いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

2016年3月の記事一覧表

2016年03月31日 20時24分52秒 | 月別 記事の一覧表

2016年3月の記事一覧表:

2016.3.14.    目からうろこ


北京の西の郊外、永定河の渓谷流域の門頭溝地区。私の大好きな地区ですが、これまでに訪れた古跡のレポートです。

2016.3.22.    6、斉家庄村・霊厳寺
2016.3.23.    7、双林寺と川底下村ふたたび
2016.3.24.    8、斎堂鎮霊岳寺
2016.3.28.       いーちんたんを偽語る人が・・・?


いーちんたんを偽語る人が・・・?

2016年03月28日 13時22分55秒 | 北京雑感
このところ、少し気になっていたのですが、
アクセス元のリンク・アドレスをたどって行ったところ、
こういうものに出くわしました。



「いーちんたん」のリンクが張り付けてある、ということは、
私が発言していることになっているのでしょうか???

まったく身に覚えのないことなので、
私の名を偽語っている、ということになりますか??

弟に相談したところ、

「公的な方法は難しいだろうから、
 一番確実にできることは、自分のブログの中で、自分になりすましている人がいることは書いておいたほうがいいんじゃないかな」

というアドバイスを受けたので、
ここにアップいたします。

これは私ではありません!!


http://a.hatena.ne.jp/laoshi

このアドレスでの発言は、すべて私ではありません!!


北京郊外・門頭溝のあれこれ、記事の一覧表

2016年03月26日 15時48分10秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京の西の郊外、永定河の渓谷流域の門頭溝地区。私の大好きな地区ですが、これまでに訪れた古跡のレポートです。

記事の一覧表:


    1、広慧寺、恭親王、安徳海ゆかりの寺
    2、川底下村その1、先祖は洪洞の大槐樹より移住
    3、川底下村その2、防衛のための入植 
    4、川底下村その3、民宿を拝見
    5、川底下村その4、文革のノスタルジアと一線天
    6、斉家庄村・霊厳寺
    7、双林寺と川底下村ふたたび
    8、斎堂鎮霊岳寺

門頭溝8・斎堂鎮霊岳寺

2016年03月24日 17時46分43秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

最後は、斎堂鎮の北5㎞にある霊岳寺。

国道109号線沿いの町・斎堂鎮から北へ進み、激しい勾配の坂道を進んでいきます。
エンジン機能の限度ぎりぎりまで踏ん張りながら、手に汗握る行程が延々と8㎞続きます。
(道の険しさのためではなく、坂道の勾配とエンジン耐久力の根競べのようなどきどきする時間・・・)


そして忽然と目の前に現れた山頂の平たい土地と見事な伽藍群!!

 

 

 入口の古木もみごと。

 
 

 


霊岳寺の創建は、唐の貞観年間。

門頭溝地区で最も古い伽藍群のひとつと言われる。

「先に霊岳寺あり。後に斎堂あり。」
--「斎」は、乃ち精進料理。

霊岳寺の門前町として、参拝客に精進料理を出す食堂や宿泊施設として発展したのが「斎堂鎮」だという。


唐滅亡後の五代十国時代の戦乱で霊岳寺は、仏像、古松、古刹もろともすべて焼け落ちたと言われる。

再建されたのは、ようやく遼代。
背後の山が白鉄山というため、「白鉄山院」と命名。
金代から現在の「霊岳寺」の名が使われる。

元代になると、さらに仏教が厚い保護を受けた。
霊岳寺は、数十年にわたり、伽藍の拡張工事が続けられたという。
「仏像八十四体、燦然金碧(さんぜんこんぺき)。」

寺は、門頭溝地区の他の地に寺所有の土地も多角経営。
馬欄村の入り口に水車動力の石臼小屋を一軒経営していたほか、西斎堂の宝峰寺は、霊岳寺の下院に当たる。


 


 


 

