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いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語20、咸安宮官学のまわり

2016年11月26日 15時18分21秒 | 和珅少年物語
家庭では両親に先立たれ、継母の支配する家で居心地悪い生活を送っていた和珅だが、
学校教育は当時の中堅の名門校、咸安宮(かんあんきゅう)官学に入ることができた。

政治の中枢で働く多くの満州族官僚を輩出している学校だ。

乾隆十六年(一七五一)、これまでの後宮の北側から咸安宮は、紫禁城の西華門に移転する。
それは、これまで「内務府包衣」子弟のための学校であったのが、一般八旗子弟にまで拡大されたことと関係があるらしい。

包衣というのは、歴代皇帝一家の奴隷であるだけにもうすでに空気のような存在になっており、
気を使わない「内輪」の人間である。

だからこそ内廷の奥深くに設立もさせたのである。

ところが、一般旗人まで通うようになってくると、
「よそ者」がうろうろするのは、どうにも居心地悪さがあったのではないか。
太后の誕生日は口実に過ぎない。


移転先は、紫禁城の西側の入り口、西華門から入ってすぐの場所である。
一般旗人子弟を受け入れるようになっても、咸安宮官学は、まだ内務府の管轄下に置かれており、
紫禁城の中の学校という異例の扱いには変わりがない。

西華門界隈は、内務府の役所が集中する地区だ。

内務府は皇帝一家の生活一切を面倒見る機関、日本で言えば「宮内庁」に当たり、この辺りには「」が集まる。

「七司」の筆頭は「広儲司」、皇帝個人に属する財産を扱う。
大事なお宝を保管する倉庫のため、七司の中でこの機関だけが紫禁城内に置かれている。
場所は、ちょうど咸安宮官学の校舎の北辺りだ。

下属機関に

銀庫(言わずと知れた、現金を扱う倉庫)、
皮庫(毛皮も高価な財産)、瓷庫(陶磁器倉庫)、
緞庫(高級布地の倉庫)、
衣庫、
茶庫

が置かれる。

残りの

「都虞司(内務府所属の武官などの人事を決定する機関)」、
「掌礼司(宮廷における各種儀式を主催)」、

「会計司(内務府の出納、荘園の地代管理)」、
「営造司(宮殿の土木工事)」、

「慶豊司(牛、羊、蓄牧を扱う)」、
「慎行司(包衣や宦官の刑事事件処理)

は、すべて西華門外、紫禁城の外にある。

西華門を出てお堀に沿って南北に走る南北長街にこれらの官公庁が密集する(中南海と紫禁城の間の通り)。

その他「三院」は、「上駟院(御用馬を管理)」だけは、紫禁城内にある。
これはやはりいざ敵に囲まれた時、近くに馬もいないのでは、戦闘力にならないからだろうか。

「武備院(機械製造)」、「奉宸院(景山などの離宮の土木管理)」は、やはり西華門外に集中する。

西華門に入ると、門と同じ並びの北側の一列の宮殿が内務府の衙門(役所)が置かれるところである。

そこから、東に進んでいくと、この辺り一帯は、すべて内務府関係の役所が立ち並ぶ。
明代は宦官機構がずらりと並んでいたのを、清代には内務府がすべて受け継いだのである。




咸安宮官学は門から入って百歩も行かずにたどり着くことができる。
その東向こうには「武英殿」がある。

ここでは、「欽定」つまりは皇帝の名において編修された出版物が出版される。

乾隆年間には「方略館」が付属した。
武英殿の背中に貼り付けるように建てられたという。

乾隆年間は、清朝の版図を広げる総仕上げが行われた時代である。
その辺境戦争を国家と威信として書物にまとめ、出版するための機関である。


辺境のあちこちで戦争があり、ウィグル人の住むタリム盆地、
康煕時代からの宿敵オイラトモンゴル系のジュンガルの広大な領土が版図に入った。

チベット越しにグルカ(ネパール)とも戦争し、
国内では甘粛の回族の反乱、貴州の苗族の反乱、台湾の反乱などを平定した。

それらの戦勝があるたびに、凱旋軍のために盛大な式典が主催され、
功臣の肖像画が飾られ、宴会が催され、乾隆帝は得意の詩を作ってみせる。

その仕上げが、戦局の経緯の綴った「方略」の出版である。
つまりは戦勝の経緯を清朝側に都合のいいように編修して書くのである。

これは一種の思想統制にも入るので、こういう皇帝の意思を強く反映する事業は、
家の執事である内務府が管理するというわけだ。

和珅も後には「武英殿」で編修される「四庫全書」編纂の総裁を務め
、乾隆年間の思想統制に総仕上げを加えることになるが、これは後の話だ。

ともかくも咸安宮官学の周りには、このような国家最高級の学究を集めた機関があり、
アカデミックな雰囲気をかもし出していたことが想像できる。

武英殿の後ろ、北側には、内務府の役所がずらりと続く。

「果房(くだものを扱う)」、「氷窟(氷蔵)」、「造弁処(ご用達工房、西洋の宣教師らの手記によく登場する)」が立ち並ぶ。


咸安宮官学は、当初この武英殿の西側一列に張り付く建物に移転してきた。
明代は宦官が管理する「尚衣監」だったところである。

「尚衣監」は康煕年間に別の部署に吸収され(おそらく広儲司の衣庫だろうか)、それ以来空いていた。

しばらくはここで勉強していたが、何しろ長年修理しないまま放置していたために使用に耐えなくなる。

そこで、その西側の土地に新しく校舎を建てることになり、「三進院」が完成する。

「三進院」は「三合院」を縦に三組重ねた形、つまりは、「コ」の字を伏せた型を三つ重ねる。

本来なら中国北方の家屋の間取りは「四合院」が標準だが、
北向きの部屋は日当たりが悪くじめじめしており、倉庫程度しか使い道がない。

このためにいっそのこと反対側に窓を開け、前の列の南向きの部屋にしてしまうのだ。
つまりは、南向きの部屋が三間、東西それぞれも三間ずつ、合計二十七間の作りである。

「間」は、一部屋のことをいうのだが、どんな大きさも一部屋に数えるわけではない。
鉄筋もなかった時代、建築物に屋根をのっけようと思えば、梁をのっけて支える。
梁はつまり自然木である。

自然木の長さはせいぜいが四、五メートルが限界である。
それ以上大きい部屋を作ろうと思えば、間に柱を立て梁でつながなければならない。

間に柱が立てば、これは「二間」という扱いになる。
つまり「一間」は、自然木一本の長さ、長くても五メートルの梁が四方に届く空間、ということになる。

二十七間の広さもおおよその見当がつく。




和珅兄弟がは、どういうものだったのだろうか。

まずは設立当時の雍正帝の上諭を『欽定八旗通志』で再び見てみよう。

かの者らは、すべての幼童であるから、僕人を連れたいなら、各自一人付き添うことを許す。数日に一度、家に帰ることを許す。

年端も行かぬ少年らに従者をつけるとは、微笑ましい風景である。

和珅兄弟らの場合は、どすの利いた割れ鍋のような強面の劉全がその役割を担ったことだろう。
この上諭を見ると、どうやら雍正帝は、全寮制にして数日に一度学生らを帰す程度にして徹底的に仕込みたかったらしい。

ところが、翌年に内務府大臣が出している奏文では、ややニュアンスが違う。

 紫禁内地は特別な場所であるから、諸生は朝学校に入り、夕方には帰るように。
 雨水寒冷に遭った場合は、教習(教師)や学生の中で希望する者があれば学校内に宿泊しても良い。

どうやら全寮制ではなく、通いが原則となったらしい。
やはりさすがに禁中に泊り込ませるのは、警備上よろしくないということになったのだろう。

それでも大雨が降ったり、大雪で帰れないときには、学校の中に宿泊施設も用意はされていた。
また学生は学費を払うのではなく、生活費を支給された。

 学生の食事は護軍の例に則り、官米を支給する以外にも、
 毎日各自「肉菜銀」を五分、月ごとに内庫(内務府金庫)から支給する。
 咸安門外の西側の部屋を与えるので、厨房とせよ。

 
食事代一日五分、一ヶ月では百五十分である。
銀一両を百分として計算すると、一ヶ月一.五両となる。

八旗の平兵士の給料が銀二両で一家を十分に養っていけることを考えると、
支給額は、尻の青い少年にしては十分すぎるほどある。

その上に官米が支給されるので主食代はこの中に入らない。






元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。




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和[王申]少年物語19、精神と肉体の相互治療としてのチベット医学

