いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

北京胡同トイレ物語2、 糞夫・時伝祥 8、糞業、ついに国有化

2011年04月08日 17時34分08秒 | 北京胡同トイレ物語2、糞夫・時伝祥
以上、見てきたように農村の社会主義化は、1949年の建国からほぼ7年をかけて進められた。

では、糞業界はどうだったのか。

まずは党の当局により、毎日連日に渡る啓蒙教育が持たれる。
農村と同様、いきなりの「共有化」に抵抗を持つ一般の糞夫もいる。

糞夫には、時伝祥のように糞覇に雇われた者だけではなく、所謂「自営業」者もいるのだ。
先祖代々、父ちゃん、爺ちゃんから伝えてもらった「糞道」があり、
その汲み取りの権限がおまんまの種、命の源であり、石にしがみついてでも離さない覚悟、命の次に大事なものだ。

それをいきなり皆と共有しろと言われても、大パニックになる。
民国時代の数々のデモ、ストを見よ。
すべてのすったもんだが同じ経緯だったではないか。


公務員となることのメリットを説き、糞道の権利がなくなったからと言って、
生活には困らないことなどを時間をかけて納得させなければならない。

民国時代はまだ内戦が続いていたため、市政府の行政も流動的、
じっくりと糞夫らを啓蒙する時間も予算もなかったから成功しなかったといってよい。

政権が統一され、戦争がなくなれば、時間をかければ解決できる問題ではあったのだ。
また糞覇の元で働いてきた糞夫らには、「階級闘争」の仕方(??)とイデオロギーを教え込まなければならない。
これに数年の時間がかかったらしい。


そして四年後の1953年11月3日、『糞便管理制度の改造に関する布告』が公布され、
完全に旧来の糞道占有制度を廃止し、法に則り罪の深い糞覇を下すべき罰を下すことが規定されたのである。


二日後、糞覇らの告訴大会が開催された。
時伝祥も参加するよう呼ばれた。

彼は出刃包丁を底光りするまで磨きこみ、腰にぶちこんで会場に乗り込んだのである。
出刃包丁持参の時伝祥を見て、党幹部が「そんなものを持ってきてどうする気だね」と聞いた。

時伝祥は黒目を眉根に寄せ、顔を赤黒く変色させて
「糞覇の奴らを二人くらいでも切りつけて、糞取りの兄弟らの仇を討たにゃ、腹の虫が収まらねえ!!」
と、六尺(180cm)を越える塗り壁が如き巨躯に妖気を発散させ、
今にも糞覇に襲いかからんばかりの勢いだった。

そうだそうだと会場は、時伝祥の出刃包丁を見て、興奮に火がついた糞夫らの熱気で一気に室温が上がった。



―――年老いた糞夫の石加斎は、糞覇の元で数十年も身を粉にして働いてきたのに、
老いて病気になったからと言って、糞覇から糞廠の外に追い出され、
凍てつく極寒の夜明け、樹の下で凍死したではないか。

一生糞をほじくり、体が動かなくなったら、追い出されて野垂れ死にだ、あんな壮絶な人生があるか、あれが人間の生き方か。



―――もう一人いたな。作業中に足に怪我をして、その後に糞覇に動かない体にされちまった兄弟が。

糞夫らはわれ先に非難の声を上げ、この場で刀傷沙汰が起きずには済まない一触即発の雰囲気となった。


党の幹部は出刃包丁を振りかざす時伝祥をなだめ、
ここで一人や二人の糞覇を袈裟斬りにしたところで何も変わりはしない、
すべての糞覇、すべての搾取階級を消滅させてこそ、苦しみの中にある人民を救い出せるのだ、
さあ、言いたいことがあるなら壇上でいいなさい、とたたみかけた。


