学校教育は当時の中堅の名門校、咸安宮(かんあんきゅう)官学に入ることができた。
政治の中枢で働く多くの満州族官僚を輩出している学校だ。
乾隆十六年(一七五一)、これまでの後宮の北側から咸安宮は、紫禁城の西華門に移転する。
それは、これまで「内務府包衣」子弟のための学校であったのが、一般八旗子弟にまで拡大されたことと関係があるらしい。
包衣というのは、歴代皇帝一家の奴隷であるだけにもうすでに空気のような存在になっており、
気を使わない「内輪」の人間である。
だからこそ内廷の奥深くに設立もさせたのである。
ところが、一般旗人まで通うようになってくると、
「よそ者」がうろうろするのは、どうにも居心地悪さがあったのではないか。
太后の誕生日は口実に過ぎない。
移転先は、紫禁城の西側の入り口、西華門から入ってすぐの場所である。
一般旗人子弟を受け入れるようになっても、咸安宮官学は、まだ内務府の管轄下に置かれており、
紫禁城の中の学校という異例の扱いには変わりがない。
西華門界隈は、内務府の役所が集中する地区だ。
内務府は皇帝一家の生活一切を面倒見る機関、日本で言えば「宮内庁」に当たり、この辺りには「」が集まる。
「七司」の筆頭は「広儲司」、皇帝個人に属する財産を扱う。
大事なお宝を保管する倉庫のため、七司の中でこの機関だけが紫禁城内に置かれている。
場所は、ちょうど咸安宮官学の校舎の北辺りだ。
下属機関に
銀庫(言わずと知れた、現金を扱う倉庫)、
皮庫(毛皮も高価な財産)、瓷庫(陶磁器倉庫)、
緞庫(高級布地の倉庫)、
衣庫、
茶庫
が置かれる。
残りの
「都虞司(内務府所属の武官などの人事を決定する機関)」、
「掌礼司(宮廷における各種儀式を主催)」、
「会計司(内務府の出納、荘園の地代管理)」、
「営造司(宮殿の土木工事)」、
「慶豊司(牛、羊、蓄牧を扱う)」、
「慎行司(包衣や宦官の刑事事件処理)
は、すべて西華門外、紫禁城の外にある。
西華門を出てお堀に沿って南北に走る南北長街にこれらの官公庁が密集する(中南海と紫禁城の間の通り)。
その他「三院」は、「上駟院(御用馬を管理)」だけは、紫禁城内にある。
これはやはりいざ敵に囲まれた時、近くに馬もいないのでは、戦闘力にならないからだろうか。
「武備院(機械製造)」、「奉宸院(景山などの離宮の土木管理)」は、やはり西華門外に集中する。
西華門に入ると、門と同じ並びの北側の一列の宮殿が内務府の衙門(役所)が置かれるところである。
そこから、東に進んでいくと、この辺り一帯は、すべて内務府関係の役所が立ち並ぶ。
明代は宦官機構がずらりと並んでいたのを、清代には内務府がすべて受け継いだのである。
咸安宮官学は門から入って百歩も行かずにたどり着くことができる。
その東向こうには「武英殿」がある。
ここでは、「欽定」つまりは皇帝の名において編修された出版物が出版される。
乾隆年間には「方略館」が付属した。
武英殿の背中に貼り付けるように建てられたという。
乾隆年間は、清朝の版図を広げる総仕上げが行われた時代である。
その辺境戦争を国家と威信として書物にまとめ、出版するための機関である。
辺境のあちこちで戦争があり、ウィグル人の住むタリム盆地、
康煕時代からの宿敵オイラトモンゴル系のジュンガルの広大な領土が版図に入った。
チベット越しにグルカ(ネパール)とも戦争し、
国内では甘粛の回族の反乱、貴州の苗族の反乱、台湾の反乱などを平定した。
それらの戦勝があるたびに、凱旋軍のために盛大な式典が主催され、
功臣の肖像画が飾られ、宴会が催され、乾隆帝は得意の詩を作ってみせる。
その仕上げが、戦局の経緯の綴った「方略」の出版である。
つまりは戦勝の経緯を清朝側に都合のいいように編修して書くのである。
これは一種の思想統制にも入るので、こういう皇帝の意思を強く反映する事業は、
家の執事である内務府が管理するというわけだ。
和珅も後には「武英殿」で編修される「四庫全書」編纂の総裁を務め
、乾隆年間の思想統制に総仕上げを加えることになるが、これは後の話だ。
ともかくも咸安宮官学の周りには、このような国家最高級の学究を集めた機関があり、