不思議なのは、寺の後ろに建てられている真新しい伝統建築風の家々。

どうやらどこぞのディベロッパーが、資金を投資し、ここを古刹とセットの「第二の川底下村」にしようとしたのではないか、と
思われる。

山の麓から延々と8㎞にわたって続いた道路がコンクリート敷きで真新しいことから、
まずは道路敷設から巨額を投資したのではないか、と思われる。

背景の新築家屋群は、「農家楽(民宿)」として、請負制でテナントを募集--。

文物認定の看板の日付けが2013年となっていることから、恐らく2013年あたりのプロジェクトだったのではないだろうか・・・。
そして資金枯渇で頓挫。
---現在に至る、みたいな。
 
 

 お寺の正門は鎖と南京錠で封鎖されていましたが、
 鎖のわずかな隙間を抜けて、皆がどんどん中に入って行きます。

 鎖の長さでぎりぎり私は通れないんじゃないか、とやきもきしましたが、
 木の戸の両側にじゃりじゃりと身をこすられながらも、何とか通過に成功しましたわよ。ええ。


 


 

 敷地の東南角に残るのは、鐘楼の跡。

 けばけばしく真新しい鐘楼を立て直さず、このようなわびさびの情緒あふれる残骸のままで寸止めする修繕のセンスはなかなか粋。

  









 後ろの伽藍・大雄宝殿(本殿)の中の梁の粉彩の色は、まだくっきりと残っている。




 お堂に転がっている石碑二つは、元代のものと、清の康熙年間のもの。

 



 


 

 

 軒下のこの曲がったくねくねとした柱については、由縁がはっきりしている。

 清の康熙二十二年(1683)、地元から高官となった劉懋恒が、寺に参拝にやってきた時、
 この大雄宝殿の軒先が深く取られているために、支え切れずに崩落する危険があることに気付いた。

 そこで有志の善意を募ったところ、充分な資金が集まったので、その資金で住職が奔走。
 支えの補助柱を立てめぐらし、現在に至っているという。

 前殿三間と鐘楼・鼓楼は、清の雍正十一年(1733)に新たに建てられたもの。

 

 

 こちらは前殿の梁の粉彩。


なかなか見事なプロジェクトだなああ、と感激した。

・・・と言っても、それは無人で荒涼としたこのわびしさが風情あったというだけで、
これだけの見事な完成度のまま、今は頓挫していたとしても、
この情緒が忘れられなくて、数年後に再訪したら、もうかしましい川底下村のような、テーマパークになってしまっている気がしてならない。


一期一会・・・・。
思い出に残る場所というのも、そういうものなのかもしれない・・・。




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門頭溝7・双林寺と川底下村ふたたび

2016年03月23日 17時46分43秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

次に向かったのは、双林寺。
清水鎮上清水村の西北の山中にある。

 
 
 バスは、こんな感じの山中で停車。あまりの勾配の急な坂道は無理、ということで、
 歩いて登ることになった。


 

 
 つきあたりに現れたのは、「老年なんとか基地」の看板。
 門は閉ざされていて、入れない。

 ガイドブックを見て来たと説明すると、特別に中を見せてくれることになった。


 

 敷地内はただ今、絶賛、猛犬飼育中。
 数十頭の獰猛なチベタン・マスチーフ(ザンアオ)が山も砕けんばかりの咆哮を続ける。

 入口のこの子も、でかさが写真であまりわからなくて残念。
 人間が横にたって、大きさを示そうにも、あまりの恐ろしさに誰も近づけない(汗)。

 
 この国でザンアオの需要はまだまだ大きい。
 一戸建ての建物のどろぼう除けには、絶対的な効果を発揮する。


 さて。

 ザンアオを見に来たわけではないので、かれらを刺激しないようにおそるおそる先を進んで行く。

 


 

