いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

定州2、貢院

2016年06月02日 17時21分42秒 | 河北・定州府
 



  


次に向かった場所は、定州貢院。


科挙の中でも童試を行った場所です。

ここで科挙の各段階の試験を簡単におさらいしておきますー。


童試:

 第一段階: 県試。 本籍の地元の県で受験する。
 第二段階: 府試。 県試を突破したら、県の上の行政機関である府城に赴いて受験する。
 第三段階: 院試。 府試に合格したら、同じく府の貢院において受験。

郷試: 省都で受験。

会試: 北京で受験。

殿試: 北京で受験。



・・・ということになりますが、この貢院でどの段階の試験が実施されたかというと、
府試と院試だったそうな。







清代には、各府にあった貢院ながら、今でも完全な様式を保ったまま、保存されている場所は少なく、
科挙の場を実際に見ることのできる、貴重な場所。

見ることができて、とても嬉しかったのですー。



乾隆4年(1789)創建。

府試は知府により采配され、院試は学政により采配された。

学政は、管轄地域内の科挙試験の採点の最終基準となる。
そのために読書人らの尊敬を集めることのできる学識豊かな人材が抜擢されるのが常であったという。

科挙の答案は、現代でいうところの小論文である。
採点の優劣には、どうしても個人の好みが出るというもの。

そこで新たな学政が決まると、その人の過去に書いた文章などが
あの手この手で掘り出され、あっという間に写本が現地の読書人の間に流布し、
その人の文章の好み、癖、傾向などが研究し尽くされたという。

その好みに迎合するような文章を書いた方が、
合格しやすいということなのである。


いやはや。壮絶なるは受験勉強なりー!
 
 

 


  


  


  


ところで省府にある郷試の会場、首都北京の会試の会場となる貢院は皆、個室部屋仕様になっている。
個室と言っても屋根はあるが、一面は外に露出したままの、半分野外状態。

試験が二泊三日の長きに及ぶため、ふとんやら煮炊きの道具まで持ち込んでの半分キャンプ状態である。


しかし府レベルの貢院での試験は、試験が1日で終わることもあり、夜を越さなくてもよいため、大部屋仕様だったようだ。
個室は与えられず、巨大なホールに数百人、千人と収容して、一斉に受験する。

そのための会場が、この巨大な建築だったとのこと。


余談ながら、定州は直隷省の所属となり、直隷省の省府は京師(北京)なので、
定州の貢院で童試に及第すれば、次の会試の会場は北京の貢院になる・・・。



 


正面に足を踏ん張ってかまえるのは、魁星像。
ゆえにこの建物は、「魁閣号舎」というのだそうな。

創建当時はなかったが、道光14年(1834)の大修理の際に付け足されたもの。



魁星(かいせい)を日本語の辞書で検索すると、

1 北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第1星。
2 進士の試験に第1位の成績で及第した者。

と出てくる。


北斗七星の先端の星だった理由は、「北極星扱い」だったのでしょうかねー。
空の中で一番中心にあって動かないのは北極星ですが、単独で存在するから目印になりにくく、やや見つけにくい。

その近くにある北斗七星、
--その中でも最も中心に近くて、位置が変化しないひしゃくの先端の星が、
「世界は俺様を中心にまわっている」というまさに中華思想を体現する象徴になったのかと思われる(笑)。


したがって将来、宰相となりて国を動かす、宇宙を動かす可能性のある進士の首位は「魁星」なり--。


・・・・とゆうロジックなのかと思われる。


その存在を道教的発想で擬人化したのが、魁星像。


魁星像の特徴は以下のとおり:

