろうか。

作者が思うに「鎮城之宝」とは、明代の首都住民にとっては「精神安定のおもり」だったのではないだろうか。

北京城は、永楽帝の遷都当初、首都になったはいいが、人口も圧倒的に足りなかった。
そのため南京、蘇州から裕福な商人の家庭を大規模に強制移住させているほか、残りの庶民は山西などから強制移住させている。

爛熟文化の江南からいきなりモンゴルとの最前線に連れてこられたやんごとなき人々は、一体どういう気持ちだっただろうか。
長城からの黄砂も激しい空っ風の吹きつけるど田舎に連れてこられたことは、まだ仕方ないとしても、
いつモンゴルが攻めてくるかわからない地に住むことは、大いに不安だったにちがいない。

その思いは、兵役を務める兵士らも同じだっただろう。
「鎮城之宝」は、心理的なイメージによる精神の安定をねらったもののような気がしてならない。

四十六トンもある大鐘。
どっかーんとてこでも動かない安定感がある。

御神木も想像を絶する巨大さである。
そういう安定感のあるものが、四方と中心にどっしりとかまえてくれているというのは、人々の精神的な慰みになったのではないだろうか。
モンゴルという敵の最前線に住む自分を奮い立たせるため、いっしょに篭城するための道連れとして。

たとえ、自分の目で見たことはなくても、そういうものが東西南北と中央にあるとうわさに聞くだけでも、
とかくもふわふわと浮き立ち、逃げて飛んでいってしまいそうな気持ちを抑える「おもり」のような精神的イメージに、
人々は安堵感を覚えたのではないか。


「モンゴルへの恐怖心」克服が目的だったと考えると、清代になってその役割が必要なくなったことも納得できる。
何しろ首都の主である満州族は万里の長城の北から来たのだ。
北京は最前線でも何でもない。

「鎮城之宝」は、その歴史的役割を終えたことになる。
 
--神木はこうして「鎮城之宝」として、明朝一代の間、官兵が置かれ、守られた。
この御「神木」、どれくらいの巨木だったかというと、
木をはさみ、二人の人間が両方騎乗のままでも互いの姿を見ることができなかったという。

つまりは直径三メートル近くあったということだ。
樹齢は軽く数百年を越えただろう。
 



古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
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楠(タブノキ)物語1、始まりは承徳の澹泊敬誠

2017年03月17日 15時45分42秒 | 楠(タブノキ)物語
「承徳」は、遊牧帝国のハーンである清朝皇帝のもう一つの顔にとって、「夏都」である。
夏と冬で統治者が都さえも移動させる遊牧国家の特徴を体現している。

北京から東北に150㎞。
「避暑山荘」は、紫禁城、円明園などの北郊外の別荘群に次ぐ重要な「陪都」に当たる。
しかし毎年使われるわけではなく、そして年中使われるわけでもない。

そんな中で乾隆帝は、歴代皇帝の中で最も足しげく通った皇帝である。
乾隆年間合計六十年、加えて太上皇となってからの三年を合わせ、即位以来六十三年のうち、五十四回訪れている。
一夏を過ごすためであり、大抵は旧暦の五月に入り、十月から十一月まで半年近く滞在する。
 
逆にいえば、一年の半分は使わない。

ここで行われるのは、清朝皇帝の草原の「ハーン」としての行事だ。
モンゴルや各遊牧民族の族長を一堂に集め、皆で「巻き狩り」を楽しむ。
「狩り」という遊牧民としての「本領」を確認し合いつつ、軍事演習も兼ねるのである。

夏の間、東はシベリアから、西は天山山脈の麓に至るまで、さまざまな遊牧民族が集まってきた。
清朝の皇帝が、農耕民族である漢族の長(おさ)としては決して見せない、別の顔をするための場所なのである。

承徳の「避暑山荘」では、春の皇帝の滞在前、
冬の間におざなりになっていた手入れの最終点検のために人々の動きは慌しかった。
 
留守部隊はもちろん置かれた。

熱河での巻き狩りの規模は、一万人といわれる。
大部分は、「避暑山荘」の周囲に営地を指定され、そこに天幕を張って滞在するが、「避暑山荘」の中も数百人は出入りするようになる。
 
準備作業のために事前に京師から先発部隊が送り込まれていた。
特に中原式の四合院様式建築の手入れ、掃除には、徒弟制度の中で鍛え上げられた宦官たちが必要になる。
 
これまでにも、清朝になってから、なぜ宦官の数を大幅に削減することができたか、という話題に触れてきた。
それは明代では宦官が引き受けていた皇帝一家の「お家事情」に関わる買い付け、
外部での交渉、表向きにしにくい所用なども「包衣(ボーイ)」と呼ばれる満洲時代からの家奴らが引き受けてきたからである。

が、部屋の掃除や雑用などの家事まではさすがに彼らにさせることはなく、明朝の伝統どおりに宦官を使ってきた。
いわば、家政業務のプロ集団である。
 

避暑山荘の「表の顔」は、「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」、
重大な式典を行う場所として、紫禁城の太和殿に当たるといわれるが、こじんまりとした雰囲気はどちらかというと、養心殿のムードだ。