2016年11月25日 22時22分03秒 | 和珅少年物語
精神と肉体を同時に治療していく、というチベット医学の発想は、
現代の医療制度から見ても興味深いものがある。

現代の日本でも、多くの老人が大した病気もないのに毎日近所の診療所に行き、
待合室で何時間も互いに体のどこが悪いのか、延々と語り合う。

診療の番が回ってきても、どこが悪いということもなく、医者も笑ってビタミン剤などを処方する。
ご老人たちに必要なのは、まさに精神と肉体の両方の治療ではないのか。

ところが現代の医学制度では、精神を病んでいる人は、精神分析医へ、
肉体を病んでいる人はその専門医へ、と分けて受け入れる。

まったく、時代が下ったからといって、すべてが先進的とは言いがたい例ではないだろうか。

また精神分析医の制度にしても、問題点はある。

私事ながら、作者の高校の同級生に心理学を研究する友人がいる。
以前に彼女が笑いながら話したところによると、
ある夫婦は二人とも精神分析医としてある病院に勤めている。

患者の話は本来は他言してはならないが、夫婦でもあり同じ病院内のことでもあり妻は家に帰ると、
夫に自分の患者の話を最初から終わりまですべて吐き出して聞かせるという。

つまり夫は医者二人分のキャパシティの情報を注ぎ込まれるわけで、
夫は寿命が縮んでいるのではないか、と彼女は冗談交じりにいう。

他人の悩み事を受け止めるというのは、
その人の持つドグマのようにどろどろとした精神的な澱を受け止めることでもあり、
聞き手も大きなダメージを受ける。

これを癒すには相当の精神力が必要となり、分析医も心を病むケースが多いと聞く。


チベット医学のいう精神面と肉体面を同時に治療する、という定義は、
系統だった修行のカリキュラムにより、まずは僧自身が揺るがない強い精神を持つことから始められるわけである

。哲学的な真理に徹底的に触れ、これを暗記し、駆使して討論で鍛え上げる。
肉体的な修行、苦行を通して、如何なるケースにも動揺しない強い精神と肉体を作り上げる。

その上で医学も身につけるということである。





元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。




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和[王申]少年物語18、中原とは異質な数学的思考回路

2016年11月24日 21時51分50秒 | 和珅少年物語
よく知られているように、ゼロを用いた十進法表記など、
現在でも使われる数学的論理はインドで確立し、世界に広まった。

ところが、本来インド哲学の要素をたっぷりと受け継いでいる仏教は、哲学的要素がと共に広がらなかった。
その唯一の例外がラマ教である。

インド哲学の伝統を受け、本格的な哲学の訓練を重要視し、
「数学的」思考回路を鍛え上げるカリキュラムを持っていた。
 
それは和珅ら、満州族が接するもう一つの大きな体系、
科挙を頂点とする儒教の教えとはまったく違う体系の学問である。

北京で中原の主人となって以来、満州族は漢文化の受容に努めてきた。
そんな儒教文化と対極をなす、もう一つの巨大な文化体系が、モンゴル人を通して、一端をなしていたといえる。
 
少し社会的地位のあるモンゴル旗人やモンゴル王公が家に雇い入れたラマ僧は、
そんな抽象哲学で才能を発揮した優れた対論家であっただろう。

政界で泳ぎ切るためにどうしたらいいか、
自分の決定や進む方向に迷いが生じたとき、こういう哲学理論に精通したラマ僧らのアドバイスを仰いだことだろう。


ラマ教の学問寺で修行する内容は、竜樹(ナーガールジュナ)の空の思想、大乗仏教の思想である。
極めて高度な抽象的理論の集成は、極めて「数学的」でさえあった。

昨今、インドのIT企業の活躍のせいで、インドの数学的素養に世界の注目が集まっている。
現在、世界のソフトウェア企業のランキング百位の半数がインド企業であるというが、
その強さを知るため、さまざまな分析がなされている。

インドでの数学教育法を見ると、モンゴルのラマ寺で行われている修行法に酷似した点を見ることができる。

まずは大量の暗記を基礎として重視する点である。
九九を十歳ごろまでには、三十x三十まで暗記するという。

つまりは日本人が八十一パターンしか暗記しないところを、九百パターン暗記することになる。
それだけなら東洋にもそろばんによる暗算の伝統があり、インドのみの強さとすることはできないが、
その後の数学の教育法にも差があるという。

日本の教育では、できるだけ少ない計算例から「やり方」を抽出しようとするが、
インドでは大量の計算例から「論理」や「背景」をつかめるように指導する。

よって日本人は「やり方」を忘れてしまうと問題が解けなくなるが、
インド人はやり方を忘れても、一から考えて答えを出すことができるという。


この方法は、ラマ寺での学習方法にも共通する。

まずは経典を大量に暗記することに相当の時間と力量をかける。

この段階では、経典の内容で何を言っているのか、斟酌せずにひたすら暗記する。
通常は八歳前後で寺に入門し、十年ほどかけてこの工程を進めていく。

その後、「タクサル(対論)」で相手のいるディベートを繰り返し、理論を深く掘り下げていくのである。


---このようなインド哲学の伝統は、中原に伝えられた仏教、
ひいては日本に伝えられた仏教でも重視されることなく、
読経はすれども、意味を深く掘り下げるための大量の修行は受容されなかった。



和[王申]の時代、北京の北方のモンゴルの地でなされていたラマ寺の修行とは、そういう性質のものであった。

モンゴル人として生まれた男子の少なくとも相当数の人材が、この修行に投入されるという状況にあった。
もちろん、通常のラマ寺では、読経を覚えたら学問はしないところも多いが、
一方に大学問寺も相当存在し、数千人規模の人材が日々このような修行に明け暮れていた実情が浮かび上がる。

和珅の継母の父伍弥泰は、中央で活躍する政治家として、
そんな中でも異色の才能を持った優秀なラマ僧を抱えていたに違いない。

モンゴル人の中でも出世頭の伍弥泰にとって、
自分の民族の中の最も優秀な人材をブレーンとして抱えることは、自然の成り行きである。

当時のモンゴル社会においては、
それはとりもなおさず、ラマ寺で修行して学問を修めた僧以外にはあり得ない。

草原には、ラマ寺以外に学問をできる場所とてないからである。


和珅の継母の父、伍弥泰がブレーンとして、ラマ僧を顧問に抱えていたとしたら、
それは大きな寺の組織の中で出世するようなタイプではない。

反骨精神や開拓精神が強く、集団の中ではうまく人間関係を泳ぎきっていくことができないが、
あふれる才能をもてあましている。
そんな異色の存在を一本釣りする。

伍弥泰自身が大舞台で向こうを張る貫禄と人間的魅力で、
異端児を信服させ、魅了する主従関係だったのではないか。

十九歳のパクパが、三十八歳のフビライ・ハーンと互いに尊敬しあう関係にあったように。


一方、漢文化には儒教という成熟した思想体系が根付いている。
その集大成が科挙制度であり、漢人なら少々の小金ができると、猫も杓子もすべて科挙受験を目差し、
小さい頃から論語の暗記から入って延々と学問修行を続けていくのである。

受験勉強の枠の中でうまく才能を発揮できた人材は、首尾よく中央の官僚となって国事に従事していく。
制度の枠の中に自分をうまくはめ込むことができなかった優秀ながら、
異端の豪快なる人材にも才能発揮の場は残されており、所謂「幕僚」になる道があった。

つまりは政治家の私設顧問団に加わることである。
一人の官僚が政界を泳ぎきっていくために自腹で抱えるブレーン、シンクタンクである。

彼らは、任地での地方政治にアドバイスを与えたり、
皇帝に出す奏文の下書きをして、皇帝の逆鱗に触れず、うまくご機嫌を伺えるような名文を書くことで才能を発揮した。

大金持ちにはなれないが、十分に社会的にも体面を保ち、家族を養うことができる程度の収入はもらえたのである。



伍弥泰はモンゴル人なので、幕僚として抱えるのは、科挙的素養を身につけた漢人もいたかもしれないが、
生活習慣もアイデンティティーも違うため、それだけでは不十分である。

