いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

麗江・歴史2、ナシ族、南遷の始まり

2013年08月11日 11時44分49秒 | 雲南・麗江の旅
前回は、麗江一帯の中心的少数民族であるナシ族が、古代羌族より出ていることまで追ったところで、沈没してしまった。

陝西の渭水から興った羌族の一部は、中原から南下したり、西に進んだりして原住民と融合し、
シナ・チベット語系の諸民族であるチベット族、イ族、ナシ族、白族、ハニ族、リリ族、ラグ族、ジノ族などを形成するにいたる、というところまで見た。

ナシ族の祖先にあたる人々は、その中の「低(のにんべんなし)羌」であり、
秦代の記録に「皇(+さんずい)河間、少五穀、多禽獣、以射狩(守を昔に変える)為事」、「畏秦之威、南徒」とある。


「皇(+さんずい)河間」とは、そこに住んでいたということである。
「皇(+さんずい)」の字を調べると、「皇(+さんずい)水」を指すと出てくる。
現在の青海・西寧の近くを流れる黄河の支流である。
「河」は、つまり黄河。

皇(+さんずい)と黄河の間に挟まれた土地、現在の西寧の南あたりの土地である。
「低(のにんべんなし)羌」の人々は、故郷の陝西から西に移動し、青海まで来て定住していた一派ということになる。

位置関係図は、下の地図を参考に。


「少五穀、多禽獣、以射狩(守を昔に変える)為事」、穀物をあまり食べず、禽獣を多く食べ、狩猟を生業とす。
それはそうでしょう。
西寧のあたりは、もうすっかりチベットの表玄関である。
西寧から少し西に行った青海湖なんちゅうのは、今でも無人地帯に近い。

農業のできる緯度線をとっくに超えており、農作物などとれるものではないことはおろか、
「多禽獣」だって危ういくらい、人間の生存に必要な条件が乏しい場所である。


「畏秦之威、南徒」、秦の威を恐れ、南に移った。
それがナシ族の民族的なアイデンティティとなる壮絶な南遷の始まりである。
西寧から出発し、最終的に麗江に落ち着くまで、どうやら壮絶な旅だったようだ。


以下、荒いながら、今後の話の展開のための参考地図。





秦の武威を恐れて南下せざるを得なくなったナシ族の祖先、「低(のにんべんなし)羌」の人々。

ここで思うのは、遊牧民の「敗戦」と農耕民の「敗戦」の違いである。
農耕国家の国同士の戦争、あるいは遊牧民に攻め入れられて負けた側が農耕民の場合、
負けた側は戦争責任者が一部殺されたり、賠償金として金銭を出さされたり、領土の割譲をさせられたりする。

しかしそこに住む庶民は、そのままそこで暮らしていく。
負けたことにより統治者が変わるか、余計な税金をかけられるか、首都付近の一部の土地が奪われるか、利権を奪われるといった「痛み」は伴うが、
基本的には元の場所で暮らしを続けていくことになる。

中国歴代の征服王朝である金、遼や元、清しかり、
モンゴルに征服された中央アジア、ロシア、イランなどの国々しかり。
イスラム勢力に征服されたインドのムガール帝国しかり。


ところが遊牧集団同士の戦いは、そのまま「丸追い出し」となることが多い。
庶民の一人一人に至るまで、すべてその土地から追い出されて、その土地を追われ、「ところ天式」に近隣の土地へ雪崩れて込んでいく。

もしそれが「略奪」を目的とした戦争の場合は、物や人や家畜を奪い終われば、自分の家に戻っていく。
しかし仕掛けた側が生活の基盤、つまり遊牧の場所を求めた場合は、本当にまるごと追い出す。

それは遊牧という形態が恐ろしく生産性が悪く、膨大な土地を必要とするからに違いない。
以前、内モンゴルで実家が牧畜を営んでいるというモンゴル族の知り合いがおり、話を聞いたことがあった。

そんなごく初歩的な知識でしかないが、牧草地には夏の牧草地と冬の牧草地があり、草の量を維持するために、
決まった時期以外は入らないように、厳格に管理しているという。