時伝祥は出刃包丁を振り上げた手を下ろし、替わりに壇上に躍り上がって、
火の如き口調で、糞覇らの非道を訴えた。

その硝薬の立ち込めるが如き殺気が、聞き入る糞夫らの心をえぐる。
思い出すには耐え難かったためこれまで封印していた記憶を引きずり出した。

糞夫らは怒号し、涙し、歯軋りした。
時伝祥の後、他の糞夫らも次々に壇上に躍り出、糞覇への恨みを解き放ち、ぶちまけた。

この日、20数人の糞覇が有罪判決を受けた。
中でも極悪と判決された四人の銃殺刑が決定、その中には、かの糞覇の巨頭・于徳順も入っていた。




于徳順、又の名を「于大肚子(でか腹の于)」。
かつては北京糞業公会の会長兼第九公会の会長でもあった。

弱小な糞道主を次々と併呑、北京城内に36本の糞道を持ち、
その財産は土地が1550畝(ムー)、邸宅が100ヶ所以上といわれる。

糞夫らへの横暴はよく知られており、深く怨みを買っていた。
実に劇的な最期である。

壮絶な最期を遂げたのはむしろ、糞道という「東亜病夫」の象徴の如き亡霊であったといえるだろうか。




1954年、糞業が完全に公営化されると、時伝祥は北京市崇文区糞便清潔隊の所属となった。
隊の中でもリーダー格になっていた時伝祥の月給は、1956年には70元余りになる。

「掏糞工人(糞取り作業員)」の中では、最高額だ。
世間の他の職業と比べても高給であったことは、いうまでもない。
充分に家族を養うことができる額だ。

時伝祥だけでなく、当時の糞取り作業員には、一種の職業意識、独自の美学があった。
糞すくいに一切、服や周りを汚さない。

すくう、移す、背負う、そのすべての動作で少しも周りに飛び散らせない、汚さない、惚れ惚れする職人技。
トイレの周りは水やほうきできれいに洗い清め、掃き、消毒と臭い消しのために石灰を撒く。
石灰の白さはいかにも清潔ですがすがしかった。


時伝祥にも独特の凛然とした尊厳らしきものが漂っていた。
180cmを超える巨躯に清潔な中山服を着、仕事が終わると、すべての道具を水槽に入れ、洗ってぴかぴかに磨いた。

自宅は小さいながら、清潔で整頓が行き届き、こういう職業だからこそ、身だしなみに気を配った。


伝わるところによると、糞桶を背負って北京の街を行く時伝祥は、
眉間に皺を寄せた苦悩の表情を浮かべることはなく、いつもフンフンと鼻歌を歌っていたという。

今や自分は糞取りではなく、清掃工なのだ、皆の家の清潔・衛生、健康のために仕事をしているのだ、
と人に誇らしげに話した。

社会主義になってから与えられた位置づけ、
役割を心から気に入り、自信を持ち、誇りを持って暮らせば、自然と鼻歌もフンフンと流れ出るというものである。


その誇りが自らも社会の一端を担い、人の役に立ちたいという動機となる。この時期の数々の「武勇伝」が伝わる。

当時の北京は四合院群がすでにほとんど大雑居長屋になっており、
ベッドと食卓を置いたら、あとは通路しか残らないような小さな部屋に一家5人暮らしなどはざら、
人々がひしめき合って暮らす超人口過密状態だった。

中庭1つを囲んだ四合院が2-3個縦に並んだような二進院、三進院でもトイレは1ヶ所だけ、ということが多かった。
男女それぞれのトイレは、ともに露天の土をむき出したところに穴を掘り、左右にれんがを置いて足場としただけのごく簡単な作り、
しかも穴が1つしかないことが多かった。

数十人、下手すると100人は暮らす雑居四合院にこのキャパでは、
糞があふれかえり、住民が悪臭に苦しめられることも多い。

時伝祥は、汲み取りに行った先でそういった状況に出会うと、だまって辺りからレンガを探してきた。
いくつか探し出すと、穴の周りを囲い、2段ほど高くしてやる。

そうすると、穴の容量が増し、糞があふれないようになるという思いやりだ。


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写真: 時伝祥記念館。



「肩当て。糞夫が糞桶を背負う時の必需品。重い桶の肩への負担を和らげ、服の摩擦を防ぐ。靴カバー。糞便が靴にかからないようにする。



当時のふとん。





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2 コメント

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Unknown (ガンガンガン速)
2011-09-09 04:30:21
初めて糞業の話を
読んだ時は 汚い・下級な仕事
なんて思ってしまいましたが、
だんだん糞業に勤しむ人たちの
話を読むうちに糞取り作業員
たちにリスペクトの気持ちが
芽生えてきました!職人技!
返信する
gangangansokuさんへ (doragonpekin)
2011-09-09 18:23:23
私も左肩だけ袈裟懸けにした白い
エプロンは、りりしいなあ、と思いました。
返信する

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