ラマ僧の幕僚は、漢文化とは違った知恵と方向付けを与えてくれ、それが少数文化を持つ強みにもなっていただろう。
 
和珅の思春期は、両親に死なれ、継母の支配下という複雑な家庭環境の中で、鬱屈と暮らしていた。
そんな中で継母の実家から時々派遣されてきたラマ僧とこの青年が出会う。

和珅兄弟のチベット語の教養は、そんな中から啓発されたのではないか。

啓発されたのは、語学だけではなく、
ラマ教がもたらすインド的、チベット的、モンゴル的な文化的薫陶すべてにわたっていた。

ラマ僧の凛とした心態のあり方は、青年を心服させるに十分であったろう。

敵意に満ちた周囲で暮らす和珅は、強い心を、戦う勇気を必要としていた。

長期にわたる修行からそれを獲得していた僧の姿は、和珅が目指す姿であった。
 
そんなラマ僧の姿の中に、和珅はあまり接することのなかった父親の姿を見、自分がなりたい理想の像をみつけた。

チベット語は、その憧れの人が持つ教養であり、自然と興味が湧いてくる。
本来なら出世のためには、儒教的素養の方が役に立つ。

満州族の科挙にもチベット語はない。出世に役に立たずとも、入れあげずにはいられない。

和珅も異端児だったのである。




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和[王申]少年物語17、パクパ登場

2016年11月23日 01時26分26秒 | 和珅少年物語
チンギス・ハーンの孫、ゴダン・ハーンが病床で受けた治療は
そういうシステムの最高峰に立ったものであった。

サキャ・バンディタは、当時チベット一の学僧と言われていた人物であるから、
彼がハーンの前で施したこれらの真髄は、チベット仏教というシステムが持つ最高峰のパフォーマンスだったことになる。

このとき、病気を完治させたことが、チベット仏教をモンゴルの国教にする大きなきっかけであったといわれる。

ハーンがここで受け入れたのは、単なる一つの宗教ではなく、一つの総合文化としてのシステムである。
物の考え方から、病気の治し方、若者の教育システムまでをすべて含めた体系を受け入れたことを意味したのである。


モンゴル帝国がチベット仏教を受け入れたのは、サキャ・パンディタの招聘からと言われる。
他のチベット仏教の指導者が、得体の知れないモンゴルに行くことに萎縮している中で、
サキャ・パンディタがモンゴルの地に向かい、布教に尽力し、この地で入寂した。

このとき、チベットから二人の幼い甥を連れている。
僧は結婚できないため、甥が一番近しい子孫ということになるのだ。

十歳のパクパと六歳のチャクガナドルジェである。
中でもパクパは聡明な青年に育ち、時の権力者となっていたフビライ・ハーンの宮廷に呼ばれた。

若き天才の誕生である。
この時、フビライ三十八歳、パクパ十九歳である。

フビライはパクパを国師として、仏教の最高指導者に命じる。
年若き僧を国師、ハーンをも説教する立場にするというのは、パクパに相当の魅力がなければあり得ない。

パクパはその後「パクパ文字」を創作した人としても有名である。
若いながらも相当の凄みを感じさせる青年だったに違いない。

また、その後のチベットにおける活仏制度の教育方法として、
若くても人々に尊敬の念を抱かせるようにするための、数々のノウハウがあり、
サキャ・パンディタはそれを若い甥に施していたに違いない。


モンゴル帝国は、成立時から仏教一辺倒であったわけではない。
チンギス・ハーンは道教の長春真人(ふりがな=ちょうしゅんしんじん)を大いに優遇し
、西アジアまで出向かわせたりしている。

フビライ・ハーンも道教と仏教を戦わせる公開対論の場を持たせた。

テーマは道教側が書いた『老子化胡経』についてである。
老子が西域からインドに入り、異民族を教化し、その弟子で当たるのが釈迦という内容の本である。

もちろん荒唐無稽な内容であるが、その反芻にも系統や順序、反論の手順というものがある。
この論説の根拠が『史記』にある、という道士に対して

パクパは、あなたの『史記』には「化胡」(胡=野蛮人を感化させる)と言う言葉はあるのか、と聞いた。
道士はないと答えた。

パクパは、それならば老子は何の経典を伝えているかと尋ねた。
道士は『道徳経』があると答えた。

パクパは『道徳経』以外にあるかと聞き、道士はないと答えた。

パクパは、それならば『道徳経』に「化胡」と言う言葉はあるか、と聞いた。
道士はないと答えた。

『史記』にもなく『道徳経』にもないものが、偽妄であることは明白であろう、と答えた。
道士は屈服して頭を垂れた。


対論はパクパの圧勝だったと言われる。
相手の自己矛盾するところを一つ一つ指摘し、正当性をつぶしていく。
まさに現代のディベート術にも通じる見事な職人芸である。

チベット仏教では論理的な推理と対論を重視するため、
幼い頃からその訓練で鍛え上げてきたパクパの前では、論戦の習慣がない道士は、
まったく歯がたたなかったわけである。

チベット仏教の大きな特徴は、このインド仏教末期を受け継いだ、論戦による修行にある。
これはパクパの時代、元朝初期から、和珅の清朝中期まで変わらない一貫した特長である。


そこには、儒教を中心とした科挙の学問体系とはまったく違う論理世界が広がっていたといえる。



チベット仏教では、論理学的な討論を重んじることが、大きな特長となっているという。

戦前に内モンゴルのラマ寺を取材した『蒙古学問寺』(長尾雅人著)を見ると、
今から半世紀ほど前の内モンゴルではかなり大規模な学問寺が点在していたことを知ることができる。

ラマ寺には崇祀寺と学問寺の二種類があり、
崇祀寺にいるラマは、ただ日常の労役と勤行だけで日々を終わる。

つまりは法会で読経するための幾パターンかのお経をチベット語でそらんじることはできるが、
そのお経の意味を学問的にも大して理解せず、口にするのみ、ということである。

それ以外には寺での自分の役割である掃除または炊事といった義務をこなし、
一生を無為徒食で過ごす。

が、モンゴルには包頭郊外の五当召、シリンゴルのベイズ廟のように、
大規模な学問寺が少なからずあったという。

そこでは論理的にかなり高度な内容の学問に日々精進し、一生学僧として切磋琢磨した。

標準的な学問寺として、一般的には、顕教学部、密教学部、時輪学部、医学部がある。
その学問の基本的な形としては、最初の十年ほどは徹底的に経典を暗記し、
その後これを理論付けするために昇華させてゆくというものである。

覚えた経典が自分のものとなっているか否かは、絶えず討論という形で確認される。

討論の訓練を「タクサル」という。

四人から十人で円陣を組んで座り、一人が問者となって中央に立ち、質問を投げかける。
問われた者は静かに答えるが、
問者はこれに対して、肩を怒らせ、数珠を振り上げ、衣を引き上げ、恫喝するかのごとき身振りを見せる。

この訓練を毎日、数時間ずつ行うという。


作者も以前にチベットで図らずもこの風景に出くわした。
ある寺で数百人の僧侶たちの袈裟で境内が真っ赤に染まっていた。

チベットの有力な宗派ゲルク派の袈裟は赤だからである。
そして遥か向こう側から轟音のようなぐわわわん、と地に響く音が聞こえてくる。

近づいて見ると、それが僧侶たちのわめき声の大合唱なのである。
わめいている者は、さながら野球のピッチャーのような助走をつけ、
叫びながら相手に球でも投げつけるように踊りかかる。

すると、相手も歌舞伎の見得きりのように阿修羅のごとき威嚇の表情で、
上体を前にのめらせ、片方の腕を後ろに反らせて、相手の顔数センチの所まで迫る。

どうやらこれが「タクサル」の作法らしい。
これを野外で数百人が同時にやっているのであるから、圧巻だ。

どうやらこれが日課として行われるらしい。
この討論に参加するには、まずは経典を暗記し、教義を理解しなければならない。

自分の中でしっかりと理論を消化していなければ、相手にそこを突かれて負けてしまう。
このような訓練で日々論理的思考を鍛えているため、チベット仏教の高僧には優れた対論家が多いという。


ラマ教の学問寺で修行する内容は、竜樹(、
日本でもおなじみの『般若経』である。

なんだ、そういうことか、と思うかもしれないが、
その方法論は似ても似つかぬほどの大きな差がある。

中原や日本ではこのお経を暗誦し、読経することに重きを置き、
これを哲学的に解剖することはあまりしない。

インドでは仏教に限らず、あらゆる宗教で抽象的な哲学理論が戦わされた。
『般若経』の中で最も有名な言葉は「色即是空、空即是色」であることは、
日本でも良く知られるところである。

「色」はこの世のあらゆる存在するもの、「空」は自性が欠如していることをいう。
ナーガールジュナの哲学では、この原理をあらゆる面から、微に入り細に入り説明していく。

「あらゆるものの自性は、原因であれ、条件であれ、その合体であれ、どこにもないのだから、空である」
「眼は自性として空であり、物体もまた同じく空である」
「条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、思惟もまた自性が空である」