草が足りなくなり、家畜がひもじくなって、足の蹄で草の根っこまで掘り出して食べてしまえば、
もう二度と自然にそこに草ははえることはなく、そのまま砂漠化するからだ。

一家族を養うためにどれくらいの草原が必要なのか、いずれ詳しく調べてみたいとは思うが、
農業と比べ、恐ろしく広大な土地が必要なことだけは明らかだ。

その生計はかつかつであり、新たに入ってきた侵入者とともに、土地を分け合い、生産を分け合うということが、
農耕国家とは比べ物にならないくらい困難なのだろう。

だから先住民をまるまる追い出すしかなくなる。

そうやって「ところ天式」に追い出されたのが、
ローマ帝国滅亡の原因となったゲルマン民族の大移動であり、それは東から来た匈奴の一派とおぼしきフン族に追い出された結果である。
あるいは、モンゴル高原にあった回鶻(かいこつ、ウイグル)汗国が、キルギスに追い出されて、民族ごと雪崩の如くモンゴル高原から逃げ出し、

タリム盆地のウィグル族、甘粛の裕固族となったことしかり。
タリム盆地に住みついていたアーリア系のイラン系諸民族は農耕もしており、彼らを追い出すことなく、支配しつつ、混血して融合した。

あるいは、清代にモンゴル高原にいたモンゴルのハルハ部が、西モンゴルのオイラト部のガルダン・ハーンの侵入を受け、
大挙して内モンゴルになだれ込み、康熙帝に泣き付いて代わりの牧草地を与えてもらったこともしかり。


ナシ族の祖先が、青海から追い出されたのも、
おそらくそういう構造があったのではないだろうか。


南への移動を始めたナシ族の祖先は、一気に麗江の周辺まで下ってきたわけではなく、
家畜を追いつつ、前漢末までに大渡河の上流あたりまで来た。
上記の地図を参考とされたし。


つまりは100年、200年をかけたゆっくりとした南下である。
恐らくは、暮らしているうちに人口が増え、生産性には限界があるために、新天地を求めるしかなかったということではないだろうか。
最終的に麗江で落ち着き、それ以上南下しなかったのは、麗江までくると、ようやく気候がおだやかになり、
農業を営むこともできるくらいの環境ができてきたので、多くの人口を養うことが可能となり、
「ところ天」式のはみ出し人口の移動が必要となくなったからではないだろうか。

麗江のすぐ北は、シャングリラ・エリアと今、言われる気候の厳しい地帯となり、
途端に人家がまばらとなってくる。
人間の生存には厳しい地域なのだ。

大渡河の上流地区から南下する際、ナシ族はその地に住む「康巴(カンパ)」族(=カム族)の妨害に出くわした。
カム族が剽悍無類で知られるのは、現代でも同じこと。

カムの人たちは、美男美女が多いことで有名だが、
特にカム男は、赤か黒の紐の束を頭のまわりに束ね、長身がっしり、顔の堀が深く、へらへらと笑わず、高倉健の役柄のごとき硬派な性格で
欧米のアラフォー女たちが、子供の種をもらいに、カム男の子供を孕みにやってくる人が多いらしい。

学生時代、ラサでホンダのバイクにまたがる赤紐をまいたカム男のあまりのかっこよさにがつんと脳天を殴られ、
写真を撮ろうと思わずカメラを向けたら、殺気さえ感じるような強烈なオーラを出され、
手のひらを手前に出されて「NO!」と静かにねめつけられた。

旅の途中、一枚でもいいからカム男のイケメン写真を撮りたいと血眼になったが、
結局、毎回殺気ビームで阻止されて撮らせてもらえず、ラサの画廊で見つけたカム男の肖像画があり、仕方なくその絵の写真で願望を成就させたものだった。

そんなことはどうでもいいのだが、要するに言いたかったのは、カム族というのが、半端なく剽悍なる民族だということじゃ。


 


大研城の路地で売られているスナック類。

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