紫禁城において、国家規模の大きな式典は壮大な「外朝」の「太和殿」で行われる。
数千人は入れるだろう果てしない石畳が続く広場は、紫禁城の象徴的なイメージともいえる。

その先に立つ太和殿には、さらにマンション四階分はあるかと感じる石段を延々と登り、
その果てには圧倒的規模で見る者を威圧する宮殿が目の前に開ける、という視覚効果と演出を狙った仕組みになっている。

数千年かけて練り上げられてきた中原文化の成熟した様式だ。
 
しかし清朝の皇帝らは、普段の大臣らの謁見にこの大仰な場所を使っていたわけではない。
国の一大事が決まる本当の「政治の中心」の場は、雍正帝以後は「養心殿」となる。
つまり皇帝の寝起きする「自宅」の応接間だ。

こちらはごくこじんまりした瀟洒で居心地いい建物である。
天井低く、床にはふかふかした絨毯が一面に敷き詰められ、壁という壁には、本棚やら飾り棚やら、隙間もないほど埋め尽くされている。
広さも謁見者が五人を越えるとやや手狭に感じる程度の大きさしかない。
 
広大な紫禁城の中で日常生活を送る皇帝は、実をいえばこのごく小さな空間の中ですべてを済ませていたのである。
朝起きて十数歩も歩けば行き着く応接間で政務も行い、
会う必要のある大臣らが謁見に訪れ、夜は指名した妃も招き入れられ、寝起きも済ませていた。
 

避暑山荘の「澹泊敬誠(たんはくけいせい)」殿は、どちらかというと、規模や作りが養心殿系統である。

こじんまりと「我が家」風にまとまっている。
構造、造り、内装や飾りの雰囲気も養心殿そっくり。
「夏都」に移動しても、居心地がいいと感じるアイテム、空間の広さはほぼ同じものが揃っていたらしい。

では、太和殿で行うような荘厳な国家式典は、避暑山荘においてはどこで行うのか。
ここはあくまでも清朝皇帝が「ユーラシアのステップ草原の大ハーン」を演じる場所である。

そこはちゃんと演出が考えられており、避暑山荘の北部分には、広大な空き地が用意されている。
そこに巨大なハーンの天幕を張り、陣容を整えて式典が行われるのであった。
 
今でも避暑山荘を訪れると、事情を知らなければ無意味にしか思えないだだっ広い空き地が北部分に広がる。
実は往年、「空き地」は天幕と侍衛、馬にラクダに、と埋め尽くされていたのである。

さて。
澹泊敬誠殿である。

創建は康煕五十年(一七一一)だが、乾隆十九年(一七五四)に「総楠木造り」に改築された。
紫禁城を始め、中原の宮殿建築は原色の派手な色彩で塗られるが、
「楠木」はそれだけで富の象徴のため、一切の色彩を塗らず、木の素材をそのまま生かした造りとなっている。

日本人の目には、その渋い色の暗さが重厚に映り、どことなく親近感を覚える。

楠(くすのき)は、木材の中でも最高素材とされる。

漢字の使い方にどうやら日中で違いがあるらしく、
中国語でいう楠木(ナンムー)は、日本語でいう楠(くすのき)ではなく、
日本では、正しくはクスノキ科のタブノキというらしい。

よって誤解があるといけないので、ここでは、タイトルも「タブノキ物語」にした。

ともかくも、「楠木」は、高級木材である。
木地に光沢があり、黄金のような輝きがあるものは特に「金糸楠木」と呼ばれ、珍重された。

澹泊敬誠殿ももちろん金糸楠木で出来ている。
木材の表面は桐油を塗りこまなくても渋く底光りし、使い込めば使い込むほど輝きを増す。

香りが強く、芳香のために防虫効果があるほか、冬は暖かく、夏はひんやりと冷たく、亀裂・変形なく、
硬すぎず柔らかすぎず加工しやすいなどの特徴は椅子、家具、棺おけとしてこれほどよろしきものはない。

後には西太后、袁世凱の棺おけも楠木製だったといわれる。
さらには大木となり、軸が真っ直ぐで節が少ない、水に強いために建材、造船材としても理想的である。

……というあまたある特徴のために、家具によし、仏像によし、棺おけによし、
衣装・書籍の保存入れによし、柱・梁によし、船によし、とすべての用途において万能である。

しかし建材、--特に大規模な建築物の屋台骨として巨大な建材の重さに耐え得る柱としての木材は、巨木でなければならない。

楠木は生長に時間がかかり、木材として使えるだけの太さになるには最低六十年はかかるといわれる。
ましてや宮殿の柱にしようという巨木は、樹齢百年以上、ひいては数百年のものでなければ、役に立たない。

ところが前述のとおり、家具、仏像といった小ぶりなものには、細い木でも充分に用が足りるため、
太さが足りないうちにさっさと伐採されてしまうのだった。

中原ではすでに漢代から楠木好みが始まる。
日本でも飛鳥時代までの仏像はすべて楠木造りだったといわれるが(平安時代以後は、ヒノキに移行)、
それは大陸の文化の影響を色濃く受けていたためだろう。

漢代、皇室の歴々方は浙江、安徽、江西、江蘇南部の山間部から楠木を伐採し尽し、ほとんど絶滅させてしまったといわれる。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。



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