延々と続くこのような抽象論を理解し、あらゆる事例に当てはめて考え、自
分のものにするには、相当の年数がかかる。

最初は暗誦するだけで数年かかり、それからゆっくりとその内容を消化し、議論に使いこなしていく。
 
インド哲学は、多分に数学的である。
例えば、ナーガールジュナが唱える最も初歩的な言い回しに
「これがある故に、かれがある。これがない故に、かれがない。」
があるが、

これを代数と数学方式であらわすと、
「もしPならばQであり、もしPでなければQでない。」
(P->Q) & (-P->-Q)

と言い換えることができる。

ラマ寺で毎日「タクサル(討論)」で戦わされたテーマは、
こういったナーガールジュナの著作を中心とした抽象的な題材だったと思われる。




  

  元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。


 


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和[王申]少年物語16、ゴダン・ハーンとサキャ・バンディタ

2016年11月22日 11時11分26秒 | 和珅少年物語
この頃、草原ではモンゴル帝国が勃興しつつあった。
ナーランダ僧院がなくなるのと時を前後して、モンゴルは西夏を滅ぼす。

モンゴルの武将らが最初にラマ教に触れたのは、西夏の宮廷においてであったらしい。
西夏の宮廷では多くのラマ教の高僧が活躍し、国王の上師となっていた。

モンゴルは西夏を滅ぼすことにより、彼らと接しラマ教に興味を持つようになる。
モンゴルに行ったチベット最初の高僧はサキャ派の第三祖サキャ・パンディタである。

チンギス・ハーンの孫ゴダン・ハーンがサキャ・パンディタに宛てた親書はかなりドスの利いたものである。
尊師をぜひモンゴルに招請したいが、もし高齢を理由に来ないのであれば、わが国の決まりにより、大勢の軍を派遣することになるだろう。
そうなれば多くの衆生の命を損なうことになるとは思わないか、という。本人が来なければ、チベットを武力で征服するという脅しである。

モンゴル人がラマ教を信仰するようになったのは、
チンギス・ハーンの孫、ゴダン・ハーンが高僧サキャ・バンディタをモンゴルに招聘した時に本格的に始まるという。

チンギス・ハーンの軍隊は、西夏を滅ぼし、チベットにも手を伸ばそうとしていた。
モンゴル側ではラマ教各派の高僧に働きかけ、モンゴルに招聘しようとしたが、皆腰が引けて誰も行こうとしない。

こんな高原の天然の要塞に攻め入ってくることもないだろうと高をくくっていた部分もあるだろう。
ゴダン・ハーンの脅しの効いた文書ももちろん行きたくなくても行くべき、と思わせた理由ではあろう。

お前が来なければ、チベットに血の雨が降るというのであるから。
当時、サキャ・バンディタはすでに高齢であった。

若い頃からチベット全土を回り、各寺院の高僧を訪ねたり、説法に参加したりして、
その学問はチベット一という評判を取る高僧である。

だからこそモンゴルにまでその名声が及び、招聘されることになったのである。
サキャ・パンディタがモンゴルに行く決心をしたのも、
自らも積極的に仏法でモンゴルのトップを感化したいという積極的な意志があったからに違いない。

こうしてサキャ・バンディタはゴダン・ハーンの元に行く。
ゴダン・ハーンはこのとき病床にあり、彼は医術でハーンの病気を回復させたという。


ラマ教は医学に力を入れる宗教である。
通常ラマ寺における学問修行は、顕教、密教、と同列で医学部がある。

チベット医学の特徴は、精神面と肉体面を分けることなく同時に治療していく点にある。
つまり病人が持つ精神的な不安を、僧として修行した真理と包容力で和らげ、
かつ専門的な肉体の治療も行うということである。

病人からじっくりと生活全体の話を聞き、骨相からその人格、性格や精神状態などを推し量り、
家族や交友、仕事の話も聞きつつ、精神的な不安や生活習慣のどこかに異常なところがあり、
病の原因になっている部分はないか、と探りながら、治療を進めていく。

まずは本人の一番の悩みがどこにあるかを見抜く。
酒の飲みすぎで病気に影響している場合は、なぜ大量の酒をあおるのか、
その精神的不安の根源を探ろうとする。

その根源に合った仏教経典の真理があれば、
それを中心に語り、相手の心の患部にずばりと入って突き立てる。

優れた僧は、相手のレベルに合わせて心に響く話をすることができる。
教養が高くない人間に難しい理論を説いてもまったく琴線にはひっかからないだろう。

何を言ってるんだこの人は、と話の意味も分からないようでは困る。
逆に精神境地が高い人にあまり幼稚なことを説いても馬鹿にされるだけである。
優れた僧とは、相手のレベルを瞬時に見抜き、どんなレベルにある相手にも、
その境地段階に合った言葉をかけることができる人をいう。


精神と肉体を同時に治療していく、というチベット医学の発想は、
現代の医療制度から見ても興味深いものがある。

現代の日本でも、多くの老人が大した病気もないのに毎日近所の診療所に行き、
待合室で何時間も互いに体のどこが悪いのか、延々と語り合う。

診療の番が回ってきても、どこが悪いということもなく、医者も笑ってビタミン剤などを処方する。
ご老人たちに必要なのは、まさに精神と肉体の両方の治療ではないのか。

ところが現代の医学制度では、精神を病んでいる人は、精神分析医へ、
肉体を病んでいる人はその専門医へ、と分けて受け入れる。

まったく、時代が下ったからといって、すべてが先進的とは言いがたい例ではないだろうか。

また精神分析医の制度にしても、問題点はある。

私事ながら、作者の高校の同級生に心理学を研究する友人がいる。
以前に彼女が笑いながら話したところによると、
ある夫婦は二人とも精神分析医としてある病院に勤めている。

患者の話は本来は他言してはならないが、夫婦でもあり同じ病院内のことでもあり妻は家に帰ると、
夫に自分の患者の話を最初から終わりまですべて吐き出して聞かせるという。

つまり夫は医者二人分のキャパシティの情報を注ぎ込まれるわけで、
夫は寿命が縮んでいるのではないか、と彼女は冗談交じりにいう。

他人の悩み事を受け止めるというのは、
その人の持つドグマのようにどろどろとした精神的な澱を受け止めることでもあり、
聞き手も大きなダメージを受ける。

これを癒すには相当の精神力が必要となり、分析医も心を病むケースが多いと聞く。


チベット医学のいう精神面と肉体面を同時に治療する、という定義は、
系統だった修行のカリキュラムにより、まずは僧自身が揺るがない強い精神を持つことから始められるわけである

。哲学的な真理に徹底的に触れ、これを暗記し、駆使して討論で鍛え上げる。
肉体的な修行、苦行を通して、如何なるケースにも動揺しない強い精神と肉体を作り上げる。

その上で医学も身につけるということである。





 

  元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。



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和[王申]少年物語15、夏の承徳

2016年11月21日 09時07分42秒 | 和珅少年物語
何度も前後してややこしくて申し訳ないが、再び『和[王申]少年物語』に戻ります。

過去記事については、以下のリンクをご参照ください。


 国家予算15年分を蓄財していたと言われる世紀の汚職王・和[王申]。その怪物の成立に至るまでの道のりを探る。


記事の一覧表:

    
    1、乾隆帝の初恋の相手に瓜二つ
    2、満州貴族としてはそこそこの家柄
    3、咸安宮官学へ
    4、包衣階級の成立と明代の宦官
5、アイシンギョロ家と功臣らの関係
6、咸安宮官学の教師陣は全員翰林
7、ウラの満州語教師
8、咸安宮官学、旗人社会の随一の名門校に
9、八旗官学と世職幼学
10、世職幼学から咸安宮官学に上がれる可能性
11、康熙帝の公主たちのモンゴル生活
12、北京住まいのモンゴル王公の暮らし
13、和[王申]のチベット語
14、和[王申]の影に怪僧の影あり?