 1、右手: 大きな筆を持つ。「朱筆」。
  皇帝が首位の名前を朱筆で印をつけることを象徴。
  = 状元

 2、左手: 墨を入れる升(ます)を持つ。

 3、右脚は、金鸡独立,脚の下に鰲(オオガメ)の足を踏みつける。
  「鰲頭を独占する」を意味する。

  --由来は、進士の首位・状元のみが、合格者発表の際、
    宮殿の前にある鰲(オオガメ)の石像の上に立つことができることより。


 4、左脚は、後ろに曲げられている。
  曲げた様子から「魁」の字の払いを表現。
  

魁星は、科挙を受験する受験生の守り神となり、
受験前には、多くの受験生が合格祈願のお参りに来たという・・・。


写真でば、遠めにあまりわかりませんが。。。
手に升を持っているのは、わかりますな・・・。


後ろ足の様子は、いろいろ服を着せられすぎていて、ようわからん・・・。
布、巻きつけすぎ・・・(汗)

こちらでは、神様の像や仏像に、余計な服を着せることがよくあり、
オリジナルの姿がまったくわからず、残念なことがよくありますが。。。。。

これもどうやらその類のようですな。。。


  





魁閣号舎の中は、みごとな大部屋でござる。


定州貢院の創建は、乾隆四年(公元1739年)。

定州の貢院ができるまで、受験生らは真定府まで応試に行っていたという。
真定府は現在の正定県、定州と石家庄の間、南隣の府ですな。

しかし当時は、道路が整備されていないなど、交通が不便で往来は困難を極めた。
そこで当時の知州・王大年が、現地の有力者に呼びかけ、数十人の寄付を得て、
定州貢院の建設が実現したとのこと。


宮崎市定の『科挙』に試験の手順が詳細に紹介されているが、
それを踏まえて、少し当時の様子を想像してみたい(笑)。


朝四時、暗いうちから点呼が始まる。

受験生らは、「考藍」(試験用のかご・後ろに写真あり)の中に文房具、簡単な携帯食、
--そして多くは尿瓶を持って、身体/荷物検査を受けた。

試験は夜明け過ぎから、最終は日が暮れて文字が見えなくなるまで、となるが、
その間に席を離れてよいのは、1回のみ。
外に出て簡単な食事をとり、用足しをしてよいことになっている。

しかしその際には、受験用紙を預け、書けたところまで捺印してもらったり、と
煩雑な手続きがあるため、ほとんどの受験生は、小便なら尿瓶を携帯して席を立つ煩わしさを避けた。


検査員の衙役(がえき)は、何か不正を発見すれば銀三両を褒賞としてもらえたため、
荷物検査は、苛烈をきわめたという。

マントウ、にくまんの餡の中まで、箸でつついて調べたらしい・・・・。

そんな作業をするため、入場の列は遅々として進まず、
全員が席につく頃には、夜も明け始める頃。


これは府での千人以下の試験だからこれで済むが、
省府での郷試や首都での会試となると、数万人規模となる。


たとえば、現在も南京で参観することのできる江南貢院は、
江蘇省、安徽省の二省の受験生を一度に集めるため、2万644部屋を備えた。
したがって全員の検査を終えて、部屋に収容するだけのために丸々1日をかける。

収容作業の日はただ独房の中で過ごし、一夜明けて翌日の朝からようやく試験が始まるというのだから、
すさまじーー。




なぜか、かわいらしい色の小さな机。
これは聞いたわけではないが、恐らく以前は幼稚園になっていたのかいな、と想像する。
こういう歴史的な建造物を学校として利用することは、よく行われている。




これが「考藍」ですなー。





出たあー。カンニングチョッキー!
















入口の上には、中二階が作られている。
外は魁星像さま。

ここは監視台だったのではないかと想像できる。






「応殿試挙人」とあるので、どうやら殿試の答案用紙のようですな。
赤字で「第二甲第46名」と書いてあります。

合格者は、第一甲(頭甲)、第二甲、第三甲に分けられる。

第一甲は、状元、榜眼、探花の三人だけ。
その他を上から、第二と第三に分ける。
第二甲は、「進士出身」の称号をもらえ、第三甲は「同進士出身」の称号をもらう。

・・・この人は、第二甲の46番目、上の3人を入れると49番目合格だったことがわかりますな。



答案用紙は事前に製本されたマス目入りの冊子を買い入れておき、
そのマス目に沿って書き入れていくのだが、
執筆には、いくつか決まりがあった。

この答案を見てもわかるように、時々二文字ほど上から飛び出している。
それが「皇上」、「制策」などの文字であり、その文字が出てきた時は、
必ず行の最初に持ってきて、上2文字飛び出させて突出させなければならない。