 敷地の奥まで行くと、「双林寺」の文字の隠壁が見えてきた。

 プレートの説明によると、双林寺は元々、百花山の瑞雲寺の下院であり、
 創建はいつの頃かわからないが、少なくとも鐘は遼代に鋳造されたもの。
 
 きわめて貴重なため、現在は門頭溝博物館の収蔵となっているという。

 百花山というのは、永定河を挟んで、遥か西南方向にある山のようで、えらい距離も離れており、
 どういう関係にあるのかは、現時点では不明。

 山の麓にあった中継所のような位置にあったということだろうか。




 敷地内にあるのは、その鐘がおさまっていた建物という。

 

 
 

 この高台の上。

 

 松も立派。

 見えてきたのは、こんな小さな建物

 

 元代の木造構造が残っているのだという。


 えらい新しいやないか、と思っていると、以下のようなブログを発見。
  
中国語のブログ 天翔128古跡的博客 によると、

 訪問時には、こういう工事の最中だったという。日付は2012年。4年前だ。

 


 

あああーー。

 まあ。しかし珍しい元代の様式を継承しているといわれると、
 そういえば、屋根の汲み方、形がどことなく、いつも見ている伝統建築とはちがう気もする。


 


 


元代と明代では、屋根の様式もちがっていたんだー、と
実体験として体感できたのは、きっと貴重な体験になるのかしら、と勉強不足のまま考えた。。。


 

 帰り道


北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足、続きです。

三つ目のポイントは、川底下村。

このすでに有名な観光地の村は、以前にも何度か訪れ、このブログでもアップしているので、今回はあまり写真を撮っていない。


門頭溝・川底下村1、久しぶりの訪問
門頭溝・川底下村2、先祖は洪洞の大槐樹
門頭溝・川底下村3、防衛のための入植
門頭溝・川底下村4、田舎へきたらとうもろこしパン
門頭溝・川底下村5、村内を散策
門頭溝・川底下村6、民宿を拝見
門頭溝・川底下村7、村の上のほう
門頭溝・川底下村8、文革のノスタルジア
門頭溝・川底下村9、一線天


今回も昼食時は、目が血走りすぎていて、お料理の写真とる精神的余裕なし!(爆)


撮れたのは、食事の間中、壁の高みからにゃあにゃあと何やら威嚇の鳴き声を上げ続けた猫ちゃんたちのみ。
「残飯はわしらのもんや、あまりきれいに食うなよ」
とでも言いたかったのだろうか(笑)。

 
 


 


猫ちゃんらに見送られながら、ビールで足元をふらつかせながら、
今回は皆さんの後に続いて、初めて向かいの山に登った。


 


 

 ご一行様の最後から、ふらふらと一番後ろについて行きます。


 


 


 

 ちょっと登っては、後ろを振り返って写真を撮りつつ、撮りつつ。。。


 山の中腹にあるのは、娘娘廟。

 


 

  
   

 日頃の運動不足のために途端に息が上がり、ぜえぜえ言いながらよたよたと登り続け・・・・。

 


 




 ぎゃああああ。
 ここまで登ったどおお、やっぱり村の俯瞰図は迫力じゃああ。
 ・・・と、皆の半分も登らずに、ひとりで満足。

 


 山中の宿場町の全貌が納められて、ひどく嬉し。


 


 


 


 
 
 村の最も高台にある関帝廟





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門頭溝6・斉家庄村・霊厳寺

2016年03月22日 16時07分36秒 | 北京郊外・門頭溝のあれこれ
この週末、北京あんてぃーく倶楽部の恒例遠足に初めて参加させていただきました。

個人ではなかなかいけないようなディープなところを皆でバスで回ることができ、
大変有意義ですばらしい一日でした。

主催されている アンティーク倶楽部さん、素敵な活動に参加させていただいて、
ありがとうございましたー!