*******************************************************

清朝では、モンゴル族との関係が深まるにつれ、
伝統的に信仰していたシャーマニズムと共にチベット仏教も信奉するようになる。

特に乾隆帝の時代になってからは、その動きに拍車がかかり、承徳を中心に盛んに寺院が建てられ始めた。 


北京から東北へ150キロ、承徳という町がある。
熱河とも言われる地方だが、康熙帝の時代から「避暑山荘」の建設が始まった。

避暑山荘は、清朝の「陪(ばい)都(と)」ともいえる役割を担った。
遊牧民が夏と冬の牧草地を変えるように、
騎馬民族が作り上げた国家には首都のほかに「陪都」があり、冬と夏で宮廷が移動する。

特に乾隆帝はほぼ毎年夏の約五カ月間をこの承徳で過ごし、
残りの時間もやれ江南だ、瀋陽だ、東陵だ、と動き回り、紫禁城ではろくに時間を過ごしていない

乾隆帝自体も相当に遊牧的行動様式の人だ。

承徳はまさに清朝の「夏の都」といえる。
それは北京が暑いから本当に「避暑」に訪れていたのではなく、
ここで行われるさまざまな行事を通してモンゴルの諸部族との交流を深め、国境の平和を保つ目的があった。

承徳は遊牧民族との外交のための街として作られた。
モンゴル族がチベット仏教(ラマ教)を信奉しているため、
承徳の避暑山荘の周りには「外八廟」と言われる大小のラマ教寺院が作られ、信仰心厚いモンゴル人らを喜ばせた。

皇帝の承徳滞在に合わせ、チベットから高僧が呼ばれ、
時にはパンチェン・ラマと言った最高層の高僧までが訪れ、これらの寺院で法会を開いた。

モンゴル王公らにとってこういう普段ではめったに触れることの出来ない最高レベルの宗教行事に参加できることも
承徳滞在の楽しみの一つだったに違いない。

夏の間、延々とこれらの行事を続けることで、モンゴル族らは皇帝のためなら命がけで戦おう、
という忠誠心を新たにして草原に帰っていくのである。

チベットのラマ教は、インド断末魔の仏教を化石のように保存しているという。
仏教はインドで五世紀ごろから下り坂になり、十二世紀前後にはインドから絶たれる。

イスラム軍の侵攻により、ナーランダ僧院が破壊されなくなったのは、その象徴とも言える。
唐代には三蔵法師も留学したことのある仏教哲学の名門学府である。

これらの人材が丸ごとヒマラヤ山を越えて、チベットへやってきた。
仏教の最高レベルの人材がチベットへ流入したのである。

一二〇四年、イスラム軍がナーランダ僧院を攻め滅ぼした時、
最後の主座カチェ・パンチェンは請われてチベットに入る。

弟子九十人を率いてヒマラヤ山脈を越え、チベットの綽浦寺に入ったという。
インド仏教の最高結集であるナーランダ僧院が丸ごとチベットに移されたといってもいい。

日本の真言密教は空海たった一人で持ち帰り、今に至るまでその体系が伝わっている。
それを百人近い最高精鋭の僧団がそのままチベット入りしたことを思えば、
インド仏教末期の形状をかなり濃厚に伝えていることが想像できるだろう。

チベットに伝えられたのは密教であるが、日本に伝えられた密教とはかなりの時代差がある。
中原に密教が伝わったのは七世紀、これが空海や最澄により日本に伝えられた。

チベットに定着したのは、十世紀以降であるから、三百年以上の差がある。
その後チベットの土着信仰ボン教と融合することにより、独特の発展を遂げた。

チベット仏教のことを俗に「ラマ教」というが、「ラマ」はチベット語で「上人」を意味し、
サンスクリット語の「グル(師匠)」に当たる。
ヒンズー教では師匠は絶対無条件に従い、尊敬する存在として扱う。

末期仏教は、多分にヒンズー教化しており、
チベット仏教のこの俗称は、チベットに流入した末期仏教が同じような姿勢と考え方を持っていたことを、
化石のように保存しているといえる。


  

 元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。






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『紫禁城の月』と陳廷敬29、康熙帝、西渓山荘に滞在す

2016年11月20日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
その後、康熙帝は再び高士奇に不利な評判を耳にする。

すると今度は、高士奇にもう少し用心するように注意を促すと同時に、身辺の者たちにこういって牽制したという。
「諸臣らが秀才(科挙の中間段階の資格)として上京して来た時は皆、徒歩で綿の服を着てやってきた。

 それが一夜にして進士に及第して官位を得れば、豪華な布地で囲んだ馬車に四頭立ての馬を用意し、
 御者八人に守らせて行進するのだから、その財力はどこから来るというのか? 
 
 詳しく追究せねばなるまいの」


康熙帝のこのような「法は衆を責めず」
(たとえ法律に違反していても、民衆が広く行っていれば認めるしかないこと。
 日本風に言えば、赤信号、皆で渡れば怖くない?? ちょっと違うか……)
の詭弁は明らかに道理が通っていない。

高士奇のことをいうおまえたちも、俸禄のほかにびた一文も受け取っていないと堂々と言えるのか? 
同じ穴の貉が何をいう……と。

皇帝がそれを言い出したら終わりやないか、と思ってしまうが(汗)。
どうやら高士奇の違法犯罪の事実を庇うことが目的のようだから、
高士奇の蓄財を責めなかったのは当然と言えよう。



そんな狂おしい蓄財意欲により貯め込んだ富を注ぎ込んで作られたのが、
故郷の銭塘(杭州)「西渓山荘」であり、三度目の南巡の際にここに康熙帝を迎える。


「西渓山荘」は、杭州の西郊外に広がる西渓湿地の中にある。
水路が網の目のように張り巡らされ、古来より多くの文人墨客が庵を結んだり、別荘地を建てたりしてきた場所である。

俗に「大隠は市に隠れ、小隠は野に隠れる」というらしい。

--つまり隠者でも大物は人里離れた山の中などには住まず、
他の文人らが訪ねてくることのできる都会からちょうどいいくらいの距離にある郊外に住む、という意味だ。

その意味で「西渓山荘」は銭塘(杭州)の城内から遠すぎず、距離感も憎い限りだ。


現在「西渓山荘」が史料を元に復元されている。

このシリーズの最期に紹介する写真のとおりである。


高士奇がその後、平湖に完全移住してしまったこともあり、
どうやら山荘は早々に朽ち果ててしまったようで、跡形も残っていなかったらしい。

ほぼ完全にゼロから復元したもののようである。


新築ながら、江南の庭園スタイルが存分に反映されており、往年の華やかさが充分に伝わってくるではないか。


この時の康熙帝の山荘滞在の様子は『紫禁城の月』の中でも詳しく描かれており、ここでは述べないこととする。

皇帝を我が家に迎える――。
それは高士奇の人生で最も輝かしい瞬間だっただろう。


*********************************************

以上、高士奇のシリーズはここで一旦、終了とします。

実は高士奇のこの後の人生についても文章は用意してあるのですが、
『紫禁城の月』の発売からまだ三ヶ月も経っていない時点でネタバレになる内容は、よろしくないのであります(笑)。

また時機を見計らい、順次記事を投入していきたいと思います。





杭州の西渓山荘

自分でもぜひ行きたいのですが、まだ行けていないのでネット上から写真を拝借しました。

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『紫禁城の月』と陳廷敬28、高士奇の蓄財が悪評に

2016年11月19日 09時28分10秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
朝廷の大臣らが、自尊心をかなぐり捨ててまで高士奇に頭を下げて教えを請いに来るのは、
皇帝のそば近くにいる人物と脈を通じようと言った単純な理由ではなく、
高士奇しか知らない内幕情報があったからである。

あるいは高士奇の手を通して康熙帝に何かを手渡すこともできると考えたのだろう。

専制政治の時代、物事の禍福は情報量で決まることが多かった。
その面では、確かに高士奇の独壇場だった。


このようにして高士奇の屋敷は、朝廷の第二の情報集約所、第二の政府機関というほどの存在にまでなった。
訪ねて来る人が手ぶらで来ることはもちろんなく、手中に銀票を数枚握りしめていたことは言うまでもない。

それだけでも高士奇の手元には、唸るような富が転がり込んできたのである。

 
かかる人目に付く方法で蓄財のシステムを作り上げた高士奇を快く思わない人々が出て来るのは当然であり、
その事実を康熙帝に耳打ちする者もいた。

「高士奇は、自分の寝るふとんを背負って京城に一旗揚げに来た一文無しだったではないか。
 今やどれだけの不動産を持っているか聞いてみれば、受け取った賄賂の規模もわかるというもの」
と。


康熙帝は高士奇に事実を確認した。
すると高士奇は悪びれることなく、こう答えたそうな。

「総督・巡撫や諸臣の皆さんは私が陛下の寵愛をお受けしているので、何かと贈り物をされます。
 陛下の恩恵が私のような者にまで降り注がれなければ、私も関わることはできないでしょう。

 私を悪く言われる重臣の方々にとってはその程度の発言力、何とも思われないのでしょうが、
 私には糸の一本、米粒の一つに至るまですべて陛下のご恩から来ているものでございます」(『郎潜紀聞二筆』巻十一)