その際、前の行の残ったマス目は、空白にするのだが、
優れた答案では、マス目の空白がないよう、ちょうどぴったりの字数になっており、
空白が見られないという。

・・・・もうこうなったら、ほとんど曲芸ですな・・・。

さすが数億人の中から選ばれる人材じゃ・・・。
素晴らしすぎる・・・。





こちらは、下書きでしょうかねー。
話によると、試験ではもちろんいきなりぶっつけ本番で完璧に書けるわけはないので、
下書き用の紙もいくらか持ち込むのだが、その下書き用紙も提出しなければならなかったという。
下書きの様子を見て、カンニングしていないこと、その場で推敲に苦労したことがわからなければならないというわけである。

あるいは添削か・・・。
採点された答案は、次回のために
評論とともに、受験生の元に返されたというから・・・。







こちらは『大清会典』に収められている、いつかの年の合格者名簿ですな。
どうやら進士の名簿・・・。

というのは、出身地が全国いろいろなところになっているから。

しかしほとんどが福建、浙江、江南。。。。
南方沿岸地区ばっかりですな。


今と同じく、富裕な地域は変わらんのですなー。









ええー。

こちらは「進士」と「状元」の二つの扁額。
本人が作って、家に飾ったものでしょうかねー。


ところで調べていたら、科挙合格者の扁額に関して、
なんと北京と上海の両方に博物館まであることを発見。

初めて知ったわー。

北京科挙扁額博物館
上海翰林扁額博物館



ところで敷地は、南から北に向かって、
影壁、大門、二門、魁閣号舍、大堂、二堂、後楼
という順番に建物が並んでいる。



 




試験場である魁閣号舎を出て、さらに奥に行くと、大堂が現れる。

主に学政などの「外簾官」が仕事を行ったところという。












試験会場の後ろ側。

奥に見えるのが、学政のための大堂。


学政がその地域の学風を決定する重要な要因になったことは前述のとおりである。
通常は当然、進士の出身にして、京官、翰林院侍読などの地位にある人がなる。

進士でも三甲なら、中央機関の北京勤務ではなく、地方の知県からキャリアをスタートさせていき、
しばらくはドサ周りを続ける。

その中で何か優秀な成績を残せば、中央に呼び戻してもらえることもあるが、
一生ドサ周りだけで終わる人も多い。

第一甲の状元以下3人は無条件で中央残留、まずは翰林院に入る。
第二甲は見習い3年後の散館試験で成績によっては、そのまま地方のドサ周りに回される(笑)。

・・・・というように、進士の出身にして、京官、翰林院侍読であるというのは、生半可な実力ではなく、
本人の実力も文句なしに士琳の崇拝を集める人物である。
特に直隷、江蘇、安徽、江西、浙江などの経済先進地域では、士大夫らもとりわけ口うるさい故、
信服させるに足る人材を送り込むのが常である。
定州に送り込まれてくるのは、直隷省学政ということになる。


学政の任期は3年。

赴任して最初の年にまず「歳試」を行う。
これはすでに童試に合格した者に対して、3年に一度、確認の学力テストを行うもの。
童試に合格すると、「生員」の称号を与えられるが、
それは社会で一定の尊敬を集めることを意味する。

生員以上に対し、平民はこれを敬う義務があり、集まりでは常に上席を譲り、
官吏は礼を持って接しなければならない。

何かの刑事事件にかかわった場合でも、官吏はこれを一存で逮捕することはできず、
教官の許可を受けなければならない。

生員は授業に出ることはなくとも、名義上は府学、県学の学生ということになっており、
その管轄は学校の教官という建前になっているのである。
つまりは何かの事件に巻き込まれた時にも、平民と比べると、理不尽な思いをすることが格段に少なくなることを意味する。