アカデミックな雰囲気をかもし出していたことが想像できる。
武英殿の後ろ、北側には、内務府の役所がずらりと続く。
「果房(くだものを扱う)」、「氷窟(氷蔵)」、「造弁処(ご用達工房、西洋の宣教師らの手記によく登場する)」が立ち並ぶ。
咸安宮官学は、当初この武英殿の西側一列に張り付く建物に移転してきた。
明代は宦官が管理する「尚衣監」だったところである。
「尚衣監」は康煕年間に別の部署に吸収され(おそらく広儲司の衣庫だろうか)、それ以来空いていた。
しばらくはここで勉強していたが、何しろ長年修理しないまま放置していたために使用に耐えなくなる。
そこで、その西側の土地に新しく校舎を建てることになり、「三進院」が完成する。
「三進院」は「三合院」を縦に三組重ねた形、つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。
本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、
北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、倉庫程度しか使い道がない。
このためにいっそのこと反対側に窓を開け、前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。
つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、合計二十七間の作りである。
「間」は、一部屋のことをいうのだが、どんな大きさも一部屋に数えるわけではない。
鉄筋もなかった時代、建築物に屋根をのっけようと思えば、梁をのっけて支える。
梁はつまり自然木である。
自然木の長さはせいぜいが四、五メートルが限界である。
それ以上大きい部屋を作ろうと思えば、間に柱を立て梁でつながなければならない。
間に柱が立てば、これは「二間」という扱いになる。
つまり「一間」は、自然木一本の長さ、長くても五メートルの梁が四方に届く空間、ということになる。
二十七間の広さもおおよその見当がつく。
和珅兄弟がは、どういうものだったのだろうか。
まずは設立当時の雍正帝の上諭を『欽定八旗通志』で再び見てみよう。
かの者らは、すべての幼童であるから、僕人を連れたいなら、各自一人付き添うことを許す。数日に一度、家に帰ることを許す。
年端も行かぬ少年らに従者をつけるとは、微笑ましい風景である。
和珅兄弟らの場合は、どすの利いた割れ鍋のような強面の劉全がその役割を担ったことだろう。
この上諭を見ると、どうやら雍正帝は、全寮制にして数日に一度学生らを帰す程度にして徹底的に仕込みたかったらしい。
ところが、翌年に内務府大臣が出している奏文では、ややニュアンスが違う。
紫禁内地は特別な場所であるから、諸生は朝学校に入り、夕方には帰るように。
雨水寒冷に遭った場合は、教習(教師)や学生の中で希望する者があれば学校内に宿泊しても良い。
どうやら全寮制ではなく、通いが原則となったらしい。
やはりさすがに禁中に泊り込ませるのは、警備上よろしくないということになったのだろう。
それでも大雨が降ったり、大雪で帰れないときには、学校の中に宿泊施設も用意はされていた。
また学生は学費を払うのではなく、生活費を支給された。
学生の食事は護軍の例に則り、官米を支給する以外にも、
毎日各自「肉菜銀」を五分、月ごとに内庫(内務府金庫)から支給する。
咸安門外の西側の部屋を与えるので、厨房とせよ。
食事代一日五分、一ヶ月では百五十分である。
銀一両を百分として計算すると、一ヶ月一.五両となる。
八旗の平兵士の給料が銀二両で一家を十分に養っていけることを考えると、
支給額は、尻の青い少年にしては十分すぎるほどある。
その上に官米が支給されるので主食代はこの中に入らない。

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。
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