つまり自分には権勢を広げようという野心などはない、そこは他のキャリア組の大臣らと違うところだ、
と無辜の子羊の体を見せたのである。


これはある意味、事実だったかもしれない。
皇帝への気配りは神がかり的なほどにできたが、高士奇には国の政治を動かしていくような甲斐性も権限も職位もなかった。

つまり皇帝にとって脅威となり得ない存在だ、と自らもいい皇帝もそれに深く同意したということだ。

ともかくも高士奇の甘い言葉に康熙帝はすっかり煙に巻かれてしまったらしい。
そのままこの件は沙汰やみとなるのである。

当時、巷では
「九天(世の中すべての)供賦(税金)は東海(徐乾学)に帰し、
 万国の金珠(純金と宝石)は、淡(澹)人(澹人は高士奇の字)に献じられる」
という言葉が広く流布していたという。

しかし康熙帝は高士奇の巧妙な言葉を聞くと、言われて見ればそうかと納得。
ただ笑ってそれ以上は追究しなかったのである。





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『紫禁城の月』と陳廷敬27、高士奇と金の豆粒

2016年11月18日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
以上のような細やかな心遣いが、康熙帝の心にいたく響いたことは確かである。
しかし高士奇がした努力はこれだけではなかった。

出仕している間、康熙帝から一歩も離れないことはもちろんだが、
自分が退勤した後に何をしたか、誰に会ったか、何と言ったかをどうにか知ろうとした。

特に自分のいない時間に康熙帝がどんな書物を読んだかについて、強い関心を持った。
このため家から袋にいっぱいに黄金の豆粒を詰め込んで用意し、
出仕すると康熙帝に仕える少年宦官から、生活起居に関する情報を始めとするさまざまな情報を詳しく聞き出した。


価値のある情報を提供するたびに、高士奇は金の豆粒を一粒贈り、
話せば話すほどたくさんその場で渡したので、夜退勤する頃には一粒も残っていないことも多かった。


このようにして康熙帝の喜怒哀楽、一挙一動のすべてを把握、康熙帝が読んだ書籍を事前に熱心に予習した。
したがって康熙帝が何を質問しようとも、
--たとえ世間ではまったく一般的ではないような書物の内容であっても、
高士奇はすらすらと答えることができ、深く御意を得ることができたのである。

このため康熙帝はその学問の深さに一目置くとともに、共通の話題が尽きぬと意気投合するに至る。

『郎潜紀聞二筆』巻十一には、
「廷臣の中で博雅なこと、士奇のほかに右に出る者なし」とある。


高士奇は金の豆粒で康熙帝のおつき宦官を買収し、康熙帝の生活起居と作業情報を手に入れた……。

その後はまるで頭の中を見透かしたように御意を把握し仕事に役立てたが、
そのほかにも情報通としての自らの重要性を向上させること、独自の情報源を持つ存在としての価値を確立するために思う存分活用した。

時には情報を公然と売り渡すこともあり、その大胆さはやや慎重さに欠けるものでもあった。
--それが『紫禁城の月』にもあるような結末を生むことにもなる……。


情報通だったことは、当時は広く知られていたらしい。
同時代やそれからやや時代が下った時期の随筆などに多くの記述が残っている。



例えば、『簷曝雑記』巻二には、次のように書かれている。

「高士奇の退勤時間になると、朝廷各部門の大臣らがその自宅前に列を成して帰宅を待ち構えた。
 大学士の明珠さえも時にはその中にいたほどである。

 退勤後、高士奇の姿がようやく現れたかと思うと、まるでその群衆が目に入らないかのように、
 一切を無視して家の門に向って直進し、中に消えていった。

 高士奇と直接話をすることがかなわないので、人々は仕方なく使用人から邸宅内の情報を収集し、
 高士奇がいつ顔を洗ったか、食事をしたかまですべて聞きあさった。

 それでもかつての『恩人』であり、当世の『宰相』的な立場にあった明珠に対しては、まだ丁寧に扱った。
 というのは、帰宅してしばらくすると外に呼び声をかけ、明珠を中に招き入れるよう指示がされるからだ。

 二人はかなり長い時間話し込んだ後、明珠がようやく外に出てくるのだった。

 残りの尚書(大臣に相当)、侍郎(副大臣)クラスについては、 
 全員に会う時間などまったく取ろうとせず、その中から一人二人のみを選んで、中に呼び入れるのだった。

 その後、家奴(かど)が出て来て『もう時間も遅くなりましたから、今日はもう誰ともお会いになりません。また日を改めて』という。
 残りの人々はそれぞれが馬に乗り、轎に乗って退散するしかなかった。

 そして翌日再び列を成すのである。ほぼ毎日このような調子である。」





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『紫禁城の月』と陳廷敬26、康熙帝が高士奇を寵愛した理由

2016年11月17日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
次に金山での話がある。

金山は鎮江市内長江の岸辺にあり、山肌険しい。
その頂上からは長江と天を一望にすることができる。

「江南諸勝之最」と言われる名勝だ。


ある時の南巡の道中、康熙帝は金山寺に物見遊山にやってきた。
山に登り遠くを眺めると、長江が滔々と東へ流れ水と空がつながるような絶景に大いにご機嫌麗しくなった。

康熙帝が筆を振るうのを嫌いではなくあちこちにその筆跡を残していることを、
寺の僧侶たちはとうに聞き知っており、霊陰寺のように一筆書いて「墨宝」を残してほしいとおねだりした。

しかしこの一筆は想定外の求めだったためお付きの者たちとも打ち合わせをしておらず、書くべき字が思いつかない。
康熙帝の困った様子を見て、高士奇が直ちに紙切れを渡した。

康熙帝が広げてみると「江天一色」の四文字が書かれていた。
その言葉に康熙帝は、はたと膝を打ちこの四文字を宣紙に書いたという。

康熙帝は高士奇からの助け舟を大いに喜び、「江天一色」の四文字に気持ちが高ぶった。
そのため他の題詞と比べても、この四文字は「特に力強く書けている」という。
(『嘯亭雑録』巻八では、康熙帝の題詞は「江天一覧」の四文字になっている)



さらにもう一話。

ある時の巡幸で泰山に登った時、康熙帝は大学士の明珠(ミンジュ)と高士奇とともにある偏殿の真ん中に立った。
康熙帝はふと興が乗り、笑ってそばにいるこの近臣二人に聞いた。

「今の朕らは、何に似ているかの」


明珠は、
「三官菩薩」
と答えた。

高士奇は直ちに康熙帝の前に跪いて高らかに
「高明配天」
と答えた。

それを聞いた明珠は、はっとその意味を理解すると驚きもし気恥ずかしくも感じた。
その額からは汗が一気に噴き出た。


「高明配天」は四書の一つ『中庸』の出典を踏まえたものだと思い至ったからである。
「博厚配地」と「悠久無疆」という対になった句がある。

二つを組み合わせた意味は、
「博大かつ深厚、万物を乗せた大地と合わせることができる。
 高大かつ光明、万物を覆う天空と合わせることができる。

 悠長かつ久遠、万物を作る天地のように際限なく果てしない」


高士奇と明珠の名前にちょうどそれぞれ「高」と「明」の二文字があり、
皇帝のことを俗に「天子」という。

つまり「高明配天」とは、
「高士奇と明珠に天子を合わせる」という意味と「聡明さを天に合わせる」の二つの意味を一言で表現し、
意味深遠となるのだ。

明珠は無知無識な上、分際もわきまえず皇帝と自分たちを対等に論じただけでなく、
自分のことも菩薩と称してしまった。

高士奇のかかる当意即妙な答えを聞けば、自然と心臓が縮み上がったのである。






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『紫禁城の月』と陳廷敬25、康熙帝と高士奇と杭州霊陰寺

2016年11月16日 06時33分32秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

高士奇の学問が如何ほどのレベルだったかは定かではないが、博識だったことは間違いないだろう。
世紀の雑学家と言ってもいい。

康熙帝はさまざまなことに広く興味を持ち、知識欲の旺盛な人だった。
数十年も一日の如く読書を続け、その興味は世の中の森羅万象に渡り、
天文、地理、経学、詩文、歴史、数学、さらには西洋の近代自然科学に関する知識に至るまで、何もかも学びたがった。

それぞれの分野で相当の労力もかけた。

最終的には「貧多嚼不爛」(何もかもに手を出しすぎ、どれも中途半端)になったが、
学んでいく過程でともに話のできる相手がいなければ、寂しく、孤独にも感じたことだろう。