参加者は、北京在住の日本人23名、大所帯の賑やかな出発です。


日程(あんてぃーく倶楽部ブログより抜粋)


朝0730 建外SOHOA座ロビー集合
1000 霊厳寺大殿
1045 双林寺
1130 川底下村→昼食
1400 霊岳寺
1700 北京市内着 解散

・・・ということで、普段ぐうたらな生活をしていて、早起きの自信がない私は、結局一睡もできない状態で集合場所に到達(笑)。

目的地は、だいたいこんな感じの場所です。



北京の西側に暴れ川、永定河の激しい流れによって削られた門頭溝の谷間を進んでいきます。
永定河の流れとほぼ平行に作られた国道109号線に沿って、ずっと西に100㎞ほど遡っていくことになります。


今では穏やかな流れが、牧歌的風景を優雅に作り出している永定河ですが、
康熙帝が治水工事を終え、願いと自信を込めて「永定河」と改名するまでの名は「無定河」。

暴れ龍のようにのた打ち回って進んでいたんですねー。





まずは一番遠い西の端まで、一気にバスで行ってしまい、
そこから少しずつ、北京に戻りながら、4つのポイントを巡っていく、というコースでした。


最初に訪れたのは、門頭溝区斉家庄郷斉家庄村にある霊厳寺。

 


 

 
 


現存するのは本殿のみながら、その最大の見どころは、北京地区で現存する唯一の元代の木造建築だということ。
…木造と言っても、基本構造、というこです・・・。
壁はレンガで埋めて作られています。


事前の予習なしで参加したので、唯一の元代の建築と今知り、少し感動・・・・(爆)。

創建はなんと唐の武徳年間。
元の至正年間に再建されました。

明の永楽年間には、尼僧庵だったこともあるという。


抗日戦争期間中に日本軍によって焼失、現存するのは、大雄宝殿のみとなる。

不幸な歴史があったのですね・・・。


 

 こちらは、石碑の頭の部分。
 本殿の入口の前に転がり、皆の足の踏み台になっているのが、石碑の本体。

 これは文革中にこのような姿になったとのこと。

 帰りに村の爺様と雑談をしていたら、文革前までは本殿には木造の仏像のご本尊もあったという。
 

 

 軒下には、まだ粉彩の色の名残りが見える。


 

 東から見た遠景。
 もともとは、山門殿、鐘鼓楼、太子殿、伽藍祖師堂、大雄宝殿、その東西の配殿があったそうだが、
 今残るのは、大雄宝殿(本殿)のみ。

 東側には畑が広がっている。


 

 南側にある木が立派。。。

 


 


 




門頭溝区斉家庄郷斉家庄村の霊厳寺を見学した後、斉家庄村の中を散策します。


 

 通り沿いにもいくらか、古い門構えが残っています。


 

 薪取り帰りの爺様。


 


 

 好々爺姿が、きれっきれの爺様。
 絵になります・・・。


 

 
 


 


 
 28号院というのが、古い豪邸が残っているというので、
 横丁から入って行きます。

 

 

 
 


 
 
 このおたくのようですね。

 おお。確かに非凡なる佇まい・・・。

 


 

 入口に蝋燭用の穴もあります。

 夜、ここでほのかに蝋燭の火がはためく姿は、ぞくぞくするほど怪しげでしょうなああ。。。

 
 


 

 個人のお宅なので、中を見せてもらうわけにもいかず、
 なんとか外から屋根の写真だけでも撮ろうとします。。。。

 
 


  


 塀の上には、ぺんぺん草が。。。。

 

 


 


 


 

 


 


 バスのところまで帰ってきました。
 


 

 華北名物「晒太陽(ひなたぼっこ)」。


 
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目からうろこ

2016年03月14日 16時58分50秒 | 北京雑感
話の途中になりますが、
あまりにも「合点!!」の記事を読んだので、皆さまと共有すべく・・・。


引くことをまったく知らない中国の残念な行く末

食料生産の歴史から見た中国政府の“気質”とは



普段から疑問に思っていたことを、見事に氷解させてくれた秀逸な理論だと思いましたー(笑)