そのような地位に応えるためにも、合格当初の学力を維持していることを確認しなければ、
名誉と地位を授与した側として、責任が取れないということらしい。

三年に一度行われる「歳試」は、必ず受験しなければならず、
無断で欠席すれば、一度でも称号剥奪となる。

また理由を届け出て認められれば、欠席も許されるが、3度以上すれば同じく剥奪。

但し、生員になって30年以上たった人、70歳以上の人、会場に来れない持病を持った人は許される。
成績は5等に分けられ、最後の5等になった人は、称号をはく奪されて平民に戻された。


しかし道光年間以後、4等以下はほとんど出さない方針となったという。
それは苦労して手に入れた地位をはく奪されることに士大夫層が強く抵抗を示したためと思われる。
合格者を出すことが、社会に対する福利の一つでもあったのだろう・・・。

・・・確かに、生産活動にも従事せず、必死に机にかじりついてようやく得た地位を
3年ごとのテストで落とされるかと戦々恐々とせねばならぬとなれば、たまったものではない・・・・。






大堂


学政の仕事は、ひたすら試験答案の採点を組織していくことである。

赴任の最中、ひたすら地域内の各府を回り、試験を実施していく。

大堂はその学政の事務所となるところである。

前述のとおり、人にはそれぞれ文章の好みがある。
さらに自らの考え、思想を反映させた判断基準というものがあるものだろう。

そんなトップの方針を反映させるには、それぞれの府の現地の採点官では、
もちろん採点基準、思想の統一をすることができない。

したがって学政は、自ら雇った私設秘書である幕僚を採点の助手として雇い、
その集団とともに、旅から旅へ移動していくのである。

小規模な省なら、幕僚の数は5-6人、
江南の巨大省なら、10人を超すこともある。


大堂では、学政とその幕僚たちが、忙しく立ち働いていたのかしら・・・。








さて。

大堂を出た後は、その後ろには二堂があるはずである。
この窓の写真は、大堂のものです。。。。

当日はたぶん、大堂と同じような建物が並んでいるから、と特に注意して撮らなかった(涙)。


とにかく、二堂は「内簾官」らの仕事場になる。

つまりは学政が連れて歩くチームではなく、
元々、現地にいる事務員たちである。



試験には「謄写(とうしゃ)」という大作業がある。
つまりは受験生の筆跡がわからないように、まったく別の筆跡に写本する作業である。
受験生が数百人規模となれば、どれだけの謄写係が必要だったか、想像もできるというものである。




そして一番後ろにあるのが、後楼。


ここは、学政とそのチームも含めたすべての職員が、試験の期間中、寝泊りする宿舎となる。


・・・・それにしても、関係ないですが、背後のマンション群、すごいですね。。。。

定州にしても、最近でかけた河南、山西省にしても、あちこちにょきにょきとタワーマンション、絶賛建設中。
日本で報道されている空き部屋だらけとか、鬼城とかそんな報道との食い違いがハンパないねええー。

どう見てもこれがすべて空き部屋とも思えない。
少し違うロジックで物事が動いているような気もしますねー。



まあ。そんなことはどうでもええんですが(爆)







試験の期間前後、関係者はこの貢院の敷地内に「鎖院」される。
外部との連絡を絶ち、一切接触を断つことにより、不正の嫌疑を絶たなければいけないわけです。

試験後も謄写や採点の期間中、数十人の人間が密閉された空間で暮らさなければならないわけで、
そのためにこの三階建ての建物もあるというわけですね。


  








後楼のさらに後ろの空間









  

石碑にあるこの大きな穴のようなものは何なのか。。。
皆でいろいろああでもないこうでもない、と言い合いましたが、結論は出ません。。。。



  

















スピーカーまでこのようなおしゃれな形になっていて、なかなかやりますなああー。







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