康熙帝が高士奇から離れられなかったのは、なぜか。
そこには他人では真似できない何かがあったにちがいない。

高士奇の南巡同行における逸話からいくらかその一端を感じることができるかもしれない。


康熙帝はその生涯に六度の南巡に出かけているが、高士奇はその中で四度に渡り同行しているのである。

ある年の南巡の道中、康熙帝は杭州の霊陰寺にやってきた。
寺の住持(住職)は皇帝がご機嫌麗しいのを見て諸僧らを率いて康熙帝の前で跪き、
霊陰寺のために扁額の文字を書いてほしいと所望した。

康熙帝も生来、筆を振るうのは嫌いではない性質(たち)だ。
僧たちのこのようなおねだりに応えることもやぶさかではない。


しかしこの日はやや興奮気味だったのか、
「靈」の字の上部の「雨」の字をあまりにも大きく書きすぎ、
真ん中の「口」三つと下の「巫」の字を書く場所がなくなってしまった。

このためどうにも次の一筆を降ろせずに往生していた。


高士奇はその様子を見て事情を悟ると、直ちに手の掌に「雲林」という二文字を書いた。
墨を擦りに行くような振りをして康熙帝のそばに寄り、わざと手の掌を広げて康熙帝に見せたのである。

この絶妙な機転に助けられ、康熙帝も気の動転が鎮まった。
字を書き間違えたのなら、いっそのこと開き直り「雲林」の二文字を書くことにしたのである。

--霊陰寺の別名「雲林寺」には、このような由来があるのだ。


杭州の民衆はこの寺名を認めたがらず、影では昔のまま「霊陰寺」と呼び続けたが、
康熙帝の題写した扁額は、未だに霊陰寺の大門の上にかかっている。

--民衆が康熙帝のつけた寺名を認めたがらなかったのは、
以前にも何度か書いたが、江南は最後まで満州族への心理的抵抗感が強かった地域のためかと思われる。


ここではそれが主題ではないので、これ以上は論じないこととする。





杭州の西渓山荘

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『紫禁城の月』と陳廷敬24、高士奇、起居注官に任命される

2016年11月15日 07時54分15秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

康熙二十二(一六八三)年、高士奇は「日講」に任命される。

これは二つの職「日講官」と「起居注官」を一つに兼任する官職である。

「日講官」は、皇帝のおそばにつき日常の学問的な疑問に答える。
「起居注官」は、皇帝の行動を二十四時間にわたり記録する係である。

どちらにしても常におそばについており、あまり忙しい仕事でもなかったためなのか、
この二つの仕事を一人の人間が兼任することが慣例化していた。


そのようなわけで高士奇は、日頃から康熙帝に古典の解説などをすることがよくあった。

ある時、『周易』の講義を行うことになった。
高士奇は深夜に家に戻ってからも翌日講義すべき内容の復習に余念なく、遅くまで準備を怠らなかったという。


また「起居注官」というのは、皇帝の日常を記録することが仕事のため二十四時間皇帝のおそば近くにいる。
したがって外巡にも必ず同行した。


康熙帝はほとんど紫禁城に居ついていた時間がないのではないかというくらいあちこち動き回った皇帝だが、
高士奇はその康熙帝に付き従い、松亭(内モンゴルへ抜ける要所)、塞北(承徳やモンゴル)、盛京(現在の瀋陽)、
烏拉(ウラ、現在の吉林、満州族の故地)、浙江(いわゆる康熙帝の六度に渡る南巡ですな。高士奇本人の故郷でもある)等にも同行した。

中でも康熙二十一(一六八二)年に満洲に同行した際の記録『扈従東巡日録』は、
現在でも当時の満洲の風土を知ることのできる貴重な歴史的資料となっている。


康熙二十五(一六八六)年、高士奇は統制総裁、政治典訓副総裁に就任する。
この頃が最も多忙を極めた時期のようである。次のような詩を詠んでいる。


  塞北松亭載筆頻  塞北、松亭でも頻繁に筆を持ち、
  江南山左扈時巡  江南、山左(山東)に付き従って回る。

  旨甘不欠慈幃奉  御意に沿うよう細心の注意でお仕えするが、
  内顧無憂頼爾身  家庭を顧みなくてよいのはありがたいが、申し訳なくもある。


出張続きで家を空けることが多かった日々が綴られている。



高士奇は一流の書道家とまでは言えないまでもその字は美しく、
康熙帝がその清書した文書典籍をお気に召していたことは、疑いようのない事実だろう。

印刷術がなお未発達だった清初において、朝廷や官府の出す文書は現在のように印刷やコピーできるわけではなく、
人の手で若干部数を書き写し、配布された。

高士奇は入宮以後こういった書き写しの仕事に携わっていた時間が長い。
字が美しく仕事に勤勉だったため、皇帝の覚えがめでたく出世のきっかけとなった。



また高士奇には絵心もあり、特に山水画は「筆墨が隽雅」(味わい深く優雅)、逸品と呼ぶにふさわしかったという。

高士奇は学問の探求にも熱心で広く書物を読み、考証への造詣が深く著述をまめにした。
『四庫全書』に収録されているその著作だけでも、『左伝紀事本末』、『春秋地名考略』、『三体唐詩補注』等の八部がある。

『四在庫目』への収録は、『天禄識余』、『塞北小鈔』等の五部。
その他にも『読書筆記』、『苑西集』、『経進文稿』等の十数種類の著作がある。

高士奇のこのような著作は、大きく三つに分けることができる。
一つは詩文集、二つ目は康熙帝の活動の記述、三つ目は学術著作である。

中でも学術著作では、春秋左伝の解釈、唐詩の解釈を得意とした。
『四庫提要』では、高士奇の学術著作を高く評価する。

社会主義国になってから中華書局が『左伝紀事本末』点校本を出版している。
--現代でもその学術価値が、高く評価されていることがわかる。


高士奇は、一流の書画鑑賞家・収藏家でもあった。
俗に清初の収蔵大家のことを「三家村」と呼びならわすが、それは号の中に「村」の字のある三人の収蔵家を指す。

 1、梁清標。字(あざな)・棠村。
 2、安岐。号・麓村。
 3、高士奇。号・江村。


梁棠村と安麓村はコレクションの幅が広く、豊かで逸品が多いことで有名だが、
高江村(=高士奇)は、特に鑑定レベルが高いことでその名が知られていた。

その法眼で鑑定された作品は、評価も値段も一気に十倍上がると言われた。







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『紫禁城の月』と陳廷敬23、軍機処の前に南書房あり

2016年11月14日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬
「内閣」という枠では、皇帝自身があまり気に入らない勢力を排除できなかった。
南書房は「皇帝に書画を献上し、詩句のやり取りをする」という名目で発足されたものの、
それはあくまでも借りの姿。

実質は国政の中枢に仕立てられていく。


そして日頃から皇帝と密に接することにより、南書房に出入りするメンバーらの権勢が日益しに強くなったのである。

この時、かの有名な軍機処はまだなかった。

軍機処は康熙帝の子である雍正帝が設立し、その後も清末まで継承されたために名前がよく知られているが、
実際には軍機処と同様の役割を持った機関がすでに父親の康熙帝時代からあったということになる。

南書房も軍機処も名前が違うだけで実質的な目的は同じと言える。

 
康熙と南書房の官僚の関係は、極めて親しいものだった。

政務について緊密な議論を交わすほかにも、
康熙帝はよく「諸文士らと花を愛でて魚を釣り、同堂の師友と何ら変わりがなかった」(『嘯亭続録』巻一)
と言われる。


ある時、五台山から宮中に「天花」という名のキノコを献上された。
康熙帝は「香りの高いこと、世にも珍しく佳味と称すべし」と賞賛した。

そこで南書房にもわざわざ「名山の風土也」と知らせて一部を下賜したという(『池北偶談』巻二)。

南書房の官僚らに御用瓜果(皇帝用のお茶受けに供される味付け種、茶菓子、果物)、茶酒やその他の物品を下賜することは、
すでに日常的な習慣となっていた。


高士奇は康熙十六(一六七七)年、三十二歳の時に南書房に入った。

この年、大内「苑西」(暢春園)の中にも住まいを賜っている。
康熙帝が紫禁城ではなく暢春園で過ごす時間が長かったため、近くに住まいを賜ったということだろう。

また録事(記録係)として康熙帝の南巡にも同行、冬には内閣中書にも抜擢された。


高士奇は前後して二回、南書房の任務についた。

一回目は康熙十六年から二十七年まで、二回目は康熙三十三年から三十六年まで、
二回合わせると実に十四、五年の長きにも渡る。

この間は高士奇が最も忙しかった、激務をこなした時期だったと言える。
同時に最も充実した最も栄光に溢れた時期でもあった。

各種の文献資料を見ると、高士奇は南書房での当直で毎日朝早く家を出て夜遅くまで仕事をしていたようである。
勤務時間を過ぎても康熙帝に残るように言われれば、何かの相談を受けたり議論を交わしたりした後、
深夜になってようやく帰宅することもしばしばだった。

退勤があまりにも遅くなり城門が閉まっていたため、康熙帝が警護の者をつけて家まで送ったこともある。


康熙十九(一六八〇)年、三十五歳の時に「翰林院侍講」に就任。

これは「翰林」官とは別であり、「翰林」でなくてもなることができた。

「翰林」には進士出身者でなければ、なる資格さえなかった。

しかも進士の中でも最も成績のよい「第一甲(上位三名)」か、「第二甲(四位以下の若干名)」でなければ、確率は低かった。
「第三甲(その他大勢)」で順位が低ければ、翰林には選ばれなかったのである。

通常、一度の進士合格者は二百人から四百人と言われたが、
その中でもエリート中のエリート、国家中枢のブレインともいうべき存在だ。

--進士どころか、挙人の資格さえ持っていない高士奇には、もちろん「翰林」になる資格はなかった。


これに対して「翰林院侍講」は奏文の管理、公文書の照合などの事務仕事、いわば裏方を担当する。
名前はまぎらわしいが、まったく別の資格である。










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『紫禁城の月』と陳廷敬22、高士奇、南書房に入る

2016年11月13日 00時01分15秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

高士奇は康熙八(一六六九)年、二十四歳の時に国学に入学する。

この入学は有力官僚の推薦によるものである。
どのような知遇があったかについては『紫禁城の月』でドラマチックに描かれている故、ここでは繰り返さない。

この年、高士奇は初めて康熙帝にも謁見が叶い、書の美しさを評価されて翰林院に勤めることとなった。
康熙帝に仕えること一年足らずで高士奇は飛ぶ鳥を落とすほどの勢いとなる。

後述するように、皇帝の痒いところに手が届くようなきめ細やかな気配りが気に入られるのだが、
直接のきっかけは、南書房への出入りだったらしい。


南書房は康熙帝が設立させた特別な機関だが、そのスタートメンバーに選ばれたのである。

高士奇は当初「中書舎人」なる官職の康熙帝の個人的な秘書でしかなかった。

康熙十六(一六七七)年十月、康熙帝は大学士の明珠(ミンジュ)等にこう言った。
「朕がいつでも書籍を読み文章が書けるようにしたいが、身辺に博学で書に長けた者がおらぬ。
 何か議論したいことがあっても、相談する相手すらおらぬ。

 現有の翰林の中から学問の優れた者を一人から二人選び、左右に常侍させて文義を考察・研究させるがよかろう。
 仕事を滞りなく進めるため、大内に常駐場所を手配しよう。

 また高士奇のような書が美しい者も一人から二人ほど選んで入らせよ」

まもなく康熙帝は張英、高士奇らに南書房での勤務に就くよう命じた。


康熙の上記の言葉を見ると、高士奇が康熙帝の覚えめでたく、皇帝自ら特に南書房に入るよう指名した、
それは書が美しかったからと知れる。




康熙帝が南書房を増設し専門の官僚を置いたのは、
名義上は経史の解説の講義をし、詩の唱和、文書や典籍等の書き写しのためだった--。

皇帝の文学的な侍従のように見せかけたわけが、実際の情況を見るとまったくそれだけというわけではない。


実は政務も処理していたのである。
勅令の起草、諭旨の撰述、奏文の閲読をしていた。

--これは本来なら、内閣で担うべき任務である。


しかし南書房ができてからは、諭旨の撰述のほとんどを南書房の諸臣が行った。
南書房に集められた諸臣らは、内閣のように有力な建国の功臣一族ではなく、皇帝が心から信頼を寄せる近臣たちだった。


南書房を作った康熙帝の最大の目的は、満洲族の有力貴族らを政権の中枢からつまはじきにすることにあったのだ。


アイシンギョロ家というのは皇帝の地位に収まってはいたものの、
建国の功臣一族が、それを完全に納得していたわけではないらしい。

「たまたま誰かを皇帝に推戴しただけで、この天下はわしらも含めた満族全体で取ったもの。
 アイシンギョロ家だけが私物化することは許さん」

という気分が満ち満ちていた。


それが鰲拝(オボイ)の専横であったり、康熙帝の諸皇子らのガチンコの後継者争いなどの形で表れてきた。

諸皇子らは、それぞれに生母の実家である功臣一族や各旗の勢力を代表する存在であり、
各勢力が自らの支持する皇子を盛り立てて死闘を繰り広げたわけである。

そのような功臣一族から権力を徐々に取り上げ、内閣を形骸化させるために作ったのが南書房だった。
康熙帝の狙いは、皇帝の権力の強化、満州族の建国の功臣一族たちの権力の弱体化にあった。






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『紫禁城の月』と陳廷敬21、高士奇の生い立ち

2016年11月12日 10時10分43秒 | 『紫禁城の月』と陳廷敬

えええー。
陳廷敬さん周辺の事情については、大方のことは書き終わりましたかねー。
また思いつき次第補充するとして、一旦は陳廷敬さんから離れようと思います。

次に『紫禁城の月 大清相国 清の宰相 陳廷敬』のほかの登場人物について、
興味の赴くままに書いていきますー。

一発目、今日からしばらくは高士奇に関してです。


**************************************************


『紫禁城の月』に登場する人物の中でも、高士奇の存在はひときわ異彩を放つ。

陳廷敬のようなキャリア組とは違い、科挙に合格するという手順なしにひょんなことから満洲貴族経由で推薦を受け、
あれよあれよと言う間に出世の糸口をつかんだ人物である。

官位は高くなく、国政への影響力はないものの、終始天子からのご寵愛篤き存在。

――日本的に言えば、「茶坊主」。
外来語でいえば「コンパニオン」のプロ中のプロとでもいうべきか。


高士奇のどこがそんなに康熙帝にとって覚えめでたかったのか……。
 
本書の中でもさまざまなエピソードが紹介されているが、もう少し詳しく見ていきたいと思う。


まずは生い立ちから。

高士奇。字(あざな)は澹人、号は江村、原籍は浙江余姚。
順治二(1645)年に浙江余姚樟樹郷高家村(現在の慈溪匡堰鎮高家村)に生まれた。

--生まれ故郷の村は今でも「高家村」ですか。
まさに村中皆「高さん」という村。

これだけ一族が集まり住む村だと、祖先の軌跡も比較的はっきりと伝わっているらしい。
高家村の子孫は北宋『靖康の変』の時、汴京(河南開封)から浙江慈溪に南遷してきたと言われる。

『靖康の変』といえば、北宋の首都汴京に金の大軍が押し寄せて徽宗を拉致し、そのまま満洲へ連れ去ってしまった事件。
これ以後、宋は長江以南のみを領土とし、首都を臨安=杭州に移した。

この時に首都の人々が金の支配下に入ることを潔しとせず、大挙して長江を渡り、南方に移住した。
つまりは都で元々、支配階級に近い、よい暮らしをしていた一族ではないかと思われる。


地図で位置関係を確認しておこう。







高士奇の出自に関する記録を見ると、とにかく「出自が貧しい」ことが強調されている。

しかしそもそも科挙の受験などというものは、本物の水飲み百姓なら到底準備できるものではない。

私塾に通わせるだけでも費用は馬鹿にならないし、
生産活動もせずに働き盛りの大のオトコが何年も無駄飯を喰らうのを養うだけでも、労働者階級では到底無理な話だ。

高士奇の家が本当の「貧乏」ではなかったことを裏付けるこんな事実もある。
後に高士奇が豪華絢爛な別荘を建てたと言われる杭州郊外の「西渓山荘」のことである。
『紫禁城の月』クライマックスあたりにも登場する。

この「西渓山荘」、高士奇が都で大出世を遂げてから購入した土地なのかと思いきや、
実は高士奇が成人する以前からすでに高家が所有していたものなのだ。

--ささやかな別荘地を所有するくらいの小金は親の代からある家庭だったことがわかる。


しかし康熙三(一六六四)年、高士奇が十九歳の時に父親が亡くなったため、その後の生活が困難となった。
その頃の困窮ぶりのために「出自が貧しい」と言われるようになったらしいが、
成人するまでは、ぼちぼちの中産階級だったようなのだ。




高士奇と伝わる肖像画


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